予定変更の報告と弁解

 結論から申し上げると、あと一週間ほどで刊行される『正論』4月号に、「ヨーロッパ流『正義の法』体制は神話だった」という私の新しい論文(14ページ、35枚)が掲載されます。「戦争史観の転換」と題した連載の13回目はまたまた休載となります。その代りこれは連載の「番外編」として扱われます。イスラム教とキリスト教の対立相剋を扱った論文なので時宜は適っていますが、連載の趣旨からははずれているからです。

 なぜこんなことになったのか。私に両論を書く体力と時間がなかったからです。講演を阿由葉秀峰さんに完璧に文字起こししてもらいました。それを手直ししてブログに載せ、一方連載はこれとは別に今月分を書く予定でした。ところが講演筆録は80枚分くらいになり、途中でこれをまとめるだけで十分に一か月かかると気がつきました。そう考えてウカウカしているうちに、連載の方の一回分を書くための準備も不十分だし、2月は〆切りが早いので、立往生しました。

 そこで編集長がブログの80枚を35枚に圧縮して、雑誌向きにまとめ直して、「番外編」として扱えるようなスタイルにすれば連載は休載しても許してやる、といわれたので、そのアイデアに乗っかることにしたのです。

 だいたい月に二篇を出すことは私にはもう無理と分りました。阿由葉さんに作成してもらった元原稿の約80枚の三分の二はもう使えません。終りの方の三分の一か四分の一かはまだ出せばリアリティがあります。どうしようか、迷っています。次の月の連載が迫ってきて、しかも今三冊の本の校正ゲラが襲いかかってきて、正直、何かをあらためて企て、実行する気力がありません。

 このブログにコメントして下さる方にお願いしたいのは、雑誌や本で刊行したものの感想を是非書いて下さい。さしあたり『正論』4月号が出たら、それを読んで、コメントしていただけたらとてもうれしいです。

 襲いかかってきているゲラ刷り三冊とは ①全集第11巻「自由の悲劇」 ②GHQ焚書図書第11巻「維新の源流としての水戸学」 ③新潮文庫「人生について」です。どれも3月20日ごろが〆切りです。

「予定変更の報告と弁解」への6件のフィードバック

  1. 図書館で「正論」の論文を拝読させて頂きました。ヨーロッパの生成過程でのイスラム世界との相剋のダイナミズム、厖大な歴史の時間の中で戦われ、今なお続く物語をじっくりと味わいました。
    馬淵睦夫さんのISやらせ説も説得力がありますが、ユースタスマリンズ「真のユダヤ史」も読みましたが、日本人としては西尾先生のような切り口での説明が必要ですね。
    日本人はどうしたいのでしょう?またまた受け身の繰り返ししかないのでしょうか?

  2. GHQ焚書開封10読了までに後数10ページですが、多々弁じたいのですが思ったことにふれます。英国の興隆に寄与したのがロイズの保険によって投資者が集まり多分株式会社という仕組みも作ったことだと思います。それによって冒険商人(実体は海賊)が集まりハイリスクハイリターンのビジネスモデルが成立しえたわけです。日本も堂島のほうが先に先物相場を始めたのですが、蝦夷地からの産物を持ち帰るために大阪商人たちが保険とほぼ同じ請合というものを作ったそうですが、英国よりも早いのかはわかりません。もし鎖国をしなかったら数百年前にマレー沖海戦に準ずる梅棹生態史観で指摘された幻のベンガル湾開戦があったと思います。日本にとっていいか悪いかは別にしてですが。

  3. 読みました。

    私自身、様々な角度から「再構築」やら「脱構築」を試みようと思うても、やはりそこに、纏わりつくのように「西洋たる何か」があり

    それが「融合」や「昇華」ではない、こびりついた「癒着」の様な部分があるのは否めないのが正直な所です。

    我々が、今現代、タイムリーに生きるからこその違和感であると、半ば自棄的に言いくるめてしまう心情も少なからずあるのですが

    かつてのバラモン教、仏教や儒教の様に、これらの「対立概念を陰陽に溶け込ませる」には、何かもう、根元的に違い過ぎる何かが、それを阻む。

    やたらと「綱引き」になってしまい、「環」にしずらく、その体積を増やしても増やしても、それは単に綱が太く長くなるだけで、やはり上手くゆかない。

    ゴールが必要な障害物競走。

    ゴールは在るのだ、という「正しさ」と
    競走なのだから相手に勝つのだ、という「正しさ」

    ゴールを先伸ばしすれば永続的に続きそうだが、皮肉にも、その相手に勝つ為に鍛えた学問、とりわけ科学によって、その正しさが危ぶまれている。

    科学がたどり着きつつある中間地点は、むしろ東洋的思想に近づいた。

    ニーチェ等に「ゴールは無い」を、叩きつけられても、未だ「正しさ」だけはタフに狡猾に利用せざるをえず

    「いかにして正しくなるか」を、もはや無意識的に偽善を着た深層に蠢かし、更にそれらに「自由・平等・博愛」というドレスを纏い、「法」という銃で武装し、「ギリシア」由来の歴史に乗っかり、「学問」という魔術を放つ。

    明治日本は、新大陸の文明の様に滅んでいる訳ではないですし、アヘン漬けにもされていないし、白人が特権として居座っていてもいませんから、やはり必死にその魂で、戦い、こなしてきたとは思いますが

    では佐久間の「東洋道徳・西洋芸術」になったかと問われれば、その答えは「否」となる。

    我が国は日本復興の只中でありますから、あらゆる所に、明治の威光を賛美しなくてはならない、プラグマティックにでも煽るのは、ある意味やむを得ないのかとは感じますが

    靖国云々はともかく、あの「国家神道」は、日本の國體を削ぎ落とした部分があるのは自明で、それこそあの時代の「即身仏」の数々等に、その背景は見て取れます。「もう少しどうにか出来ただろう」と、常々感じます。

    根元的な転回、まるで今の我が国は「西洋精神・東洋芸術」になろうとしているのではないかとさえ感じる所もあります。

    先生の仰る様に、一神教戦争、「正しい事の奪い合い」に

    足湯ではなく、首までドップリ漬かってしまうのは、それこそ頭では理解しても、その日本人たる感性が、決して「腑に落とす事を許さないはず」なのです。

    万が一、この均整的判断が出来なくなってしまっている、酷い場合、それら判断に情感や現実的な取捨すらない、無様なまでのポピュリズムになりかねないとするならば、それこそ日本人は民族の終焉に突き進んでおるのではないかと危惧します。

    歴史のある国々、民族は、法律や、更に憲法すら越えた何かが必ずあり、それが民族や国民の矜持や拠り所になります。

    一神教は「書いてないのだからしてもいい」という側面が多大に在って

    その産物として、民の在り方の中にさえ、狡猾さ、狡知さの増長にまで繋がり、それもやはり日本人のいう「賢さ」とは明らかに違う。

    ある意味で、世界はそれに気付き始め、次代の牽引活力を我が国の在り方に希望を見出だし、様々なアジア諸国民は、それを疑う事も無く半世紀以上繋げて来たというのに、肝心の本人が鏡を見ないで怯えている。

    政府にせよ何にせよ、何故にこうまで「西洋的言い回し」をせねばならないのか。それが哀しいし、悔しい所です。

    安倍晋三総理は「中庸」を用いましたが、西側は、アリストテレスの「メソテース」として捉えるでありましょう。決して日本的な意味は通じない。

    「法の支配」とは、何とも違和感がある表記です。

    日本人は「法が無ければ共食いする」愚かな民族などではないですし、「震える為政者」を冷笑する冷徹さもある。とうに乗り越えた。

    かつて小田原城下が乱れた時

    「ひとをいじめたら、うじやすがしかる」という立て札だけで、治安が回復するほどに共同体意識とお上への信頼が強い民なのですから

    西洋の管理、契約、監視という在り方に、こうも合わせられると、まるで民を信じていないのかとさえ感じたりもします。

    親が、我が子の躾の為に

    「法律を守る人間になれ」というのと
    「人として恥ずかしいことをするな」というのと

    例え後者の言い方が、抽象的で理性的でないとしても、根元的には合理的であり

    我が国體は、後者であると信じます。

    ※カントは「三大批判」以外は、「そうでもない」と感じております。

  4. 西尾先生

     正論4月号に掲載された『ヨーロッパ流「正義の法」は神話だった』を興味深く拝読させていただきました。

     近代以降、止むことなく続く世界的な混乱の原因をローマ帝国にまで遡り、ヨーロッパ人と中東及びアラブ人の間にある深い溝を、それぞれの文化や宗教から読み解き、それらがどのように作用して混乱の渦へと人々を巻き込んでいるのか、そのメカニズムを史実から明らかにされたこの度の論文はとても勉強になりました。

     現在、マスメディアは毎日のようにISILに関するニュースを流し続けておりますが、このISILとは「カリフ国家」、すなわちカリフの指導下で運営される国家が中東から東は中国、西は欧州まで広がることを望んでいるとされています。これまでイスラムの国々は、全てイスラム教を信仰しているとはいえ、社会統治はそれぞれの国家や宗派や部族ごとにまとまってきました。それを、イスラム教本来の教義に立ち返れば、一人の指導者のもとで統制され、その勢力を拡大していくべきとする、すなわち、ワンワールドの理念を顕わにする。

     もちろんこのワンワールドの理念はキリスト教も同様で、彼らが世界中を植民地化した際に、世界をキリスト教化しようとしたことにも見られます。さらに言えば、一部共産党指導者が世界を統治しようとする共産主義も、一握りの大資本家たちがWTOのような制度を持って資本の力で世界を統治しようとする資本主義も同様です。

     そして、ワンワールドの理念をもつ勢力が複数存在すれば、必然的にそれらは激しくぶつかり合う。そうした衝突から混乱が起これば、それまでおとなしく統治されてきた大多数の人々も、その剥き出しにされた激しい欲望のぶつかり合いを見て、そのような欲望に支配されることに拒否反応を起こし、混乱の渦に巻き込まれていく。結果として、この複数立ったワンワールドの理念がぶつかり合って行きつく先は、一つの大きなワンワールドを形成しようとする事。これは単なる理論ではなく、歴史を見れば何度も繰り返されてきた史実です。

     そして、この一部の指導層が圧倒的な格差でその他大多数の上に立ち、徹底的な統制をおこない、そしてその支配権の拡大を目指すワンワールドの理念が具現化されたときに、我々はそれを帝国主義とも呼びます。世界規模の激しく混乱した社会に悩む現代の我々は、この帝国主義の歴史と成り立ちを論理的に確りと理解する必要があると思います。現代につながる帝国主義とは、いつ、どのように誕生したのか?その事始めはローマ帝国か?アレキサンダー帝国か?それともペルシャ帝国か?はたまた別の何かか?

     この人類社会史における帝国主義の始まりについて、西尾先生のご見識をお教えいただければ幸いです。

  5. 理由はわかりませんが、最新のコメントが三つ消失しました。
    該当するコメントを書いて下さった方、できましたら再投稿をお願いします。
    不手際まことに申し訳ありません。

  6. 『GHQ焚書図書開封10 地球侵略の主役イギリス』と『正論』4月号の論文を拝読いたしました。

    『GHQ焚書図書開封10』に紹介されたイギリスの姿は、我々には馴染み深いシェークスピアやビートルズ、最近ではハリー・ポッターのイギリスとは全く違う内容のものでした。

    ただし重要なのは、先生が幾度となく繰り返してこられた、イギリスを始めとするヨーロッパ人の二面性であり、もっと大切なことは、その二面性を戦前の日本人が理解していたということです。

    私がこの本で最も印象的だったのは、「ローラット法案」でした。何でもありのこの法案は、まさに中世の「魔女狩り」そのものです。こうした残酷な所業は「理屈と鳥もちはどこへでも付く」と同じで、要するに「目的を達成するためには、何をやってもよい」ということに過ぎません。

    『魔女狩り』を書いた森島恒雄氏によれば、ヨーロッパでは13世紀から17世紀にかけてあらゆる言いがかりをつけて人々を魔女に仕立て上げ、「否認しても死刑」「自白しても死刑」という滅茶苦茶が行われ、刑死した人は、一説には九百万人とも言われています。

    1960年、マドリードの道路工事現場において、かなり広範囲の地中深く、大量の人骨と毛髪が堆積しているのが発見されましたが、調査によれば、四百年前の「魔女」だったということです。

    「魔女」に認定された人は、財産を没収され、自分の処刑費用に使われたそうです。拷問や処刑に使うロープなどの道具の数々や、ありとあらゆる拷問や処刑の方法をこと細かく規定した、ケルン大司教認可の処刑料金表(1757)も紹介されています。

    ところで現代の我々は、様々な資料でこうした史実を知る事ができますが、重要なのは、日本人が元禄文化を謳歌していた時代に、海の向こうでは、残酷という言葉も平凡な歴史を経てきたことを、我々の父祖たちは自分の肌で感じ、自らの目で見ていたということです。

    考えてみれば、原爆を落とした後、占領下の我が国に、被害状況を視察にノコノコと調査団を送ってくるという、我々から見れば「どの面下げて」と思われるアメリカの行動に、我々はあえて目をつむってきたのではないか。

    昨今問題となっているIS(イスラム国)の蛮行も、ヨーロッパ人にとっては、自らの歴史の中で既視感のあるものに他なりません。してみれば、こんな我々とは何の関係もない一神教同士の争いに対しては、我々日本人自身の二面性(P21)で以って、冷静に距離をおいて見る他はないのです。

    そんな中、先生が巻末で指摘されたように、近頃我々日本人が本来持っていたはずの良識が芽生えつつあるのは、様々な情報に対する人々の反応を見ても明らかです。

    例えば、今回の人質事件における政府の対応に対する評価を始め、テレビドラマ「半沢直樹」や映画「永遠の0」が大ヒットしたのは、戦後繰り返されてきた反戦平和の平板な表現に、一石を投ずるやり方が、共感を得たからでありましょう。

    以前、アメリカの凶悪犯罪を特集した写真付きの本を、書店で立ち読みしたことがあります。

    背徳的かつ猟奇的な犯行の数々は、恐らく日本人には、思いもつかないものばかりで驚きましたが、解説には、アメリカのテレビドラマ「FBI」の決まり文句のように、「犯人は現在服役中である」と書かれていてゾッとしました。

    問題は、我々日本人が現在もなお、中韓を始め様々な勢力の「暴力」に囲まれているにも拘わらず、自らの二本の足で立つことが出来ないでいることでしょう。

    そうして足踏みしている間にも、チベットやウィグルでの蛮行のみならず、あの文革の時には、親子間の性行為を強要するという鬼畜同然の拷問を課したと言われるシナの野蛮は、形を変えて我々に襲い掛かって来るでしょう。

    明治以来の「表芸」だけの教育をはね除けるべく、特に感受性の鋭い若者には、『GHQ焚書図書開封』シリーズを、是非とも読んでもらいたいと思いました。

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