渡辺望による全集九巻の感想(三)

 これらの問題にさらに関連する全集収録の評論が「現代小説の問題」の二葉亭四迷論でしょう。三島やサルトルは近代小説の終点に近い時点から近代小説の限界を示したと思いますが、その逆、ヨーロッパ型近代小説の始点の時点にあった二葉亭は、近代小説の方法論を懐疑していました。「現代小説の問題」では、苦渋に満ち た作風でやはり近代文学小説の困難に直面している大江健三郎や古井由吉などについて触れたあと、二葉亭の前近代文学の性格について、「引けめ」と「不信感」をもって次のように説明されています。

 ・・・『浮雲』は、近代小説の先駆として、客観描写や写実という目標を一直線に実現したものでもないし、文語体の伝統的文学を上位に置いていたために文語の修辞に依存したのでもない。まさしくそのどちらにも「不信感」と「引けめ」を感じていた。近代小説を実現しているような、いないような、結局小説としても未完に終った中途半端な不均衡の上に、この作の独自性と、二葉亭の理想と絶望があったのである。                                                                                                               「全集九巻」p44    

 
 二葉亭は近代小説を懐疑して作品を書いて、しかし作品としては成功をおさめませんでしたが、しかし文学の世界にはいろんな実験作があるもので、たとえば坂口安吾の『不連続殺人事件』なんかは(純文学ではないですが)
 近代小説の枠組みをまったく逆手にとった傑作です。私はこの作品をはじめて読んだとき、「こんな小説が二十世紀にあるのか」と心底仰天しました。何しろ、作者本人が作品内でときおり顔を出してライバル作家に謎解き挑戦状をたたきつけたり、警視庁刑事に平野雄高や荒広介といった怪人物が登場したり(坂口の文学仲間の平野謙、埴谷雄高、荒正人、大井広介らの合成人物)、近代小説の客観主義を完全に無視して展開するからです。そして話の流れの先がまったく読めない。けれどこんなに面白い小説はない。これは前近代文学に詳しかった坂口だからこそ可能な方法論だったように思えます。
 氏はこのようにも言われていますが、ここで言う「ユーモア」は、坂口の『不連続殺人事件』の方法論に私が感じた面白さとたぶん同義でしょう。

  ・・・文学を信じない文学精神ということがよく言われる。そこには事実への絶対の信頼があり、他方に、在来の因襲的文学形式への信徒がある。又、事物にも可能な限り接近しようとする分析的意識と、事物から剥離していく一方の主観的修辞の爆発、といった両極端も存在することをすでに見てきた。このような時代に文学における精神の自由とは何であろうか。私たちは明治の初期の二葉亭や漱石のユーモアに『ドン・キホーテ』や『阿呆物語』の哄笑に学ぶべきところがあるのではないだろうか。それは簡単にいえば、どうせ面白い話を読んでいるのだからと読者も安心してお話の嘘を楽しむことのできるという意味で、いかにし てお話を真実らしくみせかけるのかという無理なこわばりのまだ発生していない段階のあるべき自由な姿の一つなのである。

                            「全集九巻」p45

 近代小説と書き手の問題の話に戻りますと、三島のような鋭敏な感性の持ち主にしてみれば、近代小説が、形式なんかにとらわれているうちに、近代社会の現実の方がどんどん速度をあげて小説から取り残さされていってしまうという焦慮感があったに違いないと思います。サルトルの「優等生」ぶりとは正反対の反逆児ですね。たとえば戦後派文学という一群が文学世界を支配し、戦争や国家や人間性、ニヒリズムやヒュ ーマニズムの問題をそれら「価値観の崩壊」という形で主題化しつづけるという時代がありました。氏は武田泰淳の小説を取り上げて「戦後作家くさいなあ」と言われていますが、これは見事な皮肉です。私は「近代文学」という言葉を繰り返し使ってきましたが、実際に日本の文壇を支配しつづけたのは さらに狭い「戦後派文学」という概念にすぎなかった面もあるからです。

 戦後派文学は困難な思想的格闘をしているようでいて、実は作者・作品・問題意識の間に安定した構図があって、その構図への依存が戦後派文学を可能にしていたのでした。この構図が戦後、二十年、三十年と経過し、戦後社会が抽象性を高めるとき、アイロニカルな喜劇が起きることになります。近代小説の「一つの視点」の方法論ではとらえどころのない現実が次々に出現し、小説を書く意味がわからなくなってしまう、ということが起きたように思えます。この問題意識を作品化した開高健の『夏の闇』を氏は全集九巻の「日常の抽象性」という評論で取り上げられ、戦後空間の抽象性への直面を描く開高の正直さを評価しておられます。しかし文学文壇の世界は、開高の 正直さの 世界を通り越して、詐術をもってしても延命をはかろうとすいる方向に行きました。

 だったら小説を書かなければよいのですが、近代小説はそう簡単に縊死するわけでもありませんでした。かつて、「価値観の崩壊」ということで、作品のテーマにしていたさまざまな世間的現象、世間的限界、そういった「崩壊対象」を、自分の作品の中に無理に再構築するという行為の作品が出現することになる。小説という形式を生かすために、「崩壊対象」を小説内容で虚構するというこの逆転が、アイロニカルな喜劇でなくて何でしょうか?日野啓三や加藤幸子の作品をとりあげながら、氏はこの方面での近代小説の行き詰まりを「仕切り」という単語を使って説明されています。

  ・・・戦後派の作家たちは、崩壊感覚をモチーフにしてはいたが、今からみると安定し   た「仕切り」の内部に生きていたのだともいえる。古い道徳や秩序に「仕切」られていたが故に、その崩壊の衝撃はひとしお絶望的に、黒一色に塗りこめらる外なかったのであろう。現代の作家たちはあっけんからんとした何もない明るい空間に抛り出されているために、何が起こっても衝撃はなく、むしろ人工的な架空の「仕切り」を必要とするのだ。
                                      
                                                      「全集九巻」p328

 氏が日野啓三の『天窓のあるガレージ』を取り上げているのはこの評論集全体の最も優れた卓見の一つだと思います。私の周囲の文学仲間の習作的小説のほとんどが(日野のこの小説を読んだこともないのに)きわめて類似した物語のパターンを紡ぎだしていたのを思い出したからです。「仕切り」をあえてつくりださなければならないような近代小説の閉塞は、(小説家を志す人間にとって)まったく全体的現象だったということができるのです。

 安部公房に対しての次のような好意的な評価にも同感です。おそらく、戦後作家の中で、近代小説、戦後派文学の限界に最も意識的な作家は彼だったのではないでしょうか。安部公房は近代小説の限定など無視して小説を書いていますし、そして何より、「崩壊対象」の再構築という文学者の詐術を、ひどくむなしいものとして考えていることにおいて、ある意味、もっとも鋭いリアリスト(安部公房の作品はどれも反リアリズムの極致ですが)だということができるでしょう。

  

・・・深刻な題材なのに、あまり悲壮感がなく、乾いた即物的な明るさが漂っているの   は、まさに「反抗」など成り立たないわわわれの時代に最もふさわしい表現形式が注意深く選ばれていることを示している。どのページにも笑いがあるが、その笑いの裏には作者の測り知れない悲しみがこめられている。脱れようにも脱れられない状況を再現するためには、怒りではなく、胸を圧すユーモア以外ないのであろう。

                                                       「全集九巻」p324

 近代文学小説が現実に力を失っていった背景には、私は小説の書き手の多くが、本質的にはかなりの欠点をもっているといわなければならない近代小説の形式を模範なものとして依存しつづけた結果、社会的現実があって小説作品がある、という本来の関係も見えなくなってしまったことがあると考えます。そしてついに、氏の言われるように、小説内部での「仕切り」をつくるという、社会的現実を小説内部で虚構するという逆転現象まで起きるに至っているのです。これは近代小説という「最後の砦」の中の「最後の姿」を描き出す一つといっていいでしょう。

 取りとめない感想になってしまいましたが、それはこの全集九巻のかかわる分野が広すぎて、まだまだ私に消化しきれていないことによります。これはあくまで第一段階の感想であり、時間が経過し、再読するに連れ、第二、第三の感想があらわれてくると思います。
 

(つづく)

「渡辺望による全集九巻の感想(三)」への1件のフィードバック

  1. >山本様
    コメントが二つなぜか消えてしまいました。
    申し訳ございません。

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