アメリカとグローバリズム(一)

 本年、私の友人河内隆彌さんがパトリック・ブキャナンの二冊の本を翻訳出版した。『超大国の自殺』(幻冬舎)と『不必要だった二つの大戦――チャーチルとヒットラー』(国書刊行会)の二冊である。永年銀行員だった河内さんの翻訳家への転身は一部で話題になった。何しろ高校時代の私の同級生だから、私と同年の78歳である。

 三冊目の翻訳書が彼の手で準備されている。Ian Kershawという人の、原題を直訳すれば『1940―1941年の世界を変えた10の運命的決断』で日本人の運命にも関係の深い内容である。英、独、日、伊、米、ソの各国のリーダーがどういう状況で、どういう決断をし、それが玉突き的に他の国のリーダーにどう影響をしたかを描いている歴史書である。白水社から刊行される予定であると聞いている。

外国の歴史家の大胆にして自由な発想に基く歴史の描き方が羨ましい。敗戦史観とマルクス主義に縛られて世界が見えない視野狭窄の日本の歴史学会の、余りといえば余りのていたらくぶりとつい比較してしまいたくなる。

 さて、河内さんは上記の仕事とは別に、10月某日ある会合で、ルーズベルトとリンドバーグの話をした。リン・オルソンという人の『憤怒に燃えたあの時代――ルーズベルト、リンドバーグ、アメリカの第二次大戦史』を読んで、その紹介と解釈をめぐる講和だった。長い話だったので、それはここに掲示することはできない。四冊目としての翻訳の出版もきまってはいない。

 ただ講和の終わりに河内さんが現代のアメリカ文明について、その歴史と日本との関係について、自由な感想をお述べになった。「アメリカとグローバリズム」と題して、ここに以下3回に分けてその日の彼の感想所見を提示する。

アメリカとグローバリズム(一) 河内隆彌

 以下、「まとめ」のような話に入るわけであるが、何せアカデミズムとまったく無縁の、アマチュアの話なので、「岡目八目」の話になると思う。

ブキャナンの本などを読みあわせ上で二三、意見というか、問題提起というか、感想というか、述べてみたい。それは違うよ、というようなところは多々あると思うが、お聞き流しいただければ幸甚である。

  ―アメリカ、「二項対立の国」?

 リンドバーグとルーズベルトの時代は、米国史上、南北戦争以来の対立の時代と申し上げたが、そもそもアメリカとは「二項対立」で成り立っている国、とも言い切れる。

 まず、日本人の多くが一種憧れを以て見ている、二大政党、共和党と民主党がある。
以下、
保守とリベラル
内陸部対沿岸部(東部/西部)
同じような意味で、レッド・ステーツ対ブルー・ステーツ(選挙ではっきり出ている)
州権尊重主義対連邦主義
国内優先主義(孤立主義)対国際主義(介入主義)
白人対有色人種
1%対99%(金持ち対貧乏人)
Tax-payer対Tax-eater(税金を納める人、消費する人)
同性愛反対派対賛成派
妊娠中絶反対派対賛成派
銃規制反対派対賛成派
死刑廃止反対派賛成派

 などなどである。いま先に出た方が、どちらかといえばいわゆる「保守」であとの方がいわゆる「リベラル」であるが、必ずしも一致はしない。イシューごとに人々はそれぞれの立場をとるからである。

 リンドバーグ対ルーズベルトの時代ならずとも、いまだに、というよりも、はた目には、これらの二項対立は実に激しくなっているように見られる。むしろ、参戦、反戦といった大きな、単純な対立ではなく、もっと細かな複雑な二項対立となっている。世の中がマルチ・プロブレム(イシュー)に時代に入っている。公民権運動以来、有色人種が(ヘンな言葉でいうと)「一人前」となってから様相はきわめて複雑にもなっている。

 しかしいずれにせよ、アメリカ社会がいかに人種的、経済的、社会的、文化的、宗教的に多様化しようと、そして銃砲が世の中に溢れていようと、流血事態で国が割れたり、南北戦争ではないが、州が分離してゆくこともかなり想像しにくい。(大きく、いわゆるブルー・ステーツ、レッド・ステーツの色分けはかなりはっきりしているが・・。)

 南北双方あわせて南北戦争では60万人余という犠牲者を出している。実はこれは手痛いアメリカの学習効果となったのではないだろうか?南北戦争というのは、奴隷制度をめぐっての、ないし工業の北部対農業の南部の戦争という理解よりも、「二項対立」、この場合、連邦優先か、州権優先かで、国家が分裂することもある、ということを血を流してでも防いだ戦争という理解も出来るのではないか?そもそも建国の父たちである、トマス・ジェファソンとアレクサンダー・ハミルトンの州権優先主義、連邦優先主義の「二項対立」を孕んだまま国が始まっている。その後紆余曲折があって、この二つの主義は、立場を入れ替えたりしながら、今日の共和党、民主党の二大政党につながっている。

 アメリカは議院内閣制ではなく、大統領制である。したがって、中間の党との連立政権といったシステムが存在しない。常に白か黒かとなる。もう一つはメディアである。
 
 リンドバーグとルーズベルトの対立も、メディアが率先して煽った嫌いがある。前述した現在の、もろもろのイシューに関する対立もメディアが騒ぎ立ている面が大いにある。何か、アメリカ人は、どんな問題でも、賛成か反対か、「プロ」か「アンチ」の立場をとることをあたかも強制されているかのように見えないでもない。要は一般にとって、右左以外の選択肢はあまり提示されず、世のなかはあたかも二択しかないように思わされているのではないかのように見える。換言すれば「二項対立」こそが、アメリカの特質であり、ダイナミズムの源泉になっているのではないだろうか?

 本日のテーマである、リンドバーグとルーズベルトの、孤立主義者と介入主義者の対立は、大雑把に保守とリベラルの対立だったといえる。政党の色分けでいえば、共和党の主流は孤立主義者、民主党はおおむね介入主義者だった。しかし、ウェンデル・ウィルキーのような共和党員もいた。かれは共和党員としては傍流だったのだが、ヒトラーの快進撃という警戒感の時の流れで、共和党大会で「ウィーウォント・ウィルキー」コールを引き出して指名された。

 ウィルキーは、ルーズベルトとの決戦となったとき、参戦についてルーズベルトとの対立軸を失った。共和党のメイン・ストリームの抵抗にもあって、本選挙では孤立主義者にくらがえして結局ルーズベルトの三選を許した。

 当時の保守、共和党は明白に反介入、反戦だった。戦後の、リベラルの専売特許と思われているようなベトナム反戦、イラク反戦、最近ではシリア介入反対などの反対行動とはちょっとニュアンスが異なるように思われる。軍幹部、上層部が孤立主義者寄りだったことは説明した。かれらは別に平和主義者として反戦をとなえたのではない。そうではなく、外に出て戦うのではなく、自分の国を防衛するのが先ではないか、と言う優先順位を大事にしたのである。そこには紛うことない愛国主義があった。「国民国家としてのアメリカン・ナショナリズム」というものについての、かれらなりの発露だった。

 いま同じ共和党のなかにいわゆるネオコン(新保守主義)と呼ばれる一派がいて、湾岸、アフガン、イラク戦争などの旗振りをした。おかげで、保守の共和党は戦争屋で、リベラル民主党が平和の守護人という見方が内外で定着しているようでもある。しかし第二次戦争を戦う指揮をとったのは民主党のルーズベルトとトルーマンであり、ベトナム戦争は民主党のケネディがエスカレートさせた。オバマもシリア介入のレッドゾーン(化学兵器使用の一線を越えたら攻撃するぞ)というようなことも言い出した。

 しかしどうも、いわゆるアメリカの戦争屋の戦争には、「国民国家としてのアメリカ」についての愛国主義の発露として見るには、何か馴染まないものがある。かつての「民主主義を守るため、戦争を終わらせるため」の戦争というウィルソンのレッテルには胡散臭さがあった。

 西尾氏もどこかに書いておられたと思う。ブキャナンもそう言っている。アメリカは結局枢軸国に対する勝利と同時に、宿願である大英帝国潰しに成功した。アメリカの戦争目的には、国民国家としてのアメリカのナショナリズムの発露というより、グローバル(ワン・ワールド)覇権の樹立にあったということがはっきりしたのではないだろうか?

 この勉強会の一つのテーマであるが、アメリカは、戦後、強大なソ連と共産中国を生み出してしまった。甘さがそこにはあったのかもしれない。そこで朝鮮戦争とか、ベトナム戦争などの代理戦争をやった。レーガン時代にやっと冷戦に勝って、ソ連は何とか片づけた。(近頃はシリアの問題などで、プーチンがまた何かと目障りなことを言っている。)中国とは「対決」か「妥協」か、さきのところはわからない。このところアメリカは内向きになっているように見えるが、グローバル覇権というのは「軍事優位」の世界だけにあるものでもなく、別な形で狙っているのではないだろうか?あとに触れることと関連する。

 リンドバーグたちの孤立主義は本来ナショナリズム、愛国主義であるにもかかわらず、孤立主義という何やら淋しげなマイナス・イメージを伴うレッテルが貼られるについては、ルーズベルトたちが、自分たちの側を愛国者とするために、そのグローバリズムを隠ぺいする方便だったのではないか?孤立主義者はナチ、ドイツのスパイであるなどと喧伝している。いずれにしても、国民国家としてのアメリカの愛国保守の勢力は、リンドバーグの時代で終わったのかもしれない。

 戦後、ベルリン封鎖、共産中国の成立、朝鮮戦争の勃発などでその反動が起こりかかった。マッカーシーが上手にやっていればアメリカン・ナショナリズムは盛り返すことが出来たかもしれない。しかしいま、アメリカの教科書で、マッカーシーは嘘つきで有名人になりたかっただけ、云々とケチョンケチョンである。その点、いま細々と?受継いでいるのが共和党の、真正保守(ペイリオコンサーバティブ)と呼ばれるブキャナンたちかもしれない。

 ブキャナンは、ネオコンを蛇蝎のごとく嫌っている。ネオコンの正体は、イスラエル・ロビーという左翼から発しているらしい。したがって、共和党もいまやリベラルのグローバリストに占領されている?ブキャナンのような真正保守は、アメリカで一定の支持はあるようだが、メディアからは大変に嫌われている。さきの本のおかげで、白人至上主義者(ホワイト・スプレマシスト)と烙印を押されて、MSNBCというTV(ケーブル?)のホストをおろされた。

 いま西尾氏が「正論」で、「そも、アメリカとは何ものか?」いう問題意識で議論を展開されている。まさにアメリカだから、そもそも何ものか、という設問が成り立つ。これがイギリスとは、とか、フランスとか、ないしロシアとは・・ですらも、わざわざ問うまでもなく見当がついてしまうように感じられる。

 南北戦争の30年くらい前に、同じような問題意識でアメリカを見てまわって、「アメリカの民主主義」という本を著したフランスの政治家、政治思想家、アレクシ・トクヴィルは、アメリカの例外主義という定義づけを行った。最初から人工国家として、理念の国家として人々が文字通り「創った」国家であるアメリカには、最初から抽象的な、キレイごとが独り歩きする特質がある。キレイごとと現実との折り合いをつけるためには、ダブル・スタンダードを常用してゆかざるを得ない。アメリカのわかりにくさとは、もろもろの事象に潜むダブル・スタンダードにあるのかもしれない。もちろん、日本にせよ、どこにせよ、どこにでも二重基準はあることはあるのだが・・。アメリカの場合はどこにあるのかわからない場面が非常に多いような気がする。

 もう一つ、アメリカの「国体」とは何か、という問題もある。伝統、歴史のないアメリカ人にとって唯一の神話となり得るのは、いわゆる「建国の父たち」である。独立宣言から始まって、独立戦争を勝ち抜いて、憲法と人権宣言などなどのキレイごとを創ったジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズ、トマス・ジェファソン、アレクサンダー・ハミルトンなどなどのメンバーである。

 保守、リベラルを問わず、水戸黄門の印籠のように、「建国の父たち」の価値観を引き合いに出すとみな畏れ入ってしまう。この辺はいまさら小生如きが講釈しても始まらないが、要は、このご印籠が、ダブル・スタンダード隠しに魔力を発揮するのである。曰く、自由、平等、民主主義エトセトラ、エトセトラのいわゆるアメリカ的価値観である。

 表向きアメリカの理念そのものであるキレイごとの価値観は、きわめて「普遍的な」価値観である。この価値観が、西尾氏が「天皇と原爆」そのほかで説かれる、アメリカのキリスト教原理主義の持つ「普遍性」と結びついて、アメリカを建国の当初からグローバリズムの方向へ向かわせた。中村氏の資料にあるとおり、アメリカの国璽に「New World Order」「e pluribus unum」(out of many, one)(多数から一つへ)と書かれていることは偶然ではない。

「アメリカとグローバリズム(一)」への2件のフィードバック

  1. アメリカの保守というと、たとえば最近もデフォルト騒動で話題になったティーパーティーは、共和党のロンポールの主張に賛同してはじまったとのことでYoutube等で気合をいれた演説が見られます(ロンポールも西尾先生と同じ78歳)。米国でも孤立した個人を結ぶ力としてネットの影響は大きいようです。主義主張は比較的明快です。「個人の高い道徳性や長所は自由によって守られて発展する。米国の歴史が証明してる。米国を信じよ。自由の先にあるのは利己的社会ではなく、真の協同社会である。大きな政府は弱者を守るよりも、この道徳性を破壊するほうに働く」。適当に要約するとこんな感じでしょか。アメリカの健全さを取り戻すという主張に聞こえますが実態はどうなのでしょうか。厳しい格差社会が残り、貧困の相続が続くのでしょうか。著しい能力格差のある米国社会での優生学的政策なのでしょうか。なんともわかりません。精神的自由が栄えると政治はともかく文化が発展するというのはほぼ普遍的真理のように考えられます。ともかくこの結果が、真相を伝えない米国の独善的マスコミの衰退、強欲な金融錬金術師への厳しい非難につながっていけば日本にとっても良い影響と素朴に思います。素人目の観察ですが、アメリカは混迷しつつあり、、政治・経済・軍事等がバラバラになりはじめました。それぞれの分野で最適化をめざすのでしょう。米NSAの盗聴発覚はさらに孤立主義を強めるでしょうか。
    先生やご友人の行かれた小石川高校ですが、今や人気の中高一貫校であり、入試を見ると理数的思考と文章力ですが、かなり数理的思考に力を入れています。数理的思考の訓練された生徒でないと入れないというのは良いことなのか悪いことなのか、たとえば文学の本ばかり読みふけるような生徒は今後なかなか入学できないかもしれませんね。

  2. 2項対立で1番根源的なのは進化論と彼らの言う聖書のどちらかを取るかと思います。読み落としていたら申し訳ありません。
    都立の名門校の復活は実によいと思います。なぜなら裕福ではない家庭の前途有為な子弟に道を開くからです。優秀な人材同士なら互いの切磋琢磨によって学力は身につくはずです。

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