村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十三回)

66)自由とは役割を知ること。自己をつつむ共同体の力学全体への最大の想像力を働かせつつ、その枠のなかで自己の役割に徹し、自己の利害と全体の利益との調和のなかに自由を見出していこうとする忍耐強い意志。

67)人間は自己を統御するなにものかを持たないかぎり、自らの力だけでは、自己自身をよりよく統御することさえもできない。

68)人間への信仰、・・・・・進歩への希望、「解放」という概念はことばの厳密な意味においてエゴイズムのはてしない拡大とアナーキーにしか通じていない。精神的なアナーキーと全体主義は一つの事柄の二面である。

69)ヨーロッパには、進んでいることは価値ではない。むしろ場合によっては悪である、という思想がある。

70)疑ってばかりいてはなに一つ行動ができないのは、疑っているのではなく、はじめから信じる力をもたないから、なんでも信じ、なんでもゆるせるふりができるのだ。

出展 全集第一巻 ヨーロッパの個人主義
66) P339上下段より
67) P338下段より
68) P338上下段より
69) P348下段より
70) P349下段より

「村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第十三回)」への1件のフィードバック

  1. 調子にのって毎度走り書きみたいで恐縮です。
    「自由と宿命・西尾幹二との対話(洋泉社)」を読み直して、もうひとつ痛烈に思い出したことがあります。
    西尾先生との対話で日米貿易紛争もふれられていたので、個人的には1980年代を思い起こすと日米間の貿易紛争が加熱するにつれ、欧米から日本たたきが加熱して日本を変態文明扱いにした日本批判の嵐、そしてそれに迎合する日本のマスコミや評論家も多かったように思います。逆にこれからは日本の時代などと舞い上がった評論家もいましたが。とにかく当時知識のない人間にとっては、エキセントリックな袋叩きに見えました。
    現在の韓国や中国からの日本批判は独善的な性質が自明だから日本人もあきれている部分もありますが、当時の欧米からの日本批判は近代文明を生み出したという自負を背景にして自信満々にもっともらしい理屈をこねまわして冷徹に反復攻撃を行い、それを日本のマスコミが得々と紹介したものだから、日本人は、世界有数の経済大国でありながらあーやっぱり日本は遅れた国家だったのだと自信喪失して孤独な心境に追いやられていたと思います。そのなかで日本人の反論としてこれは間違いなく当時ダントツだったろうと確信したのが、雑誌掲載後随分経ってから読んだのですが竹山道雄先生の「外国人の日本文化批判 ~日本人は何故こうも誤解されるのか~」でした。この文章の特徴は透徹した知識と思考力をもとにして、欺瞞的で抽象的な議論を排除し徹底的に公平に議論を進めたものでした。竹山氏は日本の深刻な問題や日本も逃れられない世界共通の悪弊を決して否定しているのではなく、欧米の異様な偏見のみを日本人の誰でも理解できる表現で徹底的に批判していました。これを書いてしばらくして竹山氏は亡くなったようですが、これは日本人が永久に記憶すべき、そして外国への反論として模範とすべき見事な論文と確信しております。

    さて竹山氏は欧米優越感からくる日本批判に徹底的に反論を加えましたが、竹山氏がヨーロッパを全面的に尊敬してないかというとそれは違っているとました。これは、その後著書群を読むとよくわかりました。私はなんとなく目的意識はゲーテの本質を理解するためには竹山道雄がよいだろう、ニーチェを理解するのは西尾幹二がよいだろうと安易に考えるようになっていたので、非常に怠惰な読者ですが、巨大に思えたヨーロッパを理解したいという動機を一応もっていましが、竹山氏の本からはヨーロッパについていろいろ学びました。特に参考になったのは、戦前に日本にむかえたドイツ哲学者のシュプランガーとの交流でした。若くしてドイツの大学で頭角をあらわしたシュプランガーはヒットラーから嫌われて日本に飛ばされたということでした。竹山氏は戦後もシュプランガーが民族主義者だという風評を一蹴し、シュプランガーこそ一級のドイツ知識人とみなしていました。さほど知識がない者がえらそうですが私もまったく同感でした。特にシュプランガーの鋭い米国流行の教育学批判などは、さすが高度な知識人であるという印象をもちましたが、内容の一部では、ああなるほどナチス台頭を許してしまったと誤解されかねない、あるいは攻撃されかねないという要素があるという風にも思いました。現代では性格分類の心理学くらいしか著作が出回ってないのは残念です。そしてゲーテやシュプランガーなど卓越した知識人の背景が理解できたような気がしました。ヨーロッパの知識人は、ギリシャローマ文明、それとユダヤキリスト教文明というまったく水と油のような二つの文明をとりこみ、その睥睨から両者バランスを保つために高度に批判的で自立的な精神を鍛え上げたのではないかと思いました。

    そして現代につながるヨーロッパの精神構造は次の3つに分裂していると思います。
    A.キリスト教のみを真の宗教つまり絶対宗教とみなしてそれを基礎に置く勢力
    B.キリスト教も含めて宗教全般を認める、いわば理神論的というような勢力
    C.宗教全般に懐疑的(だが排除せず慣習として放置する)無神論または不可知論の勢力

    誰が見てもそう思うかもしれませんが、主にこの3つに分裂して、それぞれが世界にむかって独自の公理系をつくりあげており、互いに対話しても亀裂はごまかしようがない、けれどもこういう本質的な信条を露骨に表明すると差しさわりがあるので、この3つをうまくパッケージして世界に対話能力ある総合的なヨーロッパをアピールしているのではないでしょうか。
    またこれも誰でもそう思うかもしれませんが、上記のうちAとCの勢力が将来増大していくと、ヨーロッパの精神は偏狭となっていくのではないかと推測しています。どちらかというとゲーテのようなBの層が厚く、AとCの増長をおさえていけば精神的分野でヨーロッパの世界的影響力も増していく可能性があると思いました。まったく下世話でくだらない想像かもしれませんが、一般庶民の考えていることです。

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