張作霖爆殺事件対談(四)

張作霖爆殺事件対談(二)に図が掲示されました。

共産主義の悪を直視しない歴史家たち

西尾 一九二〇年代、アメリカでもイギリスでも、そして日本でも、共産主義が蔓延します。長野朗という当時の思想家『日本と支那の諸問題』(昭和四、支那問題研究所)の著作によりますと、第一次世界大戦終了後、五四運動で火のついた中国の排日を最初に主導したのはアメリカとイギリスのキリスト教会でした。ところが一九二三~二四年頃を境に、アメリカ人とイギリス人は中国ではむしろ批判されて、ロシアの組織が取って代わったということです。スターリンは当時、毛沢東よりもむしろ蒋介石に利用価値を認めて期待していました。

加藤 蒋介石への期待とは、言い換えれば国民党への加入戦術だと思います。共産分子を加入させると同時に、国民党内の学生、労働者、不満・不良分子を糾合して、スターリンのいうことを聞く勢力を国民党内につくり始めた。張学良の国民党入党も、実はコミンテルンの大きな仕掛けの一環だったとも考えられます。
 
西尾 張学良が中国共産党に入党した可能性があるとされるのはずっと後で、一九三五年ですね。
 
加藤 正式入党の記録は見つかっていないと思いますが、一九三五年十二月以降には、上海で共産党員と接触をしていたという記録が残っています。

西尾 その一九三五年の七月にはコミンテルンの第七回大会がありました。スターリンは、中国での抗日民族統一戦線の形成を指示します。翌年の「第二次国共合作」の布石とも言えます。

加藤 毛沢東、周恩来に対して、当面は蒋介石との争いは矛を納め、日本を共通の敵として戦い、その間に共産勢力を広げ、最後に蒋介石を倒せと指示した。二段階革命と同じ発想です。張学良はこの統一戦線に身を投じた可能性がある。

西尾 西安事件の登場人物―張学良、蒋介石、コミンテルンなどが、張作霖爆殺事件と重なるということになりますね。西安事件というのは、一九三六年十二月、西安に張長良を訪ねた蒋介石が、張学良によって監禁された事件で、中国共産党は蒋介石を殺害しようとしますが、スターリンの指令によって蒋介石は解放されました。これも翌年の第二次国共合作の布石となったと言われている事件です。

 張作霖爆殺後に蒋介石の軍門に下っていた張学良は、西安事件で蒋介石を裏切ろうとしました。あっちについたり、こっちについたり目まぐるしい。何か一つの信条で動き続けるのではなくて、いつでも違う逆の方向にも心をオープンにして相互に裏切りを重ねているというのは支那人の常ですね。

加藤 生き残る知恵なんじゃないでしょうか。軍人、あるいは政治家として彼らの、そういった生き方そのものは否定しきれない。日本人にはなかなかそれが見抜けません。

西尾 こうした混沌が、あの大地にはうごめいていた。残念ながら、我が国政府はそれを見抜く力がなかった。

加藤 インテリジェンスの弱さでしょうね。

西尾 西安事件後に蒋介石が南京に戻ってきた後の国民党の党大会で、何応欽が大演説をぶって、蒋介石が監禁されながらも断固反共を貫いたことを同志の前で喜びの声をあげて叫んだのです。ところが、同時にそのとき周恩来がやって来て、日本と戦うために愛国でいこう、共産党は国民党と対立しないと宣言した。妙な握手をしたんです。
 
そして蘆溝橋事件、第二次上海事変を中国が引き起こし、日本を日支事変へと引きずり込むという流れにつながっていきます。日本の歴史家の記述、特に昭和史と呼ばれるもののどこが間違っているかというと、共産主義の悪、謀略的な動きを直視して歴史を動かした一モメントとして叙述するということをしない。だから、日本はその身が潔白なのに唯一の悪玉国家だったなどと悪し様に言われるという訳のわからないことになるんです。
 
それにしても、河本首謀説ですべて説明できると思い込んでいる日本の歴史家たちの間抜けで怠惰な精神には、あきれ果ててものも言えません。日本は外国と戦争したのですから、外国の文献を調べなければ日本史の研究なんかできません。国内の文献を調べてそれで万事足りるとする歴史家、特に戦後日本の現代史家たちの愚劣ぶり、無能ぶりに私は腹に据えかねていました。
 
先ほど加藤さんは、発見したイギリス公文書館の史料を紹介されましたが、今回、この他にもさまざまな海外の文献に当たられたのは、彼らの虚を突いた業績だったと思います。
 
爆殺事件の首謀者がソ連だったとする『GRU百科事典』も日本で初めての紹介ですね。
 
加藤 モスクワで発見できたのですが、新しい証拠となりました。そのさわりの部分をもってきました。
 
西尾 読み上げますと、「サルヌインの諜報機関における最も困難でリスクの高い作戦は、北京の事実上の支配者張作霖将軍を一九二八年に殺害したことである。将軍の処分は、日本軍に疑いがかかるように行われたことが決定された。そのためにサルヌインのもとにテロ作戦の偉大な専門家であるナウム・エイチンゴンが派遣された。彼はまさに十二年後にレフ・トロツキーの暗殺を指揮することになる。特殊任務は成功裏に終わった」。大枠は二〇〇〇年出版の『GRU帝国』とほぼ同じ内容ですが、二〇〇八年に出版された新しい文書ですね。サルヌインは、未遂に終わった張作霖の第一次暗殺計画にも参加していた。

加藤 その後一時中国を離れてほとぼりをさまし、再び中国に戻ってコミンテルンの意を受けて動く「グリーシカ」という非合法組織を率いていました。このグリーシカが爆殺事件で陰に陽に動いたとみられます。

 西尾 『謎解き張作霖』では、爆殺に関わった可能性があるソ連工作員としてヴィナロフという人物も紹介されています。

加藤 ヴィナロフはサルヌインの部下でグリーシカの工作員です。今回、ヴィナロフの『静かな戦線の戦士たち』という自伝的著作を、ブルガリアの首都ソフィアで入手しました。一九八八年刊行のソフトカバー版にはありませんが、一九六九年刊行のハードカバー初版本には事件に関する記述があります。日本が起こした事件だとはしていますが、「いくつかの運命のいたずらによって」張作霖の列車とは逆方向の京奉線の上り北京行き列車に乗っていて、現場に居合わせ、自分のカメラで写真を撮ったという思わせ振りな記述もあります。

西尾 これだけの重大事件の直後に、反対方向の列車が動いているなどあり得ないでしょう。

加藤 私もこの記述はヴィナロフの嘘だと思います。撮影したという現場写真も初版本に掲載されていますが、海外の通信社が配信した写真のコピーの可能性があります。しかし、「運命のいたずら」などという稚気に満ちた嘘を交ぜながら、事件への何らかの関与を手柄として明らかにしている可能性は否定できないと考えています。

つづく
『正論』2011年7月号より

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です