『西尾幹二のブログ論壇』(四)

ゲストエッセイ 
公認会計士 髙石宏典

拝啓 西尾幹二 先生

 年の瀬もいよいよ押し迫ってまいりましたが、西尾先生におかれましては健やかにお過ごしのこととご拝察申し上げます。

 さて、新著『西尾幹二のブログ論壇』のご刊行おめでとうございます。総和社様より同書を発売日前の17日に頂戴いたしました。本当にありがとうございます。早速、私信を掲載していただいた箇所を探し、その後通読いたしました。一度は「日録」や月刊誌で目にしていた内容が多かった訳ですが、懐かしいというよりも新鮮な思いで読み進め、特に第二章と第五章については、先生の過去の著作の中に実質上同じような内容や本書を理解するためのヒントの存在を直感したり、昔むかしにNHKテレビでも同じように面白く刺激的だった西尾先生が出演された論争や先生の実存主義哲学者たちに関する論説があったことを思い出したりしながら、自分なりに少しだけ考えるところがありました。以下は、必ずしも新著それ自体についての感想ではなく、新著から連想した心に浮かんでは消えてゆくとりとめのないことに過ぎませんが、記させていただきたく存じます。

新著の第二章「歴史は変化し動く世界である」については、読了後少し時間が経ってから、論争相手の秦さんの立場が、『ニーチェとの対話』の「学問について」における「モンテーニュの中途半端な歴史家」や「悲劇の誕生をめぐるニーチェの敵対者としてのヴィラモーヴィッツ=メレンドルフ」に符合するように感じました。つまるところ、先生が同書で書いておられるように歴史事実とか歴史の客観性とか言ってみたところで、歴史認識の「哲学的前提の高さ」や「歴史家の人間としての大きさ」がなければ、基本的には読むに耐えうる歴史にはならないということですよね。

モンテーニュは『エセー(随想録)』(白水社版 関根秀雄訳)の中で、西尾先生が『ニーチェとの対話』193頁で引用された箇所の後を以下のように続けています。

「・・・従って歴史を自分の気まぐれに従わせる。まったく、ひとたび判断が或る一方に傾くと、人はどうしても叙述をその方へその方へと曲げずにはいられなくなるのである。彼らは知られるに値する事柄を選ぼうと企てる。そして、それよりももっと我々に教えるところが多いかもしれない或る言葉ある私的な行為などを、しばしばかくしてしまう。」(上掲書764頁)

以上のようなことは、私がふだん日記を書くときに無意識ながら良くやることのように思います。歴史と日記の基本原理を類似したものと考えることは、やはり単純に単細胞にすぎるでしょうか?

また、この第二章の論争で思い出すのは、20年余り前にNHKで放送された「NHKスペシャル 外国人労働者 激突討論・開国か鎖国か」(平成元年5月13日)です。この討論には西尾先生が出演されておられて、切実で刺激的な番組を手に汗を握りながら見たように記憶しています。結果的には、西尾先生の主張が説得力を持ち外国人単純労働者の受入れを制限するわが国の方針が決まって日本社会の平和と安定が保たれてきた訳ですが、この侃々諤々の討論は実に面白かったですね。NHKはどうしてこうしたスリリングな討論番組を制作し放送しなくなったのでしょうか?

 今年の夏の「日本のこれから ともに語ろう 日韓の未来」(8月14日放送)のような「東京裁判史観」を追認するだけの偏向した番組よりも、こころある視聴者のみなさんなら戦争観をめぐるこの「西尾・秦論争」のような討論番組を本当は期待しているのではないでしょうか? そして、上記の夏のNHK討論番組に西尾先生のような見解の異なる識者の方々が、結果として出演されていないのはいかがなものでしょうか? 西尾先生がチャンネル桜のYouTube配信動画「これからの日本」(8月18日配信)で、「(映画監督の)崔洋一が出て来るんだったら、どうして西尾幹二を出さないんだ!なぜ公平にやらないんだ!!」とお怒りになられたのは、至極もっともなことだと思います。 

上記の「激突討論」と同じ頃だったと思いますが、同じくNHK(NHK教育?)で西尾先生の「キルケゴールやハイデッガーの退屈に関する哲学的論説」が放送されたことがありました。全体の論旨はあまり覚えていないものの、「退屈を知らないほど活動的でお金も地位もあるが、他人を退屈させる人間」のことを具体例を挙げて論評されていたことだけは、まだ世に出ておらず何物でもなかった私には意外な視点だったので印象に残っています。このテレビ論説の実質的内容は、『人生の深淵について』の「退屈について」や『人生の価値について』の「人生の退屈そして不安(一)(二)」に収録されていると思われますが、人間や人生の本質に迫る名文で今でも時折読み返したくなる箇所です。

さて、第五章「『三島由紀夫の死と私』をめぐって私の35歳の体験と72歳のその総括」については、本書の「予約特典動画」の中で先生が「小林(秀雄)さんと斎藤忍随と三島(由紀夫)さんとエンペドクレスとニーチェとヘルダーリンと全部つながるんですよ。」、と話されたことがきわめて印象的です。そうであるなら、著名なニーチェの研究家で三島由紀夫と「思考パターンが似ている」(本書249頁)と言われていた西尾先生もこの輪の中に入ることになり、西尾先生の死生観が反映された上掲の著書を通して、凡人には不可解に思える三島由紀夫の最期の行動を理解することも可能なことなのかもしれません。例えば、『人生の価値について』の以下のような先生の文章から三島由紀夫の行動原理を類推することは、やはりピントがずれていると言うべきでしょうか?

「退屈とは「時間の空虚に対する恐怖」でもある。それは薄められた死の予感であり、日常生活のなかに茫洋と漂っている死の自覚の別名と言ってもよいようなものである。」
(『人生の価値について』241頁)

「人間は法の前では平等かもしれないが、ある人にとっては退屈であることが別の人にとっては退屈でないという、退屈を覚える事柄の相違、範囲の広さの相違、いいかえれば苦痛を耐え忍ばねばならぬ程度に関して、人間は決して平等ではない。」(上掲書242頁)

「人間はまったく絶望的な状況のなかでも――シベリアの監獄が絶望的でないはずがなかろう!――自己統一を壊さないで済むだけの生の自足感情を、物を作るというささやかな仕事の中に見出すことに成功するというこの事実は、人間というものの悲哀を感じさせるというより、むしろ、人間の強さ、生きんとする意志の強さを感じさせる。しかし、これは逆にいえば、人間は時間の完全な空虚――無意味な行為の単調な繰り返し――には耐えられないきわめて弱い存在だというふうにも見ることができるのである。」(上掲書250頁)

 以上、本当にとりとめのない雑文で失礼いたしました。失礼ついでと言っては変ですが、以下に少しだけ私事を記すことをお許しください。

今年はテレビがちょうど良く壊れてしまったのを契機に、NHKとの受信契約を解除しテレビを見るのをキッパリ止めました。どの局のテレビ番組も詰まらなくなったこと、番組を見ることによって気持ちが掻き乱され落ち着かなくなることが多くなったこと等のためです。受信料を支払ってテレビを見るのはお金と時間の無駄遣いだとようやく悟り決断しました。わが身を振り返れば、今さらながら20~30年もテレビ界に君臨している大して面白くもないお笑い芸人たち(タモリ、たけし、さんま、紳助、ダウンタウン等)のテレビ番組で貴重な時間を大分無駄にしてしまったなあ、という後悔があります。冷静に考えるなら、これらの人たちは放送業界にとっても視聴者にとっても、つまるところ当たり障りなく暇つぶしをしてくれる都合の良い人たち(=暇つぶし請負人)であるに過ぎないのではないでしょうか。

ともあれ、本当のことを放送しない書かないマスメディアの凋落は、もはや時間の問題です。退屈な時間を当たり障りのないテレビや新聞や雑誌で埋めることに退屈し始めている、私のような日本人が多くなっていることは確かです。中身の濃い本書は既存マスメディアに飽き飽きしている人々の心の隙間を必ずや埋めてくれるでしょう。本書が一人でも多くの方々に読まれることを切に念願して、結びといたします。西尾先生、どうか良い年の瀬をお迎え下さいますように。                   
 敬具
平成22年12月24日  髙石宏典

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