「不思議な魅力もある厄介な国家」(西尾)
「『のらりくらり』がアメリカには有効」(福井)
西尾 その日本がなぜ今だらしないのか。
福井 しかし、そのだらしない日本でも国際社会でそれなりの敬意を払われ、米中に日本警戒論が絶えないのも、「負けるに決まっている」戦いを世界最強のアメリカに対して挑み、死力を尽くしたからでしょう。だらしなくしているほうが、アメリカから目をつけられずにすむし、かつての日本とのギャップの甚だしさは、逆に不気味に見えているのではないでしょうか。そうして、アメリカが弱るのを待つ。実際、弱まる徴候が見えてきているわけですから。
西尾 高等戦術としてはあり得るかもしれません。いま、集団的自衛権の行使を可能にすべきだということが議論されていますが、どうにもおかしなことがあります。確かに集団的自衛権の行使は認めるべきだと私も思いますが、同時に米軍基地の縮小なり、撤退なりも議論するのが筋です。ところが、そうした声はまったく上がっていない。
国内の米軍基地をアメリカに自由使用させているのは、日米安保条約が不完全だからです。日本はアメリカに守ってもらうけれども日本はアメリカを守る必要はないという片務性ゆえに、米軍基地の無条件、半永久的使用を認めざるを得ない。もし集団的自衛権を認めて「日本はアメリカのためにも戦いますよ」と宣言するならば、米軍基地は撤廃していただいて、日本の国防自主権を確保するのが本来の姿です。勿論、中国や北朝鮮、ソ連の脅威に対応するため残ってもらうという議論はあっていい。しかし、集団的自衛権をめぐる議論に米軍基地の撤廃問題が出てこないのはおかしい。心理的対米依存の度が過ぎているのではないか。安保条約の根本に戻って考えてみる必要があると思っています。
このままでは、日本の自衛隊がアメリカの尻馬に乗って、アメリカ軍司令官の指揮のもとに危険な場所に引っぱり出されるだけです。
福井 既にドイツはそうなってしまいました。「テロとの戦い」で、アフガニスタンに派兵させられています。日本の、のらりくらりとした政策というか無政策のほうが巧妙かもしれません。
西尾 海上自衛隊を給油のためだけにインド洋に派遣していたのは巧妙な作戦でした。
福井 日本は、アメリカの押しつけた憲法の制約で集団的自衛権の行使が認められないと言い訳しています。これは極めて巧妙な政策です。認めたうえで「国益と合致しないから協力しない」というと角が立つので、今の不平等条約に基づく「永久占領」が続く限り、当面は「集団的自衛権行使を認めない勢力を無視できない」とかわし続ければいい。
西尾 あと何年?
福井 私が生きている間には独立した日本を見たいんですが。
西尾 私の生きている間は無理ですか(笑い)。
福井 それは分かりません(笑い)。
西尾 先述したように複雑なトラウマを反映した行動原理、はた迷惑な宗教的使命感を持つアメリカですが、一方で、カウボーイ的な明るさもあります。
大東亜戦争でアメリカと激烈に戦った日本人でしたが、終戦から二?三年が経つとアメリカ礼賛一色になってしまいました。私が中学生になった昭和二十三年、学校では「アメリカ研究」が始まりました。戦時中には「鬼畜米英」と言っていた国の素晴らしさを学ぶわけです。世の中もアメリカブームで、「ターザン」などのアメリカ映画が一世を風靡していました。青年たちが特攻隊としてアメリカの艦船に突っ込んでいったのはつい昨日のことですよ。なぜそこまで様変わりしたのか分からないほどの不思議な変化が日本にありました。
昭和二十四年には大リーグのサンフランシスコ・シールズが来日し、戦後初のプロ野球日米親善試合を行いました。羽田空港では女優たちが出迎え、銀座ではパレードをして花吹雪が舞いました。アメリカチームはとにかく強くて、川上哲治はクルクルと三振するし、別所毅彦もボコボコに打たれた。唯一通用したのが、のちに横浜大洋やヤクルトの監督となった軟投派、下手投げの関根潤三です。 日本人はそれらを見て、こんなに強いアメリカ、明るいアメリカ、金持ちのアメリカとなんで戦ったかと、嘆くことしきりでした。そして戦争をした日本人は悪い、軍人は悪いと言い出して、特攻隊も国賊のように言った。アメリカは映画をプロパガンダの道具として使っていて、「明るく素晴らしいアメリカ」を描いた作品だけを流した。黒人や貧民街の映画は禁止して流さない。そして製作されたのが「青い山脈」(昭和二十四年)です。アメリカの民主主義なるものを賛美し、国民に「悪くて暗い封建主義の戦前日本よ、さようなら」という意識を刷り込んでしまった。
不思議な危険と不思議な魅力をあわせ持つのがアメリカです。今でもそうです。野球の話をしましたが、現代日本のトッププレーヤーたちも大リーグを夢見て、大勢が海を渡ってプレーしています。一方で、日本が二連覇している野球の世界一決定戦「ワールド・ベースボール・クラシック」(WBC)では、収益配分などをめぐって主催者の大リーグ側の横暴がまかり通っていて、日本プロ野球の若手選手たちが一時は二〇一三年の大会への参加を拒否するという行動をとりました。不正は絶対に許さないとがんばったあの態度は素晴らしいですが、アメリカの正体は野球にまで出てくる。厄介な相手だと思います。
福井 やはり、関根の軟投のような「のらりくらり」戦術が有効なんですよ(笑い)。救済思想を抱えて「ワン・ワールド」オーダーを目指すアメリカへの現時点での対処法のヒントは、そこにあるのではないでしょうか。
西尾 しかしそれは意図してうまくできるものではありません。戦術としてつねに成功するものでもありません。結果として辛うじて今まで無難ではありましたが、「のらりくらり」がイデオロギーになって硬直すると、スキを突かれて攻撃を受けるかもしれません。とにかくアメリカは、昨日の味方を今日はあっという間に敵にする危うさを持っています。アメリカの衰弱と下降は動かない大きな流れでしょうが、それだけにかえってどう変貌するか分からない未知のきわどさを感じています。
『正論』25年2月号より
(おわり)
プロフィール
西尾幹二氏 昭和10(1935)年、東京生まれ。東京大学文学部独文学科卒業。文学博士。ニーチェ、ショーペンハウアーを研究。第10回正論大賞受賞。著書に『歴史を裁く愚かさ』(PHP研究所)、『国民の歴史』(扶桑社)、『日本をここまで壊したのは誰か』(草思社)、『GHQ焚書図書開封1?7』(徳間書店)。『西尾幹二全集』を国書刊行会より刊行中(第5回「ニーチェ」まで配本)。近著に『第二次尖閣戦争』(祥伝社、共著)、『女系天皇問題と脱原発』(飛鳥新社、同)。
福井義高氏 昭和37(1962)年、京都生まれ。東京大学法学部卒業。カーネギー・メロン大学Ph・D。日本国有鉄道、東日本旅客鉄道株式会社、東北大学大学院経済学研究科助教授を経て、平成20年より青山学院大学大学院国際マネジメント研究科教授。専門は会計制度・情報の経済分析。著書に『鉄道は生き残れるか』『会計測定の再評価』(中央経済社)『中国がうまくいくはずがない30の理由』(徳間書店)、訳書にウィリアム・トリプレット著『悪の連結』(扶桑社)。
『正論』25年2月号より
(了)
懐かしい話が盛り沢山ですが、私も中2のときシールズ戦を父と後楽園に見に行きました。シールズはマイナーリーグでしたが、そこにも歯が立たなかった。入り口でコカコーラを渡されたが、薬品臭く、嫌いになった。疎開先でばら撒かれたチョコレートも拾いに行かず、嫌いになった。
戦後の日本は米軍によって占領され、例えば、西武線石神井公園の邸宅を白ペンキで塗り、絨毯を敷いて土足で上がりこんでいた。しかし日本人が米人に危害を加えたという報道は一切聞いたことがない。「アメリカさん」と呼んで歓迎する主婦たちも多かった。これは米人のレディーファーストの習慣が浸透したためであった。戦時中は「鬼畜米英」と宣伝されていたが、その実態が余りに違うので、日本人の多くは軍部に騙されたと思ったようだ。自虐史観と呼ばれる感覚も、こういうところに根強い根拠があるように思われる。
前記で「アメリカさん」を聞いたのは、米軍基地の置かれた地域の例なので、基地勤務者も多く、一般化はできない。しかし昭和22年からは、男女別学だった小学校4年以上や新制中学、その持ち上がりの新制高校でも共学が始まった。特に中学以下では女性の方が早熟だから、女性優位の傾向が強かった。世間の雰囲気も、以前に比して女性解放、地位向上が目立っていた。戦後の風潮を語る場合、こういう視点も極めて重要と思われる。また、そのことが「不思議な変化」をもたらした一つの大きな要因かと思われる。
この度の対談をとても興味深く読ませていただきました。
簡潔にわかりやすく交わされている先生のお言葉にはとても深い奥行きを感じます。私のような知識の浅い人間には、まだまだこの会話の深みを十分に把握できていないのが残念でなりません。
「さまざまな要因の総合作用として歴史をみる」視点から考える「アメリカの「正義病」の根源」に関するお話もとても勉強になりました。私もちょうど「反日の根源」というタイトルの記事をアップしたのですが、先生のご見解を読むと、まだまだ自分の視野の狭さを痛感させられます。
反日の根源について:
http://ameblo.jp/rerapirka/entry-11600025949.html
私が反日の根源としてたどっていったのは、先生方が常識として簡単に交わされた以下の会話にもみられるものです。
福井 マルクス主義が、キリスト教の源流といえるユダヤ教の救済史観に強く影響された思想であることは常識です。アメリカの世界一国支配思想と共産主義は根が同じだともいえるわけですね。
西尾 マルクス主義思想の根本に千年王国論があるのは間違いない。
この西尾先生のおっしゃる根本というものをある程度は理解できていないと、近代の様々な事象を把握できないのではないかと思い、私なりの考えを上記の記事で示してみました。
私がこれまでに読んだ書物の量はまだまだ少なく知識も浅いのですが、様々な体験から心で感じてきたものを書物で読み取る知識と重ね合わせながら思考をしております。若い頃にアメリカ留学をした中で、田舎町でカソリックやプロテスタントの白人たちと共同生活をしたり、ユダヤ人と小さな寮の部屋でルームメイトとして生活を送った経験や、世界各国を旅して色々な国の色々な宗教の人たちの文化や生活を見ながら、心と心の触れ合いから感じ取った感覚などから、西尾先生の理論にふれると、知識ではまだまだ十分に理解できていないのですが、感覚的にものすごくしっくりとくるような気がして、いつも楽しみに拝見させていただいてます。
これからも先生のご著書や動画を拝見させていただきながら、自分なりに理解を深めていきたいと思います。
今後も西尾先生の益々のご活躍を心よりお祈り申し上げます。
上記で、別学とは旧制中学と女学校のことで、小学校4年以上は別クラスという意味である。それが女性優位の心理作用をもたらすということは、余り指摘されていないようだが、精神形成上、意外と大きな意味を内包するように思われる。私は幼稚ながら、中学時代に本能的にそういう雰囲気を察してか、背伸びして日本近代文学の女性群像にチャレンジしたことを想起する。古来、「男女7歳にして、席を同じうせず。」と言われたのは、男性優位を維持するためだが、それは、ふしだらになるのを防ぐだけでなく、上述のような精神形成上の意味もあったに違いない。ヨーロッパのエリート教育にもそれは窺える。近年の日本で、私立男子校(中高)が難化してきたのも、進学のためだけでなく、そういう意味もあるに違いない。その意味で、戦後暫らくは、軍部主導=男性優位の崩壊による女性優位意識への転換の時代(青い山脈)でもあったと言えよう。
上記2行目の「それ」は、「共学」に訂正です。
枝葉末節に属することで恐縮ですが、事実のみ記しておきます。
関根潤三は下手投げではなかったと思います。シールズ相手に東京六大学選抜チームの投手として力投した(延長13回を完投したが2対4で敗戦)ことは事実ですが・・・。
変則のアンダースローでシ軍を悩ませたのは武末悉昌(南海ホークス・のち西鉄ほか)でしょう。
当時小6の私は専門誌4誌を購読するいっぱしの野球少年で、その年マイナーで7位だったチームを「大シールズ」などと紹介した記事に違和感を覚えた記憶があります。
サンフランシスコシールスは全勝しました。3Aに歯が立たないとがっかりしアメリカの強さに畏敬の念を持ったわけですがあの中に若手の大リーガーを相当入れていたようです。アメリカの強さを見せるためにです。もっとも昭和30年ころ巨人軍が米国遠征したとき28戦全敗でした。千葉選手が町のおっさんたちのにわか仕立てのチームに歯が立たなかった嘆いていました。おもうに基礎体力の差です。当時140キロ台の球は直球でも打てなかったそうです。日本のプロ野球は130キロで速球投手で通用したそうです。
上記の「女性優位の心理作用」の影響について考えてみると、要するに、女子が15才頃まで男子より1両年程度、肉体的・精神的に早熟だということは、日常態度や学力にも表れ、その結果、総体的に女子は男子に対して暗黙の優越感を抱き、男子はその逆(卑屈感)だということだ。公立のすべての小・中学校で4~5年間を通してそういう状態に置かれたら、どういう影響が現れるのか? 寡聞にしてこういう議論を耳にしたことが無い。しかしこれは28日の本欄2でも触れた植民地支配に係る人種差別問題とどこかで重なる。成長期の男子に植え付けられた劣等感がその子のその後の精神形成に大きな影を及ぼす。やがてそれが国民総体の意識に関わってくる。世間では、女性差別撤廃に目が注がれがちだが、こういう隠れた弊害作用には誰も気づかない。ただし、西尾氏はおそらくこういう実態をも直観的に察知して、危機意識を訴えているように見える。
一部の過剰な女権論者が少女時代に身に付けた男性に対する潜在的優越意識を自覚できない場合も、大いにありうる。こういうことを言うと、「素人がでたらめを言うな」と怒られそうだが、かく言う私は、研究生活の半分をA.スミス『道徳感情論』をめぐる研究に注いできた。同著の主題は道徳判断の方法と内容で、その中の pride(高慢)という優越意識の行き過ぎの弊害とその克服方法の議論に注目して、それを著書(学位論文)にまとめた。28日の本欄2でのスミスへの言及は、そういう議論に依拠している。なお、男女共学についての先の私の発言は生涯初である。女権問題は米国由来だが、今日、米国ではそれについて神経過剰気味のようで、これも共学の副産物かもしれない。何事であれ、行き過ぎは是正されざるをえなくなる。ちなみに、そういうスミスの判断方法は経済学にも適用されていく。そういう適正判断の方法を持たない米国経済学とは一体何なのだろうか?
「のらりくらり」作戦は日本だけの専売特許ではなく、おそらく世界中の国がアメリカに対してはそうなのでは?日本人はおひとよし過ぎてもともとダブルスタンダードのアメリカの主張を真に受けすぎるのです。私も福井さんと同世代なので同感を得るところもあるのですが、西尾先生の結語があってこその有意義な対談だった思います。
とにかく日本の「国際化」の近代は受け身の連続でした。もういい。「千年王国」のグローバリゼーションは。
ところで仲小路章の主張するグローバリゼーションとはどんなものなのでしょう?日本から発信できる世界思想たり得るものでしょうか?関心を持っています。