宗教とは何か(三)

 外国文学にせよ歴史にせよ、言葉の世界であり、文字表記の世界である。しかし涯(はて)しなく時間を遡れば、私たちは言葉も文字もない世界にぶつかる。空間を拡大しても同じである。

 宗教は「外国」や「過去」といった何か具体的な手掛かりのある有限なものを実在とするのではなく、何もない世界、死と虚無を「実在」とする心の動きである、とひとまず言っておきたい。これはしかし途方もないことである。

 宗教の中には死と虚無を認めない立場もあれば、時間と空間の涯に死と虚無しかないことをしっかり直視している立場もある。死ではなく永遠の生、虚無ではなく永遠の存在を信じ、これを主張し、防衛する立場が恐らく世の宗教組織、宗教教団、宗教思想の依って立つ立脚点であろう。数限りない世界の宗教、細分化される宗派宗門、それぞれ独自の経典とそれに基づく密儀秘祭の細則、修行の戒律、伝播と教育と教宣活動、そしていたるところに建立されてきた大伽藍。私はそれらのすべてに関心があり、すべてを等価と見る文化史的見地にどうしても立つので、どれか一つの宗派の選択だけが正道であるとする信仰者の強靭な生き方、聖アウグスチヌスが「まちがった魂を滅亡から救うためには、強制もまた止を得ない」と言ったあの不寛容への決意のようなものに自分を追い込むことは思いも及ばない。それでいて私は宗教人の頑迷さに似たものに敏感であり、信仰に似た心の働きにつねに敬意を抱く。

 人間は歴史をいくら遡っても、文字言語の確かめられる所までしか遡れない。文字なき以前の遠い時代に、民族の純粋な声を聞き取ろうとした本居宣長のような人もいるが、彼にしても死と虚無を「実在」として、その上に「自己」を組み立てていると見ていい。

 本居は既成のあらゆる存在の名、ことに中国伝来の「天」の概念も仏教や朱子学の理念も否定して、日本の神々の世界に「むなしき大虚無(オホゾラ)」が広がっていると言っている(『古事記伝』第九巻)。現代風にいえばニヒリズムの自覚である。

 自己と事物一切の根底にリアルに潜む虚無が「自己」の前に立ち現れるとき、目前にあるのは名づけようのないものである。「大虚空」としか言いようがなかっただろう。それは古代初期ギリシャ哲学の時代にタレスが万物は「水」であると言い、ヘラクレイトスが「火」であると言った、等々のことに共通する何かであるように思える。

 私は特定の宗教に心を追い込むことがどうしてもできない。今なお死と虚無を「実在」とする立場なき立場に立ちつづけているが、それを「迷える子羊」だとも思っていない。

 だいたい宗教というこの二つの文字は、中国でむかし仏教の中の諸宗、各々の教えを呼んでいた言葉で、明治の近代日本がレリジョンの訳語に採用して以来、アジアの漢字文化圏に広がって、「宗教」は仏教の上位概念になって今日に至ったのである。ヨーロッパ語で宗教思想等が再編成されたときに、総括概念として使われたのが「宗教」で、それまでは仏教や神道やキリスト教や道教や儒教等々は存在したが、「宗教」は存在しなかったのだ。このことは案外多くを語っている。

 “宗教をどう考えるか”というようなこの稿の編集部からの質問が、すでに信仰の立場からではなく、近代の宗教学の立場からのアイデアである。

 宗教学者は信仰家である必要はないが、信仰がどういうことかを知っていなければ、信仰を学問の対象にすることはできないだろう。しかし信仰を知るとは物体の運動法則を知ることと異なり、あくまで自分の心が問われるのである。これは大矛盾である。信仰を知るとは何かの対象を「実在」として知ることと同じではない。対象化できない何かにぶつかることなのである。

 このように、学問と宗教は相反概念なのであるが、明治以来われわれはヨーロッパから近代の学問の観念を受け入れ、死と虚無を「実在」として生きているのが現実であるにも拘わらず、ニヒリズムの自覚に背を向け、誤魔化しつづけて生きている。そのため宗教とは何かを問われたり問うたりして平然として「自己」を疑わないでいるのである。

『悲劇人の姿勢』の刊行記念講演会は次の通りです。

  第三回西尾幹二先生刊行記念講演会

〈西尾幹二全集〉

 第2巻 『悲劇人の姿勢』刊行を記念して、講演会を下記の通り開催致します。

ぜひお誘いあわせの上、ご参加ください。

   ★西尾幹二先生講演会★

【演題】「真贋ということ
 ―小林秀雄・福田恆存・三島由紀夫をめぐって―」

【日時】  2012年5月26日(土曜日)

  開場: 18:00 開演 18:30
    
【場所】 星陵会館ホール(Tel 3581-5650)
     千代田区永田町201602
     地下鉄永田町駅・赤坂見附駅より徒歩約5分

【入場料】 1,000円

※予約なしでもご入場頂けます。
★今回は懇親会はなく、終了後名刺交換会を予定しています。

【場所】 一階 会議室

※ お問い合わせは下記までお願いします。

【主催】国書刊行会 営業部 

   TEL:03-5970-7421 FAX:03-5970-7427
   
   E-mail: sales@kokusho.co.jp
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・坦々塾事務局   

   FAX:03-3684-7243

   tanntannjyuku@mail.goo.ne.jp

星陵会館へのアクセス
〒100-0014 東京都千代田区永田町2-16-2
TEL 03(3581)5650 FAX 03(3581)1960

「宗教とは何か(三)」への3件のフィードバック

  1. 第一話、二話は勉強不足の私には十分に理解できない所も在りましたが、第三話になって、俄然その文章は己の腹に染み渡りました。
    宗教とは救われるか救われないかであります。
    「宗教とは何ですか。」の問いは、火事場の業火で苦しむ罹災者に、現場で「水とは何ですか。」と問う愚行に比せられるかもしれない。しかし、火事を止めるには水が必要である事を知識として知っておく事は無用ではない。

  2. 宗教信仰というのは私には平均的日本人ほどにあるともいえるしないともいえない人間なので、真正面から語るのは難しいのですが、宗教信仰という主題に関してあえて考えるというときに私が想起するのは、旧約聖書のアブラハムとイサクの話ですね。「神」がアブラハムに、アブラハムの子イサクを殺すことによって神への信仰を証明せよ、と命じたとき、それに従いい策をとしたアブラハムの行為は旧約聖書のこの挿話は歴史上の多くの哲学者の議論の種にもなってきました。

     カントは「アブラハムは、イサクの声を殺せというその声が神の声であることを確認したのか?あるいはその声が神の声であるかどうかということについての精神的問いかけ、精神的格闘がアブラハムの内面にあったのか?」とし、アブラハムの行為が道徳律に沿ったものではない、といいました。これに対してキルケゴールはカントの見解を全面否定し、「アブラハムは、イサクの声を殺せというその声が神の声であるということをそのまま信じたというまさにそのことによって、無限の跳躍という信仰の段階を踏み、アブラハムはアブラハムたりえたのである」と、アブラハムの行為を懸命に肯定します。

     カントとキルケゴールの見解の違いは色々な次元で比較することができる。カントの見解に近代精神の始まりを見出すことができるとか、キルケゴールに実存主義の始まりを見出すことができるとか、思想史的にはいろんなことを言うことができるでしょう。しかしそういう教科書的議論から離れてみて、この二人の対立を「信仰」そのものという主題に肉薄して考えてみたらどうなるでしょうか。

     西尾先生のブログに書かれているように、信仰とは「不確かなもの」を対象とするものです。無論、科学もまた「不確かなもの」を対象にしているとはいえますが、信仰は「信じる」という方法論によって、不確かなものへの対処をおこなっています。では「信じる」とは何か。カントの方の論理に従うと、「神の声」という不確かなものを「信じる」という自分の信仰心自体が疑わしいものだということになります。なぜなら信仰対象を「不確かなもの」と暗に認識している時点で、「信じる」人間は実は「信じていない」人間だ、ということになるからです。この問題についてサルトルは「信じることは信じていないことである」というレトリックで言い表しました。だからこそ、アブラハムの「信じる」と「信じない」を道徳法則で救い出さなければならない、これがアブラハムの問題に関してカントの主張の基本であるように感じます。

     しかし、それは哲学行為論的にそうなのだとしても、果たして信仰心の本質を捉えているのでしょうか。私は西尾先生の今回のブログを読むまで不勉強で今まで知らなかったのですが、本居宣長に「大虚無」という言葉があったのを知りませんでした。信仰が対象とする「不確かなもの」というのは、実在的なものではなく、常に非実在的なものの気配への怖れに占められている。そこで私たちはあえて何か、自分の存在全体を賭けるというようなことをして、その「不確かなもの」へ跳躍していかなければならない。「信じる」と「信じない」の問題というのは確かにあるだろうけれども、しかしそれは別次元の話であり、宗教信仰の本質ではないのではないでしょうか。たぶんキルケゴールはそのことをきちんと言っているように思います。

     儒教のように一見すると「不確かなもの」の要素が稀少なような宗教であっても、血縁共同体の遺伝子的連続性というようなある意味で不確かなものそのものに依拠しています。死が間近に迫る瞬間、個体としての自分は無に帰するけれども、血縁としての自分は蘇生するのだという不確かなことを信じることができるかどうかで、儒教教徒の信仰の実践が果たされるのかどうかということになるのでしょう。それは決して安穏とした行為ではない。「そうではないかもしれない」というサルトル流にいう「信じることは信じないことである」や本居宣長流の「大虚無」にひたすら怯えながらも、そこであえて「無限の跳躍」をしてこの世から姿を消していくということ、それはどの宗教にも共通する信仰の本質というものだと思います。

     哲学者のついでにいえば、ヘーゲルはアブラハムの行為を「奴隷的精神のあらわれで何の評価にも値しない」と短く冷たく切捨てました。ヘーゲルは大哲学者だとは思いますが、信仰ということに関してはほとんどわかっていなかった人なのではないでしょうか(笑)奴隷的精神なんていうことを言ったら、大半の宗教信仰は「奴隷的精神であることをあえて選ぶこと」です。だから不寛容であることもある。奴隷的精神だなんて、それを言っちゃおしまいよ、というふうに思います(笑)

  3. 「宗教」という言葉が、世界ではどのような扱いで個々の人間にとどまっているのか、詳細はわかりませんが、私は本来「宗教」と言うものは、個人のレベルで収まっていれば理想的なものだと思っています。ですから、宗教は本来「他言」すべきものではなく、自己との葛藤であるべきで、その生き様を他人が見てどう感じるかだけの問題ではないかと思うわけです。しかし、ことさら人間は「宗教」を雛壇にお供えしたがる傾向が強く、この現象は一種の宗教的現象だとみる要素もありますが、元に糺して「宗教」の理想という側面(いや本当はどんな宗教表面も、次に述べる私の文言を多用していると思うのですが)個人の心の在り方・・・というフレーズが最大公約数として実在しています。
    つまり、宗教というのは、あくまでも「個人的な心理の葛藤」であるべきだと言えませんかね。

    ところが、現実社会では、「宗教」を個人レベルに収めてくれないというのが現実で、やれ信仰が足りないとか,先祖をもっと敬いなさいとか、言葉には表さねども、何か眼力でそれを威圧してくる宗教が多々あるように私は感じます。

    その集大成が今のアメリカで、この国は間違いなく横軸で組織されている国家です。宗教と言うものが、個人レベルに収まらないことを見込んだ国・・・と言ったら大げさかもしれませんが、でもそんなに的外れではないようにも思います。
    表向きは何か巨大なスローガンが支配していて、その軸のもとに多国籍民族が集合しているように思いますが、現実はそうではなくて、これは想像の世界ではありますが、一足この国に足を踏み入れると、とてつもない孤独感と同時に、なにか今まで感じた事のない一体感を経験するのではないかと、私は思うのです。
    それが何なのか。おそらくその底辺に、この国の宗教の扱い方が実存していて、大げさではなく多分「国家」の成り立ちや現存に大きく関わっているんじゃないかと思うのです。

    私は残念ながらアメリカには一度も訪れたことがありませんが、しかし、他の国よりも私はこの国の事をいろいろ語ることができるという現実は、おそらく私はこの国にかなりの面で影響を享けている証でしょう。
    その要因はいろいろあるのでしょうが、もしかするとこのアメリカ国の宗教との付き合い方が、徐々に私にも浸透している危機感があるのです。
    表面的な文化の影響だけでは収まらずに、我々はかなりの面でアメリカの宗教に毒されていると思うのです。
    その現象の結果、我々はアメリカと一体化しなければならない意識が硬直し、現在もそれは進行形であります。
    情けないことに、その意識は、知識者に深く入り込み、その人たちが存在しているだけで、相当な量で国民に影響を及ぼしています。いや、それを言うまででもなく、我々日本人は、すでにアメリカ人化されてます。
    歴史的に見ても、過去に色んな影響を請けながら来たこの日本ですが、アメリカ宗教というアメーバ―は、想像以上に大問題を孕んでいることを、まだ間に合う今、今です今、気付くべきです。

    「天皇と原爆」の読後感想を含めて投稿させていただきました。

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