「真夏の夜の自由談話(2)」への9件のフィードバック

  1. 4日の本欄2で触れたことの女子側にとっての問題を考えてみよう。かつては性教育は女子だけに行われ、男子には行われなかった。それは性的成長度に格差があるから当然だが、その情報格差だけでも、男子は幼稚に見えてしまう。4日の指摘が当たっているとした場合、その潜在心理は、結婚生活や子育てにも何がしか影響しないか? それが、独身化、離婚、少子化等の傾向に拍車をかけていないか? その対応策が余りにも経済問題ばかりに目が向けられていないか?
    おそらく先のような指摘は、その専門分野ではタブー扱いされていよう。かつて西尾氏が性教育問題をめぐるタブーに挑戦し、代表的な女権論者を厳しく批判していたことを想起するが、占領政策の一環でもあるこの問題も、一考に値するのではないだろうか?

  2. 「アメリカの国家的世界戦略」というような言葉をよく耳にしますが、はたしてこの言葉は正しいものなのか、なにか当たり前に聞こえる言葉ではありますが、よくよく考えてみると「国家的世界戦略」を形上はアメリカという多民族国家が為しているのかもしれませんが、実はそれを動かしているのは全て『キリスト教』という集団国家だと、ここで深く認識しなければならないのでしょう。更にはそれに便乗しているのがユダヤ人で、時には彼らはキリスト教の元祖のごとく、この集団国家を操り、キリスト教そのものもテンプル騎士団やフリーメイソンのごとく、何やら形にならない形を根底に醸し出しながら、キリスト教圏の人類の上辺の形状維持を為してきた。
    こうした世界キリスト教圏の雑多な文化文明意識の担い手を、堂々と政治や歴史の中で今に利用しようとしているのが、つまり‘アメリカ‘という国家なんだろうと思います。
    イギリスの歴史教科書はどうやらワシントンを国賊だと教えているようですが、実際はヨーロッパの西側キリスト教圏の民族は、アメリカの陰に隠れてワシントンが成した反ヨーロッパ的な意識を、この現代においては活用せざるを得ないと解釈しているのではないだろうかという推測が可能でしょう。

    徐々にそのような難解な宗教的世界地図が『ダビンチコード』などの映画などでも世間に知らされるようになりましたが、事の本質はキリスト教という拡大性質を本質とする宗教の災いに、いまだその災いを被っていない我が国日本が、今後どう対処すべきなのかということでしょう。
    彼らキリスト教軍団は間違いなく我が国日本が世界で一番厄介な国家だと認識しているはずです。語弊はあるかもしれませんが理論上はそうなるわけです。これは我々日本人が覚悟しなければならない事の本質なんだと思います。
    そうした現状を歴史的になんとか凌いできた我々の祖先がいるということ。これはおそらく500年前に遡るべき歴史認識だと思います。
    そしてここからが最も重要な課題なんですが、日本は宗教戦争という果たし状に乗るべきなのか乗らないべきかです。結論から言えば、私は‘乗る派‘です。乗らなければ国家を維持できないと考える立場です。
    確かに日本人は温和で事無き様にを望む民族です。しかしだからといって国家を侮辱されることには断固反対です。
    西尾先生が仰る通り過去を振り返ってみると、たった500年の間に様々な世界的出来事が起きました。現代人はさもその事を歴史という扉の中に収めてしまいがちですが、今も歴史は動いているのです。歴史は生きているんです。500年の結論は未だ出ていないのです。
    おそらくどの時代にあってもその課題はあったのでしょう。つまり‘現代人‘はどう生きるべきかという課題です。

    様々な観点が必要ではありますが、問題をできるだけわかりやすく少数にまとめ上げる必要性も問われています。国家という単位が動きやすくするための判断が必要だからです。
    500年前、キリスト教の先鋒を担ったポルトガルやスペインが、何故航海の旅に出たのか。それを動かした原動力は何なのか。更にはキリスト教内部の分裂はどのような宗教地図を生み出したのか。そしてそのことによって誕生した、アメリカという彼らの理想像は正しかったのか。様々な憶測がここで可能なわけですが、例えばヒトラーなどは、ユダヤ人が敢えて仕掛けて生み出した人物だと見ることさへ可能になります。北方ドイツにおいて新たなキリスト教思想の種を埋め、キリスト教内部で反乱を企て、どうしてもユダヤ教の手下に落ちないカトリック信者を追い払うには、新しい思想の波が必要であったと想像することも可能ではないでしょうか。
    ユダヤ人はそれくらいのことをやり遂げる民族なのかもしれません。
    そしてその争いの土台がアメリカ大陸において行われたのかもしれません。いわゆる独立戦争がそれです。ユダヤ人はまんまと新たな聖地を獲得したわけです。極端な表現が許されるならば、最終的な勝者はユダヤ教になるわけです。そう考えると色んなことが想像できます。もしかすると、キリスト以外のキリスト教徒は、実はユダヤ教徒のスパイだったのかもしれません。
    あまりにも布教が巧みだったキリストの可能性を根底まで殺すことにはいかず、ユダヤ教が便乗したのではないかと想像することは、果たして許されないことでしょうか。大いに可能性のある論理だと私は思うわけです。
    実際アメリカ大陸はそれを裏付けるような国家体制ではないでしょうか。
    事実、南アメリカ大陸にカトリック教徒が多いのは、宗教の色分けを南北というわかりやすい図式で構成できたからで、おそらく北側に集中したプロテスタント信者はユダヤ教の真情を汲みしやすい環境に収まった背景が存在したんだと考えるべきではないでしょうか。
    そう考えれば、我々日本人が西洋に抵抗する意味合いはよりわかり易いと思います。我々は歴史的にも一度もキリスト教信者になりませんでした。一部分を除いて。いやその一部分さえ、本質は日本的解釈が土台なのではないかとさえ思います。
    とにかく我々は歴史上西洋文化を、そして西洋思想を、根っこに染み込ませたことがない民族です。ある意味渋谷あたりをのっけらかんと歩き回っている少女たちの実態が、それを証明しているのかもしれません。
    不思議な国日本・・・というフレーズは不愉快です。単に西洋様式を拒んだだけのことです。上辺は受け入れましたが、それこそダイレクトに西洋文化を店先に並べたところで、渋谷の少女たちは間違いなくそれを買うはずがありません。

  3. 正論今月号読んでいます。歴史観が異なっても実に有益です。コメントはまたあとでします。

  4. 戦後のとらえ方に共感を持ちました。アメリカを正当に評価したうえでの対米批判に敬意を表します。私のアメリカの初認識はボタンとリボンのポップスです。バッテンボーとうたった記憶が5歳くらいのときでした。アメリカの寛大な占領政策を感じます。多分おまえらよく戦ったいう戦士同士の敬意を持ったためでしょう。

  5. <つづき>

    さてそれではどうやって西洋文化と・・・つまりキリスト教と戦うべきなのか。答えはそう簡単なことではありません。こうすれば成功する・・・とか、具体的なニュアンスは全て嘘臭く感じます。私はこの世界を支配している様々な問題の根源は、やはり『宗教』が原点だと思うんですね。
    そこには民族問題も絡みます。歴史的背景も絡みます。でもそれらを突き動かしている根本的問題は、やはり『宗教』なんだろうと思うわけです。
    しかし本来は宗教というものはうまく棲み分けされているはずで、お互いに尊重し合うことから「信じる」心が安定するわけで、なにか競い合うものではないはずだと思います。しかし、一旦何かの衝突が起きた場合、その色分けを明確にするものの一つに、宗教が存在しているのも事実だろうと思うわけです。
    我々日本人から見ると、キリスト教はその実態が一色のみのような錯覚さへおぼえることがよくありますが、おそらくもっと突っ込んで調べ上げれば、様々な側面がそこにはあり、それはもしかすると宗派まで遡らなくとも、もっと狭い範囲でそのような実態が伺えるのかもしれません。
    日本と関わる歴史的その事実を紐解くと、例えばイエズス会とフランシスコ会では、全く日本との関わり方が違っていたと聞きます。イエズス会はどちらかといえば「攻撃的」でザビエルなんかは間違いなくイエズス会の軍人だったという話もきいたことがあります。実際ザビエルはバスク系のスペイン人だったとか聞きましたが、当時スペインはレコンキスタによって、国家の存亡を乗り越えたわけですが、その当時前線で戦った軍人の多くが、バスク人だったという話をどこかで知った記憶があります。
    つまりザビエルは間違いなくイエズス会の先鋒だったわけです。ヨーロッパ、特にスペイン圏内ではまだ名の無いイエズス会が、地球の裏側を制覇することによって、新興宗派として命懸けの賭けに出たのは理解できなくもありません。
    このように、歴史的事実を見ても、キリスト教は実は内部争いの絶えない宗教であるということ。ここを我々は忘れてはいけません。
    このキリスト教の内部分裂を操作できる国家はどこか・・・それがもしかすると我が国日本だけなのかもしれないわけですよ。
    なぜなら、我々は地球上で一度もキリスト教に染まっておりません。完全に近い形で他宗教なわけです。つまり、キリスト教とは、宗教場で全く衝突したことがない国家であります。
    「いやそんなことはない。1941年のパールハーバー攻撃こそ、真の宗教戦争ではないか」とか言い張る方もいるかもしれませんが、それはそれで間違いだとは言いませんが、それは後付け的な意見であって、その当時の日本人はそこまで思想的な宗教的な感情を出すまでもなく、環境がそれを動かしたのであって、根底に流れるものの中にそうした感情はあっても、けしてそれが突き動かしたかどうかはかなり疑問視するべきではないでしょうか。
    ある種のプロパガンダに近い解釈になりそこねない考え方だと思いますね。
    話がそれてしまいました。
    問題はいかに日本がキリスト教と戦うかという問題です。
    しかし、先に答えを述べさせていただくと、戦ってはだめなんです。戦う姿勢は大事なんですが、戦っては‘ダメ‘なんです。
    おいおいそれじゃあ答えになっていないよと言われてしまいそうですが、ここはもっと冷静な判断が必要です。
    つまり、太平洋東海岸諸国・・・つまりASEAN諸国と言っても良いでしょうが、朝鮮・中国以外のこの国々との連携を高めること。それがとても大事です。実際安倍総理は佐伯外務次官を匠に働かせて、中国以外の国々と安倍氏が接触を持てる環境づくりに奔走しているようです。更には、アメリカがシリア問題でオバマ政権への疑問視が国内に蔓延しつつあることを踏まえて、アメリカ外交と比較対象しやすいロシア外交重視を視野に入れて、実際その動きはすでに実行されています。

    これら安倍総理の外交実績はおそらく近い将来に米中内部に大きなダメージを生む可能性があります。外債を買い込んでしまった中国はアメリカ頼みな姿勢は崩せません。もしもアメリカの経済力が減少した場合、中国はタダの紙切れを買わされたことになります。
    今はまだ中国はアメリカ神話を信じて止まないでしょうが、この先10年後20年後に恐ろしいほどの経済世界地図改変が起こらないという保証はないわけです。結局、米中両国は、最大の武器が領土だという不幸を背負っている類似した国家で、彼らの中には全く頭脳が蓄積されていなかったと見るべきでしょう。
    戦後のアメリカ経済のキーポイントは「日本叩き」でした。様々な優位性を保つための手段をアメリカは日本に要求しました。それが弾尽き果てると今度は歴史解釈という手段に便乗し、中国と足踏みを揃えてきたのは誰でも認識されていることでしょう。
    アメリカは次なる「手段」が見当たらないのかもしれません。
    今更中東に軍事介入したところで、世界がそれに同行するはずがありません。オバマ大統領の外交力とはたったそれくらいのことしかできない能無しだったということを、世界に知らしてしまった現実です。
    というか世界の冷ややかな目は、「オバマさんご苦労さん。みんながいやがっていることを、敢えてやろうとするその努力だけは買います」程度のものでしょう。しかし、政治に関わる立場の方々には本当にありがた迷惑であり、とにかくムードは高まりません。

    さてここからが日本にとっても大変大きな問題であるわけです。
    日本が最終目標としているものが一体何なのかということを、問いただせねばならないのが現実なんですが、でもそれって実際政治を滞らせることになりかねないのです。あまり見えそうもないようなところに照準は当てない方が良いだろうというのが、私の持論です。
    結局政治なんて我々の範疇なんですよ。けして枠外ではない。プロパガンダ一発で全員右向け右的な部分が多々あるわけです。もちろんそんなに容易いものではないことはりかいしていますが、かの橋下さんだって、沖縄発言で西尾先生の助言の前ではタジタジでしたでしょ。あんなもんなんですよ。

    ですから、我々がここで知恵を出さなければならないことは、今日本にとって一番重要なことは「外交」なんです。
    軍事的な増強作戦とか、経済的戦略とか、これは全て「敵」が存在するものです。ですから、これを着々と内部で進めることは許されますが、お帯ろ式にそれを政治の場面で語ってはいけないわけです。しかし、外交だけは、全世界にわかりやすく、はっきりとアピールすることが大切で、特に米中が日本抜きでは今後国政が成り立たないと思わせるくらいの外交力を発揮させるべきです。その為には、まず東南アジアのどこでもかまいませんから、日本経済がバックアップして支援し、アジア経済の流通を促進する起爆剤を植え付けるべきです。その対象国として、インドはとても環境がいい場所です。人口も多く、領土も広い。更には歴史的にこの国は日本と友好関係が深く、周辺国との連携も視野に入れやすい。これを起爆剤にして、今度はキリスト教圏の諸国との外交が鍵になります。
    ここが一番のターニングポイントとなるでしょう。
    中国は既に、国家体制がアメリカ化しています。つまりアジア版多民族国家なわけです。アメリカと瓜二つです。しかも武器となるものは「領土」しかない。ソ連が最終章を迎えた時重くのしかかったのは「領土」そのものでした。その後蜘蛛の子を散らすようにソ連から離れていった国々がありました。中国はこれが近い将来有りうる国家です。
    様々な起こりうる可能性を視野に入れなければなりません。
    それは当たり外れを問うものではなく、いかに国家が一つにまとまっていることが可能かという視野のもとで、どんな国家戦略が可能なのか、それをどれだけ一般人が受け入れているかというところに、政治は関心が必要です。

    ここで最終章です。最初の問題であります、キリスト教とどう戦うべきか。実はこれまでの私の論文の中にかなりのヒントがあります。あまりもったいぶると嫌がられますので単刀直入に申しますと、アメリカ式キリスト教の内紛をいざとなったら促す事を惜しまないということです。

    世界は今アメリカ式な社会にいるわけです。それは「キリスト教」が生み出した世界の最大公約数なのかもしれませんが、その弊害は多大なものがあって、特に軍事介入が国家の安定と結びついているアメリカ国家の宿命は、世界が呆れかけているという事実。それを取り締まる国家の不在がつまり地球の不幸の1因子なわけです。
    もっとわかりやすくいえば、アメリカというプルトニウム国家を人類は生み出してしまったわけです。本来この国はこの世にあるべきではなかったのかもしれない。それは人間のエゴの末路に生み出してしまったものなのかもしれない。留まることを拒否する歴史の運命が、この国を誕生させてしまったと言っても過言ではないでしょう。
    この国の誕生とともに、地球は大規模な進歩と共にそれに匹敵する苦悩を背負ってしまった。この事は、世界を支配しています。この残念な事実が世界の共通意識の底辺にあるわけです。
    われわれはこれを見落としてはいけない、そう思うわけです。
    そのようなことから、打開策のカギは「宗教」がにぎているのではないかと思うわけです。

  6. <訂正>

    >つまり、キリスト教とは、宗教場で全く衝突したことがない国家であります。

    つまり日本は、キリスト教と、宗教上で全く衝突したことがない国家であると言えるのかもしれません。

  7. デモクラシーは古代ギリシャが発祥の地です。アリストテレスやプラトンの国家論で民主主議を語ろうとすると必ず奴隷制度を持ち出して否定するひとたちがいます。友人で雑誌正論に寄稿している人ですが。しかし当時のガレイ船をこぐ戦争奴隷だけを見て言っているイソップも奴隷身分教師にもそういう人たちがいた。現代の日本の企業人(社畜と揶揄された)と古代ギリシャの奴隷身分とどれほど違いがあったかの思いを哲学を学びだしたときからもちつずけています。旧ソ連は近代の奴隷制社会だった。マルクスの政治論はアリストテレスを当時風にアレンジしたものです。そので点ヒトラーは征服したあとでロシア人を奴隷として扱うと言ったそうです。実に慧眼だったと言わざるを得ない。私はプーチンはツアーの現代版だと登場した時から見ています。思うにスラブはスレーブと語源を同じくしているはずです。スターリンよりも緩やかなツアーリへの回帰でありロシア民衆もそれを是としているはずです。もう一つ今月号で堀米庸造先生の指摘がありました。私は中世論を読み40年間世界史モデルの一つとしています。互いに封建制を持ち疑似ヨーロパとしての日本天皇としてのポープを持つ日本を指摘していました。他にも数人いますがもちろん日本人です。

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