「チャンネルさくら 平成30年 年末対談」への8件のフィードバック

  1. 動画を拝見しました。印象に残ったのは、動画が始まって17分位の部分、
    「いつか日本は蘇る」「この国の文化が爆発する」「国の文化の奥底から湧き
    上がるものがある」と「信じていた」と先生が仰った所です。もっともそん
    な希望に反して、今の日本は、伝統という炎が湧き上がるどころか、池の中
    に落とした一滴の墨汁が、広い水面の中でひたすら薄まりながら拡散して
    いくだけのように、静まりかえっていることを嘆いておられる訳ですが。

     唐突ですが、ある雑誌記事を転記したので、少々長いのですが、ここで
    引用させて下さい。雑誌『丸』昭和49年(1974)12月号にある記事で、
    タイトルは「これが戒厳令下で出動する自衛隊の鎮圧部隊だ」です。これを
    書いたのは、軍事評論家の藤井治夫という方で、今もご存命のようです。

     昭和49年といえば、まだ戦中派が現役で働いていた頃で、市ヶ谷での
    三島事件の4年後でもあります。
     簡単に言えば、藤井氏はこの記事で、この年の防災の日前後に行われた
    自衛隊による「大震災対処演習」は、防災訓練のみならず、「治安出動」
    しいては「クーデター」における訓練にもなるとして危険視している、と
    いう内容です。
     この時代はまだインターネットもなければ、TVや新聞がフェイクニュー
    スで一杯だという認識もありませんでした。まして8年前の東日本大震災
    の時、自衛隊が大活躍し、その結果国民の自衛隊に対する信頼がより深ま
    ったという事実もなかった頃です。
     ですからこの記事を読んだ方は、年配の方なら苦笑を浮かべ、また若い人
    ならひたすら違和感を覚えるに違いありません。特に「クーデター」などと
    いうものは、「そうあって欲しくても、望めない」のが現代ですから、それ
    を心配するかの如きこの記事は、当時の風潮が、如何に現代と違うかをよく
    現わしています。

     例えばこの記事には、その年行われた自治体による防災訓練も、所によ
    っては、自衛隊が参加することを労働組合が反対して拒否するなどの動きが
    あったと書かれています。当時はまだ、「軍国日本の復活」を恐れる雰囲気
    が残っていたからでしょう。というより今考えると、いわゆる左翼が自分た
    ちへの鎮圧を恐れて、そんな理屈を並べたと言った方がいいのかもしれま
    せん。
     さらに藤井氏は、自衛隊の非常呼集により、東北、東部、中部の各方面隊
    がわずか二時間の間に、約5万人の隊員が出動準備を終わったとして、その
    事実は国民にとって脅威だと書いています。しかし私から見れば、もし国内
    の外国勢力が何らかの反乱を起こしたら、たった5万人の自衛隊員で間に
    合うのだろうかと不安になります。

     いずれにせよこの記事は、今の視点で見ると、日本国を滅茶苦茶にしてや
    ろうと思っている国内の外国勢力によって書かれたと見れば、ピッタリとは
    まるのです。私たち日本人は、この記事が書かれた40数年の間に、そこまで
    事態が変化したことを認識すべきだと思いました。
     もし当時の労働組合などの組織が、ひたすら自衛隊を敵視し、その結果
    手かせ足かせの自衛隊になってしまったのなら、こうした勢力は、国を売る
    とも言うべき許しがたい連中であるし、そんな当時の意識のままの人々が
    現代でもいるとすれば、それも、もっと恐ろしいことであると思います。
     今もある雑誌『丸』が、現在どんな記事を載せているのかは知りません。
    しかし私はこの記事を読んで、祖国の在り方がどのように変化してきたかと
    いう問題に対しては、いやしくも国民ならば、色んな方法を用いて、観察を
    怠ってはいけないと思った次第です。
    (以下引用)

    『これが“戒厳令”下で出動する自衛隊の鎮圧部隊だ』
                      藤井治夫(軍事評論家)
                 (雑誌『丸』昭和49年12月号より)

    立証された“即応能力”

     さる8月26日から9月1日までの一週間、防衛庁はじまっていらいの
    大規模な「大震災対処演習」が実施された。例年9月1日「防災の日」には、
    全国各地で防災訓練がおこなわれる。この行事がはじまったのは、1960年
    のことだが、自衛隊は当初からこれに積極的に参加してきた。しかし、今回
    の演習は陸海空自衛隊協同による防衛庁独自のもので、これまでの災害派遣
    演習を集大成する目的をもっていた。十五年にして自衛隊の大震災出動態勢
    が、全容を現わしたのである。そこで—大演習の推移をもとに、自衛隊の対
    震災活動の全貌とその狙いを探ってみよう。

     大演習は26日午前5時14分、山中防衛長官の出動準備命令下達をも
    って開始された。2分後、陸幕当直幹部は演習一般命令第一号を発令、4分
    後本州・四国の各部隊にたいし非常呼集が下令された。32分、東部方面
    総監部は、演習災害派遣行動命令第一号を発動、各部隊の出動計画をしめし
    た。海幕、空爆もこれに併行してそれぞれ出動命令をくだし、海は自衛艦隊
    、横須賀地方隊など、空は入間基地所在部隊が演習に参加した。
     陸上自衛隊で非常呼集されたのは東北、東部、中部の各方面隊管下の約5
    万人。この地域の隊員総数は7万人だから、70パーセント強が参加したこと
    になる。どの駐屯地でも午前5時半ごろ、非常呼集ラッパが鳴りひびき、営
    内居住者がただちに出動準備を開始するとともに、営外居住の幹部、曹クラ
    スが招集された。30分後には第一次派遣隊が出発準備を完了、以後約二時
    間のうちに5万人の出動準備をおわり、初期活動訓練は状況終了となった。
     実員演習は早朝、しかも駐屯地内で実施されただけだから、一般市民の目
    にふれることはなかった。だが、陸自現員15万人のうち三分の一、七コ師団
    が出動態勢を整えるという演習は、創設いらいはじめてのことであった。そ
    して、わずか二時間で出動準備を完了することにより、自衛隊の即応能力の
    高さを実証したのである。
     非常呼集訓練と並行してCPX(指揮所演習)が実施された。防衛庁内に
    防衛庁演習災害対策本部がおかれて山中長官みずから本部長となり、市ヶ谷
    基地に全般統裁部を設置し、三好陸幕長が全般統裁官となった。つまり市ヶ
    谷が統合作戦司令部となったわけだ。
     これに使用されたのは同基地内の図演講堂三階で、開発中の野戦用ADPS
    (自動情報処理組織)も登場し、コンピューターによりカラースクリーンに
    こっこくと状況が表示されるしかけになっていた。この下部組織としての
    東部方面指揮所は同講堂二階に、東北、中部方面指揮所はそれぞれの総監部
    内に開設された。
     また海上自衛隊は、横須賀の自衛艦隊司令部に統裁部を設け、中村自衛艦
    隊司令官を統裁官として、日本周辺海域の作戦図板をまえに指揮所演習を実
    施した。航空自衛隊は、中部航空方面隊司令官を現地統裁官とし、入間基地
    でCPXをおこなった。
     CPXは陸自から連隊以上の幕僚が参加するなど、海空をふくめて3500人
    という大がかりな規模で実施されている。想定では、大地震と二次災害によ
    り1200万人が被災し、これにたいし自衛隊は、関東に部隊を集中して対処
    するものとされた。統裁部から付与された状況により、市ヶ谷基地営庭には
    第一、 第一二、第六の各師団、富士教導団の各隊のテントがぞくぞく建てら
    れていく。これにあわせた図上演習の第一段階では、指揮通信組織の建設、
    第一次派遣部隊の応急活動展開などが研究された。第二段階では、陸海空6
    万人弱の兵力をもってする組織的対処要領として、①三自衛隊の共同要領、
    ②組織的兵站活動、③関係機関との共同要領などが研究された。
     CPXは、8月18日までの三日間にわたっておこなわれ、29日から二日間
    は事例研究を実施、9月1日は、各地の防災訓練に参加して大演習をしめく
    くった。警察、消防、地方自治体などの関係者に公開されたのは後半の事例
    研究だけで、非常呼集訓練CPXは、厳重に警護された基地内部で国民の目を
    避けて実施されたのである。
     だが、大演習の以上のような経過を、かいまみただけでも、自衛隊の“大
    震災出動“がもつ不気味さを感じとることができるのではないだろうか。

       なぜCPXを秘匿したか

     防衛庁がこの大演習で部隊の市街地出動訓練を回避し、CPXの全容を公開
    しなかったのには、それなりの理由があった。ひとつは自衛隊の防災出動訓
    練にたいする国民の批判が、このところ、ますますきびしくなってきたからだ。
     昨年8月に実施された大阪府防災総合演習で自治労、全電通などを主体と
    して反安保大阪府民共闘が自衛隊参加反対ののろしをあげ、行政当局の業務
    命令をも拒否するという態度を明らかにしたのがその一例だ。今年に入って
    からも福井県では1月、自衛隊が参加する雪害防災訓練を中止させ、7月に
    は県総合防災訓練にたいする抗議行動が展開されている。9月3日の福島県
    総合防災訓練にたいしても、地元労働組合の反対運動が高まり、自衛隊はパ
    レードを中止するほかなかった。
     自衛隊も公務員なら、大災害が発生したとき、救援任務に献身するのは
    当然のことともいえよう。世論調査を見ても、自衛隊が一番役に立ってきた
    のは何かについての回答のうち、もっとも多いのは災害派遣で、1963年以来
    つねに70パーセントから80パーセントをしめている。だが、こうした素朴
    な認識と現実との大きなズレが目だってきたのが最近の状況なのだ。
     予算面から考えてみよう。74年度防衛予算は、1兆930億円にも達した。
    だが、このうち災害派遣や民生協力に使用されるのはどれほどだろうか。
    1953年から72年にいたる自衛隊の部外土木工事受託実績をみると、この
    二十年間に自衛隊がやって得られたメリットは214億円にすぎない。一年
    平均10億7000万円である。
     災害派遣は、68年から72年までの実績で年平均6万1000人だ。日当1
    万円としても6億1000万円のメリットにすぎない。これに車両、航空機な
    どの派遣が加わるにしても知れたものだ。車両の出動は年平均のべ6927両
    航空機は同じく728機である。以上を合計しても、せいぜい30億円のメリッ
    トがあるだけだ。
     1兆円の防衛庁予算のうち0.33パーセントが国民生活のために還元してく
    るに過ぎず、残りの99.67パーセントが自衛隊の本務、つまり防衛、治安任務
    のために支出されているのである。部外工事や災害派遣は、広報目的のため
    に十二分に利用されている。だが、現実の比重がとるにたりないものであるこ
    とは、小学生ていどの算数能力でも明らかとなる。防衛庁のPRが誇大宣伝
    であり、自衛隊は、まぎれもなく戦争のための存在であることが認識されて
    きたところに、防災訓練への抵抗感が高まってきた原因があるといえよう。
     だが、問題はそれだけではない。費用対効果比を考えてみて、国民がムダ
    な出費を負担しているというにとどまらないのだ。なぜなら、自衛隊の防災出
    動防災訓練には秘められた狙いがあるのである。こんどの大震災対処演習でも、
    CPXの全容は公開されなかった。
     地方自治体を主体とする防災訓練に姿をみせるのは、自衛隊の施設料、
    通信科部隊ていどで、普通科、特科、機甲科などの中核部隊は、ほとんど登場
    してこない。第二次関東大震災が発生したとき、集中される予定の陸上兵力
    5万人の大部分は、いうまでもなくこれらの主力兵種だ。いったい、これら
    の部隊にあたえられる任務は何なのか。出動計画の全容は、どうなっている
    のだろうか。
     じつは自衛隊の防災出動は本来、独自の作戦行動として実施されるたてま
    えなのだ。自治体中心の防災訓練に出て来る部隊は、それと直接かかわりの
    ある部隊に限られている。その間の事情をかんたんに説明しておこう。
    自衛隊の災害出動は、自衛隊法第八三条の規定にもとづいて実施される。
    一般の防災活動は災害対策基本法にしたがっておこなわれる。
     61年10月27日、災害対策基本法の国会審議のさい、当時の安井自治
    大臣は「自衛隊は自衛隊法によって、知事の要請により出動を原則とするが
    また独自の見解で出動する場合もある。自衛隊は災害対策本部長、あるいは
    知事の指示、勧告は受けない」と参議院地方行政委員会でのべている。
     これによっても明らかなように、自衛隊の災害出動は法的根拠もちがうし、
    指揮命令系統もべつだ。自衛隊の災害派遣は、防衛出動や治安出動とならぶ
    作戦行動のひとつとして規定されているのである。
     ふつうの災害派遣でさえ、独自の計画と命令によって出動する自衛隊が、
    大災害のときにはどういうかたちで出て来るのだろうか。こんどのCPXが
    秘匿されたように、その具体的な行動計画は、ほとんど発表されていない。
    というのも、言うに言えない狙いがあるからだ。それは何だろうか。

       「治安出動」の日はいつか

     “秘中の秘”をここで明らかにしておこう。大震災が発生したとき、自衛
    隊はたんなる災害派遣で出動するのではない。内閣総理大臣がただちに治安
    出動を下令することになっているのだ。これは私の憶測ではない。
     自衛隊法第七八条は、治安出動の要件を「間接侵略その他の緊急事態に際
    して一般の警察力をもっては、治安を維持することができないと認められる
    場合」と定めている。ここにいう「その他の緊急事態」とは何か、について
    防衛当局は「関東大震災的なことが典型的な種類ではなかろうか」と明言し
    ているのだ(69年7月15日参院内閣委員会、宍戸防衛庁政府委員)。大震災
    時は、治安出動の典型的事態として認識されているわけだ。
     治安出動は、内閣総理大臣にかぎり下令することができる。事前に国会に
    はかる必要はない。自衛隊法は二十日以内に国会の承認を求めるよう定めて
    いるが、関東大震災のときがそうであったように二十日もすれば撤収すべき
    時期に入るわけで、無意味な歯止めというべきだ。
     このように大震災時の自衛隊出動は、治安任務を主体としているのだ。だ
    からこそ、地方自治体とは別個の指揮系統をもっているわけだし、防災訓練
    にも主力部隊は姿を現さないのである。
     大災害時の行動計画としては第一師団の場合、67年5月「第一師団災害
    派遣計画」、71年11月「大震災災害派遣計画」を策定している。防衛庁とし
    ても71年3月9日、南関東大震災災害派遣計画をまとめている。
     これによると、大地震発生後12時間以内に陸海空合わせて1万2800人、
    四日以内に2万1200人、五日以降に2万3500人、計5万7500人が出動
    することになっている。今回の大演習は、この計画の具体的実施を訓練、
    点検したものだ。
     関東大震災のとき、戒厳令下に出動した兵力は5万人であった。それを
    上回る部隊が集中されているわけだが、この大兵力をもって何をやるので
    あろうか。大震災時に必要なのは、まず消火、救護、道路啓開力であろう。
     だが、自衛隊の消防車は東京、神奈川、埼玉、千葉から全部を集めても
    60両にすぎない。患者治療、防疫のための衛生隊は、合計628人が動員さ
    れるにすぎない。道路啓開のための工兵部隊は、本州、四国を根こそぎ動員
    しても7000人しかいない。
     大部分の部隊が持っているのは、小銃から戦車に至る戦闘用装備だ。救援
    活動には何の役にも立たない。だが、治安任務が主体であれば、これらの
    兵器がものをいう。防衛当局も、自衛隊が救援のためにはたいして役立たな
    いことを認めざるをえない。
     陸自東部方面総監部の震災担当官も「自衛隊が展開すれば、民衆のパニック
    を防止し、安心させるという組織力がある」と語っている。政府の無策の
    結果、大地震が火災その他の二次大災害を招き、救援体制も欠陥だらけだと
    すると、被災者の怒りが爆発するのは当然だ。それを抑圧し鎮圧するために
    こそ自衛隊が出動するのである。

       今も生きている“旧軍メモ”

     大震災の行動で自衛隊が重視しているのは偵察、通信活動である。震度5
    以上の地震が発生した場合、立川基地の東部方面航空隊のヘリコプターと
    地上部隊の偵察班がただちに出動することになっている。電電公社の通信網
    が切断されたときには、久里浜の中央野外通信群が中心になって緊急マイク
    ロ回線を構成する。
     昨年8月上旬、南関東大地震を想定して実施した陸海空協同通信訓練では
    市ヶ谷を中心として防衛庁、久里浜、峰岡山、木更津をむすぶ通信系が設定
    された。これを基軸として首相官邸、警視庁、各省庁、都庁、NHKなどを
    むすぶのである。ヘリコプターと偵察隊が収集した情報はこの通信回線に
    よって伝達されていく。ヘリによるテレビ電送も計画され、市ヶ谷基地内
    指揮所、防衛庁、首相官邸で視聴できることになる。
     こうして首都圏の住民は、目も耳も完全に自衛隊に掌握されることになる。
    一般市民は偵察機を飛ばして状況を把握するわけにいかない。新聞社がヘリ
    を飛ばしても、通信網がなければニュースを伝達することができない。住民
    も行政機関も、自衛隊による情報操作のもとにおかれるわけだ。関東大震災
    のときのように、意図的に混乱が作為され、右翼テロが横行する事態が発生
    する危険もなしとしない。
     もっと重大な問題は、3~4万人の主力がどう運用されるかである。大震災
    時における作戦要領については、関東大震災後、近衛師団がまとめた「警備
    当途軍の所見」という文書が、今日も生命力をもっている。これによれば
    出動部隊の主任務は、①都市外囲の封鎖、②中枢機関の占領、警護、③騒乱
    の鎮圧である。
     都市封鎖のためには、交通の要点に検問所を設置しなければならない。関東
    大震災のとき設けられた検問所は186カ所、それぞれに兵一コ分隊、警官数
    人が配置された。自衛隊の一コ分隊は11人編成で機関銃一梃と小銃一〇梃
    が固有装備だ。これに凶器発見用の地雷探知機やバリケード器材、催涙ガス、
    通信機をもたせる。重要地点には戦車を増強すると威圧効果が大きい。
     中枢機関警護の基本単位も一コ分隊である。重要施設には兵力、装備を増
    強する。巡察隊も分隊単位で、おもに装甲車を使用する。道路が使用でき
    ないときはヘリで空輸する。中型ヘリHU1Hなら、一機で一コ分隊を運ぶ
    ことができる。これらにくわえて騒乱鎮圧にもそなえるとなると、三コ師団
    ていどの兵力を配当しなければならないだろう。
     5万人の陸上兵力の過半は、以上のような偵察、通信、警備などの作戦任務
    に使用されるとみてよい。このほか、数万の兵力維持に必要な兵站活動も容易
    ではない。輸送部隊などは自衛隊自身の補給に追われ、一般市民のために力を
    さくゆとりはなくなる。
     大震災時の出動割当地域は、事態に応じてすでに決定されている。第一師団
    が都心地区、第一二師団が神奈川県または都内城西地区、第一空挺が江東地区
    とされ、さらに増援されるときは、東北南部駐屯の第六師団が城北地区、中京
    地区の第一〇師団が城南地区に投入される計画だ。これにくわえて東北北部
    の第九、近畿の第三、中国・四国の第一三の各師団も必要に応じて増強され
    よう。

       自衛隊の防災演習の危険度

     大震災出動計画とその訓練の危険な狙いは、以上につきるものではない。
    もっと恐るべきことは、自衛隊の大震災出動と一般の治安出動、さらにクー
    デターも、基本的には同一の計画・準備をもって遂行できるということだ。
    さきにあげた都市外囲の封鎖、中枢機関の警護、騒乱鎮圧の作戦パターン
    は、大規模な治安出動にそのまま適用できる。
     クーデターの場合も、作戦要領自体はたいして変わらない。ちがうのは、
    都市封鎖作戦にクーデター反対派の軍事力による逆攻撃にそなえるための
    都市防衛任務が付加されること、中枢機関警護任務にくわえてその占領が
    課題となることである。つまり攻勢作戦的性格がつよまるわけだ。
     こうした相違はあるにしても、大震災出動を治安出動、クーデターに転用
    するのはたやすい。大震災にそなえる出動態勢は、そのまま治安出動のため
    に利用できるし、治安出動にそなえておけば、クーデターの遂行も容易で
    あるといえるのだ。
     大震災出動に名をかりた防災訓練の危険な意味は、ここにあるといえよう。
    災害派遣を隠れ蓑にして、じつは治安出動の訓練をおこなっているのだとい
    う批判は、けっして根も葉もない中傷などではなく、ズバリと的を射た認識
    なのだ。
     大震災出動自体が治安任務を主体としたものであるばかりか、そのための
    準備が、震災時以外の治安出動やクーデターへの転用の狙いを秘めたもので
    あることに、警戒をおこたってはならないのである。
     震災時、治安出動時、クーデター時の三者に共通するのは電撃作戦の形態
    である。治安出動やクーデターのときは、とりわけ兵力の逐次投入がいまし
    められる。いったん作戦発起を決意したなら、全力を投入しいっきょに大勢
    を決しなければならない。
     治安出動の様相をスケッチしてみよう。深夜のうちに内閣総理大臣が出動
    を下令し、非常呼集がおこなわれ、数時間のうちに静岡、北関東の部隊まで
    も都内への展開をおわる。朝、都民が目を覚ました時には、東京全体が軍事
    制圧下におかれ、いたるところに検問所があり、「騒乱」地帯が封鎖されて
    いる。
     クーデターも短期全力決戦だ。これまでの大部分のクーデターは、深夜に
    行動を開始し、早朝には大勢を決している。陰謀の秘密が守られていれば、
    反対派は全く対応することができない。こうみてくると防災演習の危険な
    性格が浮かびあがってこよう。
     今回の演習でも、出動準備命令下達以後、約二時間で5万人の出動態勢
    が完了している。CPXでは東京周辺の部隊が数時間のうちに市ヶ谷基地な
    どへの集結をおわった。
     北富士方面の部隊は、中央高速道を、東富士、愛知、石川の部隊は、東名
    高速道を使用するわけだ。
     埼玉、山形の部隊は、荒川を利用して舟艇輸送をおこなう場合もある。
    道路ならバリケードも構築できようが、川を封鎖するわけにはいかない。
     いわんや立川、木更津、霞ヶ浦を基地とするヘリボーン作戦を阻止する
    ことはできない。
     言うまでもなく、首都に対する大震災対処演習は、他の都市にも転用で
    きる。また、今年7月末には、第一〇師団が全力をあげて「中京地区大規
    模震災研究演習」を実施している。
     これよりさき、6月下旬には青森、岩手の警備を受持つ第九師団が、三陸
    地震を想定した演習を行っている。
     こうした自衛隊独自の大規模な演習の他、警察、消防、地方自治体と共同
    した防災訓練が、9月1日の「防災の日」を中心に全国的に実施されたわけ
    である。
     これらの訓練をまた、PR効果だけでなく、有事対処の含みをもっている。
    現実に災害が発生したときの出動でさえも、実戦経験にかわる教育訓練の場
    として位置づけられているのである。
     すべての災害派遣が、自衛隊の任務のひとつである「公共の秩序の維持」
    (自衛隊法第三条)の一環とされていることを見落としてはならないであ
    ろう。                            (完)

     因みに、この記事には5枚の写真が挿入されている
    ① ヘリコプターのヘリボーン作戦のイメージ写真
    ② 「防衛庁演習災害対策本部」となる防衛庁の門前の写真
    ③ かつて東富士で行われた暴徒鎮圧の訓練の写真(共同)
    ④ “三島由紀夫事件”の時、市ヶ谷に集まった報道陣の写真
    ⑤ 東部方面航空隊の立川基地の写真
     

  2. もうだいぶ遅い挨拶ですが、あけましておめでとうございます。
    ようやく休みをもらったあきんどです。
    年初なのでスレッドに関係ない話題ですが、ご挨拶させていただきます。
    昨年中は正直申しますと、日録にはあまり書き込みをしない年でありました。本来からいけば私の軸足はこの場所なんですが、ついつい書きやすい姉妹都市の長谷川さんのブログにたむろしてしまう日々でした。

    ついに今年は平成が終わる年になります。
    今から30年前は東京で働いていました。
    堀留の呉服問屋の界隈で日々忙しく勤務していました。
    一昨年前、女房と一緒にそこを訪れたんですが、まったく環境が変わってしまっていて、数ある問屋のほぼ全部が消滅していました。

    つまり日本着物がこの世からなくなったということです。
    いまかろうじて残っている着物は、おそらくその出何処が海外ものかもしれません。これはあくまでも想像ですが。

    昨日は成人式ということで、おそらく日本各地で晴れ着を召した方々が、街を彩ったに違いありませんね。
    かろうじてこの儀式だけが今の世でも着物を着る意識として残っています。そして嬉しいことに、夏も浴衣を着たがる若者が多いと聞きます。
    本当にスレスレの状態で文化が残っています。

    私は24歳から30歳まで日本橋堀留の呉服問屋で日々仕事をこなしてきました。もうそれから30年近く年が過ぎました。私の社会人としての基礎はここにあります。ここですべてを教わりました。
    今の女房ともここで知り合い結婚しました。

    その堀留が形は残っていても、中身はまったく違っていました。
    恐ろしいくらいに変化していました。
    人間の身体で例えれば、背筋にある脊髄が別の生き物に成り代わった印象さえ感じました。

    この界隈だけで低く見積もっても年商5000億円を稼いでいた町が、いっぺんに消滅したんです。私がこの街を去る際、会社は年商300億を稼いでいました。着物オンリーの会社でですよ。
    そんな会社が二三軒はあって、その外にも100億規模の問屋が10件はありました。そしてその下請けや子会社が数百件あって、東京にて堀留は、その道の人間しか出入りができない町の象徴でした。

    おそらく下町育ちの人間でも、堀留だけは行ったことがないという東京育ちが多いのではないですか。一歩踏み込むと自分がいまどこを歩いているか迷うくらいの場所です。車で迷い込むと、おそらく脱出不能になるかもしれません。なぜなら、昔ながらの一方通行がほぼ全域でして、江戸時代から受け継いでいる運河の法則で今も交通整理が行われているからなんです。

    この一帯を少し外れると、人形町というしゃれた町があります。
    私たち堀留会社員には馴染みの酒飲み場所です。
    一般人には知られていない味のある店が多いこの町には、本当に私の青年時代の魂が宿っているんです。
    一昨年前、その町を訪れ飲み食いしました。
    店の看板がまだ残っていたのを知った瞬間は、来たかいがあったと女房と二人で感激しました。

    「ぶんぶく」というお店。本当にありがとうございます。
    東京でこんなに安くておいしい魚を食べさせてくれる店がほかにあるのかなと思うくらいです。
    ご主人がもう傘寿を超すので、元気で頑張ってほしいです。息子さんが店を継ぐような口ぶりでしたね。

    その当時問屋街の連中は毎週全国各地に出張し、週末は東京に帰ってくる者がいれば、週中に堀留にいる者がいたりして、その両方のサラリーマンの空腹を補ったのが、人形町界隈なんです。
    今人気のお店も昔は当たり前のように我々の空腹を満たしてくれる台所でした。
    さすがに「魚はん」とか「魚久」などは常連にはなれませんでしたが、でも昔はもっと身近な存在でしたよ。
    地元の奥さんがたが、つっかけ履いて買い物できる雰囲気でしたから。

    そんな時代の人形町のほうが、ずっと魅力的でした。
    堀留にもたくさん美味しいお店があって、サラリーマンのお腹を満たしてくれました。いまそんな店が存在していたなら、どうなっちゃうんでしょう?
    当たり前のような店構えで、普通のお店がほとんど無くなっていました。過去にタイムスリップした私たちは、しばし呆然とするしか方法がありませんでした。

    何を語りたいかと問われると、それこそしばし沈黙するしかありません。年初なのでわがまま一杯書かせてもらいました。
    何もテーマは存在しません。ただ言えることは、間違いなくこの町は私にとって「成長の時代」の場所であったこと。東京という地理的環境からも、文化文明がここで数百年間起動してきた事実。その歴史がたったこの30年という時間で消滅した事実。

    あのときの記憶が今もきっちり頭の中に残っている私も、あと数年後には社会人としての現役を終える立場になろうとしている。

    やり残していることが山ほどある意識の中で。

  3.  あきんどさんのコメントに、「すっかり変わってしまった東京の街」の
    ことが書かれている。30年という歳月は、若い人にとっては長く感じ
    られても、年配者にとっては、難なく振り返ることのできる時間の長さで
    しかない。30年前は、今ほど中国の留学生もそれほど多くなかった。現代
    危急の移民問題は、それによって起こり得ることを、しらみつぶしに研究
    し尽くす覚悟がないと、これまでの30年の変化とは比較にならないほど
    劇的で深刻な変化を、我々の社会にもたらし、取り返しのつかないことに
    なるだろう。

     深刻な変化といえば、現代日本を形作る元となったきっかけがあった。
    終戦後進駐軍がやってきたことだ。その頃の日本の様子を自らの体験とし
    て振り返ることの出来る人は、相当の高齢者だけだ。戦後生まれの者は、
    そんな高齢者に直接話を聞くか、誰かが書いたものを読んで知るしか
    方法がない。
     例えば西尾先生の『GHQ焚書図書開封』シリーズは、戦前の著作を
    読み解くための有益で沢山の示唆に富んでいる。書かれた物は、それを書
    いた人が意識せずに前提としているものを知るに役立つからだ。先生の
    地道な研究によって、現代の我々が持っている戦前についてのいくつかの
    知識が如何に偏ったものであり、間違っていたかが明らかとなった。

     ところで先日、雑誌『丸』の記事を引用したが、もう一つ興味深い記事
    を見つけた。同誌昭和51年(1976)11月号の記事で、タイトルは「上陸
    別ニッポン列島を完全占領した青い目の軍隊“進駐軍”行状記!」である。
    記事の書き出しはこうだ。
    「昭和20年8月28日午前8時26分、米軍先遣隊が沖縄から空路、厚木
    飛行場に到着した。外国軍隊が本土に進駐したのは、有史いらい初めての
    ことであり、昭和27年4月28日の講和条約発効まで6年8カ月余の間、
    多い時で50万名近く、少ない時でも10万名の外国軍隊が、占領軍として
    駐屯していた。
     占領が終わってから既に24年を経過しており、どこに、どこの部隊が
    どの位の規模で進駐していたのか、知っている人も少なくなった。そこで
    現在、入手可能の全資料を駆使して、かつての本土進駐連合国軍の全てを
    改めて紹介してみたい。」

     この「有史いらい初めて」と「多い時で50万名少ない時でも10万名」
    という所に注目すべきだ。米軍の基地が国内にあることに慣れてしまった
    戦後生まれの者は、それがなかった時代を、もはや思い出すことはできない。
    また50万人という人々を直接目撃した人もいないだろう。ならば、我が国
    の大きなきっかけとなった「進駐軍上陸」という事実の意味を、あらゆる想
    像力を持って、全身で理解するよう努力すべきではないだろうか?

     なぜなら現代は、その50万という数字をはるかに上回る人数の外国人が
    日本に滞在しているからだ。中でも問題なのが中国人であることは当然だ。
    彼等が個人的によい人であるか否かは問題ではない。近年様々な研究者の
    成果その他によって、一般人から見ても、中国大陸は「民主化」にはそぐわ
    ない土地であることが感じられるようになった。ほんの一部の者たちによっ
    てきつく統制されたあの地は、支配者から利益を得ている者も数知れず存在
    するからだ。したがって「愛国心がない」と言われる彼等は、利益さえ得ら
    れれば「いつでも有利な方にころぶ」のであって、彼等を我が国に「取り込
    もうとしても」、恐らく困難だろうからだ。

     さて我が国も人の悪口ばかりは言っていられない。特に何十年もマンネリ
    のように同じ進駐軍のイメージをばら撒いているNHK、特に朝の連ドラだ。
    戦中・戦後直後をテーマとする内容の多い朝の連続ドラマで定番なのは、焼け
    野原になった中に展開される闇市と、時々ジープに乗ってやってくる進駐軍
    のメンバーだ。粗末な軍服や国民服を着てヤケになっている日本人男性や、
    本当に日本人かどうか分からないヤクザ、そして中にはハリウッド映画に
    出て来るような紳士的な進駐軍の兵士がからむシーンが典型的だ。
     これでは中国(半島も同じか)で製作される、下品な日本兵が人々に乱暴
    したり、中国人を焼いて食って「美味しいな~」などと言うシーンが出て来
    る反日ドラマと五十歩百歩だ。

     NHKがいくら占領下で組織された放送局であっても、近年歴史分野に於
    いても様々な研究成果が発表されているにも拘らず、旧態依然とした描き方
    しかできないのは、製作者が戦後生まれとは言え、立場上はいやしくも国営
    放送並みの面をしている放送局としては、あまりにもお粗末な知能と言うほ
    かはない。
     なぜなら現代のアメリカ軍はもう「青い目の軍隊」とは言えないし、した
    がってこのようなドラマは、現代の日米関係を知るためには何の役にも立た
    ないからだ。こんな事を書くと、TVドラマは、昔を知るためで現代を知る
    ためだではないと言うかもしれない。
     しかし、ならばどうして同じようなドラマばかりを放映するのだろうか?
    番組形態はしばしば民放の真似をするくせに、内容自体はここ何十年ほとん
    ど変わっていない。例えば外国人観光客といえば「青い目」の人を出して、
    我々日本人にとって「外人とは欧米人」であることを一生懸命確認させよ
    うとする。そして欧米人は比較的裕福な人たち、反面まずしくて同情すべ
    き外人は東南アジアや南米から来る人々、と相場が決まっている。そこに
    は我々日本人にとって「最も多数で身近な外人」は含まれていない。こう
    した番組の作り方が、日本人にどんな影響を及ぼすか、NHKは、眼の肥え
    た視聴者が気付いていないとでも思っているのだろうか?

     終戦後上陸してきた恐るべき進駐軍は今や我が国の同盟国であるから、
    「最も多数で身近な外人」たちは、日本人が警戒心を緩めた「伝統的な外人
    であるアメリカ人」を隠れ蓑にして、堂々と入ってくる事ができる。
    また時には、反米的なことを言う事によって、悪いのはアメリカであるとし
    て、それも隠れ蓑にして、隣の大陸と半島をかばうことができる。
     それにしても、こんな細工をするのは一体何者か?

     そこに浮かび上がってくるのは、自国で何十年も前から「反米」を唱えて
    いた人々とその後継者たち、そしてよく言われるように、NHKで正規かそれ
    以外でも多数がスタッフとして採用されていると言われる「最も多数で身近
    な外人」たちである。
     だがもっと恐ろしいのは、こうした放送内容にしても、もうすでに他界した
    両親に対するアンビバレントな感情を捨てきれず自立できない子供のように、
    誰のせいと言うより、一定の精神的惰性によって、すべてが為されていくとい
    う状況そのものではないだろうか?

     いずれにしても、今後は70年余前に体験したような形で、我が国を占領
    する「進駐軍」を見ることはないかもしれない。目に見えない戦いが今この
    瞬間にも行われているからだ。しかし、雑誌『丸』のスタッフが調べた進駐
    軍の組織に関する記事は、占領軍が最大50万人もの軍人が上陸して、我が国
    の主要都市に配備されたという事実を、視覚的に再現させてくれる効果があ
    るように思う。
    もし仮に今、「彼の国」の軍隊が同じ事をしたら、現在国内にいる何十万人か、
    或はそれ以上の数の同国の留学生やビジネスマンたちが、拍手喝采して出迎
    えるのではないだろうか?

     それでは次のコメント欄に、雑誌『丸』昭和51年(1976)11月号の記事
    を引用しますので、少々長いのですがご興味のある方は読んでみて下さい。

  4. 雑誌『丸』昭和51年(1976)11月号より引用】

    特別調査 上陸地別“ニッポン占領”連合軍行動白書
              
       帝国最後の日よりニッポン列島を“完全占領”した青い目の軍隊
               “進駐軍”行状記!
        有史以来初の青い目の大軍団をむかえてテンテコ舞い。敗戦国
        にっぽんの主役“シンチューグン”身元調べあれこれ!

       戦後にふいたカミカゼ

     昭和20年8月28日午前8時26分、米軍先遣隊が沖縄から空路、厚木
    飛行場に到着した。外国軍隊が本土に進駐したのは、有史以来はじめての
    ことであり、昭和27年4月28日の講和条約発効まで6年8カ月余の間
    多い時で50万名ちかく、少ない時でも10万名の外国軍隊が、占領軍とし
    て駐屯していた。
     占領が終わってからでも既に24年を経過しており、どこに、どこの部隊
    が、どの位の規模で進駐していたのか、知っている人も少なくなった。そこ
    で現在、入手可能の全資料を駆使して、かつての本土進駐連合国軍のすべて
    を改めて紹介してみたい。

    ●おっかなびっくりの先遣隊
     終戦の詔勅によって3年8カ月の太平洋戦争は終わり、本土決戦は回避
    されたものの、本土には200余万名の地上部隊、1万機の特攻機、3000余
    隻の特攻艦艇が配備されていた。
     一方、米軍は昭和20年11月から九州方面に対するオリンピック作戦、
    翌21年3月から関東地区に対するコロネット作戦を計画、大規模な兵力
    を準備していた。もし仮にまともにぶつかり合えば双方大きな被害を出した
    に違いない。
     いや、終戦が決まったからといっても安心できなかった。特攻隊が命令に
    背いて上陸艦艇に攻撃を仕掛けてくるかもしれないし、上陸した部隊にゲリ
    ラが襲ってくる恐れがないとは言えなかった。したがって、米軍先遣隊は、
    おっかなびっくりで進駐してきた。
     もっとも、最初の進駐予定日の26日は、台風のために二日間延期された。
    この台風はまさに神風であった。その間に特攻機のエンジンをはずしたり、
    徹底抗戦をとなえる将校を「詔書必謹」で説得することができたわけである。
     28日に米軍先遣隊が入って来た時、日本軍の抵抗はなかった。しかしその
    事情を知らない二人の米軍先遣隊指揮官—厚木に飛来したテンチ大佐、鹿屋
    に到着したシリン大佐とも日本側にまず「カミカゼボーイ(特攻隊)はどう
    したか」と心配そうに尋ねている。

    ●演技派マッカーサー元帥
     案じられた先遣隊の進駐は、平穏のうちに終わり、一日おいて30日午前、
    第十一空挺師団長ジョセフ・スウィング少将、ついで第八軍司令官ロバート・
    アイケルバーガー中将が厚木に到着、さらに午後2時5分、コーンパイプを
    くわえたダグラス・マッカーサー元帥が専用機バターン号(ダグラスC-54型
    輸送機)から降り立った。
     マッカーサー元帥はまず、アイケルバーガー中将に「ハロー・ボブ」と呼び
    かけ、固い握手をした後、あの有名な「メルボルンから東京まで遥かな遠い道
    であった」という第一声を残し、横浜の宿舎ホテル・ニューグランドに向かった。
     アイケルバーガー中将は東日本占領軍の責任者として、マッカーサー元帥に
    万が一の事があってはならないと心配し続け、一日でも早く第八軍を日本へ
    進駐させ万全を期したいと進言したが、マッカーサー元帥は「その必要はない」
    と断ったという。
     これも元帥自身の考えか、側近の演出かはっきり分からないが、勇敢な軍人
    、偉大な征服者を印象づけるための進駐スケジュールであり、ポーズであった
    ことは否定できない。ジョン・ガンサーの著書など何冊かの日本占領関係の本
    から推定すると、マッカーサー元帥はどうやら実力もあるが、かなり芝居気の
    多い軍人だったらしい。

    ●皇居にらんで6年余
     連合軍総司令部(GHQ)がお堀ばたの第一生命相互保険ビルに入ったのは、
    9月17日のことであるが、それより先、マッカーサー元帥は同月8日に第一
    騎兵師団(師団長ウィリアム・チェーズ少将)と共に、一旦横浜から東京に
    入り、米国大使館に星条旗を掲げた後、再び横浜のニューグランドに戻ってい
    る。
     総司令部をどこにするかについてマッカーサー元帥は、はじめ東京大学を
    考えていた、という説もあったが、実際には終始、第一相互を本命としていた
    ようである。
     第一相互は大戦中、旧陸軍の東部軍司令部が置かれたビルであり、都心の
    ビルの中で唯一の、屋上に高射砲が備え付けられることのできることも大きな
    要素であったが、何といってもお堀を挟んで皇居の前にあることが、マッカー
    サー元帥のお気に召したようである。
     緑の四角の中に黄色で“GHQ”の三字が入った青い旗が、総司令部関係者の
    マークであった。

       “馬印”が東京一番乗り

    ●心臓部を制した米第八軍
     第八軍は昭和19年テネシー州メンフィスで編成されてニューギニアへ派遣
    され、第一軍団司令官だったロバート・アイケルバーガー中将が初代司令官
    となった。レイテ作戦を終えるとルソン南部攻略戦に加わり、終戦間際にはネ
    グロス、セブなどフィリピン南部地域で戦った。
     日本本土に対する作戦では、第十軍(ジョセフ・スチルウェル大将)と共に
    コロネット作戦の中心になる予定だった。
     日本進駐の初期は東日本占領が担当であったが、占領業務が順調に進んだた
    め20年末、第六軍(ウォルター・クルーガー大将)が本国へ引き揚げたこと
    もあって、21年1月から日本全土の占領業務に携わった。
     麾下部隊は進駐当時、第十一、第十四、第九の三コ軍団であったが、その後
    第九、第一両軍団となり朝鮮動乱を迎えた。朝鮮動乱で韓国へ出動、動乱が
    終わった後も韓国に駐屯しており、欧州派遣の第七軍と共に編成当時を除き、
    本国を知らない部隊である。
     白と赤の三角形それぞれ四つを組み合わせ、正八角形が軍のマーク。オク
    タゴン(八角形)が愛称で、第八軍司令官専用列車を「オクタゴン・リミテ
    ッド」といった。
     アイケルバーガー中将の後司令官はウォルトン・ウォーカー(朝鮮動乱で
    戦死、大将昇進)マシュー・リッジウェー、ジェームズ・ヴァン・フリート
    各中将など、よく知られた将軍が名を連ねている。

    ●馬のいない騎兵師団
     まず、東日本へ進駐した米陸軍部隊を、順を追って紹介してみよう。進駐
    初期の第八軍麾下部隊は三コ軍団、九コ師団—約30万名であった。
     このうちには進駐し、軍政部を設置しただけで、引き揚げた部隊もある。
    当時、米軍にはポイント・システムというものがあった。例えば海外にある
    部隊に何点、戦闘またはある地域を占領した部隊に何点、という具合に点を
    与え、一定の得点に達すると復員できる、という訳である。それだけの理由
    で多くの部隊が右往左往したとは思われないが、あまりの複雑さにちょっと
    首を傾げざるをえない。
     第十一軍団(軍団長チャールズ・ホール中将)—麾下部隊をはじめ第一騎兵
    アメリカル、第四十三歩兵の三コ師団であったが、日本進駐にあたって
    第三十二、第九十七両歩兵師団が加わった。
     青い円の中に五の目と六の目のサイコロ二つが軍団のマーク。旧陸軍では
    ちょっと考えられないが、ユーモラスな感じである。フィリピン・ルソンで
    戦った後、9月初め日吉の慶応大学予科(戦争末期の旧海軍総隊司令部)に
    入ったが、昭和20年末に本国へ引き揚げた。
     第一騎兵師団(師団長ウィリアム・チューズ少将)—米軍師団の多くは
    三連隊編成の旅団と、砲兵隊などの支援隊からなる軽師団であるが、この
    部隊は二連隊編成の二コ旅団と支援隊からなる重師団。したがって兵員は
    2万名に達した。
     もっとも、騎兵師団といっても馬は一頭もおらず、戦車、装甲車、自走砲
    (自動車牽引砲を含む)で編成されていた。黄色い楯の中に黒で斜線と馬の
    首が師団のマーク。フィリピン・レイテ島、ルソン島で血みどろの戦いを展
    開した米軍最強部隊の一つである。
     9月2日に横浜に上陸、同月8日マッカーサー元帥と共に東京へ一番乗り
    した。主力は代々木練兵場へ、一部は六本木の旧歩兵第三連隊へ入ったが
    ほどなく主力は朝霞(キャンプ・ドレーク)へ移った。朝鮮動乱で同師団
    は韓国へ出動、動乱が終わってから北海道へ戻ったが、ベトナム戦争では
    南ベトナムへ出動するなど海外出動が多かった。
     アメリカル師団(師団長ウィリアム・アーノルド少将)—自由フランスの
    ニューカレドニアを守るため編成されたもので、他の師団と違って番号のつ
    いていない師団である。青い楯の中に白い南十字星が描かれているのが師団
    のマーク。
     ニューカレドニアからガダルカナル、ブーゲンビル、フィリピン・セブ島
    で戦い、9月2日、南多摩郡原町田へ進駐したが同年末で復員、その後再び
    編成されたという話は聞いていない。

    ●欧州からきた助ッ人  
    第三十二師団(師団長W・H・ギル少将)—赤い矢が師団のマークなので
    「レッド・アロー」と呼ばれた。ブナ、アイタベなどニューギニアを転戦、
    フィリピンではルソン攻略戦に参加した。
     9月10日、御殿場に進駐したが同年末に復員した。なお同師団の一コ歩兵
    連隊は9月16日、福岡に進駐し、本隊と同じ頃帰国した。
     第四十三歩兵師団(師団長L・ヴィング少将)—ニューイングランドの
    部隊で、緑のクローバー型の中に黒いブドウの葉が描かれているが、「赤い
    翼」の愛称がある。ニュージョージア島からニューギニアを経て、フィリピ
    ンのルソン島で戦った。9月初旬、横浜へ上陸、同年末に復員した。
     第九十七歩兵師団(師団長K・クレーマー少将)—日本に進駐した師団
    (陸軍)の中では、第一騎兵師団についで大きな部隊で、兵力1万9000
    名。青い楯の中に三又の矛(トライデント)を描いたのが師団のマーク。
    ジョージ・パットン大将麾下の第三軍に所属、フランスから中部ドイツ
    攻略に当たった。
     対独戦終了後、コートニー・ホッジス大将の第一軍に加わり、コロネッ
    ト作戦の従事するため日本に向かう途中に終戦となり、9月14日に熊谷へ
    進駐、ついで10月24日甲府へと移ったが、同年末に帰国した。欧州戦線
    からやってきた唯一の師団である。
    第百十二戦闘団(団長ジュリアン・カニンガム准将)—ニューブリテン島
    アラウエを占領、ニューギニアとの連絡を断ったのをはじめ、第八軍の機動
    部隊として活躍した。9月3日館山に上陸、「東京はさみ撃ち作戦」をやった。

     注 戦闘団(Regimental Combat Team)は日本の独立混成旅団のような
    ものだが、イタリア戦線で活躍した日系二世兵の442RCTのように比較的、
    規模の小さな部隊もある。

       ヤンキー気質丸だし

    ●荒っぽい天使たち  
    第十四軍団(軍団長オスカー・グリスウォルド中将)—はじめ麾下部隊
    は第六、第三十二、第三十七、第三十八の四コ歩兵師団であったが、日本
    へ進駐してきた時は第十一空挺、第二十七歩兵の二コ師団であった。楯の中
    にローマ数字の十であるXと、四をしめす四尖星を組み合わせたものが軍団
    のマーク。
     ソロモン群島からフィリピン・ルソン島で戦った。9月16日仙台に進駐
    したが、東北での占領業務が円滑に進んだので、同年末本国へ引き揚げた。
    グリスウォルド中将は翌21年、ジョージア州アトランタにある第三軍司令
    官に栄転した。
     第十一空挺師団(師団長ジョセフ・スウィング少将)—太平洋戦域にあっ
    た唯一つの米空挺師団で、二落下傘連隊と一滑空連隊とで編成されていた。
    青い楯の中にアラビア数字の11と翼、楯の上に「AIRBONE」と描かれて
    いた。
     ニューギニアからフィリピン・ルソン島などで戦った。8月28日、先遣
    隊が厚木に到着、さらに30日には本隊が入っており、日本進駐一番乗りの
    部隊である。その後横浜を中心に展開していたが、第十四軍団の東北進駐
    に当たり9月16日、松島へ移った。
     翌21年3月、第七十七歩兵師団にかわって札幌へ進駐し“北編の守備”
    の任務に就いていたが、24年、朝鮮から移ってきた第七歩兵師団にバトン
    タッチし、本国へ引き揚げた。
     エンジェルス(天使)の愛称に似合わず荒っぽい軍隊で、前線司令部の
    看板を掲げて悦にいっていたが、第八軍司令官から大目玉をくったり札幌
    では宿舎に当てられた日本の民家を、アメリカ風にペンキで塗りたて顰蹙
    を買うなど、荒っぽい師団の気風をあらわす逸話も少なくない。
     スウィング少将は22年、あとを副師団長W・マイリー少将に譲り、京都
    の第一軍団長に転じた。なおスウィング少将夫人は第一次世界大戦当時の
    参謀総長ペイトン・マーチ大将の娘である。
     第二十七師団(師団長G・W・グライナー少将)—ニューヨークで編成
    された由緒ある師団である。黒い円の中にニューヨークの頭文字NとYを
    組み合わせたものと、オリオン星座の七つの星を散りばめたのが師団の
    マーク。
     マキン島攻略のあとサイパン島、沖縄の伊江島、本島で戦った。9月9日
    平塚に上陸、10日小田原、27日福島へと進み、10月上旬新潟へ入ったが、
    同年末復員した。

    ●じっくり東北、北海道へ  
    第九軍団(軍団長チャールズ・ライダー少将)—第七十七、第八十一両歩
    兵師団で編成。青い円の中にローマ数字で九を示すⅨが軍団のマークである。
    フィリピンのレイテ、セブ島で戦った。
     陸奥湾上の艦船上にて待機していたが、10月4日小樽に上陸、ついで札幌
    に入った。まだこのころは盛んに、ソ連軍が北海道に上陸してくるのではな
    いかと噂されていただけに、米軍も慎重に行動していたようである。
     同年末、第十四軍団が本国へ帰った後仙台に移り、朝鮮動乱で韓国へ出動
    するまで同地にあった。司令官に24年リランド・ホッブス、朝鮮動乱後
    ジョン・クルーター、ウィリアム・ホージ少将がなっている。
     第七十七歩兵師団(師団長アンドルー・ブルース少将)—ニューヨークで
    編制された三コ歩兵連隊制だが、兵力1万6450名の大型師団。師団のマーク
    は青い梯型の中に、黄色の自由の女神が描かれている。
     グアム島攻略戦からフィリピン・レイテ、セブ島、沖縄で戦った。10月
    4日、第九軍団と共に小樽、ついで札幌に入った。島を除く全道に師団を
    展開したが、21年3月、第十一空挺師団と交替して本国へ引き揚げた。
     第八十一歩兵師団(師団長ポール・ミューラー少将)—兵力1万5000名。
    緑の円の中に山猫(ワイルドキャット)が師団のマークである。
     アンガウル島やペリリュー島、フィリピン・レイテ島で戦った。大湊に
    入港した旗艦パナミント上で9月9日、占領文書伝達式が行われたいきさつ
    については本誌9月号に詳しい。同月25日青森に進駐したが、21年3月
    本国へ引き揚げた。師団長ミューラー少将は同年5月、連合国軍参謀長に
    栄転、24年2月までマッカーサー元帥の女房役をつとめた。

       軍政に泣いた野戦将軍

    ●対日反攻の主役 西日本へは第六軍
     第六軍は昭和19年、テキサス州サン・アントニオで編成された。当時
    第三軍司令官として同地にあったウォルター・クルーガー中将(21年3月
    大将進級)が初代司令官となり、ニューギニアへ派遣された。
     血みどろの同地区での戦いを終わると、フィリピン・ルソン島の攻略戦に
    従事した。日本本土に対する作戦では、20年11月から九州方面進攻のオリ
    ンピック作戦を指揮する予定であった。
     日本進駐には西日本を担当。9月30日京都に進駐したが、占領業務が順調
    に進んだので、20年末第八軍(ロバート・アイケルバーガー中将)に後を
    ゆだね、本国(カリフォルニア州サンフランシスコ)へ引き揚げた。
     麾下部隊は始め第一、第九、第十一の三コ軍団であったが、日本進駐の時
    は第一、第十両軍団と第五海兵隊(軍団担当)の八コ師団、約20万名で
    あった。
     緑の円の中に白い六尖星と、軍(Army)を示すAを描いたのがマーク。
     クルーガー大将はマッカーサー元帥の一歳下。トルーマン大統領、マー
    シャル陸軍参謀総長はマッカーサー元帥の後任にと考えていたようだが、
    マッカーサー元帥は当面引退の考えもなく、将来(はたしてそう真剣に考え
    ていたかどうかはつまびらかではないが)アイケルバーガー中将をと、にお
    わせていた。結局、クルーガー大将は帰国と同時に退役、後任は第十軍司令
    官ジョセフ・スチルウェル大将がなった。
     
    ●タロイモとインディアン
     第一軍団(軍団長イニス・スウィフト少将)はじめ麾下部隊は第二十五、
    第三十三、第四十一の三コ歩兵師団であったが、日本進駐のときは第四十一
    歩兵師団に代わり、第九十八歩兵師団となり、のち第六歩兵師団が加わった。
    黒い縁の白い円の中の黒い同心円が軍団のマーク。
     アイケルバーガー中将の下でニューギニアのブナ、ホーランジアで戦い、
    ビアクを攻略したのち、スウィフト少将の下でフィリピン・ルソン島作戦
    に当たった。
     9月25日大坂に入ったが、同年末第六軍が本国へ帰ったので、京都へ
    司令部を移し西日本占領の要となった。朝鮮動乱が始まると韓国へ出動し
    た。この間、司令官はロスコ―・ウッドラフ、ジョセフ・スウィング、
    ジョン・コールター各少将が就任した。
     第二十五歩兵師団(師団長C・ムリンズ少将)—ハワイで編成された
    戦時師団で、兵力1万4000名。緑のタロイモの葉の中に、黄色のイナズマ
    が師団のマーク。ガダルカナル、ニュージョージアを経てフィリピン・ルソ
    ン島で戦った。
     10月25日、主力は名古屋に、一部は静岡へ進駐、翌21年初めに大阪へ
    移り、朝鮮動乱で韓国へ出動するまで同地に駐屯した。朝鮮動乱の参謀総
    長ジョセフ・ロートン・コリンズ大将が初代師団長で、“稲妻ジョー”の
    愛称はその時つけられた。ムリンズ少将の後エドワード・ブラウン准将、
    ウィリアム・キーン、ジョセフ・ブラッドレー少将らが師団長になっている。
     第三十三歩兵師団(師団長P・クラークソン少将)—黒い円の中に黄色
    の十字が師団のマーク。ミシシッピーで編成され“大草原”が愛称。
     フィリピン・ルソンで戦った後9月26日、姫路に上陸し、10月初旬に
    は神戸(一部は大津)へ入ったが、同年末帰国した。
     第九十八歩兵師団(師団長A・ハーバー少将)—黄色の楯にインディアン
    勇士のシルエットを浮かび上がらせたのが師団のマーク。大戦中ずっとハワ
    イにあって、実戦には加わらなかった。
     9月27日、大阪・大正池飛行場に進駐したが、21年2月、後を第二十五
    歩兵師団にゆだねて帰国した。
     第六歩兵師団(師団長C・ハーディス少将)—赤の六尖星が師団のマーク。
    ニューギニア、フィリピン・ルソン島で戦った後、10月23日、第二十五
    歩兵師団にかわって名古屋に進駐したが、同年末本国へ引き揚げた。

    ●ヒロシマの黄色い太陽
     第十軍団(軍団長F・シーバート少将)—はじめ第二十四、第三十一両
    歩兵師団で編成されていたが、日本進駐軍は第三十一歩兵師団の代わりに
    第四十一歩兵師団が参加した。上部が青、下部が白の円の中にローマ数字
    の十を示すX(上部が白、下部が青)が軍団のマーク。
     フィリピン・ルソン島で戦った後10月3日、呉へ進駐したが、21年2月
    に英連邦軍と交替して帰国した。朝鮮動乱で再編成され、仁川上陸などで
    活躍した。
     第二十四歩兵師団(師団長ロスコ―・ウッドラフ少将)—大戦中にハワイ
    で編成された。兵力は1万7000名。兄弟師団の第二十五歩兵師団と同じく、
    熱帯を表す赤い円に緑でタロイモの葉を描いたものが師団のマーク。
     ニューギニア、フィリピン・ミンダナオを経て高知へ上陸、10月22日、
    松山に進駐したが、21年2月には岡山、次いで小倉に移った。
     朝鮮動乱で韓国へ出動し、その後本国へ引き揚げた。師団長はK・クレー
    マー、A・スミス、アンソニー・マコーリフ、ウィリアム・ディーン、
    J・チャーチ、ブラックシャー・ブライアン各少将。
     第四十一歩兵師団(師団長J・ドー少将)—赤の半円形の中に黄色の太陽
    で夕日を表したのが師団のマーク。ニューギニアのサラモアからフィリピン
    のミンダナオ島、パラワン島へと転戦した。10月3日、広島に上陸したが
    21年早々に帰国した。

    ●海兵隊の強者たち
     第五海兵隊(司令官ハリー・シュミット少将)—麾下部隊は第二、第五
    海兵師団。硫黄島で血みどろの戦闘を展開した後、9月下旬、九州地区に
    進駐、しばらく佐世保に駐屯していたが、20年末本国へ引き揚げた。
     第二海兵師団(師団長ルロイ・ハント少将)—二コ海兵旅団(四コ海兵
    連隊)編成で、兵力2万7000名という大型師団。サイパン島、沖縄攻略の
    後9月16日、長崎に上陸したが、第五海兵隊、第五海兵師団が佐世保から
    引き揚げた後へ移った。
     第五海兵師団(師団長バーク少将)—硫黄島の戦いが初陣。9月下旬、
    佐世保に進駐したが、20年末に本国へ引き揚げた。
     この他 第三十一歩兵師団(師団長C・マーチン少将=“南部同盟”)、
    第三十七歩兵師団(師団長R・バイトラー少将=“オハイオ人《バッケー》”)
    第三十八歩兵師団(師団長F・アーヴィング少将=“旋風《サイクロン》”)
    が9月上旬、本土に上陸したがどこに進駐したかつまびらかではない。

    ●半島と列島を又にかけて
     第二十四軍団(軍団長ジョン・ホッジ中将)—はじめ第七、第二十七両
    歩兵師団で編成されていたが、朝鮮進駐時は第二十七歩兵師団にかわって、
    第四十歩兵師団が入った。楯の中にハートが軍団のマーク。
     フィリピン・レイテから沖縄で戦った。ソウルへ入ったのは9月下旬で
    ある。米国陸軍省は第十軍司令官ジョセフ・スチルウェル大将を朝鮮進駐軍
    司令官にするつもりでいた所、中国とくに蒋介石の強い反対で、ホッジ中将
    にかわったという。野戦車指揮官型の同中将にとって軍政は、かなり負担と
    なったようである。
     第七歩兵師団(師団長A・アーノルド少将)—赤の円の中に砂時計のよう
    な黒い三角二つが師団のマーク。どういうものか「観光」の愛称がある。
     アッツ島攻略、ついでクェゼリン島、フィリピン・ルソン島作戦を経て
    沖縄本島で戦った。9月中旬朝鮮に進駐していたが、24年、第十一空挺師団
    にかわって北海道に移駐、さらに朝鮮動乱で韓国へ出動した。師団長には
    ウィリアム・ディーン、デビッド・バー、クロード・フェレンボー各少将が
    なっている。
     第四十歩兵師団(師団長F・マイヤーズ少将)—カリフォルニアで編成され
    た。青い菱形に黄色の太陽が師団のマーク。ロスネグロスからフィリピン、
    パナイ島、ルソン島作戦を経て、9月26日釜山に上陸した。一旦復員、解隊
    されたが、後述のように州兵として復活し日本へ来た。

    ●留守部隊は州兵師団の新兵
     第十六軍団(軍団長ロデリック・アレン少将)—朝鮮動乱でに日本本土の
    米軍戦闘部隊はすべて韓国へ出動、文字通りの留守になった。そこで日本の
    治安維持と、北方からの脅威に備えるため、米本土から州兵二コ師団を呼び
    寄せて、26年3月に編成した。
     司令部は仙台。軍団のマークは楯の中に青い四尖星と、十六の歯を持った
    白い歯車の組み合わせ。前述のカリフォルニア州の第四十州兵師団(師団長
    ダニエル・ハデルソン少将)が同年4月11日に仙台へ、また雷島のマーク
    をつけたオクラホマ州の第四十五州兵師団(師団長ジェームズ・スタイロン
    少将)が同月25日、小樽に到着、東日本の警備についていたが、両師団とも
    新兵が多く、訓練のためにやってきたようなものであった。

       目まぐるしい海空軍

    ●英連邦軍の精悍なグルカ兵
    英連邦軍(司令官ジョン・ノースコット中将)—米英中ソ四か国の話合いに
    よって、日本本土への進駐は米英両国軍と決まっていたが、確定したのは
    20年末であった。
     編成は英印一コ師団、オーストラリア、ニュージーランド各一コ旅団で、
    兵力は4万5000名。21年2月7日、江田島へ司令部を置いた。第三十四
    オーストラリア旅団が広島、第九ニュージーランド旅団が山口、
    第二百六十八インド旅団が松江、第五英旅団が高知に司令部を置き、占領
    業務に当たった。
     英、印両旅団で師団を編成、そのうち一コ大隊を東京に駐屯させており、
    皇居前の衛兵交替式にターバンを巻いたインド兵や、小柄ながら強そうな
    グルカ兵が参加していたのを知っている人も多いと思う。司令官はホーレス・
    ロバートソン、ウィリアム・ブリッジフォード各中将が歴任。
     朝鮮動乱に当たっては新編成の第一英師団(師団長ジェームズ・カッセルズ
    少将=のち英陸軍参謀総長、元帥)を派遣し、日本には留守部隊しか残らな
    かった。26年12月15日で日本の占領業務を終了、帰国した。

    ●空からは歴戦の第五航空隊
     陸軍極東航空隊(司令官ジョージ・ケニー大将)—昭和19年6月、南太平
    洋航空軍が極東航空隊に改組され、20年7月から太平洋戦略航空隊(司令官
    カール・スパーツ大将=第八、第二十航空隊)と協力して日本進攻に備えた。
     終戦で太平洋戦略航空隊は改組、本国へ引き揚げたため日本へ進駐したの
    は極東航空隊司令部と、第五航空隊だけであった。極東航空隊には第五航空隊
    の他、第七空軍(司令官トーマス・ホワイト准将=マリアナ・サイパン)、
    第十三航空隊(司令官P・ワーツミス少将=フィリピン・マニラ)があった
    が、終戦で第七航空隊は廃止、第五航空隊のいた沖縄に第一飛行師団が置か
    れた他、太平洋戦略航空隊所属の第二十航空隊が新たに極東航空隊の指揮下
    に入った(司令部は従来通りマリアナ・グアム)。
     極東航空隊司令部は9月4日、立川に進駐した。司令部はケニー大将が
    同年末、太平洋航空隊司令官になった後、エニス・ホワイトヘッド、ジョージ・
    ストラトメイヤー、オットー・ウェーランド各中将が就任している。
     第五航空隊(司令官エニス・ホワイトヘッド中将)17年9月に編成され、
    オーストラリアからニューギニア、フィリピン、沖縄作戦で活躍し、主力は
    9月4日、立川へ進駐した。一部は9日に調布、14日に豊岡(旧航空士官
    学校)へ入った。
     同年末極東航空隊司令官になったホワイトヘッド中将の後の司令官は
    ケネス・ウルフ、トーマス・ホワイト、アール・バートリッジ、フランク・
    エバレスト各少将。

    ●上陸地までが花形の海軍部隊
     在日海軍部隊(司令官ロバート・グリフィン海軍中将)—日本進攻の
    海軍部隊は、太平洋艦隊(司令長官チェスター・ニミッツ海軍元帥)の
    第三、第五、第七、第九艦隊。8月末には相模湾に第三艦隊(司令長官
    ウィリアム・ハルゼー海軍大将)の空母、戦艦など約60隻が集結、上陸
    部隊の支援体制を整えた。
     そして30日、第三艦隊の第三十一機動部隊(司令官オスカー・バジャー
    少将)の海軍部隊と海兵隊約1万7000名が横須賀に上陸した。
     しかし、横須賀鎮守府などの機関や、残存艦艇を接収、占領業務を終える
    と基地要員と、第四海兵連隊を残して比較的に早く引き揚げている。
     また9月7日、陸奥湾に入った第九艦隊(司令長官フランク・
    フレッチャー海軍中将)は、9日の占領文書伝達式を行うと、陸軍部隊の
    揚陸を支援して引き揚げた。同艦隊の一部(8隻)は11日から14日まで
    第十四軍団先遣隊の塩釜上陸に協力している。
     さらに9日、九州西方海面に到着した米艦船部隊(第七艦隊の一部か)
    は、10日より掃海駆逐艦など50隻で佐世保付近の掃海作業を行い、同月
    下旬の第五海兵隊の佐世保上陸に備えた。
     陸軍部隊と同様、終戦直後の米海軍部隊は目まぐるしく動き、それを
    裏付ける資料も公開されていない。とにかく同年末に横須賀などの基地部隊
    を総括する在日海軍部隊が置かれ、同司令部グリフィン海軍中将が連合国軍
    総司令部の海軍代表であったが、どの程度の兵力がいたかはつまびらかでは
    ない。
     なお、西南太平洋艦隊司令長官はチャールズ・クック海軍中将、第七艦隊
    司令長官はトーマス・キンケード海軍中将(同年11月からダニエル・バー
    ビー海軍中将)であった。

    注  参考資料/ 朝日新聞縮刷版(昭和20年~27年)、マーシャル報告
    (毎日新聞社刊)、マッカーサーの謎(ジョン・ガンサー著)、東京への
    血みどろの道—アイケルバーガー中将回想記(讀賣新聞社)などによる。
     

    在日地上部隊(昭和20年10月)

               連合国総司令部(東京)
              __________|______      
             ↓             ↓
            第6軍(京都)       第8軍(横浜)
             ↓                 ↓
       _____________      ____________
      ↓      ↓      ↓    ↓     ↓      ↓
    第5海兵隊 第10軍団  第1軍団   第9軍団   第14軍団  第11軍団
    (佐世保)  (呉)  (大阪)   (札幌)  (仙台)  (日吉)
      ↓     ↓     ↓     ↓     ↓     ↓
    第5海兵師団 第41歩兵師団 第6歩師  第81歩師  第27歩師   第97歩師 (佐世保)   (広島)   (名古屋) (青森)    (新潟)  (熊谷)
    第2海兵師団 第24歩師   第25歩師  第77歩師 第11空挺師団  第43歩師
    (長崎)    (松山)   (名古屋) (札幌)    (仙台)  (横浜)
                   第98歩師               第32歩師
                   (大阪)                (御殿場)
                   第33歩師              アメリカル師団
                   (神戸)                (原町田)
                                      第一騎兵師団
                                       (東京)

       注 歩師=歩兵師団

             在日地上部隊(昭和21年4月)

                連合国総司令部(東京)
                      |
            ___________________
           ↓                ↓
         英連邦軍           第8軍(横浜)
         (呉)                   ↓
                      ________________
                      ↓              ↓
                    第1軍団         第9軍団
                  (京都)         (仙台)
                      ↓              ↓
                  第2海兵師団        第11空挺師団
                  (佐世保)        (札幌)
                 第24歩兵師団        第1騎兵師団
                  (小倉)          (東京)
                 第25歩兵師団
                  (大阪)
                 

  5. 図が崩れましたので、もう一度載せます

           
      在日地上部隊(昭和20年10月)

               連合国総司令部(東京)
              __________|______      
             ↓             ↓
              第6軍(京都)       第8軍(横浜)
             ↓                 ↓
       _____________      ____________
       ↓      ↓      ↓    ↓     ↓      ↓
    第5海兵隊 第10軍団  第1軍団   第9軍団  第14軍団 第11軍団
    (佐世保)  (呉)  (大阪)   (札幌)  (仙台)  (日吉)
      ↓     ↓     ↓     ↓     ↓     ↓
    第5海兵師団 第41歩兵師団 第6歩師   第81歩師  第27歩師   第97歩師
    (佐世保)  (広島) (名古屋)    (青森)    (新潟)  (熊谷)
    第2海兵師団 第24歩師  第25歩師   第77歩師  第11空挺師団 第43歩師
    (長崎)    (松山)  (名古屋)  (札幌)    (仙台)  (横浜)
                  第98歩師                 第32歩師
                   (大阪)                (御殿場)
                  第33歩師               アメリカル師団
                   (神戸)                (原町田)
                                      第一騎兵師団
                                        (東京)
     

        注 歩師=歩兵師団

               在日地上部隊(昭和21年4月)

                連合国総司令部(東京)
                      |
            ___________________
           ↓                ↓
          英連邦軍           第8軍(横浜)
         (呉)                  ↓
                       ______________
                      ↓              ↓
                     第1軍団         第9軍団
                   (京都)         (仙台)
                      ↓              ↓
                   第2海兵師団        第11空挺師団
                  (佐世保)        (札幌)
                  第24歩兵師団        第1騎兵師団
                   (小倉)          (東京)
                  第25歩兵師団
                   (大阪)
       

  6. 図の方は、どうも上手くいきませんでしたが、概要は分かって頂けたかと思います。
    何度も申し訳ありません。

  7. 再度で申し訳ないけど、スキーに行くことと外国に留学することがどうして国力増強になるのか
    関連性を全く見出せません。
    スキーはお金がかかりますが、近年安めのスキーツアーに行った学生が多数事故で亡くなって。
    このご時世に無理して行くからではないかと冷ややかに見ておりました。
    (バス労働者の労働環境が非常に悪化している時代ですから。)

    日本の大学でまともな教授陣が見出しにくいのは分かりますが、そこで無理して留学しても
    どうでしょう。官僚も政治家も留学しては安易な売国奴になっている訳ですから、
    いろんな視点から考えることが必要ではないかと思います。
    自分の頭で考えるということと、スキーや留学はそれほどの関連性はないと思います。
    お金のない人を馬鹿にしているのではないかと、却って勘ぐります。

    気がつかなかったのですが、先生はよほど裕福なご出身だったのですね。

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