西尾先生への手紙

ゲストエッセイ

 中村 敏幸 坦々塾会員

西尾幹二全集第十二回配本記念講演会
 「昭和のダイナミズム」―歴史の地下水脈を外国にふさがれたままでいいのかー
 に対する感想文(西尾先生宛て書簡)

 前略にて失礼致します。
 九月二十六日の御講演「昭和のダイナミズム」に対する感想の件、所用が重なっており遅れてしましましたが、以下のとおり御報告申し上げます。

 同日同時刻に他に三つもの催し(井尻千男さん追悼会、高山正之さん講演会、山田宏さん激励会)が重なってしまったにもかかわらず、約二百五十人の方が聴講に訪れ、大盛況であったと思っております。中でも懇親会参加者は講演会の受付段階では四十名弱でしたが、先生の御講演を聞いて懇親会参加を決められた方が多数出て、結果的に五十六名(過去最高)の方が参加され、懇親会も大いに盛り上がり、続く二次会にも三十名(これも過去最高)の方が参加して下さいました。

 今回の御講演の意義は何と言っても、明治は西洋への対峙に追われて思想的には見るべきものがなく、ゆったりとした時代に育まれた「江戸のダイナミズム」を継承したのは明治ではなく昭和であり、「昭和のダイナミズム」の存在意義を知らしめることにあったと思いますが、懇親会や二次会の場でも多くの方々がそのことに言及しておられましたことから、今回の御講演は大成功であったと思っております。

 我が国では保守と称する人達の中に、司馬某や昭和史家と称する徒輩の台頭によって、「明治は偉大であったが、昭和は世界の大勢を見失って、愚かな戦争に突入した暗黒と失敗の呪うべき時代である」との史観?に毒されている輩が多数おりますが、この歴史認識こそがGHQによる焚書と公職追放によって記憶を奪われ、WGIPによって自虐史観を刷り込まれたことに起因して生じたものであり、日本が日本を取り戻すためにはこの歴史認識を払拭することが必須課題であり、「昭和のダイナミズム」の存在意義を知らしめることが益々重要度を増していると思います。

 また、今回の御講演で聴講者に感銘を与えたのは、先生が「正論・七月号」に続いて今回の御講演でも述べられた、「戦後を代表する保守知識人であった小林秀雄も福田恆存も、反省して歴史を変えられると思っている人の愚を戒めることにおいては峻厳であったが、そこに止まっていて、戦争責任はアメリカにもあったとは生涯通じて決して言わなかった」ということであり、聴講者の多くが「今まで気付かなかったが確かにそうだ」と考えるに至ったと思います。

 この問題について、私は「正論・七月号」の御論稿を拝読してから、彼らは占領期間中ならいざ知らず、何故主権回復後も言わなかった、或いは言えなかったのかを考えてまいりましたが、その理由を私なりに次のように考えております。

 ①GHQによる占領政策が余りにも巧妙であり、占領中も主権回復後も我が国の言語空間ではアメリカの戦争責任はもとより、日本の正当性を主張することもタブーとなっており、とてもその様な事を言える状態ではなかった。
②日本軍による残虐行為についても当時は反論するだけの研究材料に乏しく、一部の保守知識人の間では、戦前の我が国の正当性を体験していたにも拘らず、占領工作に洗脳されて、非は日本に在り、実際に残虐行為が行われていたと考えるに至っていた。詩集「大いなる日」で英米と蒋介石の非を詠った高村光太郎も戦後は自らを暗愚であったと言って花巻の山小屋に籠って一切の活動を停止してしまった。
 ③戦いは昭和二十年八月十五日で終わったのであり、終わったことを今更とやかくいっても仕方がないと思い、かつアメリカの国策が日本を自虐史観に封じ込めて従属国家にし続けることであることを直視せず、戦う姿勢を失っていた。
 ④漸く近年に至って、「南京大虐殺」も「従軍慰安婦」も「バターン死の行進」も虚偽捏造の反日プロパガンダであることが立証され、反撃の機運が盛り上がってきたが、それまでに七十年近くを要し、漸く言語空間もそれを受入れる状態になりつつある。

 先生の「正論」に連載中の「戦争史観の転換」が第一ですが、竹田恒泰氏も「Voice」に「アメリカの戦争責任」を連載しました。しかしこれが十年前であれば「正論」も「Voice」も掲載を受入れたか否か・・・疑わしいものがあると思っております。

 次に先生は、「私たちが見て来た『昭和のダイナミズム』は私達が最後の生き証人であり、この後は出て来ない。文学は無くなってしまった」と仰いました。確かに昭和の終わりと前後して文壇が終焉を迎え、文芸作品は生まれなくなってしまいましたが、文芸作品が生れないということは日本はもう終わりということになり、私は「この後はもう何も生まれない」とは考えておりません。記紀万葉の時代から連綿として続いた我が国の文芸の歴史の中ではそれはほんの一時期のことに過ぎず、地下水脈として流れ続けている民族精神・民族文化が湧出する日が必ずめぐってくるものと信じる者であり、またそうさせなければならないものと考えております。

 以上とりとめのない感想になってしまいましたが、日本が日本を取り戻すためには「昭和のダイナミズム」の顕現は必ず達成されなければならない課題であり、これを実現できるのは貴先生をおいて他に無く、貴先生の一層の御健勝を切にお祈りする次第です。
                             
                                         拝 具

    平成二十七年十月六日

                        中村敏幸

     西尾幹二先生
          侍史

追伸
 今回の御講演とは直接関係がありませんが、先生のレジュメの中に蓮田善明と三島由紀夫の名前が記されておりましたので以下のようなことを思い起こしました。

 それは小高根二郎氏の著作「蓮田善明とその死」によれば、三島氏は昭和二十年十一月十七日に催された「蓮田善明を忍ぶ会」に参加し、後日出席者の感懐をまとめた「おもかげ」と題した冊子に、墨痕あざやかに次の詞を投稿しており、三島氏は自決に当って蓮田善明の自決のことが心の奥底にあったのでないかということです。
   
 古代の雲を愛でし君はその身に古代を現じて雲隠れ給ひしに
 われ近代に遺されて空しく靉靆の雲を慕ひ
 その身は漠々たる塵土に埋もれんとす
                      三島由紀夫

 また、小高根氏の著作の「序」(昭和四十五年三月五日初版)に三島氏は次のように書いております。

 「予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。・・・・・然うして死ぬことが今日の自分の文化だと知つてゐる。」(大津皇子論)
蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができないのは、多分、自分がそのやうにして「文化」を創る人間になりえなかつたといふ千年の憾みに拠る。(中略)。
 それがわかつてきたのは、四十歳に近く、氏の享年に徐々に近づくにつれてである。私はまづ氏が何に対してあんなに怒つてゐたのかがわかつてきた。あれは日本の知識人に対する怒りだつた。最大の「内部の敵」に対する怒りだつた。
 戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、その怯懦、その冷笑、その客観主義、その根無し草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、その独善、その非行動性、その多弁、その食言、・・・・・それらが戦時における偽善に修飾されたとき、どのやうな腐臭を放ち、どのやうな文化の本質を毒したか、蓮田氏はつぶさに見て、自分の少年のやうな非妥協のやさしさがとらへた文化のために、憤りにかられてゐたのである。この騎士的な憤怒は当時の私には理解出来なかつたが、戦後自ら知識人の実態に触れるにつれ、徐々に蓮田氏の怒りが私のものになつた。そして氏の享年に近づくにつれ、氏の死が、その死の形が何を意味したかが、突然啓示のやうに私の久しい迷蒙を照らし出したのである。(中略)
 雷が遠いとき、窓を射る稲妻の光と、雷鳴との間には、思わぬ長い時間がある。私の場合には二十年があつた。そして在世の蓮田氏は私には何やら目をつぶす紫の閃光として現はれて消え、二十数年後に、本著のみちびきによつて、はじめて手ごたへのある、腹に響くなつかしい雷鳴が、野の豊穣を約束しつつ、轟いてきたのである。

 自決された年の初め頃に書かれたと思われるこの文章を改めて読み直し、三島氏の、内なる敵はもとより、戦う姿勢を有しない戦後の保守知識人に対する怒りが伝わってまいりました。

 三島氏から見れば、小林秀雄も戦う姿勢を失った極めて高尚な趣味人にしか過ぎないと映ったのかも知れません。

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