渡辺望による全集九巻の感想(一)

 

「無能なオバマはウクライナで躓き、日中韓でも躓く」は、また後日連載します。

 今回の全集第九巻は、他の全集の内容に比べて、ずっと自分の根幹に生々しく迫るものが多く、読んでいて、自然とたくさんの感想が湧いてきまして、それを文章にしたためたくなりました。西尾氏(西尾先生とお呼びすべきを失礼を承知で西尾氏と表記させていただきます)は文学は自身の故地であり根拠地である、とおっしゃっています。私も氏の広さと深さにはとても及びませんが、文学の世界には、自分の始点のようなものを感じる人間の一人で、それが今回の全集を自分にとって身近なものにしている理由のように思います。

 故地であり根拠地である、と偉そうに言いましたが私の場合は、公の形で文学に関係する文章を同人誌以外に発表したことはなく、十代の頃から文学青年ということを公言していただけで、特に残るものを書いていたわけではありません。「文学青年としての個人的記憶」のみが私の文学経験、といってよいです。だから西尾氏の文学論への感想といっても、自然と自分の思い出話のようなものが混じってしまうような感想、文学論になるのはどうしても避けられません。

 「文学青年」などという言葉はたぶん今、世間的には死語なのでしょうが、私が大学生時代だった1990年代にもすでに半死の言葉でした。自分は大学・大学院時代と都内のある私大の文学サークルに所属していたのですが、サークルの部室があった階には、同じく芸術系表現系のサークルが集中していて、近所には、演劇サークルや映画サークルがたくさんあり、そうした表現系サークルは空間的にも精神的にも「近所」で、自分たちの仲間だけでなく彼らともずいぶんと議論を交わしたり酒を飲んだりしたものです。

 これがさらに十年二十年前だったら、文学仲間・文学サークル内部だけで侃々諤々できたのでしょうけど、私たちの時代はすでに「文学派」の学生が独力でいろんなことをやるのは困難になっていました。同時代の文芸作品で論じることいのできる作品が非常に少なくなっていたせいです。おかげで私は、いつのまにか、演劇にも映画にも多少詳しくなることができました。

 そういう面々の「近所」サークルの面々に議論の度毎にいわれたのが、「文学なんていう時代遅れのものをよくやっているなあ」ということでした。彼らが言うのは、「物語」に情熱を燃やすのは、文学も映画・演劇も同じである、しかし個人が小説や文学論を書くというようなスタイルは時代遅れもいいところ、時代はどんどんビジュアルになっているのだ、というようなことでした。

 今から考えてみればずいぶん青臭い議論をしていて恥ずかしいのですが、あまりに「文学は終わり」と彼らにいわれて、自分は何だか戦国時代に敗戦が決まっている弱い城に籠城している侍になったような卑屈な気持ちになっていきました。それでも自分は敗北覚悟で文学を自分の根拠にしているんだ、と居直って、文学を読んだり、同人誌に書いたり、議論したりしていました。少なくとも人並みに世界文学と日本文学を読んでいて、心底好きな作家、あんなふうに書けたらいいなあと思える作家が両手で数えられるくらいはいました。

 そんな自分が文学サークルその他、文学仲間に馴染めたかというと、ぜんぜんそうではありませんでした。文学が好きになればなるほど、文学を共にする仲間の見識の狭さが気になって、自分が文学世界で孤独孤立していくような気持ちに陥ってしまう。私が一番嫌だったのは、「近代文学」という精神的地面を揺るぎのない安定したものと思いこんでいる周囲の楽観性のようなものでした。

 私にとっては、近代文学そのものはぜんぜん安定した精神的地面をもっていない。自分もやはり、「文学は終わり」とどこかで決定的に思っていたのでしょう。ただ、「いかにして」「なぜ」、「文学は終わり」なのかはなかなか明瞭な答えを見出せない問いかけで、それは今も続いています。

 私の「文学青年」だった1990年代は、文化論的にいろんな解釈ができる時代だと思いますが、こと近代文学という面に関していえば、文壇雑誌とか文芸時評とかが力をまだかろうじて持っていた時代で、文壇の価値が通用した最後の頃だったといえると思います。最後の砦みたいなことになっているから、より一層強く依存していたのかもしれないのですが、文学仲間は誰も、ほとんど悲壮といえるほどに、文壇雑誌や文芸時評を真面目に崇拝していました。つまりもうヨレヨレになっている近代文学の法衣のようなものを厚くかぶって、その衣以外の知的衣服を拒否していました。敗れつつある戦国時代のどこかの城の中の光景で、絶望的な念仏を唱える武士のような気配 です。

 そういう自分の過去の背景を前提にして西尾氏の全集・文学評論について考えたいのですが、当時すでに読んでいたものもあるし、今回の全集ではじめて目を通したものもあります。

 氏のこれら文学評論の性格を一言で言いあらわすなら、近代文学が直面している「最後の姿」を緻密に描いている知的物語、といえると思います。近代文学の精神的地面がどんどんぐらついていっているということ、そしてその終末的な状況を、悲壮的でも楽観的でもなく、時代全体の物語というような筆遣いで描かれているところです。言い換えれば、「いかにして」「なぜ」、「文学は終わり」なのか、という自分がずっと考えてきたことを助けてくれる評論集、といえます。

 「最後の姿」を描く、というと何だか世界の終焉のような響きがありますが、決してそのようなことはありません。文学は何も近代文学小説がすべてではない。近代文学以前には広大な古典文学の世界があり、世界宗教の説話もまた文学であり、また近代文学が取り扱ってきたテーマは決して秀逸に解決されたものではなく、その多くが哲学理論的に検証して甚だ軽薄なものだ、という非難も可能でしょう。

 大学時代の「近所」サークルの面々が言っていた通り、映画にも演劇にも「文学」はあるし、私に言わせれば優れた文明論や歴史論にも「文学」はあります。近代文学小説というのはあくまで、ある文明的限定において成立している一つの芸術形式です。ところが、このことが、当の文学に集う面々があまりよくわかっていないようなのです。

(つづく)

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