村山秀太郎の選んだ西尾幹二のアフォリズム(第二十回)

(8-26)日本では落第が恥しいのは、日本の社会がドイツより階層差も少なく平等だからである。能力の判定が人格の判断にまで関わってくる。

(8-27)革命を経験しなかったドイツは、近代史において立遅れ、未熟と後進性に悩みつづけた。しかし歴史を多少振返ってみると皮肉な進行に気がつく。教育や学問は奇妙なことに、かえって国家による近代的な支配と制縛から解放された自由を享受しつづけることが可能になった。……中略……19世紀のドイツでは、大学こそ自由で、無拘束で、「真理のための真理」を追究し得る貴族主義的な精神の王国であった。

(8-28)彼ら(ドイツ人、村山注)
はいい意味で教育の限界を知っている。教育に対するペシミズムを持っている。教育によってなにもかもを善くしようとするような思い込みがない。適当にずぼらで、大雑把である。

(8-29)しかし個としての、実存としての私は、平均的な処理全体に抵抗せずにはいられない。高い学問を求める人間がすべて権力志向、功利主義的志向であるとは限らないからだ。

(8-30)世の中が豊かになって、例外的人間は殖えている。

出展 全集第8巻 教育文明論
(8-26) p114 下段より 日本の教育 ドイツの教育
(8-27) P116 上段より
(8-28) P122 下段より
(8-29) P124 上段より
(8-30) P124 下段より

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