3月14日に安倍首相は正式に河野談話の見直しはしないと表明した。その少し前に菅官房長官が談話の成立過程を政府内研究会をつくって検証すると言った。ワシントンのサキ報道官はこれを承けて首相の決定を「前進」と評価し、今後とも歴史問題を解決するよう日本政府を促していくと語った。すると菅官房長官は日を置かずに、談話の「検証」はするが、その結果いかんに拘わらず「見直し」はしないと重ねて強調した。
日本ではみんな穏和しくしているが、これは大変な決定である。日本の名誉はこれで永久に救われないことになる。外地で慰安婦像の撤去のための地味な運動をしている日本人愛国者たちに、安倍さんは会わせる顔がないだろう。
オバマ訪日を前にしてこの動きがきまっていくプロセスのかたわら、ウクライナ問題が進展し、クリミアのロシア支配が決まった。
私が当ブログの更新を怠っているときというのは、雑誌〆切りの原稿に没頭しているときと思っていたゞきたい。慰安婦、南京、侵略概念という日本を苦しめる歴史のテーマと、ウクライナでアメリカが有効な手を打てず無力をさらし、中国が西太平洋を狙って不気味な沈黙を守っている情勢とはぜんぶつながっている。
私は『正論』5月号(4月1日発売)に「無能なオバマは日中韓でもつまづく」という論文を出した。これは表紙に出る文字で、目次は少し違って、「ウクライナで躓いたオバマはアジアでも躓く」である。本当は後者が私の立てた題である。長過ぎて表紙に用いるのに具合が悪いので前者の題にしたと編集長が言った。
私は慰安婦=河野談話問題とウクライナ=オバマ問題を一つながりのテーマとして扱ったので、毎日動いていくニュースを追う関係で時間がかゝり、当ブログはしばらくお休みになった。
もう一つのより大きなテーマをこの論文にからめている。その話を少しさせて欲しい。フランクリン・ルーズベルト大統領の対日開戦の責任と中国を共産国家にしてしまったアメリカの戦後処理の失敗責任について、アメリカでも研究や議論が進展している。気鋭の歴史家・渡辺惣樹氏の『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』(2013、草思社)は新しいアメリカの歴史の見方を紹介している重要な著作である。
ところで私の「GHQ焚書図書開封 9」『アメリカからの「宣戦布告」』は3月のうちに全国の書店に出始めている最新刊で、アマゾンではもう売り出されている。渡辺さんの本と私の本とは結論が近づいている。それは何を意味するか。
日米開戦の責任をめぐる戦勝国の今の認識と敗戦国の当時の認識が接近してきたのである。敗戦国の見ていた歴史の真相を戦勝国も70年経って認めざるを得なくなってきたのである。
当ブログの読者の皆様へ申し上げたい。『正論』5月号にすべて詳しい、突っ込んだ分析を展開されていますので、まずそちらを見て下さい。当ブログは私の考えの展開の場ではなく、私の活字世界の活動のご紹介の場です。
私の考え方を正確に知っていただきたいので、以上のようにお願いする。
【日本外交の敗北】
またしてもロビー活動と同様、日本の対南朝鮮外交は敗
北です。南朝鮮との首脳会談は無条件で、という日本の
方針は、日本のみ譲歩の日米韓首脳会談実現決定で、崩
壊しました。これには、クリミア情勢が大きな要因と
なっています。現在のアメリカの最優先外交課題が、対
露問題になってしまい、極東に集中できなくなりました。
そのための、アメリカの最適戦略は、日本のみ譲歩する
状況の形成です。そうすれば、日本と南朝鮮の関係が改
善し、北朝鮮に対する連携も改善されます。したがって、
水面下ではアメリカの、オバマ訪日に関連付けた強い要
請(ほとんど命令)があり、日本が譲歩したと言えます。
これで、日本だけ損して丸く収まり、アメリカとしては
一安心です。外交では、自国国益追及は当然のことであ
り、情でなんとかなると思い込んでは、外交はやって行
けません。
また、クリミア問題でもアメリカは、中立的な中国のロ
シア接近の阻止のため、尖閣問題での日本への配慮は弱
まりそうで、この問題ではさらに中立的になります。最
悪の場合、ここでも日本の譲歩を要求してくるかも知れ
ません。ただでさえ、近い将来の世界一の経済大国との
経済関係重視のため、中国寄りとならざるを得ないのが、
アメリカです。その上、アメリカのシンクタンクへの年
数戦億円もの中国資金流入で、シンクタンクも中国寄り
となっています。
日本がなぜ中立外交を余儀なくされるかの大本は、現憲法の堅持以外に理由はありません。その中で、軍事介入をどのように解釈すべきかという議論を今国会で議論され始めていますが、その議論が、憲法の根本を改正しようという流れまでには至っていない現状であります。たぶん安部総理は、段階を踏まえてそれに進ませようという腹積もりはあるのかもしれませんが、今それを立ち上げるのは拙速だと判断している感じがします。
では何が組み立てられればその段階に話を進めさせることが可能なのでしょう。アメリカの世界治安能力が弱体化した時なのか、それとも偶発的な世界戦争が勃発して、国家安全が最優先されることが世論の圧倒的多数を示した時なのか。
この事例を決断の最優先だとしたら、間違いなくその時点で日本は何らかの外交的ダメージを受けているはずです。更には、本土安全も脅かされてしまうことも、絶対無いとは言い切れません。
現憲法下では、安全保障という観点が全て日米安保に委託されている状態ですから、有事の際、全く機能しない軍事体制にあります。
集団的自衛権が何故か外交上先に持ち上げられていますが、本来なら、個別的自衛権が確立されてから議論されなければならないものであるはずです。
後先が全く逆なんです。
この辺の理解力は、おそらく国民の80%近くがされていない問題だと思います。なにせ集団的自衛権さえ半分近くがその本質を理解していないでしょう。
いや、本来集団的自衛権というのは、難しい問題なんです。
何故なら、今回のウクライナ問題を見ればわかりやすいと思うのですが、日本が今一番関心のある国はロシアです。つまりは一番仲良くしたい国はロシアだということです。これが本音です。そんな折に、この問題が浮上しました。世の中そう上手くは行かないのが常だとはいえ、まさかこんな風に逆風が起きるとは、予測ができなかったのは事実でしょう。しかもその逆風が増すばかりです。これは「油断」の一部だと全国民が認識しなければならない問題です。
ただ、元々に立って考えてみれば、ここで重要なのは個別的自衛権の確保に尽きます。日本が独立国家であることを全国民が認識しているならば、対処は違ってくるのです。ところが、政府首脳からしてその問題を後回しにしようとしているのが現状で、アメリカからの完全脱却を声高にする意見はほとんど見受けられません。心情にはそんざいするのかもしれませんが、表には出てきません。
この理由はつまりこの問題の対処に完全に迷いが存在しているからです。
結局日本は世界政治の中では「奇形児」的存在でしかない。それはつまり特別扱いされる側にいることになり、まっとうな扱い方をされていないという世界の基本理念がそこに見出されています。
知らぬが仏ではありませんが、日本人はそこにまったく認識を置けない民族に成り下がったと言うべきでしょう。
様々な過去の問題が存在しているのは事実ですが、そこに爪を立ててぶらさがることが、いかに問題ありきかをもう一度ここで再認識しなければなりません。
ただ唯一目があるところを語らしていただくと、日本の軍事力をアメリカが一番怯えているという事実です。しかも、それを証明するかのようにアジア諸国やロシアまでが、その実力を認識しているという事実。
この世界認識は揺るぎないものであるわけですが、それを封じ込めようとしているアメリカの身勝手さが、近い将来問題化されることだって有りうる話です。
日本はその感情が高まる前に準備を怠らないことです。
まだまだ、日本人は世界的軍事勢力の認識を理解しきれていません。経済的勢力でさえ松枝まで轟いていない感じがします。
和食文化が無形文化財に認定されて浮き足立っていられるような状況ではないのです。
和食の基本は「引き算」なんです。つまりいかに無駄なく味付けを心がけることができるか・・・が問われる料理なんです。これが和食の基本です。そしてその味付けの元となる「ダシ」は料理の基本なんですが、料理の中には残しません。だから「引き算」なんです。
澄み切ったダシが和食の全てに活用されます。これは日本食文化の真髄です。ではなぜそんな食文化が受け継がれてきたのか、ここからが色々いけんされるところでしょう。
ですので、ここからは持論になるのですが、和食のイメージがどんなものかをまず思い浮かべてみてください。色々あるでしょうが、その基本は「美しさ」だと思うんです。美しい「食」を理念としている。これが共通した和食のイメージだろうと思います。日本人は「美しくありたい」と、この食べ物からも教わっている民族だと断言していいでしょう。
しかも、けっこう今でも通用している「食のマナー」がありますね。昔の方から見れば「アチャーっ」かもしれませんが、でもまだまだ日本人は「食のマナー」が成されている方ですよ。その証拠に、ご飯を食べるときはお茶碗を左手に持って食べますし、味噌汁もそうですよね。これは和食の基本姿勢ですから、80点は与えられて良いと思います。
韓国人はどうですか。みんなテーブルにそれらを置きっぱなしにして召し上がりますよ。どうやらそれがこの国のマナーなんだそうですが、残念ながら韓国料理はまだ世界遺産には登録されていないわけですから、文化的にどうはんだんされるべきなんでしょうか。
さて、私がなにをここで語りたいかと言いますと、日本人は本来「美しさ」を日頃から鍛えているという点をまず言いたいわけです。「美しさ」を保つには、「混じらない」ことが要素の一つです。
なんとなくご理解いただける段階に差し掛かったかなと思うのですが、日本人はこれが信条だと思います。ただ、それだけで世界と接することは無理があることは誰しもが認識していることでしょう。
でも日本人の信条はそこにあることは間違いないと私は信じています。
そんな我々がどうやって世界と渡り合わなければならないのかというのが、つまりは問われているのです。
世界の食文化は基本的に「足し算」です。何かが足りなければこれを足して補えば良い・・・みたいな味付けです。ですからいろんなスパイスがどんどん付け足されて、複雑な味に変化していきます。
日本人はこんな料理を根本的には嫌います。まずそれがあります。しかし、だからといってそれらをみな退けるわけではなく、どうやったら日本人に馴染める味にすることができるかで、その食文化を受け入れるわけです。
この全てを受け入れることが可能な食文化が土台にあったことが、色んな文化を受け入れたり拒んだりする指標だったのではないかと、私は思います。
宗教的な社会性の問題はそれと隣接にあったと想像します。
食文化の高さが当時の宣教師などには忘れがたい文化意識につながっていったんじゃないかと想像します。
食べ物は民族の二番目の「顔」です。わかりやすい材料なわけです。
つまり、食にこだわることは、民族意識のこだわりの最前線です。
ところが、日本人はそれを「一番目」にかかげることで無用な「安心感」に浸ろうとしていませんかね。
ここになさけない思いが湧き上がるわけです。なんともなさけない。
おそらく先の大戦のような現実は、今どの国も望まないでしょう。しかし、そのような希望があるということは、大戦が起こりうる可能性を裏側から証明しているという、人間の心理の真実に近い心理の現れなのかもしれません。回りくどい言い方ばかり続けてしまい恐縮ですが、「安全の絶対安定供給」なんてものがありえないことを言いたいのです。
私は毎日食べ物をお客様に提供する仕事に従事していますので、そこで思う私なりの考え方を述べさせていただきましたが、これを書いている最中でも、より食文化と世界情勢に対処する為の外交のこの二つのステージが、どうにか混同されないようになってほしいと願う気持ちはより一層高まる思い出あります。