宮崎正弘氏による全集第9巻 書評

 まだ日本文学が元気だった頃、西尾さんは時評にも精を出されて いた

   石原慎太郎、開高健を評価し、丸谷才一、山崎正和らを斬る

    ♪

西尾幹二『西尾幹二全集 第九巻 文学評論』(国書刊行会)

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 昨師走、忘年会の席だった記憶があるが、西尾さんと飲み始めて最初は保守論壇の活況ぶりが話題だったのに、急に文学論に移行した。そして意外に も石原慎太郎の文学を高く評価したのである。たしか富岡幸一郎氏もとなりにいたが、そのとなりの人とお喋りに夢中だったので、この議論は聞いてい なかった かも知れない。

 西尾さんは政治家としての石原氏を評価されず、首相になりそこなっての都知事は「遅すぎてぶざま」と辛辣で、その原因は「持ち前の用心深さとい よいよとなると自分を捨てない非行動が災いした」。しかし石原慎太郎の小説は、「日本文学の中で誰もかけなかったテーマ」(本全集、795p)、 つまり肉体と暴力を執拗に追求していると、文学のほうは、やけに高い評価をするのである。

 西尾さんが文芸時評を過去におやりだったことは知っていたが、その活躍のさまを筆者は殆ど知らないで過ごした。その殆ど全てがこの集に入っているので、西尾さんの文藝評論家としての軌跡をふりかえることが出来る。1970年代の日本文学と言えば、三島由紀夫事件があり、驚天動地の衝撃を受けた私はその後の人生、三島研究会の結成やら憂国忌、数百回となる公 開講座の手配などが基軸で、ほかに余裕がなくなった。私は小説をまったく読まなくなり、いまこの全集に収められた作家群の、名前こそ知っている が、柏原兵三、阿部昭、辻井喬の三人以外は読んだことがない。高井有一、加賀乙彦、小川国夫、田久保英夫、黒井千次、綱渕謙錠の各氏、名前を知っているだけ である。

 辛辣に丸谷才一と山崎正和を斬っている。江藤淳も批判している。「便利すぎる歴史観」だとして司馬遼太郎と小田実を一刀両断、ついでに平野謙批判 にも容赦がなく、これらは私もまったく評価しない人たちだからそうだそうだと膝を叩きながら読んだ。

 わたしの文学青年時代、文芸評論といえば、まず『文壇の崩壊』を書いた十返肇、大江や倉橋由美子を発掘したと騒いだ平野謙の傲慢なようで文壇的 な批評の凹凸、地道な仕事をこなしていたのは山室静、中村光夫、奥野健男、『批評』に拠った佐伯彰一、村松剛、「朝日新聞」の文芸時評は、なんと 林房雄が書いていた。小林秀雄は時評には手を染めず、孤高としていた。福田恒存は政治論議に傾斜していた。

 そしてハッキリと佐伯、村松らは文芸批評をやめて政治、文化批評、あるいは戦略論へと居場所を変えていた。

 それは文学がじつにつまらなくなってしまったからで、万葉集の伝統も源氏物語のロマンも失われ、それこそ「芭蕉も西鶴もいない昭和元禄」〔『文化防衛論』〕「源氏物語で真昼を体験した日本文学はこれから夕方に向かう」(『日本文学小史』)。そしてその三島自身が文壇から不在となって、私も現代文学には背を向けていた。

 この時代に西尾さんはこつこつと時評をかかれ、文芸誌に発表された小説をすべて読まれ、多くの逸材の秀作をみつける仕事に没頭されていたとは、 知らなかった。

 ▼日本文学はかくも衰退した

 文学青年時代の私はと言えば、吉川英治、司馬遼太郎、松本清張など通俗作家から、大江健三郎、石原慎太郎、菊村到も野坂昭如も五木寛之も皆読ん だ。新潮社の日本文学全集にはいっていた作家の大半(漱石、鴎外、藤村、荷風、谷崎、川端から幸田露伴、正宗白鳥まで)ともかく濫読した。

 なぜあれほど夥しい量の本を読んだのか、憑かれたように濫読し、サルトルもカミュも読んだが、サルトルの印象は薄く(『自由への道』はやたら長いのに)、米国ではヘミングウェイ、フォークナー、スタインベックの御三家が全盛の頃だった。ヘミングウェイはほぼ全部読んで、夢中になった。ところが期待して入学した英文科で龍口直太朗教授は『ティフェニーで朝食を』『冷血』を書いた変人作家、トルーマン・カポーティだけを論じたのでうんざりしてしまった。

 くわしく書く紙幅もないが、三島以後の日本文学でかすかに残るのは遠藤周作、日野啓三、阿部昭ていど。したがって70年代から80年代にかけて出てきた日本人作家に関して言えば、村上春樹も平野啓一郎も一作とて読んだことがなく、その意欲もなく、強いて一冊をあげるとすれば開高健の『夏の闇』と『輝ける闇』なのである。そして西尾さんは、やっぱりこの作品を高く評価しているのでナルホド、感性の鋭さが光るのである。しかも『輝ける闇』よ り『夏の闇』のほうが優れているという。開高健についてはなにからなにまで同感である。

 ▼収穫は開高健の『夏の闇』と『輝ける闇』

 両作品はきわめてニーチェ的である。

 

「私たちが今どれだけ並外れて異様な時代に生きているか。(中略)遠いところで起こっている(戦争や民族対立、殺戮などの)出来事の情報を次か ら次へと殆ど無差別に受け入れなければならなくなっている」(中略)。

 しかし、戦争など

 

「悲惨な出来事を伝える生々しい写真や報道記事をいっぱいつめた朝刊の横に、コーヒーとトーストを置いてあくびをしながらこの朝刊を読む」という安逸な日常生活に浸り、戦争は「所詮『紙の中』(いまならテレビ画 像のなか)に」

しかなく、

 「頭脳だけは刺激的な外的経験に関する豊富な知識によって水ぶくれに膨れあがっている。そういう人間が、戦争というものの中の人間の静かな呼吸、異常な中の日常を察知するなどということがどんなに困難になっているか」

 そこで開高健の『夏の闇』を読む西尾さんは次のように作品を解剖をする。

 「そういう現代人の抽象的な生活と意識の分裂を描くところに主題をもとめた」のが『夏の闇』であり、「日常の安定と戦場の熾烈さのどちらも現実であって、同時にどちらも幻覚であるという私たち現代人の置かれた生の二重構造と、自分の認識力の不確かさに眼が注がれている」

 

「何か酔えるものを男は探し続け、旅をし、戦に赴き、そこで見たものは傍観者としての自分の姿であり、戦争という熾烈な生の確かめの場もしだいに耐え難く、自分の内部から脆くも崩れ去っていく音を聞く外はない」

 殺伐とした日常生活の精神の希薄さに漂うニヒリズム。『夏の闇』は、開高健の最高傑作だと前から私は思っていたが、西尾さんは、この時評をはるか昔、1972年の『文学界』に書かれていた。そのことを、この全集第九巻で初めて知った。   

   (評 宮崎正弘)

「宮崎正弘氏による全集第9巻 書評」への3件のフィードバック

  1. 江道淳って。誰?作家さんの名前があがって居る中でこの方だけは??
    もしかして江藤淳かな?
    そうだ、紅葉狩りに行く箱根の帰りにでも開高健記念館へでも行ってみるか?

  2. >bunnさま
    誤字発見有難うございました。
    直しておきました。

    ・・・・・これコピペなんです・・・・・

  3. このなかでは柏原兵三氏を(名前知らなかったのですが西尾先生の批評を見て)読みたくなりました。批評を読むと円熟な人格を感じましたが、38歳の若さで亡くなったとは・・。石原慎太郎氏の場合は、個人的には都知事時代の功績を評価して文学はあまり興味を持てなかったのですが、逆の評価だったので面白いと思いました。
    一方、否定的対象としては山崎正和氏「闘う鴎外」を論じた「観念の見取り図」が印象に残りました。小林秀雄が「人を褒めた批評は出来がよいが、人をけなした批評はできが悪かった」というようなことを書いてますが、「観念の見取り図」は辛らつに批判してすぐれた批評が成立していると思いました。

    (以下引用)
    「批評は、たしかに対象を創り出す作業だが、しかし、批評家の自己表現の道具として恣意的な虚構をつくり上げればそれでいいというものではない。・・」
    「鴎外という一人の人間がどうして矛盾も謎もはらまない軌跡を歩んだといえるだろう。勿論、山崎氏の叙述は、矛盾や謎をはらんだ人物のように鴎外を描いている。しかし、ここが大切なところなのだが、父と子、公と私、運命と自我といった劇作家らしい対立概念を組み合わせ、たがいに葛藤させた氏の叙述は、それ自体が山崎氏の自我の内部に閉じ込められていて、それがいかに緻密に錯綜した印象を与えても、鴎外その人から離れたところでおこなわれている、というのが私の判断なのである」

    このような分析に批判のポイントが象徴されていると思います。
    この「観念の見取り図」の「観念」という言葉に固着すると、山崎氏が小林秀雄の追悼集だったかに書いた文章で「小林は観念の枝葉をのばすことに消極的であった」という表現があったと記憶しています。むかし私はこれを読んでたしかに小林秀雄の文章は観念的冒険の少ない気がすると同感したものでしたが、これに対応する小林秀雄の表現としては「現在の作家(歴史家だったか?)は、社会科学などの概念を(作品に?)取り込もうとしているが、これらの概念の豊富さに苦しんでいるのかそれともそれを楽しんでいるのか」という皮肉を含んだ問題提起があります。これも本質を突いていると思いました。

    山崎氏の室町記などはむかし面白いと思って読みましたが、鴎外論はなぜこんなにつまらないのかというと、内面性の弱い社会学者の珍奇な学説を真似たような観念的評論であるからと感じました。以前読んだ鴎外の小説のあとがきに高橋義孝氏の解説と山崎氏の解説がありましたが、高橋氏の解説にくらべてなぜ山崎氏の解説はばかばかしいのか、山崎氏はもっと聡明な作家ではなかったかと印象に残ったことがあります。山崎氏はたいして鴎外を論じていない、自前の観念的な社会学を披露しただけという漠然とした私の過去の印象がこの「観念の見取り図」では、西尾先生の手腕で明快に整理されていると思い、しみじみと納得しました。

    ここからは私の勝手な推測ですが、山崎氏は育った家庭環境か当時の家庭環境があまりよくなく骨肉の苦しみのようなものを経験したか、あるいは身近に家族親族の陰鬱な葛藤を見たのではないか。それで鴎外をネタにして家族論を論じたのだろうか、そしてそれを強引に国家論にむすびつけたのではないかと想像しました(ぜんぜん間違っているかもしれませんが)。また嫁姑の確執に悩まされた経験のある亭主が読んだら勇気を与えられる内容であり、ひょっとするとそういう悩みをもつ大勢のサラリーマンをはげます意味が暗にあったのだろうかとも想像しましたが、それは私の空想です。

    (前回コメントに対して)
    >管理人さま
    >徒然草・・・・私も最近、手に取っています。

    融通無碍であり、説教くさく見えながらも意外とそうでもなく、アウトロー的な文章もまじっているので面白いです。男に生涯独身を勧めるなどあまり真に受けないほうがいいような文章も混じっているのも逆に意表をつかれて面白いです。
    これとは作風が違いますが蜻蛉日記もたまに読んでました。ものの感じ方が素直でやさしいので疲れたときなどにわずかでも読むと気分転換になりました。

    >ウミユリさま
    >ノーベル賞を受賞した米国籍の元日本人が、「日本も英語を国語にすべき」と主張していましたが、暴論中の暴論でしょう。

    グローバリストを自称する田舎者とはまさにこういう人物ではないでしょうか。日亜化学に仲直りを求めましたが(どうせまた技術でも盗むつもりだろうと思われたのか)あっさりと断られて、それをかわいそうに思う世論があまりないのが面白いですね。まあ内幕はよく知りませんが・・

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です