渡辺望による全集九巻の感想(二)

 たとえば「『平家物語』の世界』という全集収録の西尾氏の評論についてです。ここで語られている巧みな近代文学批判の妙は、私のかつての文学仲間の文学崇拝の対極にあります。私の文学サークル、文学仲間で、小説の模範的テキストは一貫してマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』でした。その理由について、小説内部の時間操作の技術力を極限にまで高めた作品にある、というのが定説でした。しかし私はその見解に、当時から今にいたるまで、一度も賛成できないでいます。

 もちろんプルーストの小説が凡作ということではありません。しかしその小説内部での時間の流れの作り方は、特に斬新なものではないと『失われた時を求めて』を初めて読んだときから思いました。一例をあげれば、少なくとも近代文学とさして変わらない歴史の長さを有しているサイエンス・フィクションの世界に、『失われた時を求めて』を超えるような、時間認識に関しての名作はたくさんあります。

 私のそういった見解はしかし、「サイエンス・フィクションは小説内部の世界をさまざまな小手先の物語装置に依存していて、作者の視点が曖昧にされているけれども、プルーストの純文学作品は作者の一つの視点以外の何物にも依存していない」とよく反論されました。たとえば、『失われた時を求めて』より早くに書かれたH・G・ウェルズのSF作品は「時間旅行」というSF的小手先に時間認識を預けてしまって、作者の「一つの視点」を放棄しており、作品全体にあるのは虚構の時間認識でしかない、というふうにです。

 しかしこの「一つの視点」ということこそが深く考えられなければならない問題なのです。全集九巻には収録されていない西尾氏の三島由紀夫論「不自由への情熱」の次のような箇所を引いてみましょう。

 ・・・自分が歴史を構成するのではなく、歴史の中へ自分が這入り、自分を超えたある大きな目に見えぬなにものかの内部で、自分自身の姿が見えなくなる、それが「物語」であり、「叙事」の精神である。『戦争と平和』も、『ブッデンブロオグ家の人々』も、『静かなドン』もそのようにして書かれた。物語に必要なのは偶然性であり、自分がどこに連れていかれるかわからないような出来事の自然な生起、偶発的な生起、いいかえれば、作者が叙述の中なかで自分が見えなくなることがまさしく小説というもののもっとも本質的な性格に外ならないであろう。
 

 これは小説というものの矛盾した性格をたいへんよく言い当てている言葉です。小説を書き始めるときに、作家はその世界に入っていく自分を明晰に認識しているにもかかわらず、いつのまにかその自分が見えなくなっていってしまう不明晰に陥り、歴史=時間の中で自分を見失う。しかし本当に見失ったのではありません。なぜなら、作家は、書き始めのときにも増しての明晰さをもって、小説=叙事の最終章を書き記さなければならないからです。自分を見失っていたプロセスが、実はすべて明晰な意識の見えざるコントロール下におかれていたのかもしれません。いずれにしても、小説の中での自分=「「一つの視点」の喪失と回復のドラマ」が近代小説の原 則なのであって、これ を演じられないと近代小説というものは成立しないことになります。だから、明晰すぎる意識の持ち主であった三島由紀夫は、「豊饒の海」で重大な破綻をきたした、と氏は「不自由への情熱」で語られています。

 私の周囲の文学仲間のプルースト好きについていえば、これはサルトルの長編小説の失敗のようなものだと思われます。中村真一郎がサルトルについて、「サルトルは短編は面白いのに、長編になると小説の骨組みしかなくなってしまう」といい、「小説とは自分が見えなくなってしまうようなところにおいて初めて可能になるということがサルトルにはあまりわかっていない。これはサルトルが頭がよすぎるからなのだろうか」と評していたことがあります。サルトルが小説に関して大変な勉強家で、プルーストの手法を繰り返し学んで、自分の長編小説の模範としていたことは有名です。

 しかし勉強すればするほど、サルトルの長編はつまらなくなっていく。「骨組み」があるだけで「肉」がないからです。この「肉」とは何かといえば、「「一つの視点」の喪失と回復のドラマ」、自意識のドラマです。しかし意識の絶対優位の実存主義を説くサルトルもまた、三島とは別の意味で明晰すぎる意識家であって、不明晰を信じない人間でありました。プルーストを技法的に学んでも、この意識の問題を乗り越えない限り、近代小説はどんどん不可能になっていってしまう。私の当時の周囲の文学仲間とサルトルが似ているなあ、と思うのはそこのところに外なりません。サルトルは「文学の優等生」なのですが、しかし優等生ということはイコール名作者になるとは 限らないのが文学 の世界なのです。そして何より言いたいのは、ブルーストは成功した大河叙事小説の書き手であっても、トルストイやマンに比べると、技法が目立ちすぎる作家の一人であって、「模範」とすれば眼高手低の作風を呼び込みやすい、ということです。

 だったら、いっそのこと、近代小説の枠組みから離れてしまえばいいのではないか?たとえば西尾氏の平家物語論の次の部分は、そんなふうに考えていた当時の私の見解とまったく同じものです。近代文学としての条件を欠いていることが、物語として「劣っている」ということは少しもありません。『平家物語』がもっている、近代小説を超えた面白さをこれほど明瞭に説明した文章を私は他に知りません。

  ・・・『平家物語』の作者は、あるときは平家一族のこころを知っているかのように説明しているし、またあるときは、木曾義仲の、あるいは鎌倉殿頼朝のこころを知っている立場に立ってこれを語っている。それは、きわめて視点を自由にした、一つの立場にとらわれない、常識的な発想に立っているのであって、そのつど、現実の立場の変化に応じ、わりに責任なく動いていく一般人の視点というもので、事柄を素朴に表現してしまうところがあるためと思われる。一例をあげれば、壇ノ浦で家臣たちが自決し、二位殿が安徳天皇を抱いて入水して、なお決心のつかない、平家最後の頭目衛門督宗盛公とその子に対し、作者はその場面ではかなり冷たい目で、おろおろしている宗盛父子を臆病者として描き出しているところは誰も知っていよう。この場面では、宗盛父子が命を惜しむのはただ浅ましいものであって、海へ突き落とされても、聴き手は少しも不自然を感じない。しかしその三段あとで、宗盛父子一行が京の大路を引き廻される場面が語られる。ここで父子に対する作者の感情は一転しているのである。

                                        「全集九巻」p93

 「一つの視点」とは「神の視点」ということと同義で、小説の書き手は小説の内部の中では全能の存在になることができる。全能の存在だから、自己喪失しても最後はそれをとり戻すことができるという意識のドラマも可能になります。『失われた時を求めて』を小説の極意と考える識者は、その「神の視点」を小説の作者が有していると考える人でしょう。そういう意味では「一つの視点」をもちえない『平家物語』は近代小説としては失格です。

 しかし、「神の視点」は「一つの性格」「一つの感情」を必ずしも意味しない。さまざまな、矛盾した顔と人間的感情をいっぱいもったインド神話のような「神」がいてもかまわないはずです。激情にかられるかと思えば不意に優しく人間(人物)に触れる神=作者が、平家物語の背後にいる。『平家物語』は複数の作者の可能性がよく言われますが、もしかしたら、単一の作者がさまざまな人格を演技しているのかもしれません。平家物語は近代文学の前提に何も関心がないがゆえに、先生いわく「そのために、『平家物語』は雑多で豊富な内容と形式をかかえることが可能になった」(全集p94)のです。たしかに叙事詩も歴史論も宗教論も『平家物語』には豊か過ぎるほ どにある のです。

 ここにおいて、「近代文学の可能性」が「近代文学の限界」にテーマを変えることになります。

 『平家物語』の後白河法皇に対して西尾氏の描き方も非常に面白い。後白河法皇は、『平家物語』で表だった登場はあまりなく、発言もほとんどなく、様々な政治的行動を起こすけれども、その内的世界を『平家物語』の作者はほとんど描こうとしない。しかし描かなけれ描かないほど、その存在は異様に肥大していき、『平家物語』の主人公と思わんばかりの存在になってしまう。後白河法皇のこの「沈黙」もまた、「一つの視点」のコントロールの下の描写と告白に依存する近代小説のアンチテーゼ足りうる、と私は氏の評論を解釈しました。たとえば西尾氏は次のように言われています。
 

・・・もっとも注目すべきことは、『平家物 語』の作者が、後白河法皇の隠れた動機や術策の裏側に目を注ぐということをほとんどしていないことである。いや、それを術策として強調したことさえもない。当時のひとびとにとってこれは思いも寄らぬことであったのか、意識してそうなったのか、一考を要する問題の一つではある。が、いずれにしても、『平家物語』の叙述に限ってみただけでも、彼は敗れていく家臣にあるときは涙する温情家であり、またあるときは、危険の芽をいち早くつみとるべく、昨日の味方を敵にし、そしてときに、昨日の敵にやすやすと院宣を与える。そしてその立場はつねに強い。つねに残っている。これはまことに謎めいてみえる。『平家物語』は法皇の内的動機を説明せず、 矛盾した外的行動をただ現象的に記録してばかりであるが、そのためにかえって謎は深められるのである。

                                        「全集九巻」p95

 『平家物語』の後白河法皇の不気味な存在感は、私には三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を連想させます。『サド侯爵夫人』の「主人公」は、実は作品内部に一度も登場しないサド侯爵に他ならない。彼は物語を表面的になぞれば、登場人物の女性たちによって断片的に語られるだけの存在に過ぎません。しかし姿を見せなければ見せないほど、彼の存在感は物語内部で大きなものになっていく。物語の最後に、公爵夫人ルネの悲劇の拒絶によって 、彼は物語世界から最終的に登場を拒まれるのに、その存在はついに得たいの知れないものにまで化していきます。

 描写や告白を使うことのない後白河法皇の存在の展開は、西尾氏の言葉を借りれば「伝説」のようなもので、少しも客観的な記述に依存していません。しかし神という見えざる存在を主人公とする宗教神話を考えれば明らかなように、「伝説」の力はあらゆる物語世界の頂において私たちの観念を支配しています。「伝説」の力こそ、物語作者が究極的に欲する力なのではないでしょうか。しかしいつのまにか「客観的描写作品」を描くような職業意識に沈んでいってしまうのではないでしょうか。

 三島という人は明晰な意識家であると同時に近代小説の限界にひどく意識的で、か なりの不満をおぼえていた人物です。近代小説の単調な時間の流れ、単調な作品と作家の関係に飽き足らないということを、彼はよく言っています。そんな彼が戯曲という小説に似て非なるものの舞台世界を生かして、近代小説ではありえないような主人公の描き方を巧妙に示したということができるでしょう。

(つづく)

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