お知らせ
★出版 5月号の月刊誌の私の仕事は次の二作である。
(1) ライブドア問題で乱舞する無国籍者の群れ
『正論』45枚 短期集中連載「歴史と民族への責任」第3回
(2) 日本を潰すつもりか――朝日、堀江騒動、竹島、人権擁護法――
『諸君!』45枚
★出演 4月8日(金)午後9時~10時 日本文化チャンネル桜
私が次のトーク番組に単独出演します。ミュージック・スペシャル(第一回)
司会 烏丸せつ子(女優)、扇さや(ジャズ歌手)
私の少年時代、喧嘩、初恋、好きな女優、好きな音楽、好きな映画、カラオケなどを語る。そして私も一曲歌います。
(チャンネル桜をごらんになりたい方は Tel 03-6419-3911へ)
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『人生の深淵について』の刊行(四)
私は道徳というものが嫌いである。正義も嫌いだが、道徳が顔を出すと、人間を考えるうえですべてが台無しになる。
この本の冒頭は「怒りについて」と名づけられている。怒りは恐しい。人は怒りに駆られると何をしでかすか分らない。自分を制御できなくなった怒りは身を亡ぼす。現代では犯罪の現場以外に、そのような怒りの爆発の機会はない。
怒りは文明のオブラートに包まれて、個人生活の奥の方にそっと隠される。この自己隠蔽は、現代人が自尊心を失っていることとある意味でパラレルである。
大きな自尊心を持った人だけが後世が驚く大きな業績を達成する。しかし大きな自尊心はまた同時に一身を破滅させる危い感情と隣り合わせでもあるといっていい。
つまり真に価値のある行為は危険と一体で、道徳とは関係がないということを私は言いたいのである。道徳は人間の行為を小さくする。
自尊心を傷つけられ、怒りで判断を失うようなことは、誰でも人生のいろいろな場面で遭遇するだろう。が、それを恥じてはならない。それくらいの愚かさを持たない人間の自尊心はたいしたものではないのだ。
「道徳的」であることや「社会的に正しい」ことはこの場面では次元が低いのである。高い宗教心を持つ者も道徳を決して尊重しない。道徳は信仰の妨げである。信仰は危険に生きることを内に含むからである。
さて、私の本が人生の「深淵」についてと題した理由はここから察していたゞけよう。「深淵」とはきわどい場所であり、辷って足を踏み外したら、あっという間に奈落へ落っこちてしまうこわい場所である。
私の本は「怒り」につづけて、「虚栄」「孤独」「退屈」「羞恥」「嘘」「死」「宿命」「教養」「苦悩」「権力欲」についてそれぞれ考察している。どの語もきわどい場所を示している。「人生の深淵について」という言葉の意味が何となくお分かりいたゞけるだろう。
完本作成のための試みなので、一般誌紙の書評の対象にはならないと思っていたら、『週刊文春』(2005、3、31)に小さな記事が出た。
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昨今流行の浅薄な人生相談の類ではない。個人的体験と歴史の相関をふまえ、内省を重ね抽出した“モラル”の本である。保守思想家として有名な筆者の、厳しい精神修養の足跡も感じさせる。
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それからAmazonのレビュー欄(2005、3、16)に書評(筆者kitano daichi)が出た。その一部に次の言葉がある。
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この本が解き明かしているのは、人生の様々な問題の結論や解決では決してない。生きることのどうにもならない理不尽さ、生きる意味を知らない苦しみ、死の恐怖・・・・・軽薄な励ましに満ちた人生論が多い中、本書の人生を誠実に見つめる姿勢に深い共感を覚えた。
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どちらも読者に甘いことばを囁くたぐいの人生論ではないと言ってくれているのは有難いし、当っている。
その意味でこの本のカバーに大きい文字で「生きることに不安を感じ、迷ったとき思わず手にとる本がある。それが西尾人生論だ!」は必ずしも正確ではない。むしろ「生きることに自信を感じ、気力充実しているときに手にとるべき本がある。それが西尾人生論だ!」というような言葉を掲げてくれた方がこの本の実際に近いだろう。
この本を読むにはそれなりの勇気が要るからである。おどかしているのではない。心の奥に「驚き」を感じて欲しいからである。弱い心はただ読み過ごすだけで、驚いて立ち停まることを知らない。プラトンは「驚き」こそがものを考える泉だと言っている。
その意味で宮崎正弘さんの「国際情勢・早読み」(2005.3.11)に付記された書評は、拙著が氏の心の奥に触れたことを示す文言があって嬉しかった。
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本書に収録された文章の幾つかは扶桑社版『西尾幹二の思想と行動』で一部読んだ記憶があるが、こうやって定本となって新しいかたちにまとまると、ああなるほど、こういうかたちに結局は落ち着いたのだと一種不思議な感慨にとらえられる。
大方の文章は、しかも四半世紀前に或る雑誌に四年間に亘って連載され、それから二十年間、単行本にされなかった理由こそが、本書をよむ愉しみ、本質的な人生論になる。
小学生時代のささいな友人との衝突や、疎開先でのいじめや、青年時代の友情と破裂と嫉妬のなかで、微細な風景画をみるような、詩を書く少年のごとく、感受性に富んだ心理描写が随所に出てくる。
西尾氏が人生にもとめたもの、友人のうちの何人かが、結局はつまらぬ人生を送った経緯などを対比されながら、やはり公表を今日までひかえた人間的な動機も読みすすんでいく裡に深く頷けるのだ。
批評家の顔、翻訳者の顔、哲学者の顔、そして「行動者」の顔をあわせもつ近年の氏の複雑な思想の軌跡は、単なる保守哲学をもとめたのではなく、モラリストとして人生の真実を求める営為であったのか、とこの作品を読むと得心がいくのである。
嘗て『テーミス』誌が西尾さんを「保守論壇の四番バッター」と評したことがあった。この希有の行動をともなう知識人は、しかし何故に書斎から飛び出したのか?
「言葉は何千キロをへだて、何百年をへだててわれわれに伝えられるとき、どんなに厳密な仕方で再現されても、万人に等しく、同一の内容が、そのままに正確につたえられるというものではない。受け取るわれわれが千差万別であることに左右されるからである。言葉の理解は受取手いかんに依る。われわれは誰でも自分自身の背丈でしか相手をはかれない」。
だから書斎にこもりがちの「読書する怠け者」を遡上にのせて、
「もうひとつ大事なことがある。遠い異国や遙かな過去の詩人、哲人、聖者たちの遺した言葉が、よしどんなに魅力的で、深い内容をたたえていたとしても、それらの言葉は彼らの行為に及ばない。彼らの体験に及ばない。言葉は行為や体験よりも貧弱なのである。」
ここで西尾氏は『ツァラトゥストラ』の次の言葉を引用されている。
「いっさいの書かれたもののうち、私はただ血で書かれたもののみを愛する。血をもって書け。そうすれば君は血が精神であることを知るだろう。他人の血を理解するなどは簡単に出来ることではない。私は読書する怠け者を憎む」。
三島由紀夫の檄文を思い出した。
「行動」についても次のように考察されている。
「行動とはーーたとえいかように些細な行動であろうともーーおよそ事前には予想もしなかった一線を飛び越えることにほかならない。事前にすませていた反省や思索は、いったん行動に踏み切ったときには役に立たなくなる。というより人は反省したり思索したりする暇もないほど、あっという間に行動に見舞われているものなのだ」。
執筆時期とは関係なく西尾さんの人生の本質をめぐる行動哲学の源泉が四半世紀前にこのように開陳されていたのだった。
3月11日 宮崎正弘の国際情報・早読み より
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これを読んでいて、氏はあのプラトンの「驚き」を感じて下さったのだと思った。そして、書き方から感じたのだが、氏は文学者だということである。毎日のように綴られる「国際情勢・早読み」のグローバルな情報把握力にすっかり感服しているが、根はもともと浪漫派、詩人的なところのある人なのである。
私は宮崎さんにメイルで書評のお礼を言ったら、折り返し次の返信が来た。
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拝復 いただいた『人生の深淵について』は、古典的名作だと存じ上げます。
アフォリズムに溢れ、しかし実体験からの箴言がまぶされていますから感動が深い
と思います。
じつは家内も徹夜で読んで、次は娘が読みたいと言っております。
月末「路の会」でお目にかかるのを楽しみにしております。
宮崎正弘
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奥様までが熱心に読んで下さっているというのである。これには感激し、心から感謝の思いを新たにしたのだった。
テレビ朝日でまた変更報道をしています。
>「つくる会」の教科書が使われるのは、初めてのことです。
>この決定が波紋を呼び、入学希望者が集まるか心配されましたが、
>結果的には定員144名のところ、700名近い受験生が集まりました。
これは「つくる会」の教科書が支持されて生徒が集まったと解釈しても良いのに
>使用する教科書にこだわるというよりも、高校受験に縛られずに
>学べる環境が魅力的に映ったようです。
と最初に自分で挙げた論点、『「つくる会」の教科書使用で入学希望者が
来ない可能性』から意図的にずらしても「つくる会」教科書を貶める狙いが
有ると判断出来ます。
そして、下記のアドレスは昼のニュースのものですが
先程やったテレビ朝日の夕方のニュースはこれと同じVTRを使用しつつ
中学生を映す時に重低音のBGMを被せ不快感を視聴者に
感じさせる様に編集したりと小細工を施しています。
(多少VTRの時間は長くなっていました。)
報道ステーションでも使われる可能性が有りますので
要チェックです。
東京の中高一貫公立校で「つくる会」教科書を使用
http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/soci_news3.html?now=20050407171845
http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/soci_news3.html?now=20050407171844_300k
東京都内の公立学校で、初めての中高一貫校の入学式がありました。都内の普通科として唯一、中国や韓国から反発を招いている「つくる会」の教科書を使って授業が行われます。
東京都の教育委員会は去年夏、4年前の検定に合格した扶桑社の「新しい歴史教科書」と「新しい公民教科書」を、新しく開校する白鴎中学校で使うことを決めました。東京都では、養護学校などを除く公立中学校で「つくる会」の教科書が使われるのは、初めてのことです。この決定が波紋を呼び、入学希望者が集まるか心配されましたが、結果的には定員144名のところ、700名近い受験生が集まりました。使用する教科書にこだわるというよりも、高校受験に縛られずに学べる環境が魅力的に映ったようです。