國字としての漢字

ゲストエッセイ
    田中 卓郎 坦々塾会員 哲学者

 通常國字と言へば、支那から輸入された漢字ではなく、我が國に於いて案出され、支那には無い國産の「漢」字、例へば「峠」や「榊」などの文字を文字を指す。それら以外の漢字は、支那傳來の文字といふ意味で文字通り漢字である(津田左右吉は『支那思想と日本』に於いて「支那文字」といふ表現を用ゐてゐる)。
 さういふ譯で、漢字は支那が本國で、我が國はその輸入國に過ぎず、現在に到るも漢字に關するあらゆる事柄の最終的判斷基準、根據は依然として支那や支那の典籍、あるいは支那人學者の言に在るとわれわれのうちの大多數は信じ込んでゐるやうに思はれる。このことは一般の素人も專門家も變らず、殊に專門家はその多くが研究對象を盲目的に崇拜愛好するので、漢字に關する支那本家意識は素人よりも一層強いとも想像される。その證據に、支那文學、史學、語學等を問はず、支那關係諸學で支那を正しく「支那」と呼んでゐる專門家は現在皆無に近いのではないか。「中國」などといふ美自稱を卑屈に受け容れさせられて使用してゐる主要先進國は、戰後の我が國だけではないのか。一般に或る國をどのやうに呼稱するかはその言語使用者が決定することであり、明確な蔑稱でなければその使用に問題は無い筈である。現に歐米主要先進國での支那の呼稱は「支那」(の語源である秦、Chin)に由來するものである。私は西洋諸語に於ける我が國の呼稱JAPAN及びその變化形を個人的には好まないが、それは外國語に於ける呼稱であるから許容する。自ら名乘る場合は、ローマ字表記ならばNIPPONが當然の呼稱であるが(一九七〇年代くらゐまでは概ねさうであつたかと記憶する)、最近は「オール・ジャパン」などと平然と叫んで何の躊躇ひも無い。眞に滑稽で堪へ難いのは、それに「サムライ」などといふ形容詞を附けて、「サムライ・ジャパン」などと言ふことである。正確な現實認識の第一歩は正確な言葉遣ひであることを改めて想起する他は無い。

 現在のわれわれの常軌を逸した支那への卑屈な迎合は、勿論主に戰後の占領政策及び共産黨政權成立後の支那への左翼的幻想に由來すると考へられるが、より長期的、文化的な次元での支那認識の問題としてこの心理を考へると、文字の輸入といふ問題がその本質的な一部として伏在してゐるやうに思はれる。現に我が國の文字といふ意味で「國字」と言つてみても、高度な、學問的な觀念、概念を表現してゐるのは漢字及びその結合體たる漢語であり、かかる意味に於いて、「國字」と呼んでも實際は支那文字に過ぎず、これを突き詰めて考へても國語には辿り着かないのではないか、といふ疑念が心中に蟠居してゐるのではないかと思はれる。この意識はある意味でわれわれの潔さ、道徳性の高さの現れとも考へられるが、同時に自我の弱さとも考へられ、われわれの正確な現實認識を妨げてゐる。

 周知の如く、現在のヨーロッパ諸國で廣く用ゐられてゐるアルファベットは、その名が示す如く、ギリシア人がフェニキア人の文字を改良して案出したものであり、アルプス以北のヨーロッパ人が發明したものではない。にも拘らず、彼らはそれを自らの言語を表現する文字として使用し(勿論、西歐諸國が使用してゐるアルファベットはローマ人が使用したラテン・アルファベットであるが)、その使用によつて表現可能となつた自らの諸言語を用ゐて近代以降の世界支配を可能としたあらゆる思想、科學などを記述した。西洋諸語を母語として使用する者達は、その記述文字であるアルファベットが自分達の發明品ではないがゆゑに自らの言語に蟠りを覺えることはあるまい。自らの言語を普遍文明の言語たらしめたことは自分達の力以外には有り得ない、と強固な自我をその第一の特質とする近代ヨーロッパ人達は當然考へてゐるであらう。

 同樣のことが漢字についても妥當するのではないか。幕末期以降、西歐列強の侵掠の嵐の中に在つて、我が國はこれを防禦し、植民地化を免れる爲に彼の者達の文明を理解し、その力を我がものとする爲に西洋の學術書の讀解、翻譯に力を注いだ。その翻譯の爲に、西洋語の專門用語に對應してその内容を擔ひ得る「漢」語を「漢」字の組合せによつて案出した。それは、われわれの漢字の本質的な理解と西洋の學術書の正確な理解とが相俟つて初めて可能となる高度に獨創的な語彙の發明であり、これらの高級語彙の案出によつて初めて西洋の先進科學の受容が可能となり、その結果、我が國は列強の侵掠を免れて急速な近代化を成し遂げ、非西洋諸國唯一の近代的大國の地位を得たのであつた。これらの學術的な高級語彙たる日本製「漢」語は支那へも輸出され(「逆輸入」といふ表現はこの場合適切ではない)、彼の國の西洋理解を可能とする決定的な契機となつたのではないか。

 この歴史的事實を認識するならば、學術的高級語彙としてのかかる日本製「漢」語の案出こそ漢字使用に於ける決定的な成果であり、漢字を近代文明の先端を擔ふに足る文字と爲した決定的な偉業と言ふべきであり、これを成し遂げた我が國こそ「漢」字の本家であり、これらの學術的高級語彙こそ眞に「國字」の名に相應しいと言へるであらう。

 かかる認識の普及の爲にも、我が國由來の「漢」語を網羅し、とりわけ學術的な高級語彙を詳細に解説した書籍、辭書類が必要不可缺であるが、その要を滿たすものが見當らない。もし既に出版されてゐるのであれば、お知らせ願ひたいし、未刊であれば、然るべき專門家の先生方にその編纂を切に御願ひ申し上げたい。

「國字としての漢字」への4件のフィードバック

  1.  歴史的事実を踏まえ、漢字を自在に活用し「漢字を近代文明の先端を儋ふに足る文字と爲した決定的な偉業~これを成し遂げた我が國こそ「漢」字の本家であり、~眞に「國字」の名に相應しい」と喝破された田中先生のご炯眼を絶賛し、満腔の敬意を表し上げるところです。

     仏教も然り、儒教も然り、ただ、傲慢狭量の一神教の類(キリスト教、マルクス主義、グローバリズムなど)には、如何に日本人とて、手の着けようがなく、活用(救済)してやる術はありませんが、

  2. 大変刺激的な御考察です。(フェニキアはこの際措くとして)アルファベットの発祥の地であるギリシアやイタリアよりもアルプスの北側においてヨーロッパ文明がまっとうな進化を遂げたように、支那ではなく日本において「漢」字は正統な進化を遂げた、と理解してよいかと受け止めております。そして現在のギリシアやイタリアが欧州のお荷物となっているように、支那も堕落し果て、まっとうな「漢」字の精神を受け継いでいるのは日本を措いて他にない、と。
    もちろん、「漢字は我が国が発明したのだ」などと主張する法螺吹きなお隣の民族とは全然違いますね。

  3. 現在の中國語の簡略された書體は毛澤東によつて變へられたやうです。政治的な意味合ひがあると聞きました。日本も大東亞戰爭後、1年ほどで米軍により(いまの有識者會議と同様に)日本人の學者で決めたと云ふ名目で強制的に變へられました。これは戰前の本を讀めなくするためのソフト的な焚書であると思ひます。(物質的なハード面の焚書は西尾先生によつて明らかにされつつあります。)田中卓郎先生によつて舊漢字、舊假名遣ひの日本語に對して矜恃が持てるやうになりました。ありがとうございます。

  4. 遅まきながらコメントを追加します。
    先日、支那文学を専攻している大学の先生と親しく話す機会があり、そのときに伺った話をご紹介しておきます。わが諸橋轍次先生のいわゆる『諸橋大漢和』は世界最高・最大の漢和辞典で、この辞典についてはノーベル賞の審査員から直々に連絡があり、本来ならノーベル賞を贈呈するにふさわしい著作であるが、同賞には該当する分野がない(つまり同賞では文学研究は対象外となっている)がゆえに残念ながら贈呈できない、とわざわざ連絡があったそうです。
    さらに、これほどの学界最高水準の著作であるがゆえに、支那で漢字の研究を志す者は、この『諸橋大漢和』を読むために日本語を勉強しなければならないそうです。
    つまり、漢字を研究したかったら、支那人でさえ日本語の勉強が不可欠、というわけです!

布袋和尚 にコメントする コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です