西尾幹二全集刊行記念講演会報告(六)

【補足】
ご講演のために西尾先生はレジメを作成されました。(三)からの『昭和のダイナミズム』の冒頭はそれを基にご講義されたのですが、当報告文でうまく表示できず、ご講演に名前が挙がらなかった人物もいますのでこの場で紹介いたします。

(徳富蘇峰)大川周明/林房雄、三島由紀夫/保田與重郎、蓮田善明 、岡潔/
(内藤湖南)平泉澄、坂本太郎/折口信夫、橋本進吉、山田孝雄/
      /小林秀雄、福田恆存/和辻哲郎、竹山道雄、田中美知太郎/
(西田幾多郎)鈴木大拙、西谷啓二、久松真一/

レジメは縦書きです。括弧書きは「点線の上は昭和ではない」人々で、「/」は改行箇所です。(三)の冒頭で上述の表を下(左)から上(右)に向かってご講義されました。

 ご講演の感想
坦々塾会員 阿由葉秀峰

私はこの度のご講演の前半部分を、ふさがれた地下水脈である「昭和のダイナミズム」に至るまでの「導入部」と思い拝聴していました。東西文明の俯瞰、そして歴史を時代区分に縛られない長い時間の尺で捉え、軸足は確りと日本に置いた「広角レンズ」の視点、併せて古代への神秘主義に傾倒した江戸の思想の系譜を「昭和のダイナミズム」と後半部に仰有られました。振り返ってみると、二部に分かれる今回のご講演が「昭和のダイナミズム」の「歴史編」(序章)と「思想編」であったと私には思えたのです。

「外国にふさがれた地下水脈」とは、大川周明、平泉澄、仲小路彰、山田孝雄・・・、彼等が大戦中に、日本の運命に積極的に真のリアリズムを以て関与した「思想の部分」に違いありません。
「ふさがれた」ままの問題は戦後主流の保守思想家たちにもあって、彼らは「徒に戦争を批判または反省する愚」を戒める一方で、「あと一歩というところで口を噤んでいる。(268頁上段)」そして、「一口でいえば戦後から戦後を批判する制限枠内に留まり、アメリカ占領軍の袋の中に閉ざされたままであるという印象を受けるのである。(268頁中段)」と。終戦までの日本の置かれた運命に、我が身を置いて素直に向き合うことを避けている不正直な姿勢から、「そこから先がない。あるいはそれ以前がない、(268頁上段)」。小林秀雄、福田恆存、竹山道夫ら重要な戦後保守思想家たちのことです。雑誌『正論』7月号『日本のための五冊』という企画『戦前を絆(ほだ)す』からの引用ですが、そこで西尾先生は彼等の作品を選ばれていません。彼らが戦前の思想をハッキリ知っている世代であるという点は重要です。私は、彼等は戦後占領軍主導の苛烈な統制から糊口の道を閉ざされる恐怖、実際それを目の当たりに見てきたからではないか、という気もしていますが、分かりません。しかしそれでは真の歴史を描くことも、時代々々の思想や営為も窺うこともできません。
大戦を含めた歴史を振り返るとき彼等に違和感を覚える、という西尾先生のご指摘はとても重要です。今の日本はもはや「そこから先やそれ以前」を糊塗して済ますことができないからです。

全集刊行を記念して西尾先生は、亡くなった遠藤浩一氏とのご対談(平成24年2月2日付当ブログまたは雑誌『WiLL』12月号)で「明治以降の日本の思想家は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません。」と、今回のご講演に通じることを仰有いました。思えば、同じ遠藤浩一氏とのご対談で『ニーチェ』二部作の第三部目が大著『江戸のダイナミズム』であると仰有いました。ということは「昭和」の視座で描かれた雑誌『正論』連載中の『戦争史観の転換‐日本はどのように「侵略」されたのか』が書籍化された暁には、それこそが第四部目となるのでは、と想像を逞しくしました。

西尾先生はご講演の締め括りに平泉澄の『我が歴史観』を共感と共に紹介されましたが、私は次の言葉を思いました。「凡そ不誠實なるもの、卑怯なるものは、歴史の組成(くみたて)に與(あずか)る事は出來ない。それは非歴史的なるもの、人體でいえば病菌だ。病菌を自分自身であるかのような錯覚をいだいてはならぬ。」(『少年日本史』「はしがき」)
大正末から昭和45年と長い時間を隔てていますが、「歴史は畢竟、我自身乃至現在の投影。」の認識を経ての言葉であることを思えば『少年日本史』の響きは変わります。そして今日の教育現場では正に「病菌」という錯覚を「自分自身」として教えているといえます。「自虐史観」と謂われますが、自分という認識が無ければ「加虐史観」です。決して歴史の名に値しません。

過去は、裁いたところで、幻とはならない。必要なことは、過去の悪をことごとく肯定する勇気である。さもないと、将来ふたたび反省や後悔をくりかえし、現在の自分の立場もまた悪として断罪の法廷に引き出されることになるであろう。(『第三巻 懐疑の精神』24頁下段)

結局過去の認識は現在に制約されているといえる。われわれの熟知しているごく近い過去の出来事ひとつの解釈にしても、じつに数かぎりない解釈が存在することはわれわれの通常の経験である。それはおおむね歴史家ひとりびとりの個人の主観の反映である場合が多い。あるいは時代の固定観念、すなわち通念の反映像という場合もありうるだろう。つまり過去像はそのときどきの現在の必要に相応して描き出されているのである。(『第四巻 ニーチェ』495頁上段から495頁下段)

「歴史」は「今」を生きる私たちにとって相対的なものです。時代区分についても、「境」は「今」を基準にして後付けするのです。必然的に最近の出来事の方が情報量も多く関心も高いから細かく境を細かくするものです。それはけっきょく自己都合に過ぎません。今から五百年や千年も経てば、細分化さる「今」もかなりザックリと括られてしまうのです。それは仕方のないことでしょう。
「今の自分」との関係から「史実」を取捨選択して「歴史」の材料とするのですから、その「今の自分」という「主体」を無くして歴史はできません。ましてや万国共通の「世界史」など描くことは出来ません。史実と歴史とはまったく別問題で、だから「歴史は行為」することなのであって、歴史からそれを描いた主体がよく見えることはおかしいことではありません。しかし戦後70年かけて「文学が無くなってしまった」時代にどう歴史を描いてゆくのでしょう。

 過去は現代のわれわれとはかかわりなしに、客観的に動かず実在していると考えるのは、もちろん迷妄である。歴史は自然とは異なって、客観的な実在ではなく、歴史という言葉に支えられた世界であろう。だから過去の認識はわれわれの現在の立場に制約されている。現在に生きるわれわれの未来へ向う意識とも切り離せない。そこに、過去に対するわれわれの対処の仕方の困難がある。(『第六巻 ショーペンハウアーとドイツ思想』207頁下段)

過去は固定的に定まっているのではなく、生き、かつ動いているのである。また、過去を認識しようとしている人間もまた、たえず動いている。歴史は、動いているものが動いているものに出会うという局面ではじめて形成される創造行為である。(『同上』482頁上段から下段)

 プラトンの対話篇『国家』でイデアを説くところの「洞窟の比喩」に、ことの難しさを感じます。
生まれながらにして洞窟内に脚と首とを縛られて壁に向かって坐らされている囚人たち。背後に松明(たいまつ)が燃えているが、彼らは振り返ることが出来ないので、彼らの背後をいろいろな物を持って行き来する人々の「壁に映る影」だけを見続け、それを影とは知らず「もの」と思い込んでいる。囚人には影以外のものが見えないからです。あるとき、ひとりの囚人が束縛から放たれて後ろを振り返り歩みだします。松明の光は眩しく目は慣れないが、何者かに外界に連れ出されてしまう。やがて外界に慣れてくると「ものの影」ではなく「そのもの」の姿を認めるようになり、太陽こそがことの原因であることを悟ります。彼は再び真っ暗な洞窟に帰り、縛られ続けている他の囚人たちに外界のことを話し、彼らを連れ出そうと束縛から放ちますが、囚人たちは彼を信用せず捕らえて殺してしまう・・・。
 以上のような筋でしたか・・・。囚人たちは「影」しか知らないので「そのもの」を、それがどうであれ受け容れることが出来なかったということなのでしょう。また囚人の束縛は、囚人の生の支えであったという気もします。

いつの時でしたか西尾先生とお話をしたとき、「私の言論は10年ほど経ってから理解される。」と仰有るので、私が「教育や移民問題を思えば、四半世紀は先んじていますよ。」と申したところ、「それでは困る。」と仰有いました。西尾先生が困られるのも当然で、「今起こっている」問題について声を挙げていらっしゃるのだから「先見」ではなく、「今」響かないのは確かに困るのです。10年や25年経ってから響くようでは全く困るのです。失礼なことを申してしまったと思いました。であれば、雑誌『正論』の中で異彩を放っている西尾先生の連載は今ますます重要で、「戦争史観」五百年史観は、日本人は直ぐにでも「転換」するべきものと思うのです。

最後に、私がこの度のご講演に関連していると感じた西尾先生のアフォリズムを、全集から幾つか拾って纏めてみます。

歴史は認識するものでも裁断するものでもなく、可能なのはただ歴史と接触することだけであり、そこに止まって「成熟」するより他に手はない。(『第二巻 悲劇人の姿勢』36頁下段)

歴史は個人を超えている。知性は全体を把握することができない。知性が歴史全体に対し神の位置に立ったとき、歴史は姿を消す。過去に対しても、未来に対しても、個人は不自由である。不自由の自覚を通じて、個人は初めて「現在」に徹する自由への第一歩を踏み出すことを可能にするのみである。(『同上』143頁下段「知性過信の弊(二)」)

われわれが現在の価値観によって制約され、過去を認識しているにすぎないのなら、自分が未来に何を欲し、どう生き、いかなる価値を形成しようと望んでいるかを離れて、われわれの歴史認識は覚束(おぼつか)ない。過去の探求は、一寸先まで闇である未来へ向けて、われわれが一歩ずつ自分を賭けていく価値形成の行為によって切り開かれる。過去を知ってそれを頼りに未来を歩むのではなく、未来を意欲しつつ同時に過去を生きるという二重の力学に耐えることが、人間の認識の宿命だろう。(『第四巻 ニーチェ』495頁下段「第二節 ワーグナーとの共闘」)

歴史は客観的事実そのものの中にはない。歴史家の選択と判断によって、事実が語られてはじめて、事実は歴史の中に姿を現わす。その限りで、歴史はあくまで言葉の世界である。けれども、歴史家の主観で彩られた世界が直ちに歴史だというのではない。そもそも主観的歴史などは存在しない。歴史家は客観的事実に対してはつねに能う限り謙虚でなくてはならないという制約を背負っている。客観的事実と歴史家本人とはどちらが優位というのでもない。両者の間には不断の対話が必要な所以である。(『第五巻 光と断崖― 最晩年のニーチェ』24頁下段から25頁上段「光と断崖」)

 過去は定まって動かなくなったものではなく、今でも絶えず流動し、休みなく創造されているものである。あるいは絶え間なく再生産されていると言っていい。そして、そうでなくなったものにとっては、どんな素晴らしい過去といえども死物に過ぎない。過去の文化とはそもそも幻影であって、実体ではないのだ。実体はあくまでそれを受け取って再生産する後世の人間の意識の運動の中にしかない。しかもそれはきわめてあやふやな運動で、時代によって異なった幻影を生むし、個人によって異なった再創造の試練を受ける。後世の人間がそのあやふやさに耐え、何らかの価値を賭けていく行為こそがまさしく文化なのではないだろうか。(『第七巻 ソ連知識人との対話 ドイツ再発見の旅』551頁下段から552頁上段「文化観」)

総じてヨーロッパ人がアジアに対する「公正」や「公平」を気取ろうとするときは、ヨーロッパの優越がまだ事実上確保されている場合に限られよう。もし優位がぐらつき、本当に危うくなれば、彼らの「公正」や「公平」は仮面をかなぐり捨て、一転して、自己防衛的な悪意へと変貌することにならないとも限らないのだ。(『同上』349頁下段「仮面の下の傲慢」)

 変わっていなくても勿論いい。日本は日本である。われわれの「近代」がヨーロッパを追い越す段階に達した今になって、日本はやはり日本だったということがはっきりして来たまでのことである。われわれは江戸時代以来の社会心理、人間関係、エートスを保存したまま、外装だけ近代技術の鎧(よろい)で武装して生きているのだ。それはそれでなんら不思議はない。(『第八巻 教育文明論』258頁下段から259頁上段「第八章 個人主義不在の風土と日本人の能力観」)
 
 西尾先生は平泉澄の『我が歴史観』をご紹介されながら胸に深く響いたと仰有いましたが、私は西尾先生の言葉触れて唯々思い入るのです。
 了

「西尾幹二全集刊行記念講演会報告(六)」への2件のフィードバック

  1. 「好太王碑・建立年」に関する疑問

    吉林省集安市・鴨緑江を南面に臨んで建立されている周知の「好太王碑」について、以下の疑問を呈する。 この碑は、高句麗が勢力を盛り返した4世紀後半、すなわち西暦390年頃、第19代廣開土王の戦勝記念の功績を称え、西暦414年に建立されたものであるということが一般に定着して
    いる。 しかし、この建立年代と碑文中の文言に些かの疑問が生じる。その疑問とは、西歴414年という建立時期が正しい年時であるとすると、碑文中の次の一文が矛盾し、理解し難くなってくることに起因する。

    「…百残新羅舊是属民由來朝貢而倭以辛
      卯年來渡海破百残□□新羅…」
       百残(ひゃくざん)・新羅(しんら)は旧(もと)これ属民(ぞくみん)、
    由来(ゆらい)朝貢(ちょうこう)。倭、辛卯(しんぼう)の年(とし)を
      以(もっ)て来(き)たり。海(うみ)を渡(わた)り百残(ひゃくざん)
    □□新羅(しんら)を破(やぶ)る。…

    上記の一文中、「百残」と「新羅」の名称ある故に、少しくいぶかしくなる。好太王の碑が建立されたという四百年代、「百残」は既に死語となり、支那側の文献にも一つの国家として『百済傅』として伝えられている。又、「新羅」という国号は、この建立の世紀には未だ現れて来ていない。
    「新羅」という国号が、対外的にも認められ、『新羅傅』として記載される様になるのは6世紀頃からであり、四百年代成立の文献記録中には「斯
    羅」、或いは、「斯盧」であり、それも旧弁辰の一属邦的存在として出てくるのみである。即ち、「好太王碑」の碑文中には、かなりの昔に消滅した国名と、遙か後世に至って現れてくる国名が、混然と刻されている。ということは、建立年代が414年ではなく、新旧こもごも交え聞いた人が、6世紀以降に入ってから建てたものではなかったか?既に存在しない国名と、未だ現れていない国名が並記されていることが謎とする所以である。如何なるや。 この「好太王碑」そのものが、確かに今日に現存する立派な文化遺産であることを否定するものではないが、建てられたという年代と碑文の内容に、些かの疑問が出てくることを指摘した学者は、残念ながら、未だ一人もいないようである。これも不思議な話であろう。

    さらにもう一つの疑問。碑が建てられたという世紀、すなわち、四百年代初頭の「高句麗」は、丸都山城時代であり、鴨緑江流域から北韓の大同江流域周辺は、未だ「百済」の占拠する所となっていたはずである。碑の建てられた地区を奪還し、「平壤城」に遷都するのは次の第20代長寿王・璉の時代に入ってからである。すなわち、西暦427年に至ってからである。ここに一つの問題を提起しておきたい。 なお、『三国史記』では、「高句麗」を除くとし「百済・新羅」などが西暦前成立したことになっている。しかし、これはあまり信用できるものではない。このことを裏付けるべき支那側の文献には、一切記載されていないのである。 
                     追記

    「遼朝」および「金朝」以後、古の「高句麗」の国都に関しては、歴史のページから記述が絶え、その遺蹟などについても人々から忘却され、「空山鵑(けん)叫び、風江星冷やかなり」と形容される状態になったと言われる。蔓草(つるくさ)生い繁る荒都中に巨墳が苔むして存立していたが、それが何なのかと知る人は存在しなくなった。

     例えば1444年成立の文献『龍飛御天歌(たっぴぎょてんか)』中にても、その存在が明らかにされていず、又、1536年頃の朝鮮驚辺使・沈 彦光が、満浦から集安辺を眺望して「完顔(わんやく)の故国・荒城あり、皇帝の遺墳巨碣(けつ)存す」と述べるに止まり、さらに又、1872年成立の『江界志』中においても、その石碑が何たるかが全く理解されていなかった。 さらに又、現北朝鮮の科学院々士・林 時亨博士も「その陵の真相は全く分からない」という程度の認識しかなかったという。

    この巨碣が「好太王碑」であるということが明らかになったのは、西暦1882年・明治15年であったにもかかわらず、当時、朝鮮はこの程度の知識しか持ち合わせていなかったということに驚かされる。
    「好太王碑」であると判明する以前は、「後金」の皇帝陵墓くらいに見なされていたらしく、この碑文中に出てくる「高句麗」と戰ったという「倭軍」・「倭」を、当時の朝鮮の学者達は、大体において今の南韓方面の在地勢力と解釈していたと言われる。

     しかし、「日・韓併合」と期を同じくし、その解釈は全く無視された。日本の御用学者達が、「倭」とは古の「日本帝国」、すなわち「倭=古代日本」であるという改竄解釈をごり押し通した。その結果、それが今日現在「定説」として浸透し、そのため、碑文中の意味と史実が全く噛み合わなくなってしまったという。つまり、問題は、玄界灘の険を冒して幾たびも鴨緑江一帯まで「倭」即「日本」が進入し得たか否かという大なる疑問である。その解釈弁明は、世の達識に委ね、ここでは問題を提起するに留め置くこととする。

  2. 原田伊織(著)「明治維新という過ち日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」
    著者は、武家の末裔で、広告業界の人

    昭和21年京都・伏見生まれで、幼少時代を近江、佐和山、彦根で過ごし
    司馬遼太郎と同 じ大阪外国語大学を卒業、広告・編集の世界に入った人
    マーケティングプランナー、コピーライター、クリエイティブ・ディレクター、として
    活動している。小 説やエッセイも出している。いわゆる団塊世代より少し上の世代。

    敗戦後の占領を自覚しなかった日本人

    著者が生まれた年に米軍の占領が始まり、小学校に上がる前年日本は独立を回復する。ところが日本人自身に、自国が外国に占領されていたという自覚がほとんどないと
    著 者はいう。また日本が歩いた敗戦に至る過ちを「総括」することもなかった。
    ただ単純に、昨日までは軍国主義、今日からは民主主義と囃し立て軸を大きく
    ぶ らしたにすぎなかったと。そして明治維新の時も同じだったと著者は主張する。
    それまでの時代を全否定し、ひたすら欧化主義に没頭した。没頭したあげく
    吉 田松陰の主張した対外政策を忠実に従って、大陸進出に乗り出していったの
    だという。日本に近代化をもたらしたとされる「明治維新」を一度も総括することが
    なくただ極端から極端へとぶれることを繰り返しただけなのだと著者はいう。

    明治維新は、官軍の創作にすぎない

    歴史というものは、勝者が作り上げるものであり、そこには多かれ少なかれ嘘や捏造が紛れ込んでいる、という認識はある。しかし、その多くが、薩長政権による創作であるとしたら、どうだろう。NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」が描くような吉田松陰や門下生による幕末/明治維新は、本当に存在したのだろうか。松陰や門下生の活躍を描いた司馬遼太郎「世に棲む日々」を読むと、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作たちがやったことは、現在でいうならテロである。異国船での密航、英国公使の暗殺未遂、英国公使官の焼き討ち、幕府老中の暗殺計画などは間違いなくテロである。司馬遼太郎は、それらを「革命」という言葉で救っているが、果たしてそれは正しかったのか?

    官軍教育が教える明治維新とは

    著者はまず、薩長政権が作り上げた「明治維新」とは何かを提示する。
    長く鎖国が続き、封建体制のまま停滞していた日本を、欧米の列強による
    植民地化から防ぎ、大いなる近代化をもたらした革命 その立役者が薩長土肥の
    下級武士を中心とした「志士」たちだった。
    長州の桂小五郎、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、山県有朋、伊藤博文、井上馨、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、土佐の坂本龍馬、板垣退助、後藤象二郎、肥前の大隈重信江藤新平などである。彼らは幕府や佐幕派の勢力の弾圧に屈せず、「戊辰戦争」に
    勝利して、討幕を成し遂げ、日本はようやく近代化への道を進み、今日の繁栄があるのだ。それが著者が教えられた「官軍の 歴史」である。しかも学校での教育だけではなく
    エンターティンメントの分野でも「新撰組など悪の勢力と戦い、勤皇の志士を助ける
    正義の味方、鞍馬天狗」などの作品が「明治維新」を国民に刷り込んでいったのだ。
    「竜馬がゆく」を書いた司馬遼太郎にも、その責任の一端はあるという。
    著者は、この「官軍による明治維新」をほぼすべて否定する。そして勝者ではない
    側の視点から幕末史をもう一度見つめ直そうとする。

    テロリスト集団長州藩

    著者がまず注目するのは、薩長土肥の勤皇の志士の人物像である。
    彼らは、今でいうなら「暗殺者集団」、つまりテロリストであると著者はいう。
    我が国の初代総理大臣は「暗殺者集団」の構成員だったのである。また維新の
    精神的支柱と言われた吉田松陰が、事あるごとに、どれだけ暗殺を主張したか。
    著者は、本書で多くのページを費やして、長州、そして薩摩のテロリストぶりを紹介
    していく。高杉晋作による英国公使の暗殺未遂や英国公館の焼き討ち、久坂玄瑞らに
    よる京での残虐なテロの数々。そして天皇の拉致、御所への砲撃も辞さなかった
    長州のクーデター計画。幕府を挑発するために、江戸において火付け、強盗、強姦、殺人など暴力の限りをつくした薩摩の赤報隊「大政奉還」や「王政復古」をめぐる薩長勢力と幕府や佐幕派の熾烈な暗闘そこで薩長が仕組んだ、天をも恐れぬ策略の数々そして著者は、テロリストたちの元凶とも言える吉田松陰の実像に迫っていく。

    吉田松陰像の嘘

    長州の志士たちの中でも、最も嘘で固められているのが、吉田松陰であると
    著者はいう。松陰は、乱暴者が多い長州人の中でも、特に過激な若者に
    過ぎず、いわば地方都市の悪ガキであると著者は決めつける。松陰が開いたとされる松下村塾は、実は松陰の叔父の玉木文之進が開いたもので
    あったという。松陰が神格化されるのは、維新後しばらく経ってから、自らの
    出自を権威づけたかった山県有朋の手によってであるという。松陰の思想というのも
    稚拙なもので、北海道の開拓、北方の占拠、琉球の日本領化、朝鮮の属国化、満州
    台湾、フィリッピンの領有などを主張している。奇妙なことに、長州閥が支配する
    帝国陸軍を中心とした勢力は、松陰が主張した通りにアジアを侵略し、そのあげく
    日本を滅ぼしてしまうのだ。

    松陰の思想のルーツは水戸学

    著者は、さらに松陰や長州の志士たちを駆り立てた思想のルーツは「水戸学」にあると指摘する。吉田松陰は、水戸学の中心人物である藤田東湖を崇拝したという。
    著者によると「水戸学は学問といえるような代物ではなく、空虚な観念論を積み重ねそれに反する生身の人間の史実を否定し、己の気分を高揚させて自己満足に浸るためだけの〝檄文〟程度のものと考えて差し支えない。この気分によって水戸藩自身が、四分五裂し、幕末には互いに粛清を繰り返すという悲惨な状況に陥った。」という。
    水戸で生まれた浅薄な狂気の思想が長州を狂気に駆り立て、幕府を滅ぼし、その後も
    水戸藩ゆかりの人物たちによって日本ファシズム運動として受け継がれていく。
    この流れが昭和初期に5.15事件や2.26事件を惹き起こし、日本を大東亜戦争
    へと導いていく。戦後にいたっても、三島由紀夫の楯の会の学生たちは水戸学の
    信奉者であったという。この水戸学を生み出した張本人が2代目藩主である
    水戸光圀(水戸黄門)と9代目の徳川斉昭であると著者はいう。水戸の攘夷論の
    特徴は「誇大妄想、自己陶酔。論理性の欠如」につきると著者はいう。
    大言壮語しているうちに、自己陶酔に陥っていく。この傾向は長州軍閥にそのまま
    継承され、昭和陸軍が、結局、軍事という最も論理性を求められる領域で論理性を
    放棄し、自己陶酔と膨張本能だけで支那戦線を拡大していったことにつながって
    いったという。

    有能なテクノクラートが揃っていた幕末の幕府官僚たち

    第4章水戸学の章で、著者は徳川斉昭を海防参与という職に就かせた
    老中阿部正弘について語る。狂信的な攘夷主義と勤皇主義を唱える
    水戸の徳川斉昭を、「海防参与」に就かせ、国政に関わらせたことは阿部の最大の
    失策であったと著者は主張する。しかし阿部は、その後の近代につながる政策を
    次々と打ち出した。日米和親条約の締結、講武所や長崎海軍伝習所の設立、西洋砲術の導入と推進、大船建造の禁の緩和、優秀な若手人材の起用など。中でも、動乱の
    時代の幕政を担った若い官僚たちの活躍には目を見張るものがあるという。
    例えば勘定奉行の川路聖謨(かわじ としあきら)は、対露交渉でプチャーチンと外交交渉を重ね、ロシア側の譲歩を引き出している。もしも薩長勢力による倒幕が成功せず
    江戸幕府が、慶喜が想定したような英国型公儀政体を創り上げ、小栗上野介が実施しようとした郡県制を採り、優秀な官僚群がそれぞれの役割を発揮すれば、長州・薩摩の
    創った軍国主義国家ではなく、スイスや北欧諸国に類似した独自の立憲国家に
    変貌した可能性は十分にあったと著者は語る。

    会津・二本松の悲劇

    第5章は、戊辰戦争最大の山場ともいえる会津戦争を中心に、二本松藩、会津藩の悲劇と官軍の残虐ぶりを、会津側に立った同情的な視点から描いていく。
    NHK大河ドラマ「八重の桜」で描かれた世界だが、従来の官軍側の視点でなく賊軍側の視点で戊辰戦争を見ると、こうも違うのかと驚かされる。

    西南の役と士道の終焉

    維新後の政権は薩長閥の政権と言われながら、実質は長閥(長州閥)の政権であったと著者はいう。薩摩は、維新後間も無く大久保と西郷の対立によって分裂する。
    これによって、薩摩の力が弱まり、実質的には、長州閥が支配することになり、この
    ことが国を滅ぼすことになったという。政府は、昨日まで攘夷・復古を掲げながら
    今日になった途端180度方向転換し、卑しいほどの西欧崇拝を押し付けたのだ。
    廃藩置県は、武家によって武家の存在を抹殺するクーデターであった。これに
    対して不平士族の反乱が次々に起きる。西南の役は、不平士族の最後の反乱であった。西郷は武士であり、武士を愛していた。しかし日本が国民国家に変身するためには
    武士は消えなければならない、ということも理解していた。西南の役は、行き場を失った
    西郷と武士たちを自ら始末する場であったのだ。

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