あなたは自由か・・・私はもう書きましたが、書いていない方は書けない自由があるのか?もしかしたらあなたは書かない自由を本当の自由だと信じているんじゃないか?書かないだけで何が咎められるのか?いや何もそれを心配する必要なんてないけど、書かなかった自分には自分が何かを言わなきゃならない心境になるんじゃないか? 書けるのに書かない・・・それは自由だけど自由でない瞬間の始まりではないだろうか。 人間は言葉を発する自由がある。 西尾先生はそれを叫んでいる。 返信
いきなり抽象的な言い方をして、申し訳ございません。 でもいきなり「あなたは自由か」と問われても、ほとんどの人間が口をポカーンとあけて、何を応えていいのかわからないのが正直なところだと思います。 いろいろ私も考えたんですが、この本の表題は、読み手にも問いていますが、もしかすると、先生本人がご自身に問いかけているのかもしれないと思う気持ちも、ここに至ると生まれてくるんです。 そしてその時にあらためてこの本の帯にある「この本は私のツァラトゥストラだ」の意味がようやくですが私なりに理解できるような気になりました。 つまり「自由」をテーマにした時、人間は皆平等にその問いかけに向かい合う、人間的平等と義務がある。「自由」の前では何人も逆らえない問題定義がある。思想も宗教もこの問題には正しい答えは提示できない。 そんなおおきなものを、私たち人間はどのように普段とりあつかっているんだろう。 なにもかもこの言葉の前では正しい答えが出せない。その焦りに似た人間のもがきが、答えを出そうとするほど強さを増す。 結局この言葉は何を人間に求めているのか、真意が遠のくばかりだ。 そんなことを意識して普段「自由」と向き合っていることはほとんどない。 もしもいるとしたら、かなり無差別な扱いを受けている人種の人々が、この言葉を知ったときに一途の明かりとして扱ってくれる可能性があるかもしれないという程度の言葉なのかもしれない。 私たちは「自由」の本意を知らずに、あまりにも日常的にこの言葉を多用している間違った生き方をしているのかもしれない。 あたかも神様が存在していると決めつけることに無抵抗な人間が多く存在しているように・・・。 いや、もしかすると神は存在するかもしれない。しかし、自由は存在しないのかもしれない。神と自由は並立するものではないという考え方が、この方向からようやく認識できるかもしれない。神の存在の方が人間には重要だという証なんだろうか。いや、それで話がまとまれば簡単だけど、どこかにもう一つの難題が存在しているような気がする。 自由は案外神よりもわかり易く個々に降り注ぐ。 ということは自由は神よりも上を行く存在なのだろうか。 そう考えたときにようやく人間は常識を取り戻して、自由に制限を加える所作を始める。自由がそんなに尊大な物であってはいけないという人間の常識が、普段の生活の中で間違いなく大きく成長している証だと思う。 しかし同時に人間はその制限があるからこそ、それを打ち破りたい感情も生まれる。 つまり、制限される程度の問題だが自由は特に制限されている人にわかり易く伝わる。 本当の自由の意味は誰にも分らない。 それは本当の幸せは何なのかがわからないのとパラレルなのかもしれない。 答えがない世界に自由の答えは存在しているのかもしれない。 返信
「あなたは自由か」の直接的な感想は書けないけれど、 なんだかいつもこの本を読んでから「自由」について考えさせられている。 喧嘩して、自分の言動を制限されたときに、 「自由」を奪われたと怒りの気持ちを感じたように、 何かしら「自由」が引っかかっている。 人間という動物が繁栄し、生きながらえていくために、 色々な制限を乗り越え、 できるだけ強くなっていくことが「自由」ってことなんじゃないか。 自然淘汰?競争?の末に、 できるだけの「自由」を確保しつつ、 伝統とか、文化とかいう形を作って、 その中で自由でありたいと願う・・・・・・ 考えの迷路にはまっている。 とにかく、どんなことでも「自由」というキーワードが、 最近の私の日常の思考に入り込んでくる。 「自由主義」「自由民主党」「自由と我が儘」 「あなたは自由か」って聞かれているから・・・・。 返信
私は、自分のコメントを後で読んでいつも思うんですが、なさけないほど「下手だなぁ」といつも思っています。どうしていつもこんなにまとまりがないんだろうと。 でも、そんな下手くそなコメントを、先生はいつも熱心に読んでくださっています。 どうして、私のこの下手くそなコメントまでちゃんと読んでくださるのか、それが不思議でなりません。でも、GHQ焚書図書のビデオをみて思ったんです。 先生は生の声を聴きたいと考える方なんだと。 生きている言葉ならそれは読んでいて面白いと感じてくれる、先生はそう感じてくれる方なんだと。 しかし、わたしはそれを思いこんでから、なおさらまとまりのない文章を書くようになってしまったと、かなり反省しているんですが、なかなかそこが成長できなくてなさけないです。 でもそれに屈せず書くことにしています。理由はとても単純です。 書けば先生と会話している気分になれるから。ただそれだけです。 ただそれだけのことですが、ただそれだけのことではないということも、同時に感じています。西尾先生が読んでくださっているというのに、私ときたら相変わらずの散文構成で、おそらく先生にとっては読解するためのボケ防止にはうってつけの投稿だと、感じていらっしゃるに違いないことは自負しております。 でも、私はそれでも書きます。どうしてこんな下手くそでも書く気になれるかと申しますと、これ以上下手くそにはならないという開き直りしかありません。 そのせいか書く際に何もためらいがないのです。 ある意味それは私の最大の武器かもしれません。 こう見えても普段はかなり恥ずかしがりやです。 どうしてなんでしょうね、文章を書くことだけは抵抗があまりないのです。 そんなんですから、10発撃ってようやく1発当たる程度の文章しか書けません。 いやもっとダメかも・・・。 そうやって何度も失敗して書いているうちにこう感じるようになりました。 「西尾先生はもっともっと・・・いやもっともっと、とんでもなく苦労して書かれているんだ」と。 ただ先生の作品を読んでいる立場から、先生の気持ちがほんの少しですがわかるようになれたのは正直なところです。 どうしてそうなれたのか、それは自分でもよくわかりません。 ただ言えることは、コメントを書くことによって、なにか責任感が生まれています。 書く以上は決心が必要なこともあり、それを何度も続けていると、不思議とそんなことが私の中に育つようになりました。 毎日仕事をしながら先生の言葉に私なりの意見を書こうという意識を持てることは、とてつもなく贅沢な時間だと思うのです。その価値観に気づいてから、私の人生に大きな迷いはあまり訪れなくなったように感じます。 それが率直な感想です。 返信
話をいきなり宗教の話題に持っていきたいと思います。 私はこの話題が正直苦手です。なぜならあまり興味がなかったから。 でも日本人の多くは、私と似たような宗教感覚しか持っていないと予測します。 あくまでも予測です。 じゃあちょっとは勉強しなきゃならないかなぁ・・・と思いまして、いろいろネットを観ていたんですが、突然「ポグロム」という言葉を知るんです。 聞きなれない言葉だなぁ・・・と思いながら調べていると、どうやらユダヤ人迫害の大元になる問題だと知るんです。主にロシアでその問題が起きたようなんですが、ドイツでも同じような事件が多発し、へプへプポグロム事件というものがあったそうです。 これはドイツの農夫たちが農機具を使ってユダヤ人たちを虐殺した事件で、1819年ころの話なんですが、ヒトラーが出るおよそ100年前からこんなことが歴史上あったわけです。 こうしたことがきっかけでユダヤ人たちは自分たちの土地を探し、その結果行きついた場所がエルサレムだったということになるんですが、彼らは当時そこを支配していたオスマントルコの土地支配者からお金を出して買ったそうです。 つまり土地売買によって共存共栄の場所が生まれたことになります。 ここに至るまでの彼らのたくましさというか頭脳の凄さと言いましょうか、そうした人間的なすごさはどこからくるのか、まずはそういうことに感心させられます。 そして彼らはおもに社会主義的な認識が身についたころにエルサレムに住み始めたので、キブツという土地を作り、平等に収入を分配したそうです。 それを聞きつけたパレスチナ人がそこにやってきてその分配のおこぼれを頂戴するようになり住みついていったというのが、どうやら歴史の本当の流れだそうです。 そして話はいきなり現代になりますが、いろいろあった歴史に終止符を打つように、最近トランプ氏がエルサレムはイスラエルの首都だと宣言しましたね。 これは案外ユダヤ教・キリスト教・イスラム教に関わる人たちには理解出来る解釈になると言うことなんだそうです。 なぜなら彼らは聖書をちゃんと読んでいるし、その歴史背景も理解しているし、三つの宗教はお互いの宗教の中身を理解し合わないと「文句」さえ言えないわけだから、ちゃんと相手の歴史も勉強している訳ですね。 このへんが日本人がまったく認識していない部分で、西尾先生ははっきりとそのことを今回の本で述べています。 つまり私たちの目から見ると、西欧人やアラブ人は宗教に縛られた民族であり、一種宗教から自由になれない民族だという見方をしてしまいがちです。 ここが大きな落とし穴というか、彼らの心理を全く理解していない日本人の幼い部分というか、ある意味自由というものを間違った認識の仕方をしているというか、おそらく西洋人が聞いたら腹を立てるかあきれて大笑いするかのどちらかだと思うんですが、いずれにせよナンセンスな話となるでしょう。 第一日本人は宗教から自由な立場だ・・・という、そんなことを本気で考えている人はほとんどいないと思うんですよ、実際には。 ところが、いざ向こうの宗教の話になるとその概略すらよく理解していないがために、彼らが宗教に縛られているという、事実はそうであってもそんなに単純なものではないんだよということを認識していないがために誤解をすぐしてしまう。 それは単純に三大宗教の歴史とその聖書やコーランなどを読んだ経験がほとんどないからでしょう。 先ほどのポグロムの話題は、あまり私は詳しく知りません。まだ勉強不足です。 どうしてユダヤ人はこんなに迫害されなきゃならなかったのか、いろいろそれを語るものは存在しますが、いずれにしてもそう言う過去があったことは確かに忌忌しき問題なんですが、本当の問題は・・・というか、イスラエル人の問題の本質は、実はユダヤ人本人の決断そのものに問題があるんじゃないかということを取り上げている話も知りました。それは1947年に決まった国連の決議「パレスチナ分割決議」というのがあり、そこでユダヤ人は国連の決議を遵守します。その際エルサレムは国際的な平和な場所・・・という認識を強要されるんですが、ユダヤ人はそこで全面許諾するんですよ。 じゃぁアラブ人はどうだったかというと、なんと関連五か国はすべて拒否したそうなんです。 こうした細かい歴史の事実。私たち日本人はほとんど知りません。というか興味がほとんどありません。西尾先生はそれがすべて日本人の中東の誤解を生む原因だと遠巻きに語るのです。実際そうですよ。私なんか今でも彼らの本心がどこにあるのか理解できません。例えばイスラム教徒の殉教なんか、どうしてそこまで宗教に心が傾いていくのか、全くわかりません。 全くわからないということは、つまり宗教に縛られている人間の気持ちを理解できないと宣言しているようなものです。その宗教に縛られている人たちは自由でないけど、だからかえって彼等は本当の自由を知っていると言えます。 その理論から行けば日本人は本当の自由を知らない民族になってしまいますが、本当にそうでしょうか。そんなに我々は単純な民族でしょうか。 まさか、そんなことはあり得ないです。 たしかに聖書は読んだ経験が薄いです。宗教に縛られた経験もほとんど自覚していません。しかし、日本は天皇陛下という頂点を持つ国です。それによって精神が保たれているわけですが、なんと今の時代、そのことすら気が付かないでいられる日本人が多く、それは一種不安を感じるのですが、でも実際はその多くの日本人が本当の心の奥にある本心としては、皇室の存在に精神をあずけていると思っています。 そのことに気づかなくて済むこと自体が幸せの象徴です。 もしかすると天皇陛下はそれを理想としているのかもしれません。それに逆らうようですが私はそんなに幸せすぎなくてもいいと思うんです。ちょっと不便なくらいが、人間は幸せなんじゃないかと思うからです。 ちょっとくらい不便な方が、自由とは何だろうと考えることもあるかもしれません。 大雑把な意見でしたがいかがなものでしょうか。 返信
続けます。 ポグロムの根源となるものはおそらくルターでしょう。なにしろ彼はシナゴークを「汚らわしい売春宿」と称したのはあまりにも有名です。 こうしてルターの出現によってさまざまな西洋歴史が展開されていくわけですが、内陸は完全に7世紀以降イスラムが支配します。それがオスマントルコに受け継がれ、なんとほぼ1900年まで地中海を支配し続けます。 そこに至るまでルターの考え方はつまり地中海から遠のくわけです。 それよりも宗教支配によって地球の規模がそこに拘る必要がないと言い切るような地球支配がはじまります。 日本ではマルコポーロの東方見聞録がコロンブスによってアメリカ大陸発見につながり、いずれそれがマゼランによって地球一周に繋がるみたいな、まるで堀江健一目線で歴史を語りたい向きがありますが、実際は北ヨーロッパ地域ではルターによる宗教支配が盛んだったようで、特にノルウェー人によるバイキング作戦といいますか、簡単に言えば海賊ですね、それがイギリス人に受け継がれ、そしてアメリカはイギリスが支配したという流れです。 その間ユダヤ人は概ね西ユダヤ人と東ユダヤ人に分かれていったようです。 迫害を受けたユダヤ人の多くは東側の人たちで、西側のユダヤ人は多分想像ですが、アメリカ大陸への進出の手助けというか、細かいところでの出資をになってきたんじゃないかと想像するんです。ですから東側のユダヤ人はその精神性が古代から受け継がれているユダヤ人で、西側にいたユダヤ人は、世界視野で動いていたユダヤ人だと思うんです。このへんをおそらく私たち日本人は一緒度にしていて、ユダヤ人のその区分けが曖昧になっているんじゃないかなぁと、一応想像ですがするわけです。 正直私もまだまだその辺の線引きが難しすぎてそう簡単には言い表せないのですが、いずれにしましてもこの話の最終目的地はどこかというと、自由をどう考えるかということなんです。 一応このスレッドでは、まだルターの考え方が世界を知るようになったというところまでしか行ってません。 是非ですねこの辺の詳しい方々ご参加ください。 そして色々教えてください。 私は知りたいのですこのへんの一番ややっこしいことを。 返信
15世紀に発明された活版印刷によって、聖書が世の中に急速に広まっていったことは皆さんもご存知の通りです。それと時を同じくしてルターがこの世に生を受けます。 彼の活動とともに活版印刷の普及も同時進行します。 アメリカ大陸が発見されたのもこの時期。 こんなにも世界を揺るがすことが偶然重なることがあるんだという驚きを隠せないのはもちろんですが、それらがなにか運命的に起きたような、偶然性の中の必然性と言えばいいのでしょうか、そんなことをつい感じるわけです。 人間という生き物の歴史が仮に1万年くらいだとしましたら、これまでの中であまりにもここ最近が慌ただしいわけで、本当にこうあるべきなのだろうかと、疑問を抱かずにはいられない西部先生流の意見があっても、少しもおかしくないと私は思います。 彼が正しいとか間違っているとかではなく、そうした基本に戻る意識というか、事を糺すというか、それは失ってはいけないことだと思います。 西尾先生が西部先生を一目置く部分はおそらくそういう点なんだろうと思います。 西尾先生はおそらくそういう偶然の中の必然性だけに着目するのではなく、人間の可能性と言う点を重く受け止め、未来がどうなるかは誰にもわからないが、人間社会が発展することの大切な要因の中に、文明や文化の発展は避けられないんだというスタンスだと思います。その認識に立つ理由を私なりに探ると、おそらくですが西尾先生は人間のこれまでの歩みとその歴史というものは、いつも一体で常に関連性があって、むやみにそれらが孤立して存在しているのではなく、当然それらは関係性を高めたり影響しあっていく立場にあるんだ、その意味での可能性を人間は見過ごすべきではないし、仮にそれが理想でなかったとしても、歴史が何らかの修正を成し遂げることだってあるだろう、そういうスタンスで語られていると思っているんですが間違っているでしょうか。 たしかにここ数百年の人間の社会の発展性はものすごくスピード性を高めているとは思いますが、先生は良くこういう表現をされます。 「色んなことが起きたこの500年ですが、たったの500年ですよ」という考え方。 プロテスタントの時代はたったのここ500年の間の出来事ですよ。 ということは将来たったの500年くらいでこの文化が滅びることだって有りうるかもしれない。いやもっと早くそれはやって来るかもしれない。 その兆しと言いますか、中東情勢がいま大きく変わろうとしているところに着目すべきです。つまり、三大宗教の関係性が変わろうとしている。 何がどのようにという説明はここでは省きます。 ただ西エルサレムがイスラエルの首都であるという認識が、いま共有されているという点です。元々エルサレムにはアメリカの領事館があって、大使館も実際はエルサレムの領事館の中で実務遂行されているのが現状だということなんです。 ですから現実と建前がねじれたままの状態であったものを、トランプが元に戻してねじれを解消したということになるわけです。しかもそれを宣言したタイミングがジャストミートだったそうで、このタイミングだからこそ混乱が起きなかったというのが周辺国での共通認識のようです。 そうなると次はどうするべきか・・・自然と意識はそうなっていきますよね。 考え方の基本というのはそういう現状との関連性が一番重要になるわけです。 つまり日本はどこよりも早く大使館をエルサレムに移転させるべきだということ。 これによって日本はアメリカの信頼を絶対的な物にできます。 そうなることによる悪影響も、今のタイミングなら少なくて済む。 世界のそういう認識をうまく利用する決断が大切で、中東問題に詳しい人たちの共通認識であると言うんです。 なるほど、勉強になるなぁ・・・と思いましたよ。 そういえば、ブッシュジュニアがイラクを攻撃する際、日本は自衛隊を派遣するべきか否かで、ほぼ一番最初にそれを提言したのは西尾先生でした。 これこそが「私ほどの自由人はいない」と明言した西尾先生の真骨頂はないでしょう。 返信
〈墮地獄〉 「こんな國は地獄に墮ちるだらう」ーー先日の坦々塾での 西尾先生の御講話の結論です。 お話の8割がたは、米中對決に日本はどう向き合ふべき かについてでした。「日本はアメリカに弓をひいたのか」 (産經・正論)が骨子のやうで、その論據をより詳しく、噛 んで含めるやうに諄々と説かれました。理路整然として論 旨明快、一語一語が胸に沁み入るやうでした。 米・中・日 「米國は中國の暴虐・理不盡と野望に氣づいて、遲きに 失したとはいへ、やうやく對決姿勢に轉じた。自分が久し く待ち望んだところである。 然るに、こここそ全面協力すべき場であるのに、日本政 府は何を勘違ひしたか、人民元と圓のスワップ協定を結 んだ。これは米國の敵に鹽を送るものである。麻生財務 大臣は、日本企業の元(げん)を使つた活動をやりやす くする政策で、對中支援ではないと言つたが、詭辯も甚 しい。 安倍總理はそれを土産に訪中する。トランプ大統領との 間に齟齬はないと言ふが、これまで、ないと言つてゐた 齟齬が出て來たことはないのか。斷乎やると言つて、本 當にやつた試しがあるのか。 米國政府からの批判はまだ聞かれないが、さういふもの はスーッと出て來て、忽ち燃え擴がるのだ。それを前以 て感じ取つて考へ、判斷する能力がここまで缺けてゐて は、ほとんど絶望的だ。政治家だけではない。一般國民 も、爲政者の劣化を感じることができないほど、劣化し てゐる。あとは、僥倖以外に頼るものはない。 入管難民法 ドイツでは最近、移民の問題があまり論ぜられない。事 態が一段落したからではなく、論じることもできないほど 深刻なところに來てゐるのだ。そこへ、日本の今度の動 き。逆行といふより周囘遲れだ。本當に、日本人は歴史 にも外國にも一切學ばなくなつてしまつた。 『這入つて來る者が可哀さう』といふやうな議論がされて ゐる。そして、日本といふ國、日本人にとつて、移民が プラスかマイナスかといふ肝腎の基本が忘れられてゐ る。本末顛倒だ。 自分はこの問題に昔から取組み、意見を言つた。以前 は耳を傾ける向きもあつたが、最近は全く聽かれなくな つた。もう外國人勞働者について論じるつもりはない。 これほど言つても聽かないのだから・・・」 ここから、冒頭に紹介した結論をお出しになりました。 遺憾ながら、すべて完全に同感と言ふほかありません。 地獄には普通、惡業の報いで墮ちるのでせう。さして惡 いことをせず、いい思ひもあまりしなかつた日本人とし ては無念ですが、馬鹿になると、何も彼もパーなのです ね。 巷では、北方領土返還は4島一括か、2島先行かといふ 不思議な議論が行はれてゐます。プーチンは、なんのこ と?とせせら笑つてゐることでせう。 3年前に、日本が10億圓を據出した韓國の元”慰安婦” 支援の財團は今日(21日)消えましたね。西尾先生は 3年前、100%さうなると斷言され、當時の岸田外務 大臣を指彈されました。ところが、今春でせうか、水島 總氏との對談で、岸田さんの方が今の總理よりはマシと おつしゃいました。先生もヤケッパチ!つくづく同情共 感しました。 見て、感じて、考へた上で判斷・決斷するーーその能力 が全くなくなつたか、痲痺してしまつたのですから、亡 國は當然でせう。地球上にこんな例が嘗てあつたのでせ うか。 もの心ついて以來、どうして我等日本人はこんなことに なつたのかを考へるのが、我がライフワークのやうにな りました(當時も、今ほどではないにしても、我々は既に、 かなり魯鈍でした)。先生のお蔭で、その答に近づいた (どのくらゐかは分りませんが)やうな氣がします。 返信
『あなたは自由か』の感想は既に書かせて頂きましたが、あきんどさん の呼びかけに共鳴し、やはりまだ、何か言わねばならないという気持ち になりました。なぜならこの本は「あなたは自由か?」と問うているの だから、読んだ者は、自分の中に少しでも自発的に湧き上がった感情な り考えがあれば、それを述べるべきではないか、と思うからです。 (以下、感想文その2) 第7章の前半には、現代人の我々と深い関係のある重大な問題が提起 されている。それは「意志の自由」と犯罪の関係だ。 例えば著者は「何か来歴に原因があって、あるいは社会との関係に 理由があって、決断を下し成功したのが実際だとすれば、それは自由で はありません。必然です。その際、大切なのは、私たちは『意志』その ものからも自由なのかということです。」(P326)と言う。 この文の前半部分は、分かりやすい。例えば我々日本人は、ある人が 裕福で学究的な家庭環境に生まれ、おまけに親からよい遺伝子を受け継 げば、学校でもよい成績を取るだろうと考える。反対に、物質的にも精 神的にも恵まれない家庭に生まれ、なおかつ何らかの不運に見舞われた 場合、その人は以後どんな事を為すにも困難を感じ、ついには犯罪に手 を染める可能性もある、と考える。しかし同時に我々は、恵まれた人生な のに犯罪を犯す場合があることも知っている。いずれにせよ刑罰は、持っ て生まれた条件によって、軽くしたり重くしたりすべきではないと考える、 それが伝統だった。 こうした常識的な考え方を踏まえた上で、では、後半部分の「私達は 『意志』そのものからも自由なのか」などという複雑なことまで、考え るかといえば、我々の多くは、考えないのではないだろうか? ところがキリスト教を基礎とする西洋文明を受け入れた以上は、そう はいかなくなった。そのキリスト教文明圏が、「『意志の自由』は神にの みあり、人間の身には決して起こらない」(P327)と考える以上、例え クリスチャンでなくても、キリスト教的な「犯罪における人間の責任」 という問題を避けることはできないからだ。誠に「わが国の知性は、 『意志の自由』を他人事のように扱うことはもはやできなくなって」 (P327)いるのだ。 ところで私が非常に違和感を覚えるものに、精神鑑定がある。これは 「善悪の判断をする能力またはその判断にしたがって行動する能力」が あるかどうかを判定するために行われるとされる。具体的には、凶悪な 犯行であるにも拘らず、その動機が特定できない時などに実施されるよ うだ。そして多くの場合、弁護側が主張するのが、被疑者には精神に何 らかの障害があるため、責任能力が問えないというものだ。 こうしたケースの一つに、平成17年に起きたペルー人男性による幼女 殺害事件がある。被疑者は「悪魔に命令されてどうしようもなかった」と 言ったそうだ。そこで、却下されたとはいえ、弁護側は精神鑑定を裁判所 に請求したとある。この事件を見て私が思うのは、少なくとも我が国に於 いて、これまで前近代として放棄したはずの、例えば「狐憑きに見舞わ れた」などという言い草が、犯罪の原因として、再び大真面目に取り上げ られるようになったのではないか、ということだ。 そもそも普通では考えられない理由なき凶悪殺人事件、例えば『ジキル 博士とハイド氏』のハイドのように、根っから凶暴な性格の人間がいるこ とは、小説や映画やドラマなどで、昔から沢山描かれてきた。その他にも、 終戦後の盆踊りの夜、三人の息子を戦争で失った父親が、日本刀を持って、 多くの人に斬りつけようとしたとの記事を、雑誌で読んだこともある。 こうした事件を聞いて、我々は、「あんな事をするのも無理はない」と シンパシーを抱くこともあれば、全く同情の余地がないと感ずることもあ る。いずれにしても、多くの人が理解不能と感じた場合は、「この人物は 何かに憑依されたに違いない」と解釈してきたのである。 実際私は40年ほど前、本屋でアメリカの猟奇的犯罪だけを集めて報告し た本を見た事がある。そこには肉親を殺害して、その血液を体内から全部 抜いた事件など、ゾッとするような光景が幾つも描写されていた。そして どんなケースもほとんど例外なく、宗教的な意味を持っていた。しかも犯人 たちは多くの場合、自分がやったことに対し明らかに自覚を持っていた。 なぜ私がこんな事を書くかといえば、先のペルー人男性のケースに限らず 今後我が国には、様々な宗教や思想を持った人々が入って来るからである。 したがって我々が好むと好まざるとにかかわらず、我々日本人が「前近代」 だとして切り捨ててきたものと、再び向き合わざるを得なくなると思うのだ。 その場合、犯行の原因が、「狐憑き」「幽霊」「霊魂」「妖怪」など、我々に は馴染み深いものではなく、「キリスト教の悪魔」かもしれないし、また別 のものかもしれないのである。その時、我々はどうするのだろうか?例の ごとく精神鑑定して、責任能力なしと片づけるのだろうか? 我々日本人が、古来小説や絵画などに、幽霊や妖怪を描き続けてきたのは、 世の中には、不思議な事、人知を超えたものがあることを知っていたからだ。 そして先人たちは、解決できないものは解決できないものとして、そのまま にしておく知恵を持っていた。それなのに現代人は何故、理解できないもの を理解できないものとして、そのままにしておこうとしないのだろうか? この点について著者は以下のように述べる。 「現代の法曹界は後者の観念、犯人に優しく遺族に厳しい決定に傾く 『意志の不自由』論を選びがちであることは夙(つと)に知られています。 しかし、法律家のいったい誰が神の領域に立ち入れるのでしょうか。」(P329) なされた犯罪の動機がいくら科学的に調べても分からない場合もある。 そんな人間の動機について、無間地獄に落ちるような探求するのは、もとも と解決などつかない問題を延々と論じることによって、あたかも解決できる ように思い込む、或は解決できないことが薄々分かっているからこそ、少し でも解決できたように思いたい、という甘い願望にすぎないのではなかろ うか? おまけに問題をより複雑にしている事、というより厄介なのは、被疑者 に精神に異常がある場合は、全力を尽くして更生させるべきだ、或はこうし た人間が今後出てこないように社会を変えなければならないと考える人々 が沢山いることだ。マルクスとフロイトの影響である。 この点に関して著者は以下のように述べる。「『意志の自由』は通例、意 識の主体性を前提とします。それを妨げ、人間から責任観念を少しずつ弱 めてきたのは貧困などの社会環境の認識と、人間の心身全体を司る無意 識界の発見でした。まことにマルクスとフロイトの出現は個人の良心の自 律性というものを絶望的なまでに危うくしたといっても過言ではないで しょう。しかし奇異なことに、その『個人』を確立せしめたのはキリスト 教であり、と同時に、同じ『個人』を窮境に追い込んだのもキリスト教で した。」(P331) 明治から150年を迎えた我々日本人だが、未だに「我々は本当に西洋化 したのか?」という問いが付きまとっている。特に識者によって何度も指摘 されてきたのは、「日本人は『個人』が確立していない」というものだった。 しかし特筆すべきは、近年多くの人々が、自分たちは、もともと西洋とは違 うのではないかと気付き始めたことだ。にもかかわらず、従来の考え方に 固執する人々は「近代化」は必然として、それを「グローバル化」などと いう言葉と無理矢理結びつけ、挙句は皇室まで否定しようとしている。そ の極致が昨今危急の問題である「移民受け入れ」政策だ。 この政策は、我が国に、図らずも「狐憑き」のような「中世を呼び込む」 ことになるに違いない。そして現実は、「多文化共生」など我々が目指して いる或は予定している社会の方向とは全く違う、いやそれどころか全くの 逆方向に進むことになるのではないだろうか? こんなことを書くと、楽観的な人々は、「そんなのは考え過ぎで、悲観的 すぎる」と言うかもしれない。しかし「複数の民族が互いに努力して、互い に共生できるように努めればすべてうまくいく」という美しいが甘い期待は、 早晩裏切られるだろう。なぜなら、例えば仮に外国人(或は日本人)による 他民族に対する、理由なき凶悪犯罪がなされた場合、本人に自覚は無くても、 いや本人自身は努力したのに、どうしようもない本性によって堪忍袋の緒 が切れた、という場合だってあり得るからである。 そして我々の社会は、昔の人なら「狐憑き」だと片づけたかもしれない 「どうしようもない本性」について延々と議論したり、生活習慣の違いや生 れ育った環境に問題がなかったかなど、あらゆる条件について探った後、更 生可能だと結論付けた場合は、再教育するために、あらゆる手を尽くそうと するだろう。 しかし反対に、そんな優しい手立てではなく、その人物を「救いようのない 最悪の差別主義者」だと結論づけたら、普通以上に厳しく断罪することにな るかもしれない。 こうして、本来は誰も立ち入ることができない内心にまで踏み込み、この 人物は改心したとか、しないとか判断するのである。 それにしてもいったい何時から我々は神様になったのだろうか? 1999年の仏米合作映画に、ミラ・ジョヴォヴィッチ主演の「ジャンヌダルク」 がある。過去いくつか製作されたジャンヌ・ダルクを主人公とした映画の 中でも異彩を放つこの作品は、激しい戦闘シーンももちろんだが、何といっ ても、最後にジャンヌが異端審問の裁判に掛けられ、執拗な審問官たちに よって、罪を認めさせられる所が圧巻だ。 中でも印象的なのが、彼女がいつどこで神の啓示を受けたかと、問い詰め られるシーンである。ジャンヌが少女の頃のある日、野原で突然強い風に吹 かれたかと思うと、そばに剣が落ちているのに気付く。彼女はその時、神が 風に乗って自分に語り掛け、その剣も神が授けてくれたものだと判断する。 しかしそもそも、それらが神の徴(しるし)だという証拠はどこにあるのか。 剣は偶然誰かがそこに置いたものなのではないか、或は近い過去、その場所 で戦闘があり、敗けた軍人が落として行ったものかもしれないではないか? オルレアンでの戦いも、神の名の下に、ほんの一瞬でも人殺しを楽しんだ 気持ちがなかったか?そもそも神が流血を望むだろうか?神の啓示によって 戦ったというが、本当は自分のため、復讐のために戦ったのではないか?等々。 審問官たちの厳しい詰問と自問自答によって、次第に追い詰められた ジャンヌは、遂に自分は「見たかったものだけを見て、それを神の啓示だ と勘違いし、神を冒涜した上、自己中心的で身勝手な人間だ」と認めてしまう。 こうしてジャンヌは、彼女を貶めようとする者たちの罠にはまり、炎の中に 消えてゆくのだ。 面白いのは、審問官の一人が「彼女は、本物の神の使者かもしれない。神を 冒涜したことを証明できないかもしれない。それが怖い。」と不安げに語る シーンだ。火刑から500年後、ジャンヌはカトリック教会の聖人に列聖された。 明治維新以後、我々の社会は、様々なものを「前近代的」という名目で 葬り去ってきた、いや葬り去ったつもりだった。ところがここへきて、よう やく形だけだと思っていた皇室が如何に大きな役割を担っているか、また 先祖が伝えてきた数々の生活習慣も、深い知恵に裏打ちされていたことが分 かってきたのではないか。しかも自分では無意識に行ってきた数々の振る 舞いが、実は宗教的な意味に満ちていた事を教えてくれたのは、大抵は 外国人だった事に、我々は戸惑っているのではないだろうか? 意識の上では、近代化されているつもりの日本人ではある。しかし自らの 国の成り立ちも忘れてしまった戦後の日本人が、様々な歴史的背景を持つ 国々からくる人々を、自国に招く準備、いやそもそもその資格があるのだ ろうか? ジャンヌ・ダルクを葬り去るために、異端審問官たちが使った手は、 「神の啓示といっても、自分が見たかったものを見ただけだ」「剣がそばに あったのは、単なる偶然だ」というものだった。この物言いは、現代人と そっくりで、多くの人はちっとも違和感を感じないのではないだろうか。 そして今後は、異端審問官がジャンヌと対峙したように、我々も「前近代 的」と思われる人々との付き合いや、場合によっては戦いも避けることはで きないだろう。ただ異なる点は、異端審問官が最初からジャンヌを陥れるた めに様々な理屈を並べたのに対し、我々の方は「人類は平等」とか「多文化共生」 という、相手が望んでいるかどうかも分からない理想や大義名分を前提にし ているということであり、その事を決して忘れてはならない。 こうして我々は、自分たちが過去に、そっと脇に置いてきた「前近代的」 なものと再び出会い、今度はそれに対し、どう振る舞うかを本当に真剣に考 えざるを得なくなった。それは我々日本人にとっては、とりもなおさず、自 分自身と真正面から対峙することと同義である。いずれにしても、このよう な重い決断の結果すべてを、引き受ける覚悟が我々にあるのだろうか? 返信
>黒ユリ様 貴殿は最初の投稿で、宗教をキーワードにされていました。 私はその真逆といいますか、宗教性を省いた文章を意識しました。 しかし、黒ユリ様が意識した「宗教」というキーワードが、みごとに的を得ていることに、ここにきて感じるようになったのです。 そのきっかけは、中東の現状とそこにかかわる日本のエネルギー問題を、最新の認識で考えてみようという意識から生まれました。 チャンネル桜を観て、「なるほど・・・」と思う部分が多々あり、これに関する情報を二日間にわたってじっくりネット検索していました。 ですからかなり付け焼刃てきな認識があることは認めます。 ただし、そこから拾った情報を丸写しすることだけは絶対したくないので、自分の意見にかみ砕いて書きこんだつもりです。 西尾先生は以前、中東問題はあれは完全に宗教問題なので、関わる必要はないとおっしゃっていました。 たしかにブッシュジュニアのイラク攻撃の時とちがって、アメリカはシリアにも深く介入していないし、サウジの皇太子の事件介入も、アメリカは批判的な立場は表明しつつも、本腰入れて事件の真相を探っているようには見えず、ただ批判して周りをあおり、それによる当事国の自発的な問題解決をうながしているだけのようなイメージがあります。しかし決定的に昔と違う点は、サウジとイスラエルがここにきて和解している動きが目立つという点です。 さすがにサウジも現在の産油国としての地位が世界4位という立場にあり、将来的な展望を考えると、イスラエルのもつ世界的な情報力は見過ごすことが出来ない状況にあるんじゃないかと、あきんど的な発想でそう思うわけです。 現在の原油価格レートが続けば、アメリカのシエールガスの産油量は安定してしまい、他国を寄せ付けない数字を維持してしまいます。 しかし、それを見過ごしていると受給バランスの軸がくずれ、原油の値崩れが加速する危険性もあると聞きます。 サウジにとってはその供給過大現象こそが最大の問題であり、国家を根底から揺るがす大問題であることは誰の目から見ても簡単な問題です。 そのサウジと密接にエネルギーを取引しているのが日本です。 さまざまなエネルギーの供給先を模索している中で、現状のルートは大動脈です。 その中東の諸問題を我々日本人の殆どがまるっきり理解していません。 様々な問題を「人道面」からしか見ようとしません。 三大宗教は三兄弟であることの認識がないので、彼らが同じ問題の前で困難していることを知りません。 エネルギー問題の前ではもっと国民は中東問題に過敏であるべきなんですが、どんなにけしかけてもこれは不可能なんだと思います。 太平洋戦争が始まる頃の意識もたぶんそうだったんじゃないかと、これは私の勝手な予想ですが、そのころと今の日本のエネルギー問題に関する国民意識は、さほど変わっていないんじゃないかと思うのです。 当時はインドネシアからのルートが大きかったわけですが、今は中東がメインということで、その差はもちろんあると思いますが・・・。 日本の欠点の一つは、重要問題が国内でその真実が明かされない空気がはびこることなのではないかと感じます。 その辺のことを山本七平が「空気」と題して書いたのは有名ですが、ただそれだけではないようにも感じるのです。 日本にはたしかに西洋的な宗教はなく、どちらかというと性善説の国民性で、もめ事を嫌い隣近所と仲良く暮らすのを常とする日常です。 一見普通に感じるその現象も、西洋的な宗教から逃れられない不自由さと、実はどこか似ているところがあるのではないかと思うのです。 そうした日常の人間関係そのものが、日本の場合は適当にほどよく不自由さを強いられ、同時に単なる社会的拘束というものに縛られるだけじゃなく、自発的な拘束もそこには有って、そのバランスが数千年かけて培われてきたとみるべきなのではないか、そう思うのです。 その自発的な拘束を紐解いていくと、一つの日本的な宗教なのではないかと思うのです。 どうしてそれを「宗教」という言葉で括れるかというと、一つの宗教に縛られていると、人間は集団で同じ方向にお辞儀をするんだそうです。クリスチャンは十字架の前でそうだし、ムスリムはメッカに向かってそうするし、仏教徒はお釈迦さまに向かってそうする。じゃあ日本人は・・・天皇陛下にむかってそうする・・・だけじゃなく、集団行動をすると整然と並ぶ修正が身についている。 これも一種の「宗教」と解釈していいのかもしれません。 私は聖書をくまなく読んだ経験がないため、大雑把な事しか言えませんが、たぶん彼らにとっての聖書は、私にとっての「西尾先生」と一緒なんでしょうね。 こんなこと西尾先生に向かって言うと、何言われるか内心びくびくなんですが、私は西尾先生が開いてくれた窓から世界を見ている気持ちなんです。なにしろここの景色が一番お気に入りなので。そして、そこから見える景色をいろいろ自分なりに観察しています。でも、時々その観察が度を過ぎて、迷いが生じるときがあります。 そんな時西尾先生の窓に戻るというのが日常です。 つまりどんなに暢気な日本人でも、実は普段何かに縛られて生きている証です。 西尾先生が「あなたは自由か」と、そういう日本人一人一人に問いただしたとします。 そしてこの本はそれを実行したわけですが、おそらくこの本を読んで自分がいかに自由に生きていないかを実感すると思います。 「だからなんなのさ・・・?」と渋谷あたりを歩いている若者に逆質問されたとき、どんな答えを準備しておこうかな・・・というのが、今の私の「課題」であり「不自由」かなと思う一面です。 返信
西尾先生が国民の歴史を発表されて、日本国の教育問題に真っ向から戦い始めた頃、ジワジワと中国が成長し始め、あっという間に日本を追い越す経済力を蓄える結果となりました。いや、本当はその辺の実態がよくわからないわけですが、間違いなく国民レベルで判断すると、我々が子供の頃にイメージした中国ではないことが明らかな時代となったわけです。たとえば中国人労働者のいわゆる研修生といわれる学生労働者が毎年私に職場に来るわけですが、昔は本当に日本人以上に実直で健気な学生が多かったのですが、最近の研修生はすでに「贅沢」は経験済みで、逆に日本人の若者の方が、幼く見えることすらある始末です。 行く末がいったいどうなってしまうのか、こうしたことからも不安が募るということです。考えてみれば私たちはすでに子育てが終わって、孫が生まれる世代になってしまって、教育の現場は私たちの子供たちが担っているわけです。 私の長女はたまたま幼稚園の先生を5年間ほど経験し、そこで経験した話によると、子供たちの何割かは生まれたときからすでにギャップを背負って生まれてきている子供がいるのが当たり前で、例えば食物アレルギーが圧倒的で、そのほかにも色々問題を抱えた子供達が必ずいて、多少のことでは驚かない時代なんだとか。 もしかすると私たち日本人の多くは20年も30年も前の感覚で中国人と接しているのかもしれません。実際には現実的な場面に対処していても、なにか観念的な部分で現実を見ていない気持ちに陥ることが多いように感じます。そうした現象がたまたま中国人を見るときの我々の現実に顕著ですが、一昔前は欧州人を見るときの日本人にそれと似たような「真逆な現象」の意味での現実感のなさがあったような気がします。 ちょっと表現が複雑になってしまって申し訳ありませんが、どちらにしても日本人はどこか現実を直視できない、不思議な色眼鏡が備わっていて、時代に関係なくそれはあって、特にそれが顕著なのが私たち世代の前に多く、案外最近の若者は、中国が豊かな時代になってからのイメージしかないためか、自分と同等に彼らを直視し、いわゆる色眼鏡がない見方をできる世代になっていて、日本人という目に見えない優越感はほとんど感じずに生きている感じがするのです。 ただし彼らが案外感じている部分に、3kと言われている「汚い仕事」に対処する際の日本人と中国人の差というのを感じるようで、中国人の場合はあからさまにそういう仕事を嫌うようです。でも日本人の場合は老若に関係なくそういう仕事に従事できる感覚があって、仕事の速さが数倍違うのが現実のようです。 実際私たち世代なんかそうした仕事にたいする考え方に、大きな問題がそれほどなく、働くということの同党感は備わっていると思うんですが、子供達にもそれはまだ残っていて、中国人との違いはあきらかだと思うのです。 そうしたことに着目すると、日本人というのはやはり国民意識がまだしっかり残っていて、職種に差別感を感じないモラルがまだ残っている証拠ではないかと思うのです。 ただ、娘が懸念しているのは、普通の保育所や幼稚園では、子供が「主役」になりすぎていて、子育てをはき違えているんじゃないかと言います。 娘が勤めていた幼稚園は、案外積極的なところで、例えば年代が違う子供たちの接触を心がけ、年齢によって上下があるということ、それによって自分が出来ることと出来ない事を体験させ、上のお兄ちゃんやお姉ちゃんから学ぶ経験を実感させることを心がけているんだそうです。 一人っ子が多くなってきた最近の家庭事情から、「学ぶ」ことの大切さが重要だという判断で、上下の関係を子供の頃から体験させることの重要性を親御さんに訴えているそうです。 最初はほとんどの子供が泣いたり嫌がったりするそうなんですが、じょじょにそういうことが当たり前な雰囲気になって、お兄さんお姉さんの存在がとても大きな役割をしてくれるんだそうです。 私はその話を聞いて、「それは本当に大切な教育だね」と娘に言いました。 どうやら娘が勤めていた幼稚園では、そのことを一番重視しているようで、賛同するご家庭がやっぱりいらっしゃるそうです。 でもそこで働く先生は大変なんだそうで、なるほど聞いてるだけで何となくわかるような気がしました。子供の問題はもちろんなんですが、親御さんの方が案外問題が多くて、そこをどうしたらいいのかはさすがに対処できない世界で、子供を通じてどうやって理解してもらえるかが一番の苦労だと言ってます。 どうなんでしょう。本当に困った問題です。我々自体が問題を抱えているんだと認識すべきなんですね。ここから自覚が必要なんだということです。我が子供かわいい・・・主義が横行している現代。 どんなに立派なことを言えても、現実が伴わないと論の実態が軽薄になる・・・たぶん三島由紀夫がそれを声高に言いたかったに違いありません。 返信
おもいっきり三島由紀夫を持ちだす論にしましたが、おそらく私が思うに、西尾先生より「自由」感を持っている人はただ一人『三島由紀夫』だったのではないかと思います。 私は彼のことをほとんど知りません。西尾先生を通じての情報しかありません。 でも色んなことが知れる世界なので、一応見たり聞いたりしています。 そうした少ない情報の中での判断ですが、三島由紀夫の決断は、「自由」の象徴なんだと思います。つまり生きている人間にとって「自分」というのは「殺せない」条件なんですねたぶん。 そこを超えるとルール違反になるわけですが、その違反を感じさせない生き方というのも、私たちが知りえない世界にあって、そこを三島は生きたというかんじがするのです。誰も理解してくれないことをあきらかに彼は知っていて、それを具現化したという歴史なんだと思います。 そういう世界が彼にしか見えないかというと、どうなんでしょう、時々私のような者でも何かそれを感じちゃう時がありますね・・・うまく表現できませんが。 そうでなければ三島の死は無駄死ににしかならないわけだし、そうさせたくない後世の考え方というのが本当は大切で、縁遠いかもしれませんが、娘が勤めていた幼稚園で学ばせている上下の関係というのが、実はとても重要で、拘束されることによる「自由」への理解というものが、正しい学びの中の一環なのではないかと思うのです。 三島が言いたかったことは数多くあると思います。 でも彼が一番言いたかったのは「本当の自由」なんだと思います。 私は西尾先生が三島から学んだものはそこなんじゃないかと思っています。 返信
自由だからこそ「決断」が生まれるんだとおもいます。 生きるか死ぬか・・・ではなく、生きた言葉を発せるか否かなんだと思います。 けっこう難しいです。そんなに簡単にできることではないです。 私はいつも何も考えずに書いてます。 そうしないと書けないからです。 返信
あなたは自由か・・・私はもう書きましたが、書いていない方は書けない自由があるのか?もしかしたらあなたは書かない自由を本当の自由だと信じているんじゃないか?書かないだけで何が咎められるのか?いや何もそれを心配する必要なんてないけど、書かなかった自分には自分が何かを言わなきゃならない心境になるんじゃないか?
書けるのに書かない・・・それは自由だけど自由でない瞬間の始まりではないだろうか。
人間は言葉を発する自由がある。
西尾先生はそれを叫んでいる。
いきなり抽象的な言い方をして、申し訳ございません。
でもいきなり「あなたは自由か」と問われても、ほとんどの人間が口をポカーンとあけて、何を応えていいのかわからないのが正直なところだと思います。
いろいろ私も考えたんですが、この本の表題は、読み手にも問いていますが、もしかすると、先生本人がご自身に問いかけているのかもしれないと思う気持ちも、ここに至ると生まれてくるんです。
そしてその時にあらためてこの本の帯にある「この本は私のツァラトゥストラだ」の意味がようやくですが私なりに理解できるような気になりました。
つまり「自由」をテーマにした時、人間は皆平等にその問いかけに向かい合う、人間的平等と義務がある。「自由」の前では何人も逆らえない問題定義がある。思想も宗教もこの問題には正しい答えは提示できない。
そんなおおきなものを、私たち人間はどのように普段とりあつかっているんだろう。
なにもかもこの言葉の前では正しい答えが出せない。その焦りに似た人間のもがきが、答えを出そうとするほど強さを増す。
結局この言葉は何を人間に求めているのか、真意が遠のくばかりだ。
そんなことを意識して普段「自由」と向き合っていることはほとんどない。
もしもいるとしたら、かなり無差別な扱いを受けている人種の人々が、この言葉を知ったときに一途の明かりとして扱ってくれる可能性があるかもしれないという程度の言葉なのかもしれない。
私たちは「自由」の本意を知らずに、あまりにも日常的にこの言葉を多用している間違った生き方をしているのかもしれない。
あたかも神様が存在していると決めつけることに無抵抗な人間が多く存在しているように・・・。
いや、もしかすると神は存在するかもしれない。しかし、自由は存在しないのかもしれない。神と自由は並立するものではないという考え方が、この方向からようやく認識できるかもしれない。神の存在の方が人間には重要だという証なんだろうか。いや、それで話がまとまれば簡単だけど、どこかにもう一つの難題が存在しているような気がする。
自由は案外神よりもわかり易く個々に降り注ぐ。
ということは自由は神よりも上を行く存在なのだろうか。
そう考えたときにようやく人間は常識を取り戻して、自由に制限を加える所作を始める。自由がそんなに尊大な物であってはいけないという人間の常識が、普段の生活の中で間違いなく大きく成長している証だと思う。
しかし同時に人間はその制限があるからこそ、それを打ち破りたい感情も生まれる。
つまり、制限される程度の問題だが自由は特に制限されている人にわかり易く伝わる。
本当の自由の意味は誰にも分らない。
それは本当の幸せは何なのかがわからないのとパラレルなのかもしれない。
答えがない世界に自由の答えは存在しているのかもしれない。
「あなたは自由か」の直接的な感想は書けないけれど、
なんだかいつもこの本を読んでから「自由」について考えさせられている。
喧嘩して、自分の言動を制限されたときに、
「自由」を奪われたと怒りの気持ちを感じたように、
何かしら「自由」が引っかかっている。
人間という動物が繁栄し、生きながらえていくために、
色々な制限を乗り越え、
できるだけ強くなっていくことが「自由」ってことなんじゃないか。
自然淘汰?競争?の末に、
できるだけの「自由」を確保しつつ、
伝統とか、文化とかいう形を作って、
その中で自由でありたいと願う・・・・・・
考えの迷路にはまっている。
とにかく、どんなことでも「自由」というキーワードが、
最近の私の日常の思考に入り込んでくる。
「自由主義」「自由民主党」「自由と我が儘」
「あなたは自由か」って聞かれているから・・・・。
私は、自分のコメントを後で読んでいつも思うんですが、なさけないほど「下手だなぁ」といつも思っています。どうしていつもこんなにまとまりがないんだろうと。
でも、そんな下手くそなコメントを、先生はいつも熱心に読んでくださっています。
どうして、私のこの下手くそなコメントまでちゃんと読んでくださるのか、それが不思議でなりません。でも、GHQ焚書図書のビデオをみて思ったんです。
先生は生の声を聴きたいと考える方なんだと。
生きている言葉ならそれは読んでいて面白いと感じてくれる、先生はそう感じてくれる方なんだと。
しかし、わたしはそれを思いこんでから、なおさらまとまりのない文章を書くようになってしまったと、かなり反省しているんですが、なかなかそこが成長できなくてなさけないです。
でもそれに屈せず書くことにしています。理由はとても単純です。
書けば先生と会話している気分になれるから。ただそれだけです。
ただそれだけのことですが、ただそれだけのことではないということも、同時に感じています。西尾先生が読んでくださっているというのに、私ときたら相変わらずの散文構成で、おそらく先生にとっては読解するためのボケ防止にはうってつけの投稿だと、感じていらっしゃるに違いないことは自負しております。
でも、私はそれでも書きます。どうしてこんな下手くそでも書く気になれるかと申しますと、これ以上下手くそにはならないという開き直りしかありません。
そのせいか書く際に何もためらいがないのです。
ある意味それは私の最大の武器かもしれません。
こう見えても普段はかなり恥ずかしがりやです。
どうしてなんでしょうね、文章を書くことだけは抵抗があまりないのです。
そんなんですから、10発撃ってようやく1発当たる程度の文章しか書けません。
いやもっとダメかも・・・。
そうやって何度も失敗して書いているうちにこう感じるようになりました。
「西尾先生はもっともっと・・・いやもっともっと、とんでもなく苦労して書かれているんだ」と。
ただ先生の作品を読んでいる立場から、先生の気持ちがほんの少しですがわかるようになれたのは正直なところです。
どうしてそうなれたのか、それは自分でもよくわかりません。
ただ言えることは、コメントを書くことによって、なにか責任感が生まれています。
書く以上は決心が必要なこともあり、それを何度も続けていると、不思議とそんなことが私の中に育つようになりました。
毎日仕事をしながら先生の言葉に私なりの意見を書こうという意識を持てることは、とてつもなく贅沢な時間だと思うのです。その価値観に気づいてから、私の人生に大きな迷いはあまり訪れなくなったように感じます。
それが率直な感想です。
話をいきなり宗教の話題に持っていきたいと思います。
私はこの話題が正直苦手です。なぜならあまり興味がなかったから。
でも日本人の多くは、私と似たような宗教感覚しか持っていないと予測します。
あくまでも予測です。
じゃあちょっとは勉強しなきゃならないかなぁ・・・と思いまして、いろいろネットを観ていたんですが、突然「ポグロム」という言葉を知るんです。
聞きなれない言葉だなぁ・・・と思いながら調べていると、どうやらユダヤ人迫害の大元になる問題だと知るんです。主にロシアでその問題が起きたようなんですが、ドイツでも同じような事件が多発し、へプへプポグロム事件というものがあったそうです。
これはドイツの農夫たちが農機具を使ってユダヤ人たちを虐殺した事件で、1819年ころの話なんですが、ヒトラーが出るおよそ100年前からこんなことが歴史上あったわけです。
こうしたことがきっかけでユダヤ人たちは自分たちの土地を探し、その結果行きついた場所がエルサレムだったということになるんですが、彼らは当時そこを支配していたオスマントルコの土地支配者からお金を出して買ったそうです。
つまり土地売買によって共存共栄の場所が生まれたことになります。
ここに至るまでの彼らのたくましさというか頭脳の凄さと言いましょうか、そうした人間的なすごさはどこからくるのか、まずはそういうことに感心させられます。
そして彼らはおもに社会主義的な認識が身についたころにエルサレムに住み始めたので、キブツという土地を作り、平等に収入を分配したそうです。
それを聞きつけたパレスチナ人がそこにやってきてその分配のおこぼれを頂戴するようになり住みついていったというのが、どうやら歴史の本当の流れだそうです。
そして話はいきなり現代になりますが、いろいろあった歴史に終止符を打つように、最近トランプ氏がエルサレムはイスラエルの首都だと宣言しましたね。
これは案外ユダヤ教・キリスト教・イスラム教に関わる人たちには理解出来る解釈になると言うことなんだそうです。
なぜなら彼らは聖書をちゃんと読んでいるし、その歴史背景も理解しているし、三つの宗教はお互いの宗教の中身を理解し合わないと「文句」さえ言えないわけだから、ちゃんと相手の歴史も勉強している訳ですね。
このへんが日本人がまったく認識していない部分で、西尾先生ははっきりとそのことを今回の本で述べています。
つまり私たちの目から見ると、西欧人やアラブ人は宗教に縛られた民族であり、一種宗教から自由になれない民族だという見方をしてしまいがちです。
ここが大きな落とし穴というか、彼らの心理を全く理解していない日本人の幼い部分というか、ある意味自由というものを間違った認識の仕方をしているというか、おそらく西洋人が聞いたら腹を立てるかあきれて大笑いするかのどちらかだと思うんですが、いずれにせよナンセンスな話となるでしょう。
第一日本人は宗教から自由な立場だ・・・という、そんなことを本気で考えている人はほとんどいないと思うんですよ、実際には。
ところが、いざ向こうの宗教の話になるとその概略すらよく理解していないがために、彼らが宗教に縛られているという、事実はそうであってもそんなに単純なものではないんだよということを認識していないがために誤解をすぐしてしまう。
それは単純に三大宗教の歴史とその聖書やコーランなどを読んだ経験がほとんどないからでしょう。
先ほどのポグロムの話題は、あまり私は詳しく知りません。まだ勉強不足です。
どうしてユダヤ人はこんなに迫害されなきゃならなかったのか、いろいろそれを語るものは存在しますが、いずれにしてもそう言う過去があったことは確かに忌忌しき問題なんですが、本当の問題は・・・というか、イスラエル人の問題の本質は、実はユダヤ人本人の決断そのものに問題があるんじゃないかということを取り上げている話も知りました。それは1947年に決まった国連の決議「パレスチナ分割決議」というのがあり、そこでユダヤ人は国連の決議を遵守します。その際エルサレムは国際的な平和な場所・・・という認識を強要されるんですが、ユダヤ人はそこで全面許諾するんですよ。
じゃぁアラブ人はどうだったかというと、なんと関連五か国はすべて拒否したそうなんです。
こうした細かい歴史の事実。私たち日本人はほとんど知りません。というか興味がほとんどありません。西尾先生はそれがすべて日本人の中東の誤解を生む原因だと遠巻きに語るのです。実際そうですよ。私なんか今でも彼らの本心がどこにあるのか理解できません。例えばイスラム教徒の殉教なんか、どうしてそこまで宗教に心が傾いていくのか、全くわかりません。
全くわからないということは、つまり宗教に縛られている人間の気持ちを理解できないと宣言しているようなものです。その宗教に縛られている人たちは自由でないけど、だからかえって彼等は本当の自由を知っていると言えます。
その理論から行けば日本人は本当の自由を知らない民族になってしまいますが、本当にそうでしょうか。そんなに我々は単純な民族でしょうか。
まさか、そんなことはあり得ないです。
たしかに聖書は読んだ経験が薄いです。宗教に縛られた経験もほとんど自覚していません。しかし、日本は天皇陛下という頂点を持つ国です。それによって精神が保たれているわけですが、なんと今の時代、そのことすら気が付かないでいられる日本人が多く、それは一種不安を感じるのですが、でも実際はその多くの日本人が本当の心の奥にある本心としては、皇室の存在に精神をあずけていると思っています。
そのことに気づかなくて済むこと自体が幸せの象徴です。
もしかすると天皇陛下はそれを理想としているのかもしれません。それに逆らうようですが私はそんなに幸せすぎなくてもいいと思うんです。ちょっと不便なくらいが、人間は幸せなんじゃないかと思うからです。
ちょっとくらい不便な方が、自由とは何だろうと考えることもあるかもしれません。
大雑把な意見でしたがいかがなものでしょうか。
続けます。
ポグロムの根源となるものはおそらくルターでしょう。なにしろ彼はシナゴークを「汚らわしい売春宿」と称したのはあまりにも有名です。
こうしてルターの出現によってさまざまな西洋歴史が展開されていくわけですが、内陸は完全に7世紀以降イスラムが支配します。それがオスマントルコに受け継がれ、なんとほぼ1900年まで地中海を支配し続けます。
そこに至るまでルターの考え方はつまり地中海から遠のくわけです。
それよりも宗教支配によって地球の規模がそこに拘る必要がないと言い切るような地球支配がはじまります。
日本ではマルコポーロの東方見聞録がコロンブスによってアメリカ大陸発見につながり、いずれそれがマゼランによって地球一周に繋がるみたいな、まるで堀江健一目線で歴史を語りたい向きがありますが、実際は北ヨーロッパ地域ではルターによる宗教支配が盛んだったようで、特にノルウェー人によるバイキング作戦といいますか、簡単に言えば海賊ですね、それがイギリス人に受け継がれ、そしてアメリカはイギリスが支配したという流れです。
その間ユダヤ人は概ね西ユダヤ人と東ユダヤ人に分かれていったようです。
迫害を受けたユダヤ人の多くは東側の人たちで、西側のユダヤ人は多分想像ですが、アメリカ大陸への進出の手助けというか、細かいところでの出資をになってきたんじゃないかと想像するんです。ですから東側のユダヤ人はその精神性が古代から受け継がれているユダヤ人で、西側にいたユダヤ人は、世界視野で動いていたユダヤ人だと思うんです。このへんをおそらく私たち日本人は一緒度にしていて、ユダヤ人のその区分けが曖昧になっているんじゃないかなぁと、一応想像ですがするわけです。
正直私もまだまだその辺の線引きが難しすぎてそう簡単には言い表せないのですが、いずれにしましてもこの話の最終目的地はどこかというと、自由をどう考えるかということなんです。
一応このスレッドでは、まだルターの考え方が世界を知るようになったというところまでしか行ってません。
是非ですねこの辺の詳しい方々ご参加ください。
そして色々教えてください。
私は知りたいのですこのへんの一番ややっこしいことを。
15世紀に発明された活版印刷によって、聖書が世の中に急速に広まっていったことは皆さんもご存知の通りです。それと時を同じくしてルターがこの世に生を受けます。
彼の活動とともに活版印刷の普及も同時進行します。
アメリカ大陸が発見されたのもこの時期。
こんなにも世界を揺るがすことが偶然重なることがあるんだという驚きを隠せないのはもちろんですが、それらがなにか運命的に起きたような、偶然性の中の必然性と言えばいいのでしょうか、そんなことをつい感じるわけです。
人間という生き物の歴史が仮に1万年くらいだとしましたら、これまでの中であまりにもここ最近が慌ただしいわけで、本当にこうあるべきなのだろうかと、疑問を抱かずにはいられない西部先生流の意見があっても、少しもおかしくないと私は思います。
彼が正しいとか間違っているとかではなく、そうした基本に戻る意識というか、事を糺すというか、それは失ってはいけないことだと思います。
西尾先生が西部先生を一目置く部分はおそらくそういう点なんだろうと思います。
西尾先生はおそらくそういう偶然の中の必然性だけに着目するのではなく、人間の可能性と言う点を重く受け止め、未来がどうなるかは誰にもわからないが、人間社会が発展することの大切な要因の中に、文明や文化の発展は避けられないんだというスタンスだと思います。その認識に立つ理由を私なりに探ると、おそらくですが西尾先生は人間のこれまでの歩みとその歴史というものは、いつも一体で常に関連性があって、むやみにそれらが孤立して存在しているのではなく、当然それらは関係性を高めたり影響しあっていく立場にあるんだ、その意味での可能性を人間は見過ごすべきではないし、仮にそれが理想でなかったとしても、歴史が何らかの修正を成し遂げることだってあるだろう、そういうスタンスで語られていると思っているんですが間違っているでしょうか。
たしかにここ数百年の人間の社会の発展性はものすごくスピード性を高めているとは思いますが、先生は良くこういう表現をされます。
「色んなことが起きたこの500年ですが、たったの500年ですよ」という考え方。
プロテスタントの時代はたったのここ500年の間の出来事ですよ。
ということは将来たったの500年くらいでこの文化が滅びることだって有りうるかもしれない。いやもっと早くそれはやって来るかもしれない。
その兆しと言いますか、中東情勢がいま大きく変わろうとしているところに着目すべきです。つまり、三大宗教の関係性が変わろうとしている。
何がどのようにという説明はここでは省きます。
ただ西エルサレムがイスラエルの首都であるという認識が、いま共有されているという点です。元々エルサレムにはアメリカの領事館があって、大使館も実際はエルサレムの領事館の中で実務遂行されているのが現状だということなんです。
ですから現実と建前がねじれたままの状態であったものを、トランプが元に戻してねじれを解消したということになるわけです。しかもそれを宣言したタイミングがジャストミートだったそうで、このタイミングだからこそ混乱が起きなかったというのが周辺国での共通認識のようです。
そうなると次はどうするべきか・・・自然と意識はそうなっていきますよね。
考え方の基本というのはそういう現状との関連性が一番重要になるわけです。
つまり日本はどこよりも早く大使館をエルサレムに移転させるべきだということ。
これによって日本はアメリカの信頼を絶対的な物にできます。
そうなることによる悪影響も、今のタイミングなら少なくて済む。
世界のそういう認識をうまく利用する決断が大切で、中東問題に詳しい人たちの共通認識であると言うんです。
なるほど、勉強になるなぁ・・・と思いましたよ。
そういえば、ブッシュジュニアがイラクを攻撃する際、日本は自衛隊を派遣するべきか否かで、ほぼ一番最初にそれを提言したのは西尾先生でした。
これこそが「私ほどの自由人はいない」と明言した西尾先生の真骨頂はないでしょう。
〈墮地獄〉
「こんな國は地獄に墮ちるだらう」ーー先日の坦々塾での
西尾先生の御講話の結論です。
お話の8割がたは、米中對決に日本はどう向き合ふべき
かについてでした。「日本はアメリカに弓をひいたのか」
(産經・正論)が骨子のやうで、その論據をより詳しく、噛
んで含めるやうに諄々と説かれました。理路整然として論
旨明快、一語一語が胸に沁み入るやうでした。
米・中・日
「米國は中國の暴虐・理不盡と野望に氣づいて、遲きに
失したとはいへ、やうやく對決姿勢に轉じた。自分が久し
く待ち望んだところである。
然るに、こここそ全面協力すべき場であるのに、日本政
府は何を勘違ひしたか、人民元と圓のスワップ協定を結
んだ。これは米國の敵に鹽を送るものである。麻生財務
大臣は、日本企業の元(げん)を使つた活動をやりやす
くする政策で、對中支援ではないと言つたが、詭辯も甚
しい。
安倍總理はそれを土産に訪中する。トランプ大統領との
間に齟齬はないと言ふが、これまで、ないと言つてゐた
齟齬が出て來たことはないのか。斷乎やると言つて、本
當にやつた試しがあるのか。
米國政府からの批判はまだ聞かれないが、さういふもの
はスーッと出て來て、忽ち燃え擴がるのだ。それを前以
て感じ取つて考へ、判斷する能力がここまで缺けてゐて
は、ほとんど絶望的だ。政治家だけではない。一般國民
も、爲政者の劣化を感じることができないほど、劣化し
てゐる。あとは、僥倖以外に頼るものはない。
入管難民法
ドイツでは最近、移民の問題があまり論ぜられない。事
態が一段落したからではなく、論じることもできないほど
深刻なところに來てゐるのだ。そこへ、日本の今度の動
き。逆行といふより周囘遲れだ。本當に、日本人は歴史
にも外國にも一切學ばなくなつてしまつた。
『這入つて來る者が可哀さう』といふやうな議論がされて
ゐる。そして、日本といふ國、日本人にとつて、移民が
プラスかマイナスかといふ肝腎の基本が忘れられてゐ
る。本末顛倒だ。
自分はこの問題に昔から取組み、意見を言つた。以前
は耳を傾ける向きもあつたが、最近は全く聽かれなくな
つた。もう外國人勞働者について論じるつもりはない。
これほど言つても聽かないのだから・・・」
ここから、冒頭に紹介した結論をお出しになりました。
遺憾ながら、すべて完全に同感と言ふほかありません。
地獄には普通、惡業の報いで墮ちるのでせう。さして惡
いことをせず、いい思ひもあまりしなかつた日本人とし
ては無念ですが、馬鹿になると、何も彼もパーなのです
ね。
巷では、北方領土返還は4島一括か、2島先行かといふ
不思議な議論が行はれてゐます。プーチンは、なんのこ
と?とせせら笑つてゐることでせう。
3年前に、日本が10億圓を據出した韓國の元”慰安婦”
支援の財團は今日(21日)消えましたね。西尾先生は
3年前、100%さうなると斷言され、當時の岸田外務
大臣を指彈されました。ところが、今春でせうか、水島
總氏との對談で、岸田さんの方が今の總理よりはマシと
おつしゃいました。先生もヤケッパチ!つくづく同情共
感しました。
見て、感じて、考へた上で判斷・決斷するーーその能力
が全くなくなつたか、痲痺してしまつたのですから、亡
國は當然でせう。地球上にこんな例が嘗てあつたのでせ
うか。
もの心ついて以來、どうして我等日本人はこんなことに
なつたのかを考へるのが、我がライフワークのやうにな
りました(當時も、今ほどではないにしても、我々は既に、
かなり魯鈍でした)。先生のお蔭で、その答に近づいた
(どのくらゐかは分りませんが)やうな氣がします。
『あなたは自由か』の感想は既に書かせて頂きましたが、あきんどさん
の呼びかけに共鳴し、やはりまだ、何か言わねばならないという気持ち
になりました。なぜならこの本は「あなたは自由か?」と問うているの
だから、読んだ者は、自分の中に少しでも自発的に湧き上がった感情な
り考えがあれば、それを述べるべきではないか、と思うからです。
(以下、感想文その2)
第7章の前半には、現代人の我々と深い関係のある重大な問題が提起
されている。それは「意志の自由」と犯罪の関係だ。
例えば著者は「何か来歴に原因があって、あるいは社会との関係に
理由があって、決断を下し成功したのが実際だとすれば、それは自由で
はありません。必然です。その際、大切なのは、私たちは『意志』その
ものからも自由なのかということです。」(P326)と言う。
この文の前半部分は、分かりやすい。例えば我々日本人は、ある人が
裕福で学究的な家庭環境に生まれ、おまけに親からよい遺伝子を受け継
げば、学校でもよい成績を取るだろうと考える。反対に、物質的にも精
神的にも恵まれない家庭に生まれ、なおかつ何らかの不運に見舞われた
場合、その人は以後どんな事を為すにも困難を感じ、ついには犯罪に手
を染める可能性もある、と考える。しかし同時に我々は、恵まれた人生な
のに犯罪を犯す場合があることも知っている。いずれにせよ刑罰は、持っ
て生まれた条件によって、軽くしたり重くしたりすべきではないと考える、
それが伝統だった。
こうした常識的な考え方を踏まえた上で、では、後半部分の「私達は
『意志』そのものからも自由なのか」などという複雑なことまで、考え
るかといえば、我々の多くは、考えないのではないだろうか?
ところがキリスト教を基礎とする西洋文明を受け入れた以上は、そう
はいかなくなった。そのキリスト教文明圏が、「『意志の自由』は神にの
みあり、人間の身には決して起こらない」(P327)と考える以上、例え
クリスチャンでなくても、キリスト教的な「犯罪における人間の責任」
という問題を避けることはできないからだ。誠に「わが国の知性は、
『意志の自由』を他人事のように扱うことはもはやできなくなって」
(P327)いるのだ。
ところで私が非常に違和感を覚えるものに、精神鑑定がある。これは
「善悪の判断をする能力またはその判断にしたがって行動する能力」が
あるかどうかを判定するために行われるとされる。具体的には、凶悪な
犯行であるにも拘らず、その動機が特定できない時などに実施されるよ
うだ。そして多くの場合、弁護側が主張するのが、被疑者には精神に何
らかの障害があるため、責任能力が問えないというものだ。
こうしたケースの一つに、平成17年に起きたペルー人男性による幼女
殺害事件がある。被疑者は「悪魔に命令されてどうしようもなかった」と
言ったそうだ。そこで、却下されたとはいえ、弁護側は精神鑑定を裁判所
に請求したとある。この事件を見て私が思うのは、少なくとも我が国に於
いて、これまで前近代として放棄したはずの、例えば「狐憑きに見舞わ
れた」などという言い草が、犯罪の原因として、再び大真面目に取り上げ
られるようになったのではないか、ということだ。
そもそも普通では考えられない理由なき凶悪殺人事件、例えば『ジキル
博士とハイド氏』のハイドのように、根っから凶暴な性格の人間がいるこ
とは、小説や映画やドラマなどで、昔から沢山描かれてきた。その他にも、
終戦後の盆踊りの夜、三人の息子を戦争で失った父親が、日本刀を持って、
多くの人に斬りつけようとしたとの記事を、雑誌で読んだこともある。
こうした事件を聞いて、我々は、「あんな事をするのも無理はない」と
シンパシーを抱くこともあれば、全く同情の余地がないと感ずることもあ
る。いずれにしても、多くの人が理解不能と感じた場合は、「この人物は
何かに憑依されたに違いない」と解釈してきたのである。
実際私は40年ほど前、本屋でアメリカの猟奇的犯罪だけを集めて報告し
た本を見た事がある。そこには肉親を殺害して、その血液を体内から全部
抜いた事件など、ゾッとするような光景が幾つも描写されていた。そして
どんなケースもほとんど例外なく、宗教的な意味を持っていた。しかも犯人
たちは多くの場合、自分がやったことに対し明らかに自覚を持っていた。
なぜ私がこんな事を書くかといえば、先のペルー人男性のケースに限らず
今後我が国には、様々な宗教や思想を持った人々が入って来るからである。
したがって我々が好むと好まざるとにかかわらず、我々日本人が「前近代」
だとして切り捨ててきたものと、再び向き合わざるを得なくなると思うのだ。
その場合、犯行の原因が、「狐憑き」「幽霊」「霊魂」「妖怪」など、我々に
は馴染み深いものではなく、「キリスト教の悪魔」かもしれないし、また別
のものかもしれないのである。その時、我々はどうするのだろうか?例の
ごとく精神鑑定して、責任能力なしと片づけるのだろうか?
我々日本人が、古来小説や絵画などに、幽霊や妖怪を描き続けてきたのは、
世の中には、不思議な事、人知を超えたものがあることを知っていたからだ。
そして先人たちは、解決できないものは解決できないものとして、そのまま
にしておく知恵を持っていた。それなのに現代人は何故、理解できないもの
を理解できないものとして、そのままにしておこうとしないのだろうか?
この点について著者は以下のように述べる。
「現代の法曹界は後者の観念、犯人に優しく遺族に厳しい決定に傾く
『意志の不自由』論を選びがちであることは夙(つと)に知られています。
しかし、法律家のいったい誰が神の領域に立ち入れるのでしょうか。」(P329)
なされた犯罪の動機がいくら科学的に調べても分からない場合もある。
そんな人間の動機について、無間地獄に落ちるような探求するのは、もとも
と解決などつかない問題を延々と論じることによって、あたかも解決できる
ように思い込む、或は解決できないことが薄々分かっているからこそ、少し
でも解決できたように思いたい、という甘い願望にすぎないのではなかろ
うか?
おまけに問題をより複雑にしている事、というより厄介なのは、被疑者
に精神に異常がある場合は、全力を尽くして更生させるべきだ、或はこうし
た人間が今後出てこないように社会を変えなければならないと考える人々
が沢山いることだ。マルクスとフロイトの影響である。
この点に関して著者は以下のように述べる。「『意志の自由』は通例、意
識の主体性を前提とします。それを妨げ、人間から責任観念を少しずつ弱
めてきたのは貧困などの社会環境の認識と、人間の心身全体を司る無意
識界の発見でした。まことにマルクスとフロイトの出現は個人の良心の自
律性というものを絶望的なまでに危うくしたといっても過言ではないで
しょう。しかし奇異なことに、その『個人』を確立せしめたのはキリスト
教であり、と同時に、同じ『個人』を窮境に追い込んだのもキリスト教で
した。」(P331)
明治から150年を迎えた我々日本人だが、未だに「我々は本当に西洋化
したのか?」という問いが付きまとっている。特に識者によって何度も指摘
されてきたのは、「日本人は『個人』が確立していない」というものだった。
しかし特筆すべきは、近年多くの人々が、自分たちは、もともと西洋とは違
うのではないかと気付き始めたことだ。にもかかわらず、従来の考え方に
固執する人々は「近代化」は必然として、それを「グローバル化」などと
いう言葉と無理矢理結びつけ、挙句は皇室まで否定しようとしている。そ
の極致が昨今危急の問題である「移民受け入れ」政策だ。
この政策は、我が国に、図らずも「狐憑き」のような「中世を呼び込む」
ことになるに違いない。そして現実は、「多文化共生」など我々が目指して
いる或は予定している社会の方向とは全く違う、いやそれどころか全くの
逆方向に進むことになるのではないだろうか?
こんなことを書くと、楽観的な人々は、「そんなのは考え過ぎで、悲観的
すぎる」と言うかもしれない。しかし「複数の民族が互いに努力して、互い
に共生できるように努めればすべてうまくいく」という美しいが甘い期待は、
早晩裏切られるだろう。なぜなら、例えば仮に外国人(或は日本人)による
他民族に対する、理由なき凶悪犯罪がなされた場合、本人に自覚は無くても、
いや本人自身は努力したのに、どうしようもない本性によって堪忍袋の緒
が切れた、という場合だってあり得るからである。
そして我々の社会は、昔の人なら「狐憑き」だと片づけたかもしれない
「どうしようもない本性」について延々と議論したり、生活習慣の違いや生
れ育った環境に問題がなかったかなど、あらゆる条件について探った後、更
生可能だと結論付けた場合は、再教育するために、あらゆる手を尽くそうと
するだろう。
しかし反対に、そんな優しい手立てではなく、その人物を「救いようのない
最悪の差別主義者」だと結論づけたら、普通以上に厳しく断罪することにな
るかもしれない。
こうして、本来は誰も立ち入ることができない内心にまで踏み込み、この
人物は改心したとか、しないとか判断するのである。
それにしてもいったい何時から我々は神様になったのだろうか?
1999年の仏米合作映画に、ミラ・ジョヴォヴィッチ主演の「ジャンヌダルク」
がある。過去いくつか製作されたジャンヌ・ダルクを主人公とした映画の
中でも異彩を放つこの作品は、激しい戦闘シーンももちろんだが、何といっ
ても、最後にジャンヌが異端審問の裁判に掛けられ、執拗な審問官たちに
よって、罪を認めさせられる所が圧巻だ。
中でも印象的なのが、彼女がいつどこで神の啓示を受けたかと、問い詰め
られるシーンである。ジャンヌが少女の頃のある日、野原で突然強い風に吹
かれたかと思うと、そばに剣が落ちているのに気付く。彼女はその時、神が
風に乗って自分に語り掛け、その剣も神が授けてくれたものだと判断する。
しかしそもそも、それらが神の徴(しるし)だという証拠はどこにあるのか。
剣は偶然誰かがそこに置いたものなのではないか、或は近い過去、その場所
で戦闘があり、敗けた軍人が落として行ったものかもしれないではないか?
オルレアンでの戦いも、神の名の下に、ほんの一瞬でも人殺しを楽しんだ
気持ちがなかったか?そもそも神が流血を望むだろうか?神の啓示によって
戦ったというが、本当は自分のため、復讐のために戦ったのではないか?等々。
審問官たちの厳しい詰問と自問自答によって、次第に追い詰められた
ジャンヌは、遂に自分は「見たかったものだけを見て、それを神の啓示だ
と勘違いし、神を冒涜した上、自己中心的で身勝手な人間だ」と認めてしまう。
こうしてジャンヌは、彼女を貶めようとする者たちの罠にはまり、炎の中に
消えてゆくのだ。
面白いのは、審問官の一人が「彼女は、本物の神の使者かもしれない。神を
冒涜したことを証明できないかもしれない。それが怖い。」と不安げに語る
シーンだ。火刑から500年後、ジャンヌはカトリック教会の聖人に列聖された。
明治維新以後、我々の社会は、様々なものを「前近代的」という名目で
葬り去ってきた、いや葬り去ったつもりだった。ところがここへきて、よう
やく形だけだと思っていた皇室が如何に大きな役割を担っているか、また
先祖が伝えてきた数々の生活習慣も、深い知恵に裏打ちされていたことが分
かってきたのではないか。しかも自分では無意識に行ってきた数々の振る
舞いが、実は宗教的な意味に満ちていた事を教えてくれたのは、大抵は
外国人だった事に、我々は戸惑っているのではないだろうか?
意識の上では、近代化されているつもりの日本人ではある。しかし自らの
国の成り立ちも忘れてしまった戦後の日本人が、様々な歴史的背景を持つ
国々からくる人々を、自国に招く準備、いやそもそもその資格があるのだ
ろうか?
ジャンヌ・ダルクを葬り去るために、異端審問官たちが使った手は、
「神の啓示といっても、自分が見たかったものを見ただけだ」「剣がそばに
あったのは、単なる偶然だ」というものだった。この物言いは、現代人と
そっくりで、多くの人はちっとも違和感を感じないのではないだろうか。
そして今後は、異端審問官がジャンヌと対峙したように、我々も「前近代
的」と思われる人々との付き合いや、場合によっては戦いも避けることはで
きないだろう。ただ異なる点は、異端審問官が最初からジャンヌを陥れるた
めに様々な理屈を並べたのに対し、我々の方は「人類は平等」とか「多文化共生」
という、相手が望んでいるかどうかも分からない理想や大義名分を前提にし
ているということであり、その事を決して忘れてはならない。
こうして我々は、自分たちが過去に、そっと脇に置いてきた「前近代的」
なものと再び出会い、今度はそれに対し、どう振る舞うかを本当に真剣に考
えざるを得なくなった。それは我々日本人にとっては、とりもなおさず、自
分自身と真正面から対峙することと同義である。いずれにしても、このよう
な重い決断の結果すべてを、引き受ける覚悟が我々にあるのだろうか?
>黒ユリ様
貴殿は最初の投稿で、宗教をキーワードにされていました。
私はその真逆といいますか、宗教性を省いた文章を意識しました。
しかし、黒ユリ様が意識した「宗教」というキーワードが、みごとに的を得ていることに、ここにきて感じるようになったのです。
そのきっかけは、中東の現状とそこにかかわる日本のエネルギー問題を、最新の認識で考えてみようという意識から生まれました。
チャンネル桜を観て、「なるほど・・・」と思う部分が多々あり、これに関する情報を二日間にわたってじっくりネット検索していました。
ですからかなり付け焼刃てきな認識があることは認めます。
ただし、そこから拾った情報を丸写しすることだけは絶対したくないので、自分の意見にかみ砕いて書きこんだつもりです。
西尾先生は以前、中東問題はあれは完全に宗教問題なので、関わる必要はないとおっしゃっていました。
たしかにブッシュジュニアのイラク攻撃の時とちがって、アメリカはシリアにも深く介入していないし、サウジの皇太子の事件介入も、アメリカは批判的な立場は表明しつつも、本腰入れて事件の真相を探っているようには見えず、ただ批判して周りをあおり、それによる当事国の自発的な問題解決をうながしているだけのようなイメージがあります。しかし決定的に昔と違う点は、サウジとイスラエルがここにきて和解している動きが目立つという点です。
さすがにサウジも現在の産油国としての地位が世界4位という立場にあり、将来的な展望を考えると、イスラエルのもつ世界的な情報力は見過ごすことが出来ない状況にあるんじゃないかと、あきんど的な発想でそう思うわけです。
現在の原油価格レートが続けば、アメリカのシエールガスの産油量は安定してしまい、他国を寄せ付けない数字を維持してしまいます。
しかし、それを見過ごしていると受給バランスの軸がくずれ、原油の値崩れが加速する危険性もあると聞きます。
サウジにとってはその供給過大現象こそが最大の問題であり、国家を根底から揺るがす大問題であることは誰の目から見ても簡単な問題です。
そのサウジと密接にエネルギーを取引しているのが日本です。
さまざまなエネルギーの供給先を模索している中で、現状のルートは大動脈です。
その中東の諸問題を我々日本人の殆どがまるっきり理解していません。
様々な問題を「人道面」からしか見ようとしません。
三大宗教は三兄弟であることの認識がないので、彼らが同じ問題の前で困難していることを知りません。
エネルギー問題の前ではもっと国民は中東問題に過敏であるべきなんですが、どんなにけしかけてもこれは不可能なんだと思います。
太平洋戦争が始まる頃の意識もたぶんそうだったんじゃないかと、これは私の勝手な予想ですが、そのころと今の日本のエネルギー問題に関する国民意識は、さほど変わっていないんじゃないかと思うのです。
当時はインドネシアからのルートが大きかったわけですが、今は中東がメインということで、その差はもちろんあると思いますが・・・。
日本の欠点の一つは、重要問題が国内でその真実が明かされない空気がはびこることなのではないかと感じます。
その辺のことを山本七平が「空気」と題して書いたのは有名ですが、ただそれだけではないようにも感じるのです。
日本にはたしかに西洋的な宗教はなく、どちらかというと性善説の国民性で、もめ事を嫌い隣近所と仲良く暮らすのを常とする日常です。
一見普通に感じるその現象も、西洋的な宗教から逃れられない不自由さと、実はどこか似ているところがあるのではないかと思うのです。
そうした日常の人間関係そのものが、日本の場合は適当にほどよく不自由さを強いられ、同時に単なる社会的拘束というものに縛られるだけじゃなく、自発的な拘束もそこには有って、そのバランスが数千年かけて培われてきたとみるべきなのではないか、そう思うのです。
その自発的な拘束を紐解いていくと、一つの日本的な宗教なのではないかと思うのです。
どうしてそれを「宗教」という言葉で括れるかというと、一つの宗教に縛られていると、人間は集団で同じ方向にお辞儀をするんだそうです。クリスチャンは十字架の前でそうだし、ムスリムはメッカに向かってそうするし、仏教徒はお釈迦さまに向かってそうする。じゃあ日本人は・・・天皇陛下にむかってそうする・・・だけじゃなく、集団行動をすると整然と並ぶ修正が身についている。
これも一種の「宗教」と解釈していいのかもしれません。
私は聖書をくまなく読んだ経験がないため、大雑把な事しか言えませんが、たぶん彼らにとっての聖書は、私にとっての「西尾先生」と一緒なんでしょうね。
こんなこと西尾先生に向かって言うと、何言われるか内心びくびくなんですが、私は西尾先生が開いてくれた窓から世界を見ている気持ちなんです。なにしろここの景色が一番お気に入りなので。そして、そこから見える景色をいろいろ自分なりに観察しています。でも、時々その観察が度を過ぎて、迷いが生じるときがあります。
そんな時西尾先生の窓に戻るというのが日常です。
つまりどんなに暢気な日本人でも、実は普段何かに縛られて生きている証です。
西尾先生が「あなたは自由か」と、そういう日本人一人一人に問いただしたとします。
そしてこの本はそれを実行したわけですが、おそらくこの本を読んで自分がいかに自由に生きていないかを実感すると思います。
「だからなんなのさ・・・?」と渋谷あたりを歩いている若者に逆質問されたとき、どんな答えを準備しておこうかな・・・というのが、今の私の「課題」であり「不自由」かなと思う一面です。
西尾先生が国民の歴史を発表されて、日本国の教育問題に真っ向から戦い始めた頃、ジワジワと中国が成長し始め、あっという間に日本を追い越す経済力を蓄える結果となりました。いや、本当はその辺の実態がよくわからないわけですが、間違いなく国民レベルで判断すると、我々が子供の頃にイメージした中国ではないことが明らかな時代となったわけです。たとえば中国人労働者のいわゆる研修生といわれる学生労働者が毎年私に職場に来るわけですが、昔は本当に日本人以上に実直で健気な学生が多かったのですが、最近の研修生はすでに「贅沢」は経験済みで、逆に日本人の若者の方が、幼く見えることすらある始末です。
行く末がいったいどうなってしまうのか、こうしたことからも不安が募るということです。考えてみれば私たちはすでに子育てが終わって、孫が生まれる世代になってしまって、教育の現場は私たちの子供たちが担っているわけです。
私の長女はたまたま幼稚園の先生を5年間ほど経験し、そこで経験した話によると、子供たちの何割かは生まれたときからすでにギャップを背負って生まれてきている子供がいるのが当たり前で、例えば食物アレルギーが圧倒的で、そのほかにも色々問題を抱えた子供達が必ずいて、多少のことでは驚かない時代なんだとか。
もしかすると私たち日本人の多くは20年も30年も前の感覚で中国人と接しているのかもしれません。実際には現実的な場面に対処していても、なにか観念的な部分で現実を見ていない気持ちに陥ることが多いように感じます。そうした現象がたまたま中国人を見るときの我々の現実に顕著ですが、一昔前は欧州人を見るときの日本人にそれと似たような「真逆な現象」の意味での現実感のなさがあったような気がします。
ちょっと表現が複雑になってしまって申し訳ありませんが、どちらにしても日本人はどこか現実を直視できない、不思議な色眼鏡が備わっていて、時代に関係なくそれはあって、特にそれが顕著なのが私たち世代の前に多く、案外最近の若者は、中国が豊かな時代になってからのイメージしかないためか、自分と同等に彼らを直視し、いわゆる色眼鏡がない見方をできる世代になっていて、日本人という目に見えない優越感はほとんど感じずに生きている感じがするのです。
ただし彼らが案外感じている部分に、3kと言われている「汚い仕事」に対処する際の日本人と中国人の差というのを感じるようで、中国人の場合はあからさまにそういう仕事を嫌うようです。でも日本人の場合は老若に関係なくそういう仕事に従事できる感覚があって、仕事の速さが数倍違うのが現実のようです。
実際私たち世代なんかそうした仕事にたいする考え方に、大きな問題がそれほどなく、働くということの同党感は備わっていると思うんですが、子供達にもそれはまだ残っていて、中国人との違いはあきらかだと思うのです。
そうしたことに着目すると、日本人というのはやはり国民意識がまだしっかり残っていて、職種に差別感を感じないモラルがまだ残っている証拠ではないかと思うのです。
ただ、娘が懸念しているのは、普通の保育所や幼稚園では、子供が「主役」になりすぎていて、子育てをはき違えているんじゃないかと言います。
娘が勤めていた幼稚園は、案外積極的なところで、例えば年代が違う子供たちの接触を心がけ、年齢によって上下があるということ、それによって自分が出来ることと出来ない事を体験させ、上のお兄ちゃんやお姉ちゃんから学ぶ経験を実感させることを心がけているんだそうです。
一人っ子が多くなってきた最近の家庭事情から、「学ぶ」ことの大切さが重要だという判断で、上下の関係を子供の頃から体験させることの重要性を親御さんに訴えているそうです。
最初はほとんどの子供が泣いたり嫌がったりするそうなんですが、じょじょにそういうことが当たり前な雰囲気になって、お兄さんお姉さんの存在がとても大きな役割をしてくれるんだそうです。
私はその話を聞いて、「それは本当に大切な教育だね」と娘に言いました。
どうやら娘が勤めていた幼稚園では、そのことを一番重視しているようで、賛同するご家庭がやっぱりいらっしゃるそうです。
でもそこで働く先生は大変なんだそうで、なるほど聞いてるだけで何となくわかるような気がしました。子供の問題はもちろんなんですが、親御さんの方が案外問題が多くて、そこをどうしたらいいのかはさすがに対処できない世界で、子供を通じてどうやって理解してもらえるかが一番の苦労だと言ってます。
どうなんでしょう。本当に困った問題です。我々自体が問題を抱えているんだと認識すべきなんですね。ここから自覚が必要なんだということです。我が子供かわいい・・・主義が横行している現代。
どんなに立派なことを言えても、現実が伴わないと論の実態が軽薄になる・・・たぶん三島由紀夫がそれを声高に言いたかったに違いありません。
おもいっきり三島由紀夫を持ちだす論にしましたが、おそらく私が思うに、西尾先生より「自由」感を持っている人はただ一人『三島由紀夫』だったのではないかと思います。
私は彼のことをほとんど知りません。西尾先生を通じての情報しかありません。
でも色んなことが知れる世界なので、一応見たり聞いたりしています。
そうした少ない情報の中での判断ですが、三島由紀夫の決断は、「自由」の象徴なんだと思います。つまり生きている人間にとって「自分」というのは「殺せない」条件なんですねたぶん。
そこを超えるとルール違反になるわけですが、その違反を感じさせない生き方というのも、私たちが知りえない世界にあって、そこを三島は生きたというかんじがするのです。誰も理解してくれないことをあきらかに彼は知っていて、それを具現化したという歴史なんだと思います。
そういう世界が彼にしか見えないかというと、どうなんでしょう、時々私のような者でも何かそれを感じちゃう時がありますね・・・うまく表現できませんが。
そうでなければ三島の死は無駄死ににしかならないわけだし、そうさせたくない後世の考え方というのが本当は大切で、縁遠いかもしれませんが、娘が勤めていた幼稚園で学ばせている上下の関係というのが、実はとても重要で、拘束されることによる「自由」への理解というものが、正しい学びの中の一環なのではないかと思うのです。
三島が言いたかったことは数多くあると思います。
でも彼が一番言いたかったのは「本当の自由」なんだと思います。
私は西尾先生が三島から学んだものはそこなんじゃないかと思っています。
自由だからこそ「決断」が生まれるんだとおもいます。
生きるか死ぬか・・・ではなく、生きた言葉を発せるか否かなんだと思います。
けっこう難しいです。そんなに簡単にできることではないです。
私はいつも何も考えずに書いてます。
そうしないと書けないからです。