ユネスコ記憶遺産登録

ユネスコ記憶遺産登録の無法ぶりに対しずっとわれわれはなすすべなく、自らの無力に歯ぎしりしていました。しかし次のニュースに接し、ついに無法に切り込んでくれる日本人の実行者が現れたこと、そしてともあれ一太刀あびせることができたらしいことをうれしく思いました。実行者の皆さまに御礼申し上げます。

日本政府には期待できません。民間団体によるこの登録申請は、歴史戦に対する日本側からの初めての挑戦で、日本の歴史にとってまことに画期的なことと思います。

============================

(一社)新 し い 歴 史 教 科 書 を つ く る 会

つくる会FAX通信

第390号 平成28年(2016年)6月3日(金)  送信枚2枚

TEL 03-6912-0047 FAX 03-6912-0048 http://www.tsukurukai.com 

ユネスコ記憶遺産に

「通州事件・チベット侵略」「慰安婦」を登録申請

歴史戦の新しい展開を「つくる会」は支援

5月31日、日本、チベット、アメリカの民間団体が共同して、ユネスコの記憶遺産に2つのテーマを共同申請しました。共同申請とは、一つの国の枠を越えて、複数の国の団体や個人が共同で申請する記憶遺産のルールにもとづくものです。

第一のテーマは、「20世紀中国大陸における政治暴力の記録:チベット、日本」というタイトルで、1937年7月29日に起こった日本人虐殺事件(通州事件)と、戦後の中国によるチベット民族消滅化政策を、中国の政治暴力の犠牲者として位置づけた申請です。

第二のテーマは、「慰安婦と日本軍規律に関する文書」というタイトルで、日米の共同申請です。慰安婦制度の正しい姿を知ることの出来る資料を登録する内容です。

それぞれの申請書の概要部分は下記のとおりです。

なお、この中で、申請の主体となっている「通州事件アーカイブズ設立基金」は、通州事件についての資料の発掘、調査、保存、普及のためのNGO団体で、5月に発足しました。

会見は、「通州・チベット」側から、基金の藤岡信勝代表、皿木喜久副代表、ペマギャルポ、三浦小太郎の各氏、「慰安婦」側から山本優美子、藤木俊一、藤井実彦の各氏が出席しました。今後は年内におおよその結論を出すとみられる小委員会と対応し、来年10月の登録を目指します。

これらの申請の登録が実現するよう、当会も全面的にバックアップをしてまいります。

(1)「20世紀中国大陸における政治暴力の記録:チベット、日本」

<申請者>日本:通州事件アーカイブズ設立基金

チベット:Gyari Bhutuk

<概要> 20世紀の中国大陸では、他国民あるいは他民族に対する政治暴力がしばしば行使された。この共同申請は、対チベットと対日本の事例についての記録であり、東アジアの近代史に関する新たな視点を示唆するとともに、人類が記憶すべき負の遺産として保存されるべきものである。以下、事件の概要を、時間順に従い、(A)日本、次いで(B)チベットの順に述べる。

(A) 日本: 1937年7月29日に起こった通州虐殺事件の記録である。この事件は暴動によって妊婦や赤ん坊を含む無辜の日本人住民200人以上が最も残虐なやり方で集団的に殺害されたもので、日本人居住者を保護する立場にあった冀東自治政府の中の治安維持を担当する保安隊を主体とした武装集団がやったことであった。

(B)チベット: 中華人民共和国建国直後の1949年から始まったチベットに対する侵略行為の記録である。それから1979年までに、1,207,387人のチベット人が虐殺された。犠牲者の中には、侵略者に対する抵抗運動の中で殺された者や、収容所や獄中で拷問の末に殺された者などがいた。チベット仏教の文化は消滅の危機にさらされている。チベットのケースは、日本とは規模は大きく異なるが、残虐行為の実態は驚くほど共通している。

(2)「慰安婦と日本軍規律に関する文書」

<申請者>日本:なでしこアクション、慰安婦の真実国民運動

     アメリカ:The Study Group For Japan’s Rebirth

<概要> 慰安婦comfort womenについて誤解が蔓延しています。正しく理解されるべきであり、記憶遺産に申請します。慰安婦とは、戦時中から1945年終戦までは日本軍向け、戦後は日本に駐留した連合軍向けに働いた女性たちで、民間業者が雇用、法的に認められた仕事でした。他の職業同様、住む場所・日常行動について制限はありましたが、戦線ではあっても相応な自由はあり、高い報酬を得ていました。彼女らは性奴隷ではありません。申請した文書には、日本人33人の証言集があります。これは当時、慰安婦らと直に会話し取材したものです。また、慰安所のお客が守る厳格な決まり、占領地の住民を平等に扱ったこと、ヒトラーのドイツ民族優位論を否定するなど、日本軍の規律や戦争に対する姿勢などが記されている文書もあります。慰安婦制度が現地女性の強姦や、性病の防止に効果があったこと、日本軍は規律正しかったことも記されています。

「ユネスコ記憶遺産登録」への1件のフィードバック

  1. ユネスコ記憶遺産に関しては、最近下記の問題が浮上しました。

    「華僑虐殺」を記憶遺産アジア太平洋版に申請 大戦中の旧日本軍
     投票で不登録 (産経ニュース 2016.5.24)
    http://www.sankei.com/life/news/160524/lif1605240002-n1.html

    「別冊歴史読本永久保存版 兵隊たちの陸軍史 戦記シリーズ47」
    (新人物往来社 1999年8月13日発行)
    に「華僑虐殺事件の証言者たち」という記事があるので、この場を
    お借りして引用させて下さい。(p70~p72)

    …次の座談会は、シンガポール攻略に参加した人たちに、あえて「虐殺」
    について語ってもらったものである。三人とも、第十八師団歩兵第百十四
    連隊第二大隊第二機関銃中隊であった(敬称略)。

    浜竹守(北九州市八幡区)
     私は小隊長でしたが、とにかくシンガポールはイギリスが百年かけた
    要塞だけに大変なものだと、驚きばかりでしたね。中国戦線では弾丸が
    右にきたから左に逃げろ、ということだったけど、ここではいたる所に
    線が張り巡らしてあり、こちらの動きが全部向こうに分かっていて、敵の
    砲の狙いは実に正確だった。

    祐野利夫(北九州市八幡区)
     私は上等兵だったけど、将校の服を着ていましたよ。というのは、敵の
    将校からはぎ取ったからですが、連中のは厚いラシャ生地なんで、それだ
    け弾よけになると思って…。何しろイギリス軍の砲撃はものすごく、繁っ
    ていた林が見る見る裸になりましたからね。

    大森睦夫(福岡市千代町)
     私は初年兵だから、とにかく夢中です。海に向かっているはずの要塞砲
    が、陸を向いてドカーン、ドカーン射って来て、逃げればまたそっちに
    落下する。配線のことなんか分からないから、きっと誰かスパイが正確な
    情報を知らせているんだろうと思った。上陸三日目位から、民間人でも
    何でも殺してしまえという空気がみなぎったのは、こういう事情だった
    からじゃないですか。
    浜竹 
     華僑の多くは、戦闘の最中にもゴム林にいましたね。穴の中にもぐって
    いるんだけど、どうやら十人のうち三人までがスパイらしいと分った。
    山下将軍はああいう人柄だから、食糧と兵器は徴発して宜しいが、婦女子
    や非戦闘員を殺すことはまかりならん、そんな事をしたら銃殺だ、と言って
    おられた。しかし、あまりにも味方の損害が大きいものだから、全部殺して
    しまえということになった。これは、辻政信の命令でしたよ。
     だけど、殺せるもんじゃない。電線で木にくくりつけて行きましたけど、
    後続部隊がそれを殺した。陥落後に戦友の死体処理をしている時分かったん
    ですが、木にしばってあるのが皆はらわたが出ている。女なんか穴から引っ
    ぱり出される時、自分から下着を脱いで股を広げて、手を合わせて拝む。
    こっちはそれどころじゃないから、木にしばったんですが…。

    大森
     第一線の戦闘部員には、非戦闘員を殺す余裕なんてないんです。それに
    敵はイギリスなんだから、参戦していないオランダ人は殺すな、と注意さ
    れたり、無益な殺人はしてはならないと自分は思っていましたけど。でも、
    こちらの生命が危うくなると、どうしても…。

    浜竹
     二月の九日から十五日まで、どこでメシを食いクソをしたのか分からない
    んだな。クソをした記憶が全くない位の戦闘では、もう極限状態ですよ。
    ジャングルの中で誰かに出会うと、恐怖心にかられて見定める間もなく撃つ。
    非戦闘員も撃っただろうし、味方同士の相撃ちも多かったんじゃないかな。

    祐野
     ジャングルの中で伏せていたら英語を話しながら近付いて来るのがいたの
    で、刀で襲ったことがある。ワーッと断末魔の声を上げて倒れましたけど、
    あんな声は初めて聞いたね。

    浜竹
     生きようとするのが人間、それを殺すのも人間。戦争とは、それが本質
    ですからね。殺した事に責任を持てと言われたって、持てませんよ。戦争
    犯罪などと、何事かと言いたいです。
     あの時勝って、市内に入る日を待っていたら、戦闘部隊は行かせないと
    いう。入れたらどんな事をするか分からないからだというけど、皆それで
    グラグラして(頭にきて)ねえ。

    祐野
     凱旋祝いはワシントンでやろうとか、ロンドンでやろうとか言われて、
    市内には行かせない。私はこっそりもぐり込みましたけどね。

    浜竹
     私も半袖半ズボンの軍属になりすまして市内に行った。でも、やっぱり
    戦闘部員を入れなくてよかったんじゃないかな。

    祐野
     戦闘部員がすぐ入ったら、ムチャクチャするですからね。

    浜竹
     そりゃするですよ、頭が変になっとるんですから。市内に入った部隊は、
    兵隊が自動車を一台ずつ獲って乗り回したけど、初めて運転するんだがら
    事故ばかりでね。

    祐野
     戦場掃除は十七、十八日でしたね。九日、十日に死んだ者がもう骨にな
    っていたね。

    浜竹
     戦友の死骸を見ておると、とてもじゃないけど…。
     作戦後に華僑を殺したのは、軍の口達命令があったからです。スパイだと
    いうことでね。それで、やったわけです。随分殺したです。それはもう随分。
    無実の人も随分おったでしょう。二万人?うーん、全部でそれ位の数になる
    かもしれませんなあ。私らも命令に従って、随分やりましたから。戦争です
    な、戦争。戦争はそういうことをする、ということです。

     1965年にマレーシア連邦から独立したシンガポールは工業化政策を打ち
    出し、湿地帯と密林を切り開いて工場用地にした。この時大量の白骨が掘り
    出され、華僑虐殺事件が再びクローズアップされた。日本政府は六十億円余
    の“供与”でその賠償をしている。
     国立国会図書館所蔵の『極東国際軍事裁判所速記録1-436号』にシンガ
    ポールの虐殺に関する証言記録が載っている。

     昭和21年9月10日から、イギリス陸軍大佐シリル・ヒュー・ダリンブ・
    ワイルドによる証言が行われている。ワイルド大佐は作戦室勤務の参謀の時
    シンガポールで捕虜になり、戦後は戦争犯罪連絡将校に専任し、日本軍によ
    る華僑虐殺と捕虜の虐殺・虐待を証言したものである。
     ワイルド大佐は、日本軍がシンガポール市内に入った2月16日から一週
    間だけ、引き渡しをスムーズにするための“連絡官”として行動の自由を
    保証され、2月19日から始まった“不良支那人一斉検挙”の光景を目撃した
    人である。

    検事
     シンガポールには多数の華僑が居ましたか。
    証人
     非常に多勢いました。大多数は英国籍であったと言えましょう。
    検事
     彼らに何がなされましたか。
    証人
     支那人街の二箇所において、日本軍が軽戦車並びに軍隊をもってその街か
    ら隔離しているのを見ました。
    検事
     華僑の銃殺について日本の降伏後調査しましたか。
    証人
     私及び私の部下である将校が過去一年間調査していた問題です。
    検事
     日本軍により何人の華僑が殺戮されたと、あなた言えますか。
    証人
     私は申し立てることができます。その数は確かに五千人を超しております。
     
     ワイルド大佐は英軍が降伏する三日前に赤十字旗を掲げた陸軍病院が襲撃
    され、手術中の患者と軍医が刺殺されたのを始め、病兵二百人が銃殺された
    ことなどを証言している。そして9月16日には、日本軍側が降伏後に作製
    したという『捕虜調査委員会』の報告書を証拠として提出した。
     弁護人の清瀬一郎らは、真偽のほどが明確でない証拠だと抗議したが、
    それらは読み上げられた。それによれば、日本軍はマレーのイポーにおいて
    入手した「抗日華僑名簿」や探偵局資料や警察署犯人名簿など、さらに
    救出された在留邦人の申し立てを参考に、第一次約五千人、第二次約
    千五百人、第三次三百人が検挙され、そのうち二千人が釈放された他は
    “厳重処断”されたとある。
     それらシンガポールにおける処刑の他、マレー半島でも約三千五百人が
    連行されたといい、とりわけ混血児は老若男女を問わず、“敵性”として
    殺害されたというのである。むろん日本本土では虐殺については何一つ
    報道されず、2月16日の『読売新聞』は、
     萬歳・シンガポール陥落/大東亜に歓呼あがる!驕りし英崩壊の第一歩
    と、大見出しをかかげていた。(引用終わり)

     この記事を書いた「太平洋戦争研究会」というのは、「図説 太平洋戦争」
    (編著者 池田清 平塚柾緒 森山康平 河出書房新社 1995年初版)な
    どにも執筆していますが、戦後の考え方をそっくりそのまま体現している
    サヨクと言ってよい組織のようです。

     この記事を読む限り、太平洋戦争研究会は、「虐殺があった」という
    前提で書いているのは明らかです。
    ところが三人のインタビューを見ても、シンガポールというアウェーで
    苦戦した様子がよく分かるし、彼らが随所にスパイの存在をひしひしと
    感じていたことは明白です。
    また現場にいた兵士が、「山下将軍は…非戦闘員を殺すことはまかりな
    らん」と言ったと言っているのに、この記事の執筆者を始めウィキペディア
    を代表とする多くのサイトは、日本軍が最初から虐殺したことになってい
    ます。
     しかしもしあの時、自分が、いや他国の兵士であっても、その現場にい
    たとして、三人の証言者たちのした行動以外の振る舞いが出来たかどうか
    をよくよく想像してみれば、自ずと今回の件も事情が分かってくるという
    ものです。

    「…国家総力戦の名のもとに、ごくごく一部の例外はあったにしても、ほと
    んどの国民が米英撃滅に命を捧げる覚悟で、最後の最後まで戦ったことが、
    中国をはじめアジア各国に対する途方もない戦禍を伴っていたという事実、
    そのことを避けることなく直視する視点を、今もなおわれわれは問われ続け
    ています。(あとがき)」(『図説 太平洋戦争』 池田清=編 太平洋戦争研
    究会=著 河出書房新社 1995年初版)

    上記のあとがきに、太平洋戦争研究会の考え方すべてが表現されています。

    こうした書物が版を重ねて、今も本屋の常設棚に堂々と置かれ、学校で使わ
    れている教科書とともに、この前の戦争を勉強してみようという人々に、
    最初に手に取られるようになっています。

    様々な研究者によって、これまで知られなかった事実や観点が明るみにされ
    ていても、それまでの考え方を変える気がない(或は能力そのものがない)
    従来の執筆者たちは、真正面から反論する道を避け(諦め)、だんまりを決め
    込んで、これまでの主張を続けながら抵抗し、後進を養成することによって
    生き残ろうとしているかのようです。

    戦争犯罪も、スパイの意義も、その他様々な戦争にまつわる概念の緻密な
    精査も何も、やる気のない彼らの主張の骨子を抽出してみれば、「あの無謀な
    戦争をして、周りにも迷惑をかけてすまなかった」という「情」だけです。

    その「情」が、戦争で人を殺すことが「虐殺」だという単純極まりない考え
    方となり、過去も現在も、いつでもどこでも「日本人が悪かった」という、
    とんでもない理屈を生んでいるのでしょう。

    故小野田寛郎氏が、「慰安婦」についても、仕事をするといっても、もともと
    男を相手にするしか何もできない女もいる、と書いているのを読んだことが
    あります。
    こうした厳しい現実を見ようともせず、しかも「情」のしがらみから抜け出
    せないタイプが、悪い女(男)に最もひっかかりやすいのは当然です。こう
    した悪い連中は、カモになるタイプには鼻が利くからです。

    「慰安婦」にしろ「華僑虐殺」にしろ、声の大きさと「証言の多さ」で勝負
    しようとする彼の民族のレベルの低さに、我々日本人の多くは、いい加減
    うんざりして、幻滅しきっているのです。

     

黒ユリ へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です