渡部昇一v西尾幹二『対話 日本および日本人の課題』書評

宮崎正弘の国際ニュース・早読みより

痛快・豪快に戦後日本の思想的衰弱、文春の左傾化、知的劣化をぶった斬る
  マハティール首相は激しく迫った。「日本は明確な政治的意思を示せ」

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渡部昇一 v 西尾幹二『対話 日本および日本人の課題』(ビジネス社)
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 この本は言論界の二大巨匠による白熱討論の記録を、過去の『諸君』、『WILL』、そして「桜チャンネルの番組」(『大道無門』)における収録記録などを新しく編集し直したもので、文字通りの対話扁である。
 討議した話題はと言えば、自虐史観、自由とは何か、歴史教科書問題、戦後補償などという奇妙な政治課題、朝日新聞と外務省批判、人権など多岐にわたり、それぞれが、対談当時の時局を踏まえながらも、本質的な課題をするどく追求している。

 目新しいテーマは文藝春秋の左傾化である。
 評者(宮崎)も、常々「文春の三バカ」として立花隆、半藤一利、保阪正康の三氏を俎上に乗せて批判してきたが、文春内では、この三人が「ビンの蓋」というそうな。えっ?何のこと、と疑えば文春を右傾化させない防波堤だという意味だとか。半藤などという極左がまともな議論が出来るとでも思っているのだろうか。
 半藤よりもっと極左の論を書き散らす立花隆について西尾氏は「かつてニューヨーク同時多発テロが起こったとき、立花は日本の戦時中の神風特攻隊をアフガンテロと同一視し、ハッシッシ(麻薬)をかがされて若者が死地に追いやられた点では同じなんだという意味のことを得々と語っていました(『文藝春秋』2001年10月緊急増刊号)。条件も情勢もまったく違う。こういう物書きの偽物性が見通せないのは文春首脳部の知性が衰弱している証拠です」と批判している(252p)。

文藝春秋の左傾化という文脈の中で、「朝日が慰安婦虚偽報道以来、いまの『モリカケ問題』を含め情けないほど衰弱していったのは、野党らしくない薄汚い新聞」に変わり果て、文春はどんどんその朝日に吸い込まれるかたちで、たぶん似たようなものになってくる」と嘆く。
評者が朝日新聞を購読しなくなって半世紀、月刊文春もこの十年以上、読んだことがない。なぜって、読む価値を見いだせないからである。
戦後補償について渡部昇一氏は「戦後の保障は必ず講和条約で締結されている」のであって、戦後補償という「とんちきな話」が半世紀後に生じたのは社会党があったからだと断言する。
この発言をうけて西尾氏は「中国の圧力を日に日に感じているASEANでは、米国の軍事力がアジアで後退しているという事情もあって、日本にある程度の役割を担って貰わなければならないという意識が日増しに高まっている。マハティール首相の発言にみられる『いまさら謝罪だ、補償だということをわれわれは求めていない、それよりも日本の決然たる政治的意思を明らかにして欲しい』というあの意識です。こういう思惑の違いははっきり出てきている。結局、戦後補償がどうのこうのというのは日本の国内問題だということですね」(104-105p)
 活字を通しただけでも、二人の熱論が目に浮かんだ。
         

「渡部昇一v西尾幹二『対話 日本および日本人の課題』書評」への7件のフィードバック

  1. (A)米中対決と日本の裏切り
       ーー歴史研究は反米でも、外交は親米であれ
    (『正論』1月号)
    (B)「『移民國家宣言』に呆然とする」
    (産經・正論12月13日)

    西尾先生の上記二論文を拜讀した。
    場所違ひなのは氣がひけるが、御所論の進行を追つて、感想を少し長く書かせ
    ていただかうかと思つた。しかし、その途端に、床の間の掛軸が宮崎さんによる書評に變つたので、愈々具合の惡いことになつた。日録の構成を妨碍するのかと、叱られるかもしれない。
    そこで、どちらもほんの一部の引用に留めて、私の個人的思ひを附記したい。

    (A)は本欄11月14日に轉載された、産經・正論の「日本は米國に弓をひいたのか」及び11月17日の坦々塾での講話(の前から8割くらゐ)と、基本的趣旨は同じだが、新鮮な素材に犀利な觀察・分析が加へられ、それがヴィヴィッドに敍せられて、讀者をぐんぐんと引つ張つてゆく。永年先生の著作を養分として生きてきた者にとつては、ほぼお馴染みのはずなのに、ところどころ忘れたり、ぼやけてゐた粗筋が鮮明に泛び上つて、整然と頭に這入つたと感じ、もう忘れないぞといふ氣になる(少々怪しいが)。

    「一九二〇年代、支那人が『日貨排斥』と言った日本商品ボイコット運動などでは、アメリカは英国と一緒になって、これをけしかけ、一方で台頭する共産主義とは決して闘わなかった。そういうアメリカ人の同じ欺瞞を、私は、2012年の中国の反日デモ騒乱のときにも垣間見ていました。思えば、アメリカには一方的に不利な要求を突き付け、日本の政策を混乱させてきた長い歴史があります」

    このことを、先生はこれまでも、手を替へ品を替へ、言葉を盡して教へて下さつた。
    もつと根本からーー明治以來日本は西洋近代の原理・基準を我がこととし、これに忠實に從つてきた。反對に支那は、そんなよものには目もくれず、すべて自身の流儀により傍若無人に振舞つた。然るに、歐米はことごとに支那の肩を持ち、日本を抑へにかかつた。
    日本としては、不本意であり、さぞ口惜しかつたであらう。何故落ちこぼれの粗暴な劣等生が贔屓され、行儀のいい優等生がいぢめられたのか。更に、支那の側が、(アヘン戰爭を持ち出すまでもなく)自國をあれほど蹂躙・收奪した英國を初めとするヨーロッパ諸國ではなく、國際慣行や條約を律儀に守つた日本を敵視したのは何故か。本質的理由からエピソードまでいろいろ語つて下さつた。
    「日本人は劣つてゐるからではなく、優れてゐるから排斥されねばならない」といふセオドア・ルーズヴェルトの言葉を、私が知つたのは『國民の歴史』によつてだつた。別件かもしれないが、カリフォルニア移民排斥事件を見た新渡戸稻造が「日本自身を改善するのが先決問題だ」と説いたとも、たしか同書に記されてゐた。「進歩的文化人の典型・新渡戸稻造」といふ見出しに大いに驚き、昔、福田恆存が千利休を進歩的文化人と呼んだことを思ひ出したりした。
    ーー同書に限らず、思ひ出すことをアットランダムに竝べる作業は樂しさうだが、キリがなくなり、退場を命じられさうなので、ここまで。

    「日本人が中国の土地を買って私有化できないのに、なぜ中国人が日本の不動
    産や水源地を自由に買ふことが許されるのだろうか」
    「全体主義的共産主義国家の人民に、自由主義国家の国民と同等の権利を、自
    由主義の国家内部において与えることは矛盾であり、はっきりと国内法で禁止すべきだと思う」
    「考えてみるとどうもこういう見境なさを許しているのは、戦前も戦後もアメリカである。その方がそのときどきのアメリカに都合がいいからである。アメリカの意図的なルーズさが日本につねに固有の『政治的リスク』でありつづけた記憶がわれわれにはある」

    支那大陸で、商賣その他で儲けるだけ儲けて、状況が惡くなれば、さつと逃げる。それが歐米諸國のやり方で、その後始末を押し付けられて、いつも泣きを見るのは日本。朝鮮といふ薄汚い地域は、近くにゐる日本がなんとかしろと、歐米に迫られて併合することに。西尾先生は、合邦ではなく、保護國にしておけば、いつでも突つ放せて樂だつたのにと、殘念がられたはず。
    共産主義とさへ戰はないのだから、商賣さへできればいいといふのが基本だが、それに加へて、思ひ込みによる偏執狂的要素もあつた。フランクリン・ルーズヴェルトなどがそれで、あの頃の首腦で、ヒトラーに氣質が一番似てゐるのはルーズヴェルトといふのも、たしか先生のお見立てだつた。

    「中国の覇権についても、アメリカが何らかの形で、強い態度で、政策転換をしてくれるのではないかという一縷の期待を抱きつづけてきました。そして、それはいつも裏切られてきたのです。とりわけ民主党のオバマ政権の時代、われわれの期待はすべて空しき幻でした」

    先生は久しく、何度も何度も、アメリカの御都合主義を批判されてきた(ただ、「共産主義の脅威は去つた」と言つて大統領になり、ソ聯軍がアフガニスタンになだれ込むと、「私の共産主義についての見解は劇的に變化した」と言つたカーターをなんと評されたかは記憶にない。御存じの方はお教へを)。
    就中、オバマに對する評價は低く、この黒人大統領には、歴代白人大統領の優
    柔不斷・無原則・見て見ぬ振りをする習癖を改めることは、黒人である故もあつて、出來ないだらうと言ふやうなこともおつしやつたと思ふ。彼は支那の膨脹・擴張政策に氣づかないか、あるいは、氣づかないふりをしてゐたとしか、私にも思へなかつた。先生の評價は當然だ。そして、黒人だから白人の・・・といふ論理(表現は正確には覺えてゐないが)は、やや逆説めくが、それが眞理だらうと感心した。

    「トランプ政権によるアメリカの新しい変化には日本人は安堵し、期待を抱き始めた」
    「ペンス副大統領の中国非難の言葉は激烈なものでした。この国を許さないという断固たるアメリカの意思を示し、内容の幅の広さと、また底深さは、目を見張らせるものがありました」

    トランプの登場。少し間はあつたが、トランプは支那の正體・本質を見破つたらしく、強い對決姿勢を打ち出した。これを先生が歡迎されるのは當然。明治以來、こんな情況は一度もなかつた。アメリカが初めてまともになつた。
    大東亞戰爭も、泣く泣く、讓れるところは全て讓つた日本に對して、米支が示し合せ、嵩にかかつて横紙破りを續けた結果起つたのだ。今こそ、日米は眞の同盟關係になつたのだ!といふより、そのやうに日本は振舞ふべきだ。

    「問題は日本なのです。ペンス演説から間もない十月下旬、安倍晋三首相は訪
    中し、日中通貨スワップ協定に踏み切りました。アメリカがようやく反中へ舵を切った矢先、逆に中国に塩を送ることを決めたわけです。これは同盟国アメリカへの裏切りではないのか。私は強い疑問を抱きました」

    やれやれ、またあの人。プーチンとの會談24囘(?)といふ世界記録も樹立された。これほどの活躍をされるのだから、全千島列島と樺太全島(南も北も)を近く日本領土にしてくれるのだらう。
    急に不愉快になつたので、最後に飛ぶことにする。うしろから11~4行目。

    「安倍首相は戦後七十年談話でアメリカの東京裁判史観から脱却すべく、もっとはっきり主張すべきだったにも関わらず、それもせず、今になって、対中外交でアメリカの進む道と真逆のことを行おうとしています。これは明らかに政治的な過ちです」

    つまり、大事な二つの節目で二度とも間違へたのだ。どちらも、先生の「歴史研究は反米でも、外交は親米であれ」といふお考へと逆だ。
    私は次も間違へると思ふ。この人に、さういふ判斷をするセンス・能力があるわけがないからだ。それを指摘する先生のお言葉は無數にあるが、一つだけ(チャンネル櫻に於ける對談) 。

    水島社長「世界で、トランプやプーチンや習近平や金正恩と、 安倍さんほどきちつと亙り合へる・・・」
    西尾先生「亙りあつてなどゐない。バカにされてゐるだけだ。相手になんてされてゐない。拉致についても、 やるやると言ひながら、何もしてゐないではないか。せいぜいトランプに一言いつてくれと頼むくらゐ」
    水島「日本は屬國なのだから何もできないのはしかたない。 しかし、その中でも、内々のことを聞いてゐるが、拉致について、少くともここまでやつた總理はゐない」
    西尾「目の色を替へた氣迫、怒り、苛立ち、 苦惱ーーそんなものが安倍さんにあるか。あなたが番組を守る爲に安倍さんの肩を持つのはいいが、 戰後最惡の總理大臣だ。安倍さんは ” ウミ ”を出し切ると言つたが、 ” ウミ ”は自身ぢやない か。自分が出て行くしかない」(30年4月28日)

    次が結び。

    「ことばにあっては自由であれ、そして行動においては不動であれ。そう敢えて申し上げたいと思います」

    先生は、これを誰に向つておつしやつたのだらう。
    「叱咤激勵するつもりはないですよ。單純に安倍首相の人間性に呆れ、失望しただけです」(『週刊ポスト』29年9月8日號への談話)と、完全に見放したはずの安 倍さんに對して、なほ語りかけらずにはゐられなかつたのか、それとも讀者・國民一般への言葉だらうか。

    (B)は、やはり上記の坦々塾講話のうしろ二割と趣旨はほぼ同じ。講話の最後に、「こんな國は地獄に墮ちるだらう」と激語を發せられたが、今、短い文章から先生のお心が一層はつきりと感じられるやうな氣がした。

    先生の『労働鎖国のすすめ』が世に出たのは平成元年(1987年)である。かなり賣れたし、世論形勢に寄與し、政府もそれを慮つたと承知してゐる。ただ、次のことは今囘初めて知つた(先生は普段、自慢話に類することは全くなさらないので)。

    「当時は発展途上国の雇用を助けるのは先進国の責務だ、というような甘い暢気な感傷語を堂々たる一流の知識人が口にしていた。この流れに反対して、ある県庁の役人が地方議会で私の本を盾にして闘ったと、私に言ったことがある。
    『先生のこの本をこうして持ってね、表紙を見せながら、牛馬ではなく人間を入れるんですよ。入ったが最後、その人の一生の面倒を日本国家がみるんですよ。外国人を今雇った企業が利益を得ても、健康保険、年金、住宅費、ときに増加する犯罪への対応はみんな自治体に振りかかってくる。私は絶対反対だ』
    この人の証言は、単純労働力の開放をしないとしたわが国の基本政策の堅持に、私の本がそれなりに役割を果たしていることを物語っていて、私に勇気を与えた」

    著者冥利とはこのやうなことだらう。先生の喜びが傳はつてくる。しかし同時に、先生は言論の空しいことを誰よりも知つてをられる。

    「人口減少という国民的不安を口実にして、世界各国の移民導入のおぞましい失敗例を見て見ぬふりをし、12月8日未明にあっという間に国会で可決成立された出入国管理法の改正(事実上の移民国家宣言)を私は横目に見て、あまりに急だったな、とため息をもらした。言論人として手の打ちようがない素早さだった」

    これは冒頭の一節。前書のやうなものだが、あつさりと、率直に、無力だつたことを認められた。30年前とは違ふのである。政府も國民も變つたやうだ。

    「一般に移民問題はタブーに覆われ、ものが言えなくなるのが一番厄介な点で、すでにして日本のマスメディアの独特な『沈黙』は始まっている」

    テレビを見てゐれば、この傾向ははつきりと感じられる。努めて、この問題を避けよう、中身の批判(「これでは不十分、”移民”が可哀想」といつた、本質を外れた議論は別として)はせずにおかうといふ意圖がありありと見える。

    「2008年に自民党が移民1千万人受け入れ案というものすごく楽天的なプログラムを提出して、世間をあっと驚かせたことがある」
    「外国人を労働力として何が何でも迎え入れたいという目的がまずあった」

    さういふ提言をした人たちは、上記の「牛馬ではなく」といふことを考へたのだらうか。
    人口減=人手不足といふ發想が私には理解できない。日本といふ國は昔から、
    その時々の人口にあつた形・規模で成り立つことを原則としてきたのではないのか。産めよ殖やせよと唱へた時代はあつても、日本人の代りに異民族を雇つたり、奴隸を連れてきたことはなかつたはずだ。
    樣々な職種で、人を募集しても日本人が集まらないと聞く。人口が減つてゐるのだから、以前と同じ賃銀で、同じ人數を集めようとしても無理なのは當然だ。どうしてもと言ふのなら、日本人が集まるところまで、賃銀を上げることが先ではないだらうか。それでは經營が成り立たず、運營の形態を變へなければならなくなる場合もあるだらう。一企業の經營者が、形態變更策を打ち出せず、すぐに潰れることを恐れて、外國人に目を向けることは責められないが、國家要路の人々には、それを超えた視點が必要ではないか。
    社會構造、國家の構成・規模も變へなくてはならなくなりさうだ。相當な難題が待つてゐることは間違ひない。しかし先人たちは、それをその都度解決してきたのだ。少くとも國家レヴェルでは。
    今その難きを避け、當座の安きのみを求めて、「牛馬」どころか機械のやうなつもりで、よその國の人間を入れたら、先々・・・、まともな感覺を備へた縣廳の役人が絶體反對を叫ぶのは當然だ。況んや、各國の「おぞましい失敗例」を觀察・研究して考へ盡された先生においてをや。

    「これが昔から変わらない根本動機だが、ものの言い方が変わってきた。昔の
    ように先進国の責務というようなヒューマニズムではなく、人口減少の不安を前面に打ち出し、すべての異質の宗教を包容できる日本の伝統文化の強さ、懐
    の広さを強調するようになった」
    「日本は『和』を尊ぶ国柄で、宗教的寛容を古代から受け継いでいるから多民
    族との『共生社会』を形成することは容易である、というようなことを言い出した」

    さうか。「多文化社會」はよく耳にするが、日本人の「懷の深さ」が言はれてゐることは知らなかつた。こそばゆい。そんなに單純なことなのだらうか。

    「しかし歴史の現実からは、こういうことは言えない。日本文化は確かに寛容
    だが、何でも受け入れるふりをして、結果的に入れないものはまったく入れな
    いという外光遮断型でもある。対決型の異文明に出会うと凹型に反応し、一見
    受け入れたかにみえるが、相手を括弧にくくって、国内に囲い込んで置き去り
    にしていくだけである」

    この特性についても、實に何度も、樣々な例を引いて、いろいろな表現で、先
    生は教へて下さつた。そして先生はこの特性を、たとへば「すべてを見届けた
    ニーチェがルターを突き離して言い放ったあの一語こそ、キリスト教をわが運
    命としなかった日本および日本人の明日への覚悟を予言している」 (『あなた
    は自由か』)のごとく、基本的にかなり高く評價されてゐると思ふ(常にしたたかといふわけではなく、次の引用に言はれてゐる弱さもあるが)。
    「圍ひ込んで置き去りに」は、私が忘れてゐたのかもしれないが、初めて接す
    る表現のやうな氣がして、實に新鮮だつた。なんとも巧い言ひ方だ。

    「『多民族共生社会』や『多文化社会』は世界でも実現したためしのない空論
    で、元からあった各国の民族文化を壊し、新たな階層分化を引き起こす」
    「日本語と日本文化が消えていく。寛容と和の民族性は内ぶところに入れら
    れると弱いのである。世界には繁栄した民族が政策の間違いで消滅した例
    は無数にある。それが歴史の興亡である」

    かくて我が國は消滅するのか、地獄に墮ちるのか。坦々塾のある仲間は、自身でも屡々「もう亡國だ」などと言ふくせに、あの講話のあと、自分はいいが、可愛い孫の地獄墮ちは困ると憂ひ顏だつた。さてさて。

  2. 池田さんが委曲を尽くした解説を書かれた。引用された今年4月28日のチャンネル桜で西尾先生が、「戦後最悪の総理だ」とおっしゃったことに当方も強い印象を受けた。しかし、そうはおっしゃるが、鳩山由紀夫も菅直人もいるわけだし、表現として少しオーバーランではないかとも思ったが、数々の害毒の流し方と重要問題に関する不作為を見れば正に戦後最悪の総理と言ってよいことが明らかになってきた。その日本破壊の様を、小浜逸郎氏がブログで「安倍政権20の愚策」として列挙したのは今年6月のことだった。その小浜氏は本日のブログで「みぎひだりで政治を判断する時代の終わり」を説いている。また、今年4月の西尾先生の対談相手水島総氏は、本日のチェンネル桜の番組で西尾先生の「『移民国家宣言』に呆然とする」に全面的な賛意を表し、その最後の名文「四季めぐる美しい日本列島に・・・」以下をアシスタントに朗読させた。また、「反移民党」結成の決意を表明した。先生が危惧を表明された産経新聞は、このところ先生に登場いただく頻度を上げたように窺える。産経も水島氏も渡部昇一氏も櫻井よしこ氏も小堀桂一郞氏馬渕睦夫氏も、先生のおっしゃるPTAのような「安倍さん大好き人間」であったが、そういう言論はすっかり後退し、色褪せても見えて来たと言える。
    さて、先生の発表されたもう一つの論文、別冊正論33号「靖国神社創立150年 英霊と天皇御親拝」に発表された「陛下、あまねく国民に平安をお与えください」に触れさせていただく。先の戦争はいかに起こり、いかなる体験を日本国民に強いたのか、近来の先生の歴史博捜の成果を、噛んで含めるように平易にかつ情理を尽くして書かれ、静かに奉献された建白書であり、同時に何よりの歴史教育の一書である。
     個人的には、以下の一節が印象に残った。
    「戦争の解釈をめぐる国内のこれ以上の争いは止(や)め、静かに未来に目をこらし、現在の足場を確かめることです。そのためには手近な過去ではなく、遠い過去に思索の値を求めるべき秋(とき)が来ているように思います」。

  3. 土屋 様

    西尾先生の、その論文は読みそこなひました。
    別冊正論33号「靖国神社創立150年 英霊と天皇御親拝」の新聞広告は多分見たはずですが、そこに、筆者として、「PTAのような『安倍さん大好き人間』」の面々の名が並んでゐてうんざりし、先生のお名前を見落としてしまつたのでせう。土屋さんのコメントを、もう少しお聞かせいただきたいものです。

    話は変りますが、”PTA” の言論、私からすれば千篇一律で、初めから、「色褪せて」ゐましたが、世間的にも「後退」してゐるのですか。
    水島氏が官邸にデモ(?)、世の風向きが変ったのではといふ話はちよつと聞きました。しかし彼はコロコロ変るのが常で、数年前にもデモをかけて、おやおやと思つたら、すぐに安倍さんべつたりに戻りました。

    私は6年くらゐ前から、安倍さんの悪口を言つては、「では、安倍さんの他に誰がゐる?」の一言で、沈黙を強ひられました。あるいは、村八分にされるから安倍批判を控へよと忠告されたこともあります。疲れましたし、先生からも「もつと生産的なことを考へよ」と言はれ、控へてきました。まあ私が何を言はうと言ふまいと、天下の形勢に影響することはありませんが。

    「他に人」はたしかに、そのとほりかもしれません。そして、そのやうな政治家しか持ちえないのは、もちろん我々国民の責任です。西尾先生は保守系
    の集会で安倍批判をすると、「お前は左翼か」といつた目で睨まれるとおつしやいましたが、その「睨む」人々こそ、亡国への神輿の担ぎ手でせう。彼らは「日本を守る!」などと嬉しさうに叫びます。我こそ愛国者と信じてゐることは明かで、だからこそ度し難いのです。「知つてゐてつく嘘の方が知らないで言ふ嘘よりはましだ」(プラトン)。

  4. 西尾先生にお送りしました。 
    1.「正論」 拝読しました
    年の瀬になって最悪の法案が通ってしまって、この国はいったいどうなってしまうのでしょう。 本当にバカな国民になりましたね。安倍は「入国管理法案であって移民政策ではない」と嘯いています。菅官房長官と二階幹事長の思惑に妥協?したとの噂もありますが、そんなことはもうどうでもいい。歴史を考察しない(できない)、国益思考のない(考えない)、インターナショナル(グローバリズム)が国家主権よりも上位にあると考える(国連絶対主義)政治家、官僚、評論家、おバカ多数、石松怒る。
    法律の施行まで2年?でも、すぐさま大問題となることとなり、(ある県庁の方が指摘されているように、30年も前に先生が警鐘ならしていたように)その時は手遅れ。現状を見渡してみてもすでに問題は起きています。2008年の長野でのシナ人の暴動、もう国民は忘れてしまっているでしょうが。こんな越後の小さな町にも外国人の数は増えています。現在問題になっていることはありませんが、行く末はどうなることか。
    13日「正論」の纏めにお書きになっているように 四季美しい日本列島から日本人は減ってゆき、日本が日本ではなくなります。あ~そうなってしまうなぁと。
    私に3歳と、5か月の孫娘がおりまして可愛い盛りです。この子らが、シナ語?を話す男のもとにいくのではないかと考えてしまう、ほんとうにそうなるのではないかと冗談抜きに考えてしまいます。池田さんに愚痴を溢したのはのは私でした。  
    2.「あなたは自由か」
    「あなたは自由化か」深く考えさせられ、何度も読み返しております。 11月17日の坦々塾でうまく発言できなかったのですが、2章の経済の高度成長期(1960~80年代)における自由の過剰、自由「liberty」が十分に完璧なほど保障された時代、そして現在も継続していますが、こんな時に国民の生命にとって欠かせないのが「電気」です。1960年頃は 停電など頻繁でした、さりとて経済活動にも生命にかかわることもほとんどありませんでした。しかし、 現在は30~40年前とは比較になりません。電気が止まればすべてのインフラに影響を及ぼし、仮に首都圏で1日(24時間)でも電気が止まれば、死者多数、経済的損失は計り知れないほどです。
    安倍政権、民主党政権も最悪でしたが、支持率が40%ほどあって(安倍に代わる人材なしの声もあり)かえって日本を陥れようといている愚策ばかり、エネルギー政策もその一つです。私はもちろん、暫くは原発でなくしてこの国は立ち行かないとのスタンスですが、胆力あるリーダーの不在(政治、推進するエネ庁、規制庁、そして、電力会社)では 任せられないという先生のご発言には共感するものです。 自分がまだ電力会社にいながらでも矛盾しているとは思いません。うまく表現できないことお許し下さい。
    ここまで書き終えて、「こんな国は地獄に落ちるだろう」と仰った先生のお言葉、池田俊二さんも共感しておられましたが、私もそう思っています。

  5. まず、12月13日投稿の誤りをお詫びし訂正します。最後に引用した先生の文章は、正しくは以下のとおりです。
    「戦争の解釈をめぐる国内のこれ以上の争いは止(や)め、静かに未来に目をこらし、現在の足場を確かめることです。そのためには手近な過去ではなく、遠い過去に思索の根を求めるべき秋(とき)が来ているように思います」。
    「思索の根」を「値」と誤変換しておりました。西尾先生が指し示す思索の根を求めるべき遠い過去とは、記紀万葉のことかと愚考しているが、いかがであろうか。

    池田さんからもう少し別冊正論のご文章を紹介せよとのことですので、付け加えますと、それは素直な読者が坦懐に読めば、「戦争の解釈をめぐる国内のこれ以上の争い」が起き得ないほどに、先の大戦が真正な日本の悲劇である所以を丁寧に諄々と説かれたものです。「なぜわれわれは屈服させられているのか。これこそは歴史を遡って考えなければならない問題の一つ」という切実な問題意識のもと、近年西尾先生が自家薬籠中のものとされる大航海時代に遡る西洋の世界征服の歴史がコロンブスからハルノートまで繋がる一貫した流れとして見事に簡潔に平易に叙述されたものであること。そして、今回軍事的知見も適切に織り込まれ、「独立した単一文明国家であるわが国が、ヨーロッパの帝国史の延長上にある新帝国アメリカの成立史に、自らの近代史が巻き込まれてしまったという運命」が語られる。前回当方が、「同時に何よりの歴史教育の一書」としたのは、この日本の運命の叙述は中高生でも理解が可能なはずであり、これ以上に自然で胸に響く歴史教科書は考えにくいと感じるからである。そういう意味では、「あなたは自由か」への入門篇と位置づけてもよいだろうと思う。
    「一体このような過去に私たちは『謝罪』とか『反省』とかいう言葉を用いるのは、あまりに傲慢ではないでしょうか。何が何に対して謝罪しなければならないのか、そんな偉い立派な認識に私たちは到達しているのか。そんなことを言える資格があるだろうか。
    あまりにも厳しい、あまりにも辛い環境に置かれたわが日本一国、単一文明国。それゆえに主張してきた先祖たち、先輩たちの悲しみと苦しみを、改めて追認し祈る以外に方法はないと思います」と祖国の運命への万感の思いが語られる。陳腐を承知で申し上げるのだが、ここにはやはり昭和二十一年二月号の「近代文学」に掲載された座談会「コメディ・リテレール小林秀雄を囲んで」の小林秀雄の発言、「大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心から起ったか、それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」の反響を感じ、一貫した保守の精神を確認するのである。
    西尾先生は、この日本の運命を一身に背負い、陛下に奏上されるのである。
    「僭越ながら、お祈りいただけるならば、海外を含めて全ての生きとし生けるものに苦難や不幸が及ぶことのないよう、そして過ぎ去った百年余りのさまざまな争いがここで終わり、対立や相克がない地平を切り拓けるようにと、お願い申し上げます。(中略)誰にも公平で、どの組織にも等しく、受ける権利のある陛下の慈悲と同情の念を注いでいただければ、大変ありがたいと思うのであります」。
    「陛下はその多くの国民を、一視同仁のお立場で懐に包んでいただきたい」。
    最後の表現は見事と言うべきであろう。この後フィナーレに向かうのであるが、営業妨害になりかねないのでここまでとし、読者諸兄姉は是非ご自分で一語一語読み込んでいただければ幸いである。

    ところで、池田さんから、「”PTA” の言論、私からすれば千篇一律で、初めから、『色褪せて』ゐましたが、世間的にも『後退』してゐるのですか」という問いかけを頂戴したが、当方もとより世の中の風潮や風向きには暗く情勢を語る資格はない。あのように書いたのは、出入国管理法の改正に関しては、産経の阿比留記者、水島聡頑張れ日本行動委員会幹事長、馬渕睦夫元ウクライナ大使は強度の差こそあれ反対を表明しているし、加えて水道法改正のような自由主義改革を目にしては、安倍応援団も政権への無限定の賛同は不可能になったという意味である。西尾先生が確か「保守の真贋」でおっしゃったように、近隣国民の傍若無人の振る舞いへの一般国民の不快感は決して小さくはなく(電車に乗らず、街に出ない首相や官房長官には国民の感覚がわからないのである)、たとえば国土買い占めへの無策を続ける現政権への不信は消費増税による生活圧迫とともに次第にうねりを成すのではないかと想像している。

  6. 横から失礼します・・・
    池田様が書かれた産経新聞「正論」欄(13日)の先生の論文だが、それ
    とは気付かずにいたため、早速拝読した。最近は産経新聞も、形式が変って
    記事の探し方が分からなくなったせいでもある。また有料の会員登録をしな
    いと読めない記事も多くなってきた。しかし誰かが労力を割いて書いた文章
    には、それなりの対価を支払わなければならないのは当然の事と、思いを新
    たにした。
    さて『労働鎖国のすすめ』(1989)は私も読んだが、当時はこのタイトル
    だけで、眉をしかめる人がいたであろうことは想像に難くない。ただでさえ
    ネット上でも、ウィキペディアを始め、あちら側からはボロクソに書かれて
    いる先生である。
     ところで池田様も引用された部分で、私も重要だと思うのはここである。

    「これが昔から変わらない根本動機だが、ものの言い方が変わってきた。
    昔のように先進国の責務というようなヒューマニズム論ではなく、人口
    減少の不安を前面に打ち出し、全ての異質の宗教を包容できる日本の伝統
    文化の強さ、懐の広さを強調するようになった。
     日本は『和』を尊ぶ国柄で、宗教的寛容を古代から受け継いでいるから
    他民族との『共生社会』を形成することは容易である、というようなこと
    を言い出した。今回の改正案に党内が賛同している背景とは、こうした
    おおざっぱな文化楽天論が共有されているせいではないかと私は考える。」

    「昔から変わらない根本動機」とは、要するに「外国人を労働力として何が
    何でも迎えいれたいという目的」である。それを最初から見抜いて、ズバリ
    指摘してきた先生は、皆さんが書かれるように、さすがにと言わざるを得ない。
    誠に、先生の言論は20年経たないと理解されないのである。

     つまり以前は、「先進国日本の技術を研修生に教えて、将来彼らが本国に
    帰ってその技術を広めてくれれば、彼等の祖国に貢献することになる」とい
    う理屈だったのが、現在は「例え外国人が増えても、日本の伝統文化の強さ
    や懐の深さがあるから大丈夫です」となった。だが双方に共通するのは、本
    心を隠すための言い訳だという点だ。したがって、途上国への技術移転も
    日本の文化力も、一分の真理があるとはいえ、議論する時は、専ら本音の
    「移民導入」に集中すればよいということになる。(ただし、本当は誰が日本
    を移民国家にさせたいのか、という議論には触れない)

     だから安倍首相がどれだけ「移民ではない」と言っても無駄である。そ
    んな首相を苦笑しながら見ているのは国民の方だ、「何を今更」と。それ
    より、現実に蓋をして、子供のように強引な言い方をすればするほど、
    首相も政府も見識がないのかと、ますます信頼を失うだけだ。なぜなら
    日本国民の大人も子供も、既に相当前から「外国人に対する配慮」を嫌と
    いうほど、教育されてきたからだ。

    例えば新聞、TV、雑誌、そして学校。どこを見ても、ヒステリーのよう
    に「差別はいけない」の大号令である。差別語が使われたという記事を見ると、
    現実的な差別というより、わざわざ差別語を捜して摘発するというご丁寧さ
    で、それはまるで、文革の時紅衛兵が飛んできて、女性の長い三つ編みを
    ちょん切ってしまう横暴さに似ている。
     私は子供の頃、母から聞いた話だと、昔近所には○○人がいて、彼らは
    言葉に癖があり「○○人と言ってパカにするな」などと発音するとか、父の
    方からは「あいつらは悪い事ばかりする」との話を普通に聞いていた。差別
    なんて意識のなかった時代だ。私はその時、両親が今で言う差別的な言葉を
    使っていたことよりむしろ、こんな田舎にどうして外国人がいたのだろう、
    と感じたことをはっきり覚えている。さしずめ中国人や歴史を知らない日本
    の若者が「日本人は中国を侵略した訳ではないと言うが、ではなぜ大陸に日
    本人がいたのだ」と言うのに似ているかもしれない。子供の頃のこの疑問に
    関しては、誰からも、はっきりと納得できる理由を、今もって聞いたことは
    ない。

     一方戦時中の「慰安婦」や「強制連行」云々に関しては、研究者たちの地
    道な努力によって真実が明かされてきた。とはいえ、既に日本に定着した
    外国人若しくは元外国人たちは、「ヘイトスピーチ規制法」によって「仕上げ」
    ができ、ようやく自分たちも安心して暮らせるようになった、と思っている
    に違いない。
    ところが人間というのは不思議で、これまで意識せずにいたことが、それと
    指摘されることによって、却って気になって仕方がなくなるものだ。例えば
    向こうは何もしないのに「あいつは本当は、内心何を考えているんだろう?」
    という風に、表から見えない相手の心の奥底までも、僭越にものぞきたくな
    る心理がそれだ。

     一例を挙げると、今年、一世を風靡した天才棋士藤井聡太だが、同じく
    卓球で目覚ましい成績を残した元中国人の張本智和と比較する言論が、ネッ
    ト上でもあちこちで見られた。私などは、将棋と卓球とは何の関係もないし
    比較するなら同じ道や競技の中でするのが普通ではないか、と思う。しかも
    年齢は藤井君が一つ年上である。ネット上の議論には、「藤井、張本どっち
    がエライ?」と聞くと、誰かが「藤井は国内だけだが、張本は世界で活躍す
    るから張本がエライ」、などというバカバカしい答えまであった。また「藤井
    君より張本君が人気が無いのはなぜか」という疑問に対して、張本選手が試
    合中奇声を発するからだが、他にもそんな選手がいるのだから、今後温かく
    見守ろう、などというどうでもいい話まである。いかにも張本選手が日本で、
    山口百恵並みの人気が出ないのはおかしい、と言わんばかりである。煽った
    のが誰かは知らない。しかしこうした話題は、国内においても、出自の民族
    がいかに大事かということを、示しているのではないだろうか。
     またTVの評判が悪いことは、今さら言うまでもないが、NHKや民放も含め、
    何かと例に出されるのが、隣の大陸半島の出身者やその子孫だ。例えば最近
    朝のテレビ東京の経済ニュースを聞いていると、あるOLが株式投資で貯金
    をしているが、そのお金で韓国に留学するのが夢だと言う。これでは彼女が
    半島出身者の系統である可能性が示唆されるし、我が国との関係が悪くなっ
    ている韓国の名をわざわざ出す所が、日本人としては非常に不自然に感じる。

     その他、在日外国人が日本人に混じって何か成果を上げた時に、殊更
    取り上げて褒めたたえるやり方も定番である。勉強ができることに関して
    は出番の多い中国人であるが、ちょっと前のニュースでも、ある小学校の
    クラスに中国人の子供がいて、勉強もできるし人気もある、などという同級
    生たちの話が紹介されていた。同級生が外国人であろうがなかろうが、評価
    に値する人に対しては、掛け値なしに称賛すべきという訓練は、学校では、
    小学生から高校或は大学まで、有無を言わさず生徒たちに施されている。
    ただし日本人の子供が、こうした外国人に対してどう思っているかは、全く
    意に介されないし、最初から問題にもされない。
     反対に外国人の子供に何か不都合があった場合には、周囲の日本人や国や
    地方自治体の対応がまずいからであるとして、今すぐにでも対処をすべき、
    という話になって、まるで日本全体が、外国人対応の総合病院になったかの
    ようだ。

     こうした内外の状況や教育現場での在り方によって、日本の子供たちの
    精神はどうなるか?
    勘の鋭い子なら、まずは大人たちの使う言葉と、現実とは乖離している
    と思うだろう。それに自分よりもまず他人を尊重せよという意識から、自尊
    心が養われないし、自国に対する誇りも生まれようがない。絶えず自分は間
    違っていないかとチェックする癖がつくので、精神はいつも疲れている。果
    ては、自分の属する集団に対する不信感が生まれるに違いない。

     そこでどうするかといえば、『あなたは自由か』にあるように、「私たちの
    広い自由の世界において、狭い不自由な『檻』の中に自分をあらためて閉じ
    こめて、心を安定させたいという欲求」(P103)を持つしかないのではない
    だろうか?スマホやパソコンのゲームに夢中になる理由の一つが、「期待さ
    れない日本人」像ではないか?
     私は最近上野駅前の有名な玩具店に入ったが、そこには細々とした沢山の
    おもちゃ類が所狭しと並んでいた。中には、箱庭の中に小さなミニチュア
    の風景を作るキットまであって、まるで老人の趣味と言われる盆栽の世界
    にそっくりである。そんなのは玩具でも、大人向けだと言うかもしれないが、
    その他の、以前は考えられなかったような玩具の裾野の広がりを見ると、私
    はそこに、単なる趣味や暇つぶしでは説明できない、一つの道を究めたいと
    いう執念みたいなものを感じるのである。

     また別の面で日本人の正直な心を端的に表していると思われるのが、平昌
    冬季五輪で金メダルを取ったフィギュアスケートの羽生結弦選手に対する
    国民の反応である。
    実は私も数年前に、彼の一言に惹きつけられて注目するようになった。
    仙台出身の羽生選手が東日本大震災に遭い、十分な練習ができない状態で
    よい成績を取った時のことである(どの試合かは失念した)。インタビュー
    で、「勝てたのは自分の力じゃないな、と思いました」と言ったのだ。大袈
    裟に聞こえるかもしれないが、目に見えない何かを感じる能力があるこの
    少年は、普通の選手ではないと思ったのである。
     羽生選手が「普通でない」ことを示す例は、いくつもある。今年の五輪で
    66年ぶりの二連覇を達成したこともあるが、ネット上で有名になったのは、
    優勝インタビューの場で、持っていた「国旗を下に置くわけにはいかないので」
    と言って誰かに渡したとか「今回、西洋のスポーツであるフィギュアスケート
    において『SEIMEI』(映画「陰陽師」から)という日本の音楽を使って優勝
    できたことは有意義な事です」と言った、などが代表的だ。その他競技者と
    しての能力に加え、爽やかなルックスも魅力であることは言うまでもない。
     とにかく現代日本のとんでもない自虐的な教科書で学んでいるにも拘らず、
    礼儀正しく、凛々しいその姿は、泥に咲いた一輪の美しい花のように日本中
    の人々に感動を与えたのである。

     他方、ある作家のエッセイには、読書家の藤井聡太の事が書いてある。
    「眼に、張りがある。そして、澄んでいる。活字で眼があらわれている
    せいだろう。言葉に、ムダがない。言い回しが、しゃれている。あたたか
    みがある。表現力が非凡である。十六歳で七段の棋士・藤井聡太さんを見よ。
    大人でもめったに遣わないボキャブラリーを、当たり前のように口にする。
    中学生の時、『望外の僥倖』と言った。日頃本に親しんでいなければ、まず
    出てこない言葉である。
     通算五十勝を達成した時、記者会見で、これは『セツモク』の数字である
    と言った。並み居る新聞記者の誰もが、一瞬、何のことか理解できなかった。
    どんな漢字を当てるのか、耳で聞いては見当がつかない。テレビを見ていた
    筆者にもわからなかった。たぶん将棋用語なのだろう、と独り合点した。
     あとで調べたら、セツモクは『節目』であった。フシメ、である。人生
    の節目、などと言う。藤井さんはフシメを読み間違えたのだろう、と思い
    念のため辞書を繰ってみたら、フシメ、セツモクどちらも間違いでないが、
    正式にはセツモクと読む、とあった。藤井さんは正しい読み方をしていた
    のである。」(「若い読書家」出久根達郎)

     今の若者を批判する大人は多いが、我々は、そんなに立派な大人であろう
    か?しかも自国を否定するような教育内容が、二人の少年を育てたとは到底
    思えない。藤井聡太も羽生結弦も例外だと言うかもしれない。しかし二人の
    ような逸材は、『あなたは自由か』に書かれた「教育の本質」を示すよい例
    ではないだろうか。
    「『個人』であるとか『個性』であるとかは求めて得られるものではありま
    せん。自然に生まれるべきものです。『自主性』や『自発性』は学校や親が
    手をかけて育てるものではなく、雑草のように押さえても、踏みつぶしても、
    おのずか現れる力の発現を土台にしていなくては、言葉の本来の意味から
    いっておかしいでしょう。」(P84)

     以上、私が色んな話を列挙したのは、政府の「移民国家宣言」を前にして、
    今後、我々日本人が心得ておくべき事を確認したかったからだ。まずはあの
    悪名高い「ヘイトスピーチ規制法」だ。

     つまり先述したように、在日外国人の要請かは不明だが、現政権担当者が、
    我が国の住民全員が円満に暮らしていけるようにとの希望を込め、設定され
    たはずのこの法律は、却って国内の民族の違いを際立たせ、我が国を内部分
    裂させるのに役立っただけだし、今後もますますそうした影響を及ぼし続け
    るに違いない。

     なぜなら日本国民のある部分の人々が、これまでになく、いわゆる汚いと
    言われるほど激烈な言葉を発するようになった理由の一つが、「中韓中心
    史観」ともいうべき歴史教育や、一部の在日外国人に対する不当な優遇策
    にあるからである。様々な研究者が丹念に調べ上げたこれらの事実と、それ
    に基づく国民の中からの異議申し立てに対し、何らかの返答や措置を講ず
    るわけでもなく、一方的にその声を封印したという事実は、現政権が日本国
    を統治する能力が既にないことを、自ら証明したようなものだ。

     そして今回の「移民国家宣言」で、国民が意外にも黙っているのは、言葉
    が出ないほど衝撃を受けていながらも、日本国政府というものに、もやは
    過剰な期待をしても無駄だと分かったからである。考えてみれば、我々の親
    の世代は、拙いながらも身体を張って年寄りや子供たちを嵐の風雨から守ろ
    としてくれた。ところが現代の政権担当者たちは、この日本国の土台を形作
    っている大多数の国民を踏み台にして、内外の勢力の圧力により、あちこち
    にフラフラ揺れ動く草のようだったし、今もそうだ。ところがそういう連中が、
    あろうことか国民に向かって「我々がこうするのは、あなたたちを食べさせ
    るためだ」と言うのである。
     子供たちから見れば、自分の生まれ育った大切な故郷と祖国を守りこれ
    からも支えて行こうという、心が打ち震え、かつ明日への希望が湧き上が
    るような事を言う大人などどこにもいない。

     そういえば先日のNHKニュースで、「外国人労働者が都市に集中しない
    ようにする」とか、「一部の職種では日本語能力試験を緩める」、などと
    言っているのが聞こえてきた。私は思わず、鼻で笑ってしまった。職業
    選択や移動の自由がある我が国で、外国人にだけそんな制限を設けようと
    することも驚きだが、そんなコントロールができると思っていること自体
    が滑稽であった。拉致被害者も長年見捨ててきたくせに、どうやって国内
    の外国人をコントロールするのだろうか?
    一般の国民は、治安が守れるなら出来るだけの協力をしようと思って
    いるのに、政治家の方からは何のお達しもないから手をこまねいて見てい
    るしかないのが実相ではないか?

     農業従事者や建設業、介護施設における人手不足により、喉から手が出る
    ほど人材を欲している人々を非難するつもりはない。ごく普通の人々が絶望
    するのは、こんな国難に対して、「あっちを立てれば、こっちが立たず」で
    右往左往する現代日本の政治だ。
     
     話は変わるが、最近面白い話を聞いた。近年は少し前と違って、20代の
    男女でも結婚願望が高まっているそうだ。安月給に加え、将来の災害を考え
    ると、助け合う人が欲しいということなのだろう。「自分探し」でいつの間
    にか婚期を逃してしまった上の世代とは違ってきているのだろう。大人が
    馬鹿にする若者は、敏感に将来の行く末を感じ取っているのである。就職に
    関しても、国内にいても今後は大量の外国人をライバルとして迎えなけれ
    ばならないことも知っている。
     ところが今の教育関係者は、今後また藤井君や羽生君のように有能な
    若者が出てきたら、「今のグローバル教育がいいからだ」などと言い出すに
    決まっている。もう開いた口がふさがらない・・・
     また、最近色々避難されているゴーン氏だが、とにかく人員カットによっ
    て業績を残したのなら、一般の日本人も、彼のような政治家なら、汚い面は
    色々あったとしても、不法滞在の外国人を大量に拘束し、有無を言わさず強
    制送還するくらいのことはやってくれるのではないか、と期待するように
    なるのではないだろうか?

  7. 土屋さんからあれこれお教へをいただき忝い。

    西尾先生のお説のキーワードは「傲慢」ーー無智・無思考に起因したーーではないでせうか。
    「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が國が與へた事實。歴史とは實に取り返しのつかない、苛烈なものです」(70年談話)などと、したり顏で、 歴史や先人を裁く資格が自分にありと思ひ込むのは、單にそのやうな馬鹿だからといふ以外に理由は考へられません。

    そして、それを咎めない人々がゐるとすれば、やはり自分達には國の過去を裁く權利があると思ひ上つてゐるわけで、同斷です。前囘、亡國神輿の擔ぎ手と言つた所以です。
    實際、安倍シンパのワンパタの條件反射は、58年前の安保騷動の際のワッシワッショイのお兄さん・お姉さんにそつくりです。彼等は、考へるといふことを一切しま せん。

    その安倍應援團も「政権への無限定の賛同は不可能になった」とすれば(先のことは誰にも分らないにしても)、いくらか希望が持てさうな氣もします。

    ”PTA”に關して、個人的なことを一つだけ・・・。

    20數年前、西尾先生の推薦・紹介を得て、駒場の小堀桂一郎教授の研究室に、私の雜誌への連載を依頼しに伺ひました。快諾を得(西尾先生が内諾を取つて下さつたのですから當然ですが)、當時猖獗を極めた解放同盟などについてのお話をお聞きするうちに、禮儀正しい、物腰の柔らかい紳士といふ印象を受けました。

    毎月ほぼ期待どほりの論考をお寄せいただき、滿足でした。強ひて難點を上げるなら、文章がやや固く(その點は西尾先生も氣にかけていらつしやいました)、融通性が少し足りないといふことくらゐでせうか。そして、頼もしいことに、(外見とは違つて)頑固一徹な信念居士であられる、信念に反する場合は梃子でも動かれないだらうなと感じました。

    若干の私的感想も加へた業務連絡の手紙を(當時PCなどは手許になかつたので、手書きで)横書きに書いてお出ししたところ、「日本語は縱に書くのが原則」と注意され てしまひました(小堀先生の歴史的假名遣ひ・正字をといふ強烈な主張には、忠實に從ひましたが、その點についてのお襃めの言葉はいただきませんでした)。慌てて詫び状(もちろん縱書き)をお出しして、二度と過ちを繰り返さないことを誓ひました。

    しかく頑固・嚴格な小堀先生。その先生がまさか安倍應援團に這入られようとは!私からすると、實に意外な人々が安倍さんにすり寄りましたが、小堀應援團員には最も驚きました。

    雜誌にいただいた論考の中には、少し前に西部邁氏が大學を辭めたことを批判し、「自分も學内の問題で忿懣やる方ない思ひをしたが、なんとか忍んだ」と書かれてゐました。辛抱・妥協も必要といふ趣旨だつたやうな氣がします。「信念を枉げよ」とはおつしやらなかつたはずですが、詳しくは覺えてゐません。

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