書評 文芸評論家 富岡幸一郎 「正論」平成24年7月号より
「脱東京裁判史観」探求の新たな到達点
「アメリカは一種の『闇の宗教』をかかえているとみています」と著者が雑誌『諸君!』の討論会で発言し周囲を驚かした話が出てくるが、「大東亜戦争は宗教戦争だった」という本書を貫く主張に驚く読者もいるだろう。
しかし日米戦争を世界史の潮流のなかで捉え直すとき、著者の洞察はきわめて本質的な問題提起となる。「闇の宗教」とは、アメリカのキリスト教がヨーロッパでの宗教戦争に敗れたピューリタンたちが、新天地で建国を果たした経緯による。彼らの「神の国」信仰は宗教原理主義を色濃く抱え込んでいるからだ。著者は直接にそのような言い方はしていないが、米国のキリスト教は16世紀宗教改革の異端は(再洗礼派のような過激性)を起源としているからこそ、その「正義」の言動は破壊性と倒錯性を孕む。インディアンの虐殺、南北戦争、そして太平洋をホワイトパシフィックと化し日本に原爆を投下した歴史を辿れば(近くでは予防的先制攻撃なる概念の捏造によるイラク攻撃など)枚挙に暇がない。
日本はなぜアメリカと戦争したかではなく、「なぜアメリカは日本と戦争したのか」が問われなければ日米戦争の本質は永遠に封印されたままになる。その封印を解く鍵は米国の根っこにあるその宗教的ラジカリズムなのである。西へと膨張する「神の国」と衝突せざるをえなかった日本もまた、もうひとつの「神の国」であり、西洋列強の強圧のなかで「国体」を歴史的伝統の天皇信仰により形成した日本人は、この“文明の衝突”を不可避のものとするほかはなかった。本書の最終章「歴史の運命を知れ」は『江戸のダイナミズム』で日・中・欧の壮大な比較文明論を展開した著者ならではの説得力のある一文であり、情緒的な宿命論ではない。
もうひとつ本書で看過してはならないのは、昭和天皇の「戦争責任」に言及している個所である。左翼が欺瞞的な平和主義からいうのとはむろん異なり、開戦の詔書は天皇の名によって記されており、それは日本が「神の国」であり、その「国体」によって宗教戦争を戦い抜いたことの歴史的証言だからである。天皇に責任はなかった、悪いのは陸軍だ軍人だといった議論はいわゆる保守派のなかにもあるが、それは大東亜戦争の本質を見ようしないばかりでなく、「戦争は悪である」という典型的な戦後レジームの言辞に過ぎない。これは別の形で、著者の平成の皇室に向けた発言の真意にも重なるのである。
紙幅がなく詳述できぬのが残念だが最後に、日米の全く異質な「神の国」の激突を国学者として洞察した折口信夫が敗戦後に「神やぶれたまふ」と語ったことに対して、本書は否「やぶれた」のはどちらかという歴史への、日本人への究極の問いを未来に向けて孕んでいることを指摘しておきたい。
文芸評論家 富岡幸一郎
お邪魔します。
書評10番目にようやく触れられた、天皇とその責任論。平和主義者、軍閥の被害者論をいつまでも続けていては、歴史を否定するばかりで、いつまでたっても「国体」によって宗教戦争を戦い抜いた民族の偉大な叙事詩としてさえ、あの時代を称揚することができない。
巻末に付された帝国政府声明文の効力も霧散せざるを得ない。軍人集団をより好戦的・凶暴にするためのハッシッシに成り下がってしまう。
今後の展開のために用意された、相乗作用のある二つの伏線だと思う。西尾先生の頭の中には、伏線を活用するべき壮大な展開がすでに出来上がっている筈だ。