「平成29年年末特別対談」への2件のフィードバック

  1.  西尾先生の年末特別対談で、先生が現在地球を覆う反日グローバリズムに繋がるニヒリズムを糾弾され、全く同感と思いつつ、そのニヒリズムの実体は何かと考え、反日グローバリズムを哲学的?により明確に駁す重要性を以下のように考えました。 遅まきながらの孫引き程度の知識で噴飯ものかもしれず、長文乱文で恐縮ですがお許しいただきたく、そしてもし助言を賜れば幸甚です。

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     昨年12/7のプライムニュースを見ての弊コメントでは、現代日本人の(中国の膨張などによる日本消滅事態という)危機感の無さの原因として、「現状認識の無知」と日本消滅なぞ小事とする地球市民思想(グローバリズム)の蔓延の2点を挙げました。そして、前者の「現状認識の無知」は啓蒙改善の可能性があるが、後者は哲学的正義論に関係するためより根本的で、ニヒリズムと論難するだけでは簡単にその論争に勝利することは容易ではないかと感じています。

     その後者のグローバリズムとナショナリズムに関する哲学的考察に関して、昨年、ナショナリズムと近そうなコミュニタリアリズムの議論を知り、重要な突破口になると直感しました。
     そこで、コミュニタリアリズムを主張しているハーバート大学の政治哲学者M.J.サンデルの言説の解説本『サンデルの政治哲学(正義とは何か)』(2010年12月小林正弥著)をざっと読んでみて、その知識を参考に、サンデル哲学?をヒントに、上記の哲学的正義論に首を突っ込んでみたいと思います。

     まずいきなり核心・結論に入るとすれば、サンデル教授が主張するコミュニタリアリズムは、共同体主義と訳されることが多いようだが、その主張を大胆に要約すれば以下のようになると思う。
     「具体的状況を欠いた抽象的個人【負荷無き自己】は現実には存在せず、そのような個人の権利や正義は存在せず普遍ではない。 あるのは生活する地域や国など、各個人が属する共同体の具体的状況に責任を負った【負荷ありし自己】のみで、そのような個人がその負荷に応えることが本来の正義=「善」である。 言い換えれば、抽象的普遍的な責務・正義が特定のコミュニティーに対する責務・善より優先するとするのは誤りである。」

     つまり、グローバリズムの基礎を成すリベラリズムやリバタリアニズムでは、個人には所与の普遍的権利と自由がありそれを保護すること、自由を全うすることが「正義」=普遍的真理であり、「正義」は上記のような「善」に優先するとしているが、コミュニタリアリズムはこれを完全に否定している。
     例えば、オーストラリアの原住民アボリジニを過去に迫害駆逐したオーストラリアの現在の国民は、リベラリズムでは自分が犯していない先人の犯罪に責任を感じて謝罪し賠償する必要はないとするが、コミュニタリアリズムでは共同体の継承者の一員としての責任を全うしなければならない。
     また例えば、第二次大戦中に占領された故郷を爆撃することを命じられたフランス人パイロットが拒否したことは、リベラリズムでは不正義だがコミュニタリアリズムでは善である。
     他にも、同時に溺れた2人の子供のうち自分の子供の救助を優先する話や、1980年代に飢餓に陥ったエチオピアからイスラエル政府がユダヤ系住民を優先して救出した話など多くの例題が、「白熱教室」で挙げられ対話考察されている。

     もうここまででも明らかだと思う。サンデルによれば、日本消滅を小事として意に介しない様な地球市民的日本人は、自分の状況を忘れ自分を負荷なき自己として誤り、日本の危機を等閑視し世界の問題を優先することを主張する者で、彼らに正義は無いということになる。
     そしてまた、ワンワールドのユートピアを理想とするグローバリストあるいはそのシンパは、地球市民としての負荷なき自己の権利として、国境を排外主義として否定し、基本的人権を主張し、移民の自由を主張し、そして日本消滅を小事とするだろうが、それは不正義不道徳だということも明らかだと思う。

     ここで、「負荷なき自己」を当然とし尊重する思想がなぜ発生したかを考えると、多分、近代自然科学の進展が原因ではないかと思う。 つまり、近代自然科学からは善悪の価値判断は不能で、目的論は無意味であることから、善悪の不存在ないし相対化を確信するようになり、古来からの自然発生的な「負荷ありし自己」の倫理体系、道徳、宗教を否定する極端な自由主義(リベラリズムやリバタリアニズム≒新自由主義)を主張するようになったのではないかと思う。 
     サンデルは、近現代主流の功利主義、カントに発するリベラリズム、フリードマンらのリバタリアニズムを考察否定し、アリストテレスの目的論的正義に回帰しているが、まさに「負荷ありし自己」がようやく復興されつつあるようである。 言い換えれば、今、世界各地でポピュリズム極右と揶揄されているコミュニティーへの回帰のうねりは、第2のルネッサンスなのかもしれない。
     ちなみに、リベラリズムの現代の旗手ロールズは、サンデルの批判を受けて、「負荷なき自己」を放棄してその戦線を縮小してしまったとのことである。

     ただ、サンデルがナショナリズムを無条件に肯定しているわけではないことは注意したい。
     「我々は多様なコミュニティーから時には対立する責務を求められるが、前もってどれが優先されるべきかを決めることはできない。それは、各人の人生の物語における役割についての道徳的政治的熟慮によって、個々に判断するしかない。 常に人類を優先することは正しくないが、場合によっては、自国より人類を優先すべき時もあるのだ。」 との趣旨の主張がなされている。

     最後に、昨年12/16のチャンネル桜の討論『安倍政権が憲法改正の前にやるべき8つのこと』の1時間39分30秒頃以降の上島嘉郎氏の発言は、まさに上述の哲学と一致していてハッとし、その後の西岡力氏の「その間違った人類優先哲学に、日本の悪事史観が加われば、完全な反日の出来上がり・・・」との趣旨の発言にも思わず膝を打ち、まさに今回の結論に重なっていた。 やはり哲学と歴史を糺して反日グローバリズムの根源を断ち、現状の危機を理解しなければ、日本の消滅を防ぐことはできないのではと思う。

     なお、日本人の危機感の無さの上記2大原因の他に、実は「何とかなるだろうし、難しいことは分からない」とする「楽観的諦念と怠惰」も大きいことは認識しておかないといけないと思われる。加えて、啓蒙と議論を発すべきメディアや言論界や教育界の怠慢・不作為も大きな原因と思われる。 しかし、これらに対しても、現状の説明啓蒙と哲学的正義論と歴史の修正を粘り強く行っていくしか、他に方法は無いのではないかと思う。
     ただ、メディアや言論界や教育界の悪意によるものだとしたら、クーデターしか手段はなく、それは正義なのかもしれない。

  2. 皇室は、いわゆる昭和天皇の「人間宣言」以来、そのご存在の「可視化」に努めておられるように見受けられます。しかし、現行憲法の「象徴天皇」制?にあっても、「象徴」とはあまりにも抽象的で、「可視化」には極めて難しい概念と思われます。今上陛下は、常々「象徴としてのお務め」に腐心しておられますが、「象徴としてのお努め」といったものは果たしてあり得るものなのでしょうか?まだしも、「元首としてのお努め」の方が、われわれとしても目に描くことが出来るように思います。何かそのためのお疲れが、今般のご譲位に結びついたのでしょうか?「可視化できない」皇室という西尾、水島両氏議論に賛同します。同時に、その筋に「君側の賢」が乏しいことを憂います。

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