『少年記』の刊行について

 1998年に新潮選書として二巻本で出した『わたしの昭和史』を改題して、このたび一巻本の『少年記』として出版した。全集の第15巻目である。

 5歳から16歳までの自分史である。こんな幼い日の自分について全集の部厚い一巻に足るだけの分量を書かねばならない理由と必然性が私にはあった。昭和15年から26年までの国運の転変史と重なっている。しかし時局論ではない。一人の「ねんね」がいかにして「少年」になったかの成長の物語である。

 反抗期もあれば、自己破壊の逸脱期もある。大人の世界を背伸びした詩や創作への幼い試みもある。つねに父と母とに守られ、忘れ難い多くの先生に愛されたり、憎まれたりした。

 この一篇の主人公は父と母であり、脇役は次々と私の前に登場した印象的な担任教師群像であった。必ずしも友達ではない。友達という存在が本当の意味で出現するのは17歳―18歳より後である。

 いうまでもなく時代背景は決定的な意味を持っていた。それは以下に示す目次によって明らかであろう。たゞ、どんな時代にあっても一人の幼児が少年になる自己形成の歩みには共通の主題がある。ヘッセの『デミアン』を思い出すと言っていた人もいる。

 けれども、同時にこれは、私の歴史回想記でもある。戦争と戦後を幼年期にどう体験したかの記録でもある。今にして思えば、私の仕事は『少年記』より後、「歴史」をめぐるテーマに一転した。あの戦争をどう思い出すか、という課題に絞られるようになった。そしてそれは日本史の全体や世界の500年史への関心に広がった。その意味で『少年記』は、最晩年の私の根本テーマへの曲がり角であり、跳躍台でもあった。

zensyuu15

西尾幹二全集 第15巻

目次

少年記

遠い日の幻影
二つの夏休み
疎開まで
特攻隊志願の夢
空襲
コンパスの占い
終戦
感情のとどこおり
夜明け
「僕は猫の『クリ』である」
農地改革
あらし
師範附属中学校
対決
偉人論争
社会科
白い帽子
文部省教科書「民主主義」
遊戯と学習
挫折した小説「留やんとKさん」
反逆児
十四歳の懐疑
マッカーサーの日本
アメリカニズム
東京帰還
朝鮮戦争勃発
日本人が思い出せない二十世紀の正午
戦後日本の原型
高校受験
群像
初恋
メランコリー
付録 もう一つの青春
追補 危うい静寂の中から…渡辺望
後記

「『少年記』の刊行について」への1件のフィードバック

  1. 私の昭和史、読みましたよ。疎開されて小学校、中学時代のことを書かれていましたね。学校の教師にも変なのが居るのですね。中々興味深かったです。西尾さん、物が捨てられなくてリンゴ箱に残された。小生も同様で、子供の頃の教科書、ノートが捨てられません。それは、その時代を過ごしたすべての時間が詰まっているからです。子供も現代では被害者なのです、受験の方法を変換する必然性が有るようですね、すべてはそこの競争に集約されますから。どうもその辺が日本人全体の知的な衰弱に起因している様に思います。西尾さん、そう嘆かれますな、しっかりとした記録的なもの、GHQ焚書図書開示、などの業績は、いつか花を咲かせると思います。

時代錯誤 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です