オバマ広島訪問と「人類」の概念(二)

戦後を代表する評論家の嘘

 加藤周一といえばすでに他界されて久しく、死者に鞭打つつもりはありませんが、戦後を代表する最も知的な評論家として国語の教科書にも掲載され、高い評価を得ている人です。ベルリンの壁が落ち、ソ連が消滅した冷戦の終結時に、共産主義をなんとなく応援していた人はあれこれいろんなことを言ったものです。加藤氏も「資本主義が勝ち、社会主義が失敗したわけではないと弁明し、「解体しつつあるのは、スターリン型の社会主義である」と限定し、その後、とんでもない発言をしているのです。

 「政治的には政権交代の制度化において、あきらかに西欧や北米が先行し、ソ連・東欧・中国・日本がはるかに後れていた。ソ連や東欧は今その後れをとりもどそうとしているが、東北アジアの将来は、あきらかでない。1990年1月現在の日中両国には、一党支配が続いている」(連載「夕陽妄語」『朝日新聞』1990年1月22日)

 これも「体制の相違」ということがまったく分かっていないか、または分かっていないふりをして日本の政治を嘲弄しようとしているのです。私は反対意見として、次のひとことを呈しておきました。

 「日本と中国の『一党支配』が原理を異とする、別次元の性格のものであり、この点で氏のように、『ソ連・東欧・中国・日本』と並べるわけにいかないことは、加藤氏よ、13歳の中学生でも弁えている現実である。かつて知性派と目された評論家が、こういう子供っぽい出鱈目を書いてはいけない」(「ロシア革命、この大いなる無駄の罪と罰」『新潮45』1990年3月号)

 この時点で、加藤氏はもちろんご存命でした。

 加藤氏の間違いは、議会制民主主義の上に成り立つ西欧の民主社会主義と一党独裁と私有財産権否定のソ連・東欧・中国のマルクス=レーニン主義とは似て非なるものであり、」完全に原理を異とした別個の体制であって、両者の間に明確な一線を引かなくてはいけない、という最も初歩的な「体制の相違」という観点を曖昧に誤魔化していることです。

 そして、後者が完全に破産していること――すなわちロシア革命の失敗!――から目を逸らすために、西欧の民主社会主義にあくまで「本物の社会主義」を追い求めることで、マルクス=レーニン主義を救えるかのような、少なくともこれを奈落につき落とさないでも済むかのような幻想に取り縋っていたことです。

 いまの日本ではようやくそういう幻想は消えたかもしれませんが、習近平の中国が克服さるべき「スターリン型の社会主義」であることは、どこまで明敏に意識されているでしょうか。「日中両国の一党支配」を一つに見立てるというような、国民の99%が首を傾けるに違いない言葉が大新聞の文化欄に載ったのも、日本人に特有の知覚の欠陥に由来することでなくて何でありましょう。

つづく

Hanada-2016年7月号より

「オバマ広島訪問と「人類」の概念(二)」への5件のフィードバック

  1. 果たして今回の先生の論文とこれから私がお話しする内容が、ちゃんとリンクしているかどうか定かではないのですが、私の経験やおかれた環境の現状を語らせていただき、そこから何かを考え意見を述べさせていただきます。

    私は11年前から地元のある企業に就職し今日に至ります。
    その会社は観光業に属する会社で、多くの中国人を雇用してきた会社です。
    私がこの会社に就職し始めたころの中国人は、いかにも中国のとある地方の純粋な人々が多く、さまざまな苦労を背負ってやってきたことが伝わることが多くありました。

    しかし、たった11年間の間でその感覚はかなり違うものとなり、簡単に言いますと彼らは「利権をうまく利用する民族」という印象しかありません。
    まぁ、最初から彼らの至らない点を述べるのもはばかりますから、まずは彼らの優れた点を拾ってみます。
    その第一点はなにせその語学力に対する偏見性のなさでしょう。
    まずはこの点に我々日本人は最初に大きなインパクトを感じるはずです。
    彼らの能力で一番長けている点はおそらく「聴力」だと思います。
    世界中で話されている言語の細かいところまでを聞き取る能力が、中国人は特に長けているという印象があります。
    それに比べて、我々日本人の一般は、文章に表し書かれている言葉なら理解できても、いざ直接会話の時点になると、全く言語力が生かされないのが現実で、この現実は何なんだと嘆くわけですが、職場でこの話題を中国人の方に持ち掛けたところ、彼ら曰く「中国語の多くには似たような発音がたくさんあるが、少し違うニュアンスの音が様々あり、その違いを聞き分けることができる」と言うのです。
    私はこの話を聞いた時、率直に感じたのは「日本人には聞こえない音を、彼らには聞こえているのかもしれない」でした。

    実際毎年かわるがわる来る中国人研修生のほとんどが、一年間の研修期間で、ほぼ日本語をマスターして帰国する例が多く、この現実は見過ごすことのできない一つの現実なんじゃないかと感じます。

    そこで私が彼らに尋ねたのは「もしも私が中国に1年間住んだら、中国語をマスターできるかな」ですが、彼らは明確に「たぶん無理でしょう」と言うんです。
    その理由がどうしてなのか彼らは曖昧にするところがきになるんですが、どうやら正しい中国語を話せる範囲が限定できないというようなことを言っているんです。
    そこから想像できることは、おそらく、彼らにとって言葉というのは常に「不便」なもので、正しいものが存在していない。その結果様々な音を聞き分ける習慣が日常となり、曖昧な中での常識が実情化されていったと見るべきなのかもしれません。

    おそらく言語の壁というのは日本人が世界で一番根強く感じている民族でしょう。
    それはいい意味でも悪い意味でも。
    その結果どんな現象が生まれているかということが、世界的な規模で考えてみなければならないのが、今この時代の一つの課題なのかもしれません。

    わたしはけしてここで日本語改革をせよと言っているのではありません。それだけは誤解のないよう。私が言いたいのは、現実的に日本人は「音の世界」が狭いのではないか。それによって他国語を聞き分ける能力が少し劣っている部分があり、その弊害が、いくら学校で英語を勉強しても話せることができない現実とつながっているのではないか。そのことをまず言いたいわけです。

    それとは別に、よくあることなんですが、中国人の方々は英語を流暢に話せる方がけっこういますが、離せない方は全く離せないというのも顕著です。
    我々日本人が普通に知っている英語を彼らの一部は全く認知していません。
    よくよく聞いてみると、中国で習う勉強の中に、英語がない人とある人の差だというんです。でも本当でしょうか。私は少し疑っています。

    それから、なんとなくなんですが、最近の中国人研修生の方々は、いわゆる「一人っ子政策」の真っただ中に生まれた世代なんでしょうか、ひ弱ですね。
    昔は逞しくて、可愛い人たちが多かったんですが、最近の中国人研修生は権利を主張する方が多く、最後まで日本を好きになれない状態で帰国するケースが多いです。

    そんな彼らになんとか日本の良さを理解してもらおうと、毎年頑張っているんですが、最近はその意力自体が段々衰えています。

    私は彼らにはあまり歴史の話はしません。意図的にそうしています。
    その理由は、彼らは根本的に歴史を知らないからです。
    彼らが教わっている歴史認識は細かいところまでを知りませんが、日本では常識的な部分を全く知らないし、聞く耳もなく、日本に来て初めて知ったというケースが多いようです。
    でも時々歴史の話に話題が弾むときもあり、その時私が発する意見に、「初めて聞いた」という反応が多々あります。

    たぶんこんなケースは私たちに限ったことではなく、日本国全土で今起こっている現象なんでしょう。
    たまたまそれに接しない方とそれにべったり接している方との温度差は、けっこう大きいのかもしれません。しかもこの現象は一般人が多く接しているという現実ですね。
    ですから、案外いえることは、ネット社会でさえ追いつかないような現実が、いま日本で起きているのかもしれません。

  2. >そこから想像できることは、おそらく、彼らにとって言葉というのは常に「不便」なもので、正しいものが存在していない。その結果様々な音を聞き分ける習慣が日常となり、曖昧な中での常識が実情化されていったと見るべきなのかもしれません。<

    そこから想像できることは、おそらく、彼らにとって言葉というのは常に「不便」なもので、正しいものが存在していない。その結果様々な音を聞き分ける習慣が日常となり、曖昧な中での常識が日常化されていったと見るべきなのかもしれません。

  3. 更に訂正

    >離せない方は全く離せないというのも顕著です。

    話せない方は全く話せないというのも顕著です。

  4. 幹二先生、こんにちは!!

    良い人達から学ぶ姿勢が、八百万神を奉るのだなと思う。

    その 教えは何でも良い。

    16.10.02 , 11:35 , 子路 .

  5. 加藤周一氏は、昭和の40年代初期、「羊の歌」とか「日本文学史序説」などを耽読していた小生としては、当時、やはり文学的知性の一方の旗頭として認識して居ました。朝日ジヤーナルに掲載された羊の歌は、幾らも時を置かず岩波新書に収録され、高校生の小生も、夏休みに家の森からはうるさいほどのセミの声の中に、風通しの好い6畳間で、トウモロコシを齧りながら熟読した記憶があります。上巻・下巻の、比較的小さな本ですが、2~3時間読み続けると、いつの間にか眠りこけ、セミの声はヒグラシの声に代わって居ました。その様な経験が有るために彼の文体は私の参考に成ったと思っています。加藤さんは日本の古典も研究していた様です、大阪懐徳堂のの思想家、山形蟠桃や富永中基をひろく紹介したのも加藤氏でしたが、西尾さんが指摘されている様なことを、加藤氏が書いているとするならば、それは看過できない点でしょう。一党独裁の罪科を、加藤氏が知らないという事などありません、知っていてシナと日本を同じレベルで謂うとしたら、それはあきらかな作為行為に違いない。日本国は過って独裁制を牽いた事はありません。それが日本の国是です。加藤氏丸山真男氏の様な人でさえ、共産主義の洗脳が解けていないのは、むしろ驚くべきことであります。

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