閑居人さんの書評です。
素晴らしい内容の書評、ありがとうございました。
「憂国」の一番の敵は、「内なる敵」との戦いである 2013/7/25
By 閑居人
西尾によれば、現在の日本は、二つの外国勢力と戦っている。一つは、言うまでもなく、「アメリカ」である。「日米安保条約」は、独立国日本を引き続きアメリカのコントロール下に置くものであり、その後、70年近く、日本は安全保障をアメリカの「従属国」のままにしている。
もう一つの外敵は、「中国」である。本来、大陸中国は、「戦勝国」ではない。中国共産党は、実質、日本軍と戦ったことはない。ただ、マーシャルらを抱き込んで、アメリカを騙して国民党を台湾に追い出しただけである。しかし、彼らは、国連常任理事国入りと国交回復を果たすと「戦勝国」のように振る舞い、戦後利権にありつこうとする。そしてそれに、第二次大戦を「大日本帝国臣民」として戦った韓国が、戦後、一転して、アメリカ、中国に媚び、日本に対して居丈高に振る舞おうとしている。そして、ときにこの三国は裏で結託して「ジャパンバッシング」をしているように見える。
だが、西尾の本当の憂鬱は、アメリカや中国、韓国といった外敵の日本攻撃だけにあるわけではない。米中が影で何を企もうとも、国際社会の中で主権国家が国益を求めて様々な戦略・戦術を駆使することは、ある意味では当然のことであり、それを止める術はないからだ。
一番の問題は、「内なる敵」なのだ。つまり、敗戦史観を唯々諾々と受け入れて、日本という国家と日本人を貶める日本人の国家意識、歴史認識の問題であり、同時に世界に対する日本という国家ビジョンの欠如、戦略のなさなのだ。
その意味で、本書の根幹を成すものは、著者自身が言うように「第三章 日本の根源的致命傷を探る」であろう。ここで、西尾が展開していることは、西尾が一人の日本人として、どうしても言わずにはいられないことである。「旧敵国の立場から自国の歴史を書く歴史家たち」
昭和16年7月、日本は南部仏印に進駐した。前年の北部仏印進駐同様、英米の「援蒋ルート」を断ち切るためである。英米の支援の約束を蒋介石は信じすぎた。日本に徹底抗戦していくことが国民党の利益になるとは限らないのに、日本との和平交渉をサボタージュして、それを近衛政権のせいにした。そのシンボルが「援蒋ルート」だった。日本の多くの歴史家が「南部仏印進駐がアメリカの逆鱗に触れ、アメリカは対日戦争を決意した」と、日本の「暴挙」を非難する。日本が北部仏印に進駐したのは、前年9月。フランスにビシー政権が成立し、そのビシー政権と話合っての南北進駐である。欧米の史家たちは、日本の南部仏印進駐が翌年になったことに驚きを隠さない。通常、迅速に、間髪を入れず行うものである。このことは、1939年9月の独ソによるポーランド分割を見れば、明瞭である。
また、この年の5月、イギリスはデンマーク領アイスランドとグリーンランドを予防占領したが、持ちこたえられないと見ると、7月、「中立国」アメリカが、イギリスに代わって占領し、ドイツ軍を押し返した。日本の南部仏印進駐と同時期であるが、明白な中立違反である。ドイツはアメリカを非難できたが、アメリカ、FDR、ルーズベルトの挑発に乗らなかった。中立国であるはずのアメリカがイギリスと大西洋上での「パトロール」と称する軍事共同行動を行い、しきりにドイツを挑発し続けていた時期である。FDRが戦争参加への機会を執拗に伺っていたことは、戦後、CH.ビーアドが「ルーズベルトの責任」で厳しく批判した通りである。
そもそもアメリカが、日本の軍事的戦略を非難すること自体が奇妙なことなのだ。しかし、半藤一利、加藤陽子のような歴史家たちは、戦後、アメリカが一貫して流し続けてきた「日本軍国主義」対「英米民主主義」の宣伝のまま、「日本軍国主義」の愚かさを嘲ってやまない。「南部仏印進駐がアメリカの虎の尾を踏んだ」彼らは、そう言って笑う。しかし、事実は、FDRは、既に戦線参加を決意していて、モーゲンソー財務長官とともに日本に対して、まず「経済戦争」を仕掛ける切っ掛けを探していただけのことである。一体、彼らの「日本人歴史家の視点」はどこにあるのか。多分、西尾の指摘する通りなのだろう。
「日本の戦後の歴史関係のメディアが一貫して旧敵国の立場から歴史を見ているという、大局を見失った、負け犬の歴史観に立つことを意味するのである」(p150)「戦後日本は『太平洋戦争』という新しい戦争を仕掛けられている」
西尾は、言う。「満州事変以後の『昭和史』に限定して日本の侵略を言い立てる歴史の見方には、一つの政治的意図があった。日本を二度とアメリカに立ち向かえない国にするというアメリカの占領政策である。自らにとって“都合のいい時代”を抜き出すことで、一方的に日本に戦争の罪を着せようと考えたのだ。」
「大東亜戦争は日本が始めた戦争では決してない。あくまで欧米諸国によるアジアに対する侵略が先にあって、日本はその脅威に対抗し、防衛出動している間に、ソ連や英米の謀略に巻き込まれたに過ぎない。」
「侵略と防衛の関係は複雑である。もしも日本が防衛しなかったら、二十世紀初頭で中国の三分の一と朝鮮半島はロシア領になっていただろう。中国が対日戦勝国だと主張するのは大きな誤りなのだ。」(p162)
そもそも、日本人310万人の英霊が生命を捧げた戦争は、「大東亜戦争」である。開戦後、昭和16年12月12日、日本政府は、シナ事変以降の戦争を一括して「大東亜戦争」と名付けた。その戦争目的の最大のものは「アジアの独立、英米仏蘭の植民地帝国主義の一掃」である。しかし、敗戦後、昭和20年12月15日、占領軍の通称「神道指令」によって「大東亜戦争」「八紘一宇」といった言葉は、使用禁止になり、徹底した言論統制が行われた。(評者の経験したことを一つ紹介したい。ソビエト崩壊の直後だから、1991年の冬のことだろう。20人余りの高等学校「日本史」担当者に、「大東亜戦争」「太平洋戦争」「アジア・太平洋戦争」「15年戦争」の四つの名称を示し、一番、自分の実感に近い名称を選択させた。その数は統計的な有意差を示すものではないから特に記さないが、「大東亜戦争」を選択した者は一人もいなかった。「神道指令」と占領軍の検閲を知らない教師が全てだった。彼らは、いずれも世間で一流大学と目される大学の出身者である。)
問題は、戦争が終わり、国際条約によって新しい国際関係が開始されても、情報戦争は決して終わることがないということである。竹山道雄の「昭和の精神史」の本来の題は、「十年の後に」である。この題には、戦争の興奮と狂乱の時期が過ぎて、十年の後には、冷静な、多角的な視点からの議論ができるだろうという竹山の期待が込められていた。
残念ながら、公文書の公開が、30年50年というスパンであり、十年ではなかなか真実は分からない。しかし、大きな真相はいずれ明らかになり、日米開戦に際してのFDRの陰謀は、研究者にとって事実としては疑えないだろう。
西尾は、こういった日本人の歴史認識の根本を問うのである。本書で、西尾は、「皇室」の問題を取り上げる。精神科医は不確かなことに口を挟まないから言わないが、彼等が心の中で感じている「皇太子妃殿下」の病状は「適応障害」ではなく、「人格障害」だろう。しかし、西尾は、限界ぎりぎりの表現をするだけで、皇太子殿下についても「無垢なる魂」と言うのみである。考えて見たらいい。「50歳にして、無垢なる魂」とは、一体、いかなる人格なのか。
西尾が己に律していることは、己の全ての言論表現活動は、この日本という国家の歴史と伝統、その正しきを継承していくためにあるということだろうか。であれば、西尾の禁欲とそれに反する迷い、動揺が、本書の魅力の根底にある。
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(2013/07/11)
西尾幹二
南部仏印進駐で、日本は、アメリカの「虎の尾」を踏んだのでしょうか?
フランスがドイツに敗れたため、南進論をとなえた日本が尻馬に乗って?北部、南部の仏領インドシナに進駐した、という事実はそれ以上詮索されることなく、そのことがルーズベルト政権の対日石油禁輸を招き、真珠湾につながった、とのみ単純に理解されています。
しかし、ヴィシー政権は、1942年11月の連合軍の北アフリカ上陸作戦時点まで対米国交を維持しています。ワシントンにはヴィシーの大使館があったのです。ヴィシー政権というのは、ちょっとわかりにくく、意識的に記録もかなり廃棄されているのか、あまり研究されていないようですが、ドイツに負けたフランスの植民地は手も足もでず、極東に孤立したインドシナは悲鳴を上げて、ドイツ、イギリス、アメリカにも助けを求めていた事実があります。欧州戦争で手一杯だったドイツ、イギリスを別にして、アメリカはこの要請にこたえて、あらかじめ、日本をこの地域からシャットダウンするチャンスがあったかもしれません。
具体的に1940年7月、フランスはアメリカに武器購入使節団を派遣して、航空機、高射砲などの供与を国務省と交渉しましたが、ルーズベルト政権はこれを断りました。アメリカの仏印支援拒絶は、国内の戦争準備不足と、依然とした孤立主義ムードによるものと思われます。フランスは最終的に、松岡=アンリ協定によって仏印における「日仏協力」(日本の「占領」ではない)に踏み切り、日本軍の進駐が実現しました。こうしてみると、アメリカが、とってつけたように、日本の進出に「激怒する」いわれはありませんね。
以上は、立川京一「第二次世界大戦とフランス領インドシナ」(彩流社、2000年)から得た知識です。
A.スミス『国富論』(1776)に、次の有名な一文がある。(…)は星野
「これら(アメリカと東インド航路)の発見が行われた時期には、たまたまヨーロッパ人の側の力がはるかに勝っていたため、彼らはそれらの諸国であらゆる種類の不正を行って処罰されないでいることができた。おそらくこれからはそれらの国の住民はより強力になり、あるいはヨーロッパの住民はより弱くなり、世界のあらゆる地域の住民は勇気と力において平等になって、そのことが相互の恐怖心をそそり、それだけでも独立諸国の不正を抑制して相互の権利に対する何らかの尊敬の念をも持たせることができるだろう。しかしすべての国と国の間の広範な商業が自然に、あるいは必然的に伴う知識とあらゆる種類の改良の相互交流ほどに、この力の平等を確立するものは無さそうに見える。」(岩波文庫、三、235頁)
御著『天皇と原爆』の中で、戦時中に和辻哲郎がトマス・ホッブズを援用して、米国でのインデアン虐殺を説明したという紹介があります。だが、ホッブズの名誉のために言わせていただくと、彼は『リバイアサン』(1651)では、人々は「自然状態」では戦争状態に陥るから、自ずと社会契約を結んで戦争を回避するようになるということを主題とした。したがって、前者を推奨したのでないことは明白だが、後者を切り離して、前者の議論だけを開拓当時の米国に当てはめると、ホッブズ思想が先の虐殺を正当化している印象を読者に与えてしまう。こうして、英米思想の残忍性だけが植え込まれてしまう。もちろん、これは和辻の側の問題である。この点を昨年2月12日の本欄で紹介された御著拙評で指摘しそびれたので、補足させていただく。
当時の日本に真の意味での大義名分があれば、上記のスミスの文章などを使って正々堂々と論陣を張れたはずだ。しかし、そのスミス思想の先駆者の一人でもあるホッブズに対する和辻の余りにも姑息で、相手を貶める議論の仕方は、正々堂々たるものとは正反対であるように思われる。
カント『純粋理性批判』に、次の一文がある。
「懐疑論は人間理性にとっての休息所であり、ここで人間的理性は自分の独断論的な遍歴を熟考し、いま自分のいる地方の見取り図を作って、自分の今後歩む道をより確実に選ぶことができる。しかしここは永住のための居住地ではない。なぜなら、永住の地はただ完全な確実性においてのみ……見出すことができるからである。」(B789、以文社版)
先述の懐疑論に対して、カントは自然現象の認識論や道徳実践論を説いていくが、それに先立って、スミスは経済現象の理論的把握を説いていた。