阿由葉秀峰が選んだ西尾幹二のアフォリズム「第二十五回」

(8-16)学問の世界は「目的から自由な競争」が活潑に行われることによって、なんら弊害を惹(ひ)き起こさないほとんど唯一の世界である。例えば経済の競争は、独占資本を生み、不自由と不平等を惹起(じゃっき)しかねないが、学問の活動は、競争によって他を制限する可能性に乏しい。学問の世界では一人の指導者に対するいわば防衛手段として、つねに新たな学説や論理の擡頭を必要とする。いかなる才能も能力も懐疑によって、いいかえれば既成の概念に対する闘いによって展開されなければならない。もし学問以外の力に基くヒエラルヒーに制限され、言葉の最も健康な意味における競争心がおおらかに肯定されずに、阻止されるようなことがあれば、それは学問の自己破壊に道を通じるだろう。

(8-17)言うまでもなく、知識の伝達だけが教育のすべてではない。けれども人はどうやって理解とか愛とか人間性とかを他人(ひと)に直(じか)に教えることが出来ると考えているのだろう。現代の教育家はいつからそんな大それた自信を抱くようになったのだろうか。

(8-18)受験勉強などというものを大仰に考える必要もないが、自分の生活を禁欲的に律し、ある一時期に若さの激情を怺(こら)える「修行」としての意味も若干はあるだろう。今の時代に青年が緊張した一、二年を送る修行期間が他にはないのだから、受験が人間性を蝕むというジャーナリズム特有の感傷語がなんと言おうと、そうそう悪い面ばかりがあるわけでもない。

(8-19)成程、教育家は知識を超えたなにかを他人に伝えることに成功しなければ、教育家の名に値しないのかもしれない。しかし、彼が最も教えたいと思っているそれらの価値こそ、厳密に考えれば、他人に教えることの出来ない当のものに外ならない。
 教育家は教育というものの本来のこの限界を弁えていなくてはなるまい。

(8-20)人間は誰でも、結局のところ、自分自身を再体験するだけなのである。

出展 全集第八巻
「Ⅱ 日本の教育 ドイツの教育」
(8-16) P274 上段から下段「終章 精神のエリートを志す人のために」より
(8-17) P277 下段「終章 精神のエリートを志す人のために」より
(8-18) P281 上段「終章 精神のエリートを志す人のために」より

「Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判」より
(8-19) P293 下段から294頁上段「自己教育のいうこと」より
(8-20) P294 上段「自己教育のいうこと」より

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