残暑お見舞い申し上げます。
暑いですね。困っています。
今年は体力にこたえています。ここ数回、たくさんのコメントをいただきありがとうございました。あらためて全部拝読しています。何らかの応答をしようと思っているのですが、あっという間に月の中半の締切が来てしまいました。時間がないのでお許しください。これから掲げるものは、以前のものの続きとなります。興味ある話題だと思いますので、コメントを遠慮なしに書いてください。
「アメリカ観の新しい展開」(一)
「アメリカ観の新しい展開」(二)
「アメリカ観の新しい展開」(三)
「アメリカ観の新しい展開」(四)
「アメリカ観の新しい展開」(五)
「アメリカ観の新しい展開」(六)
「アメリカの正義はガラリと変わる」(西尾)
「『ワン・ワールド』に地域覇権国は不要」(福井)
西尾 まず、前回に続いてアメリカ型の正義について考えましょう。シナ大陸での戦前の排日・反日は、日本にとって最も痛手が大きい戦争原因の一つです。その排日・反日を主導したのは、実はアメリカ人の宣教師たちでした。彼らはだいたい反日スパイで、イギリス・アメリカの教会系の学校やキリスト教青年会が、排日運動を扇動する拠点でした。
こうした施設がどれだけあったかというと、英米系の教会は、約五千八百。病院や薬局が五百七十。教会がつくった大学や専門学校が十八、中学校が三百五十、小学校が約六千、幼稚園が七百五十。こうして、全国にはられた排日の網の目で一斉に活動が始められて、シナ人をいじめているのは日本だというイメージが流布した。この流布のさせ方がすさまじく、かつ嫌らしい。いかにアメリカが素晴らしい国で日本がひどい国かということを映画にしてシナの田舎町まで持っていって上映する。そのお先棒を担いでいたのが、宣教師なんです。それがやがて日貨排斥へ発展していきます。
福井 対日戦争に非常に積極的だった『タイム』誌オーナーのヘンリー・ルースは、中国に派遣されていた宣教師の息子で、中国育ちです。それにしても宣教師たちはセンチメンタルなまでに中国が好きですね。西尾先生の『天皇と原爆』(新潮社)には、こうあります。
「私が最近しみじみ考えているのは、アメリカの抱いていた宗教的な期待のことなんです。アメリカは、中国大陸でキリスト教を布教する可能性が無限にあるように思っていました。日本ではなかなか、そうはいかなかったんですよ。日本は信仰という点では頑としてキリスト教を受け入れないところがありました。キリスト教の信徒は明治以来増えていますが、現段階でも百万を少し超えるくらいです。日本はキリスト教化されることのない国なんです」(七二~七三ページ)
西尾 日本では布教しても効果がなかった。中国でも本当は効果がないのに、シナ人は信仰するような顔をするんです。
福井 要は、お金が貰えるからですよね。
西尾 そう。シナ人は一時的に、キリスト教を信じているような顔をするんですよ。その後信仰は根付いていないでしょう。日本人は真面目で正直だから、嫌なものは受け付けない、信仰しませんときっぱりと拒否する。
福井 日本人はしっかりしていて可愛げがないので気に食わないということでしょうか。
西尾 原理主義は日本人の信仰には合わないんですよ。それにしても分からないことがあります。十九世紀末のカリフォルニアでは、排日の前にシナ人への嫌悪がありました。最終的にはそれが混合して、シナ人と日本人も区別がつかないので排日につながるわけだけれども、アメリカ人は最初は体質的にシナ人を軽蔑していたのに、日本人を敵視するあまり、その後大陸ではシナに入れあげて度外れたシナ擁護に変わる。このアメリカの姿勢の転換が理解できない。
このように、アメリカ人はちょっとしたことでワッと、正義の方向が変わってしまうんです。それが怖い。いろいろな歴史的場面でそうなんです。ソ連が侵攻したアフガニスタンでイスラム原理主義のゲリラの多くをアメリカが育てたのに、その後は敵対した。イランもパーレビ国王時代には非常に親しく付き合っていたのに、イスラム革命後(一九七九年)は急に敵対的になり、イラン・イラク戦争(一九八〇年)ではイラクを応援し、と思ったらイラクともその後戦争をした。今まで親しくして、認め、応援し、経済援助も与えていた国が仇敵のごとくになるんです。中国に対してもそうです。蒋介石をあれほど応援していていたのに、第二次大戦後は手の平を返したように冷たくなった。
このアメリカの精神構造はどこか異常ではないですか。世界最大の軍事国家ですから、その影響は大きいんです。怖いんですよ。
福井 世界最大の軍事国家で唯一のスーパー・パワーだからなんでもできるわけです。制約がない。
西尾 そういう連中に、無節操で基準のない行動をされてはたまったものじゃないと思うんです。
福井 西尾先生は前回、日米開戦の要因として人種差別を挙げられました。ただ、本当に差別しているのであれば、日本人や中国人を相手にしないはずですよね。劣等人種同士、戦争をしようが、お互い煮て食おうが焼いて食おうが関係ない。それなのに、中国に肩入れした。そうさせたのは、人種差別を超えた何かですよね。
西尾 日本を叩くために日中を離間させるという政策だった、と思いますけれども。
福井 前回、アメリカはイギリスを倒そうとしていたということを議論しましたが、私は、アメリカはドイツを叩きつぶすことも考え続けていたのだと思います。アメリカは、戦後のドイツ領土を縮小したうえで南北に分割し、重工業はすべて解体するなどという非常に過酷な占領計画、モーゲンソー・プランまで立てていました。原爆も本来はドイツに落とすはずでした。完成前にドイツが降伏したためにチャンスを失っただけで、人種的偏見から日本に落としたのではないと思います。
キッシンジャー元国務長官は一九九四年、「アメリカはドイツの覇権を防ぐために二回戦争をした」とドイツの新聞で語っています。一九九〇年に東西統一がなされ、当初の混乱も落ち着いて再び強国への道を歩み出したドイツに警告を発したわけです。
西尾 アメリカは、ソ連が崩壊して役割を終えたはずのNATOを手放しませんでした。東ヨーロッパに民主主義と市場経済を根づかせるためにアメリカが役割を果たすと称し、英仏もこれを歓迎しました。しかし実は、英仏はドイツの力の増大を恐れていたためだと思います。またアメリカもドイツの核武装、そしてロシアへの急接近を阻止したいという思惑から、NATOを使ったんですね。
話を第二次大戦前に戻せば、アメリカの敵は日英独だったということですね。ロシアはどうだろう。
福井 ロシアもそうでしょう。世界支配のため、まずイギリスと日本とドイツを蹴落とし、冷戦という最後の決戦でロシアにも勝利したわけですよね。
前回紹介したように、日米開戦前年の一九四〇年の大統領選で共和党候補だったウェンデル・ウィルキーは、一九四三年に『ワン・ワールド』という本を出し、大ベストセラーになります。この時の共和党大統領候補の選出は非常に不可解で、前年まで民主党員でまったくのダークホースだったウィルキーが選ばれた。彼の主張はルーズベルトと大差なく、有力対立候補が出馬すれば再選(三選)は難しいといわれていたのに、国民は事実上選択肢を奪われたわけです。開戦後も彼はルーズベルトに協力して、世界中を回り、戦後に実現すべき「ワン・ワールド」を説き、イギリスの植民地主義を厳しく批判した。『ワン・ワールド』では、毎日欠かさず神に祈りかつ聖書を読む思慮深い人間として、蒋介石が絶賛されています。
西尾 一九四三年十一月のテヘラン会議でのルーズベルト大統領も同じですね。米英ソに加えて、蒋介石の中国を加えた四カ国で世界の平和維持にあたるという「四人の警察官」構想を主張しました。チャーチルやスターリンは反対したのに、ルーズベルトが押し切って中国を入れた。
福井 中国を入れることで、「我々には人種的偏見はない」と強調したかったのではないでしょうか。『ワン・ワールド』でも中国が戦後世界秩序に主体的に参加することの重要性が強調されています。
西尾 つまり世界を分割統治する。もちろんアメリカが中心だけれども、英露中という代官を置く。その代官には日本もドイツも入ってない。産業的にみれば本来は日独ですよね。
福井 「ワン・ワールド」を確立するうえで、アメリカと別の意思を持った地域覇権国は邪魔な存在であり、日独がそうならないようにした。今のEUの経済危機でも、英語圏メディアはドイツ批判ばかりしています。何も悪いことをしていないのに。
西尾 今のEU問題はドイツいじめですよ。
『正論』1月号より
(つづく)
つい先日のNHKスペシャルで、第一次湾岸戦争時の米国駐日大使が、「石油のために戦争をした。」という趣旨の証言をしていました。
いささか落胆しましたが、そうもありなんとも思いました。実態は狭い意味での国益本位の行動であったようです。先生に軍配であります。(笑)
G.ブッシュは、ウィルソン、ローズヴェルトやケネディほどの理想家でなかったことは百も承知しています。彼の長所美点は他に在りました。
ここで特記したいのはG.W.ブッシュです。ご存じ上記理想家の名声もなく、未だに歴史の審判は下されていないというのが通説です。私も何故自分が彼にあれ程肩入れするのか自分でも最近まで判然とはしませんでした。
しかし孟子を読んでいたら、唖然として溜飲が下がる一章に出会いました。
後世の歴史家もこの一章をもとに彼の評価をして頂きたい。
孟子 告子章句下 十三
コメントは長くなるといけません。
ただ、私は政治に於ける善を信ずる者であります。
もし中国人や韓国人から「近代日本を代表する想念とはどのようなものであったか」をたずねられたら、「それは、日本という一国だけでは西洋に太刀打ちできないため、日本が強くなると同時に中国や朝鮮などを助けて協同で西洋に対峙できるアジアを構築することであった」と答えるでしょう。けれども、その理念は徹底的に打ち砕かれて雲散霧消してしまいました。近代日本の右翼団体は「中国のナショナリズムを理解しろ、韓国は併合するな」と主張していましたが、今や現代日本の右翼や保守の人たちは中国に虐げられているチベットやウィグルを少しでも助けるべきと考え、韓国や北朝鮮はうっとうしい隣人と思っているだけです。ともかくそんな過去の理念などはとっくの昔に雲散霧消してしまいました。
私は、中国を助けて西洋に対峙できるまでに育てるという役割を、途中から日本にすりかわり、日本からちゃっかりと盗んでしまったのが、米国という風に考えます。現代の日本人は学校で教わりませんが、日清戦争後には政治や技術の進んだ日本に学ぼうと2万人の中国人留学生が日本に来たといいます。また1883年に朝鮮からの留学生40余名を慶應が受け入れたのが近代の留学生受け入れの始まりです。
あの辺までは、そこそこいい線いっていたのではないでしょうか。どうしてその後、転落してしまったかというと、外国の悪意もあると思いますが(そのなかには米国の悪意だけでなく中国人の日本侮蔑もあるのかもしれない)、日本の知性の低下という側面は否定できないと考えます。福澤諭吉や新渡戸稲造など世界に通用する知識人が当初はいたのに、なぜその後ダメになったか。私の知識と力量では到底はかりかねますが、理由として考えられるのは、当時の世界の知力が低下していた、その理由はオルテガなど多くの知識人が指摘したように、はじめて大衆化社会が世界的に到来したことによる混乱に伴う知性の劣化なども関係しているのではないでしょうか。若いときに戦後の多くの左翼知識人の書いた文章を読み、「平和、平和と念仏をとなえるように抜かしているが、こういう連中がオピニオンリーダーとなるような世界がきたら、社会は必ず混乱し退廃する、戦争は頻発するに違いない」と確信しました。うまくは表現できないですが、単純に記憶力の良い人間だけをペーパーテストで見つけ出して(一見して思考力らしきものもパターン的記憶力でおそるべきほどカバーできる)大抜擢するというシステムに致命的欠陥があったのか・・、マスコミに代表される驚くべき付和雷同性のメカニズムなどいろいろと考えさせられます。
日本人になぜキリスト教が普及しなかったかは、地理的なものや歴史的偶然など、いろいろ理由があると思いますが、大きな理由は二つあると個人的に考えます。一つ目はキリスト教の伝えようとした良質な部分をすでに日本人が持っていたこと、二つ目はキリスト教は他宗教を排斥する性質を原理的にもっていますが争いを嫌う日本人の体質に合わなかったこと。本来、宗教は魂の救済にのみ専念するべきと思いますが、政治にのめりこむ宗教が世界で多数派になってしまったように見えます。これは政治が物質的幸福だけでなく、精神的幸福の領域にまで介入するようになって宗教との境界や役割分担が崩壊したためとも考えられます。言挙げを嫌い、争いを避ける日本人の心性は素晴らしいものですが、訳のわからない因縁をふっかけられたら伝家の宝刀を抜いてぶったぎるという武士道精神も必要です。本当かどうか真偽を確認していませんが、セオドア・ルーズベルトが福澤諭吉に対して、「熱狂的な信仰心を持たない日本人の道徳性が高いのはなぜか?」とたずねたときに福澤は「日本人には武士道精神があるから」と答えてルーズベルトが感心したという逸話を何かで読んだことがあります。
(連続投稿すみません)中国人を観察した経験からいうと(といってもたいした経験量ではないですが)中国で爆発的にキリスト教が普及する可能性はかなり低いと考えています。彼らはしたたかな現実主義者で、中国の過去の精神文明に自信をもっています。いずれ自らの伝統文化のなかに魂の救済を求める時代がくるのではないでしょうか。それは仏教的なものかもしれないし、東洋的理念を現代化したものかもしれない。幼稚な日本たたきにさっさと飽きて、建設的な方向にむかってほしいものです。そのためにはまず共産党が解散しなければならないと思いますが。
従来、「罪の文化」と「恥の文化」が対比されてきましたが、それらの重なりについては、注目されてこなかったように思われます。確かに、前者には神観念があり、後者は世俗的ですから、それらが異質であることは当然でしょうが、それらに共通する価値観念があるとすれば、その異質性にこだわる必要性も薄れると思われます。つまり、罪を犯した場合、それを意識することと、それを恥じることとはほとんど同じことを意味するのではないでしょうか?
福井義高氏がいう「『ワン・ワールド』に地域覇権国は不要」「戦争では無く警察行動」という説明は実に分かり易い。警察官に「戦争反対!」と言ったところで彼らは自分の業務を放擲はしませんものね。
だいたいアメリカ人って未来志向ですよね。南北戦争で60万人死のうが、原爆を落とそうが、ベトナムで泥沼に落ち込もうが、時間がたてば元通り。日本の「坂の上の雲」どこじゃないですよ。映画もことごとくハッピーエンド。何作目だったか、「スターとレック」のラストシーンを思い出しました。一件落着した宇宙パトロール・エンタープライズ号は飛び立ちます。カーク船長の「未来へ!」という号令と共に!やれやれ。
欧米の文化が「罪の文化」一色とも言えません。たとえば、懐疑論者のヒュームやその影響を受けたスミスの道徳哲学(1759)は、判断基準として「観察者」の「同感」視点を重視しますから、むしろ「恥の文化」の論理化とすら言えそうです。その二人には独自の経済学もあり、とくにスミス『国富論』(1776)は、明治以降、日本ではひときわ愛好されてきました。欧米では、長らくその労働価値論や重商主義批判は敬遠され、祭り上げ状態でしたが、その付けが今日の事態をもたらしたのでしょう。日本の物づくりや勤労精神を尊重する気風や国民性はスミス視点と極めて共通しています。「日本民族の偉大なる復興」を可能とさせる大きな要因は、その辺りにあろうと私は長らく考えてきました。両者ともスコットランドは同郷の出ですが、欧米の合理主義とは異なる柔軟性が私たちの肌合いに良く合うように思われます。
CGSの「じっくり学ぼう日本近現代史」のくららこと倉山満氏に言わせると、「アメリカは馬鹿!」「アメリカはへたれ!」「しかしアメリカはやるときはやる」ということです。しかし日本人の東京裁判史観の払拭については「もう一回戦争をして勝たなければ無理」という結論。そういえば司馬遼太郎も「あんな戦争をまたやりたいのか」みたいなこと書いてたっけ。かといって永遠の戦犯ってことだけは受け入れるわけにはいかない。
福井さんは「アメリカには対日戦において人種的偏見は無かったのではないか」とおっしゃっていますが、それだと戦時中、日系人を徹底して強制収容しておきながら、同じ枢軸国のドイツ・イタリア系移民に対してはそうでは無かった事の説明はつきませんね。アメリカには明白に非白人に対する偏見はあったでしょう。何よりも当時アメリカでは、公共施設などで黒人が堂々と差別的な政策下に置かれていたのですから。キング牧師の人種差別撤廃を訴えたあの有名な演説がなされ、公民権運動により公民権法が制定されたのは戦後の話です。
まぁ、日本はこんな国から「(太平洋戦争でのアメリカの勝利によって)アメリカが日本に民主主義をもたらした」とか言われちゃってるわけです・・・(涙
因に、イギリスのドイツに対する警戒感というのは、ドイツが工業・産業において、あっという間にイギリスにキャッチアップして抜き去った、産業革命以来のものでしょうね。
1)自由、民主主義、基本的人権の「正義の方向」は一定で変わっているとは思いません。ただ外交安全保障を活発に行っているので、「正義の対象」が世界情勢の激変と共に、目まぐるしく変わっていると思われます。
2)そもそも「覇権」という概念が、上記の正義と相いれないと思われます。私は米国のいわば世界帝国(ワンワールド)は、スペイン、英国のそれと違い、「覇権的でない」性質を持っているとも思います。だから原理的に言って、覇権国に対しては義戦が成立するとも思われます。
この話題の参考になりそうな、宮崎正弘さんの書評がありましたので、紹介しておきます。
渡辺惣樹『日米衝突の萌芽 1898-1918』(草思社)
ドイツの巧妙な情報戦略にのせられた米国と日本が戦争に至ってしまった
レーニンを亡命先からロシアへ連れ戻したのもドイツだった
http://melma.com/backnumber_45206_5875307/
ドイツがアメリカで日米離間工作をやっていたとは知りませんでしたが、ドイツが中国で国民党を支援していたことは有名ですね。
西尾先生、いつもとてもためになるお話をわかりやすくご説明いただき有難うございます。
私も最近この異常なまでの反日感情というものについて考えます。そこで以下にご紹介いただいたような反日の根源に関するお話はとても勉強になります。しかし、なかなか理解できないのは、なぜそれを行使する日本人(売国奴)がいるのか?という点です。私には、先生が「西尾幹二全集刊行記念講演会」でお話されたホッブスの述べた社会統治手段の理念が、以下のような反日を具体化する実行理念にも見られるように思います。
そこで私なりの考えを、ガルブレイスの理論を参考に「空気」と呼ばれる現象というか手法のような定義を使いながらブログにまとめてみました。
(社会統治実行手段たる) 空気について:http://ameblo.jp/rerapirka/entry-11592861010.html
これからも先生のご著書や動画を拝見させていただきながら、自分なりに理解を深めていきたいと思います。今後も西尾先生の益々のご活躍を心よりお祈り申し上げます。
正論の最新号を購入して西尾先生の“「侵略」非難は欧米の罠にすぎぬ”を拝読いたしました。欧米の高慢さをいろいろな観点からわかりやすく指摘された内容に感銘を受けました。特に、第一次大戦までさかのぼってドイツとの比較をされた部分は大変勉強になりました。こういう歴史知識こそ、日本人が学ぶべき内容と思います。空想かもしれませんが、ヴィルヘルム皇帝がドイツに残っていれば、ナチスドイツは生まれなかったのではないかとさえ思います。
本日は終戦記念日でしたが、元巣鴨プリズンの場所からそれほど遠くないところに住んでいるせいもあり、東京裁判で裁かれた当時の日本の首脳たちに思いをはせることがよくあります。なんとしても、あの戦争は避けるべきだったという思いは断ち切ることができませんが、不運な貧乏くじをひいて引き受けた役回りを正々堂々と演じきって最後は生贄となった人々に尊敬の念を感じます。
欧米の知性も東京裁判の解釈については真っ二つにわかれました。いまだに何年おきかで読み返すのは、竹山道雄氏が残した東京裁判の判事のひとりオランダのローリング判事との対話です。これはインドのパル判事の記録などと同様に日本人が永久に記憶すべき記録であると考えます。
米国と英国等に対しては、浅薄な比喩かもしれませんが、雨降って地固まるというか、喧嘩してお互いを理解して友情が深まるという程度の話で事がすんだのでしょう、本来は・・。(日本のマスコミによる靖国問題の挑発にも欧米はのらなかったのです)。ところが中国と韓国が介入することにより、日米との関係が複雑化して亀裂がふたたび生じかねない事態に進んでおります。偏頗な欧米マスコミの論調に従えば欧米人が日本を裁くのは至極容易でしょう。でも深く真剣に日本の立場を洞察する欧米インテリ等であれば、現在の日韓、日中関係を裁定するのは容易でないと感じることでしょう。
でもここまで深刻な状態に至ったメカニズムは実に単純なことなのです。根源は国際問題ではなく日本の国内問題なのです。日本の反日勢力が中国や韓国の反日に執拗に媚びるどころか反日を徹底的に煽り、それに呼応する中国や韓国の反日勢力が、日本から謝罪や援助、賠償金など、何がしかの「戦利品」を勝ち取ることができた、それによって戦利品を獲得できた中国人、韓国人は同国においてヒーローになり、さらに反日が強大な勢力になっていった。こういう実に単純なメカニズムです。これを断ち切るには日本国内の反日勢力をきびしく批判することです。幸いにも日本の反日勢力はだんだんと孤立していってます。中国や韓国の反日政策に日本人が毅然とふるまう時代が何年も続けば、かならず事態は好転すると考えます。
西尾先生が安倍首相に期待された歴史認識の転換も重要ですが、私は北朝鮮が崩壊したときに、日本が北朝鮮に「賠償金」を払うかどうかについて今のうちから日本人の間で合意をとっておくことも重要であると思います。経済援助はやむえないでしょうが、賠償金などはビタ一文も払わないということで合意形成しておくべきと考えます。崩壊した後の北朝鮮に対して謝罪するという気の狂った政治家が現れないとも限りません。赤旗や朝日新聞の愛読者なら必ずそう考えるでしょう。
米国の正義に対する西尾先生の分析は日本のみにとどまらず世界史的な将来を視野においたものだと思います。それは何かというと欧米が最後の「敵」と考える強大なイスラム圏のことです。頓珍漢な感想かもしれませんが、米国の正義というものの深遠というか闇をのぞいた日本人はキリスト圏とイスラム圏の文明的対立の止揚等にたいして何らかの英知を提供できる可能性があるのではないかとさえ思われました。