福井雄三氏からの全集第9巻『文学評論』感想

ゲストエッセイ
福井雄三 歴史学者・東京国際大学教授

西尾幹二先生

 ご無沙汰いたしております。西尾幹二全集第9巻『文学評論』、第14巻『人生論集』、夏休みに時間をかけてじっくり熟読いたしました。
 
 先生の芥川龍之介に対する評価については、私もまったく同感です。私はなぜ芥川があそこまで巨匠ともてはやされ天才扱いされるのか、さっぱり理解できな
いのです。芥川はその古今東西に及ぶ希有の教養を土台にした創作活動を行いました。その批判精神に満ちた鋭い知性は、評論やエッセイ、あるいは短編小説の分野で多少見るべきものを生んだが、所詮は単なる教養人、物知りの域を出ることはなく、彼独自の思想・世界観を形成するまでにはいたっていません。私は芥川の作品に対して、清朝時代の訓詁学者のような枝葉末節の緻密さは認めるが、いわゆる芸術作品としての感動というものを感じません。世間で評価されているほどには、彼の作品に対して知性のきらめき、知的興奮というものを、さほど感じないのです。

 芥川は自尊心がきわめて強く、知的虚栄心も強く、マスコミの自分に対する評価を異常なまでに気にしていました。彼が自分の死後の名声にまで汲々としていたことは、遺稿集の中からも明白に見てとれます。先生の指摘されるごとく、彼は自殺したから死後も名前が残ったのです。彼のライバルだった菊池寛は、後年の大衆小説とその私生活のゆえに、ややもすれば通俗作家扱いされますが、そんなことはない。若き日の彼の作品は実に鋭い切れ味と冴えを示しております。私は芥川より菊池寛のほうが、はるかに作家としての天賦の資質を持っているように思います。

 先生は菊池寛の初期の戯曲『義民甚兵衛』をご存じですか。私は中学一年のときこれを読んで異常な衝撃に襲われました。人間のどろどろしたエゴイズムと醜
い姿を、ここまで赤裸々にえぐり出した菊池の才筆に圧倒されたのです。当時東大生で卓抜した秀才だった私の兄が「なに、これは村人たちのエゴイズムさ。最も醜悪なのは村人たちさ」と一刀両断してのけた口調が、いまも鮮明な記憶として残っています。私はこの戯曲にあまりにも衝撃を受けたので、高校の文化祭のクラスの出し物で、この演劇をやろうと提案したのですが通りませんでした。

 彼らの師匠であった夏目漱石についても私は疑問を抱いております。そもそも漱石の文学自体が、非常に通俗で低俗な要素に満ちているというのは、以前から
指摘されていたことです。ドストエフスキーの作品が実は意外にも駄作だらけであるのと同様に、漱石の通俗性についても、かつて昭和初期の新進気鋭の論客た
ちが喝破したことがあります。漱石が朝日新聞の連載小説の人気専属作家であり、締め切りに追われながら原稿を書きまくったこともあいまって、彼の作風が著し
く大衆的であり、一歩間違えば三文小説に転落しかねない、ぎりぎりのきわどい要素をはらんでいることは確かに事実です。この点、彼のライバルであった森鴎外の作風とは、明らかに一線を画す必要がありましょう。

 『こころ』の文学作品としてのできばえについても評価が分かれるところであり、これを駄作とみなす声もあります。Kと先生の二人の自殺が大きなテーマとなっていますが、はっきりいってこの二人が自殺せねばならぬ必然性は、作品の構成上どこにも見当たらない。最後の土壇場で乃木大将の殉死が登場し、先生が号外を片手にして「殉死だ、殉死だ」と叫びながら「明治の精神が天皇に始まり天皇に終わった」などと何やら意味深な言葉をつぶやいて死んでいく。このあたりなどは読者から見れば、はっきり言って三文小説にすらなっていない、ずさんな結末です。

 西尾幹二全集、早いものでもう半ば近くまで刊行されましたね。いつも先生の著書を読みながら、先生の生きてこられた人生を、私自身が追体験しつつ生きているような気持ちになります。私より18歳年長の西尾先生の生き様をたどりながら、私自身の18年後を思い描けるという意味で、これは私の人生の貴重な指針でもあります。それではお元気で、失礼します。

                                    
 平成26年10月7日 福井雄三

「福井雄三氏からの全集第9巻『文学評論』感想」への4件のフィードバック

  1. 昨日は文化の日で文化勲章の授与式がニュースの話題となっていましたが、ひさしぶりにGHQ焚書空間の何冊かを読みなおして、私にとってはこれらの業績こそ文化勲章に値するものと思われました。しかしいまだに多くの歴史教科書は「GHQの占領により言論の自由が認められた」とだけ書いて、GHQの検閲や焚書について一切言及してないようです。ウソ八百を書きちらしてきた共産主義歴史観の後遺症のせいか、なるたけ日本だけを悪者にしている風潮がやはり悔しいです。

    芥川龍之介は薬の乱用で深刻な脳神経の障害を起こして自殺したのだと勝手に推測しています。なぜ薬を乱用したかというと芸術上の創作神経を極限まで高めようとしたのではないでしょうか。
    学生時代に左翼学者が「健全な精神は健全な身体にやどる」という言葉を心底嘲笑していましたが、これは世間を見れば見るほど真実であると思います。不規則な睡眠を常習化するとやがて不眠症になり、不眠症が自律神経失調症や芥川のような躁鬱気質を引き起こします。朱儒の言葉など文章内容が精神分裂的と感じます。やはり健全な精神の残した文学が楽しいです。もっとも死の床で芸術を残した正岡子規や魔界を見たニーチェやゴッホなどは別格です。

    西尾先生の文学評論を読ませていただき現代文学の評論も多彩で奥が深いと思いましたが、平家物語や徒然草など、ある意味「お約束的」な古典文学への評論も楽しく読みました。
    しかし誰でも思うことでしょうが、文学とか人生はつくづく不思議なものですね。高校生のときは徒然草を最初の数行読んで畳をかみ締めているような不快感を覚えて、その後何度読み直しても面白いと思いませんでしたが、中年を過ぎて俄然と面白くなりました。
    徒然草にしても文章の背後に堂々たる個性と教養を感じることができるようになりました。年をとるということは意味があります。平家物語も味わい深いと思うようになりました。

    おおげさですが各母国語で書かれた文学こそがグローバリズムの最大のアンチテーゼです。政治経済的な統一国家をめざすヨーロッパでさえも、言語統一化の動きがあるどころか逆に各地域や国の言語と多様性を尊重する方向に向かっています。そしてその最大の根拠が各民族の詩や文学です。

  2. >おおげさですが各母国語で書かれた文学こそがグローバリズムの最大のアンチテーゼです。政治経済的な統一国家をめざすヨーロッパでさえも、言語統一化の動きがあるどころか逆に各地域や国の言語と多様性を尊重する方向に向かっています。そしてその最大の根拠が各民族の詩や文学です。

    先日、ノーベル賞を受賞した米国籍の元日本人が、「日本も英語を国語にすべき」と主張していましたが、暴論中の暴論でしょう。
    わが国の場合、母国語で高等教育が受けられる、医師や科学者になることが強みであるはずなのに、母国語たる日本語を台所で用を足す言語に貶めて、英語を国語、教育言語にした場合、ノーベル賞受賞者はいなくなり、学力や国力が低下すると思いますね。
    なお、私は、日本史ではなく、国史とするべきだと思いますが、国史ではなく、日本史という呼称は、戦後におけるわが国の、「日本」を主語にしなくなった状況の結果だと思います。些細なことかもしれませんが。

  3. >仁王門さま
    本当にそうですね。
    西尾先生の文章は本当に価値あるものだと思います。

    徒然草・・・・私も最近、手に取っています。

    >ウミユリさま
    いつもコメント有難うございます。

    あのノーベル賞を取った人、そんなこと言ったのですか。
    よほどアメリカの待遇が良かったのでしょうか・・・。

  4. >あのノーベル賞を取った人、そんなこと言ったのですか?

    「けんかしたまま死にたくない」と、ノーベル物理学賞の中村氏「日亜と関係改善したい」と古巣に呼び掛け 賞金の半分は徳島大に寄付 (sankei)

    >プロフェッサー中村の死生観?それとも、新規事業の都合か?

    中村、「日亜が発光ダイオード(LED)で世界をリードしたからこそ私のノーベル賞につながった」とし、「小川英治社長、青色LEDの開発をともにした6人の部下、全社員に感謝したい」と述べた。訴訟以降、日亜と接触できない状況だといい「お互いに誤解があった。けんかしたまま死にたくない」と。。
    中村氏はノーベル賞の賞金(推定約4千万円)の半分を徳島大に寄付

    >ソ連製カラシニコフ自動小銃(AK)の設計者で昨年12月に死去したミハイル・カラシニコフ氏が同年4月、露正教会のトップであるキリル総主教に「懺悔(ざんげ)の書簡」を送っていたと伝えた。自らの開発した小銃で多数の人命が奪われたことについて、「心の痛みは耐え難い」と告白、生前長く、「和平合意せず、暴力に訴える政治家の責任だ」と、愛国精神の模範だったが、
    http://ameblo.jp/tank-2012/entry-11749340653.html

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