WiLL論考

今月25日発売の「WiLL」に西尾先生の「トランプよ、今一度起ち上がれ!」という素晴らしい論考が載っています。

是非感想をお寄せください。

「WiLL論考」への7件のフィードバック

  1.  月刊誌「WiLL」1月号の西尾氏の論文『トランプよ、今一度立ち上がれ!』のすぐ後ろに渡辺惣樹氏と福井義高氏の対談「民主党が『またやった』!」が掲載されている。まずそこから幾つかの発言を引用する。西尾氏の論文を理解する助けとなるからである。
     「米国ではコロナ救済資金プログラム《ppp》の不正額が十兆円(七百六十億ドル、二〇二一年八月一七日付『ニューヨークタイムズ』と推計されています。不正のスケールが日本の比ではありません。そういうお国柄を考えると、選挙に不正がなかったとは言い切れません)(福井)。
     「民主党側はドミニオン集計機によるコンピュータ不正は難しいと判断し、不正がしやすい郵便投票に力を注いだのではないか。当日投票は共和党に票が流れますから、できるだけ妨害するよう、集計機に仕掛けをした。故意に集計機を止め、長い行列をつくらせた。投票に一時間待ちもあり、あきらめて帰らせる狙いがあったのでしょう」(渡辺)。
     「私は民主党が『またやった』と思っているので善戦したとは考えていません。これから不正選挙《郵便投票のダブルカウント、死人票や違法な票の取りまとめなど》の実態が報道されるはずです、いずれにせよ、世界一の超大国、米国がこんな体たらくでいいのか。(中略)もはや米国が民主主義のリーダーとは言えません。そんな国に日本の安全保障を任せていいのか。問題意識を持つべきです」(渡辺)。
     「民主主義の価値観が機能しているように見える国では、基本的な価値観が一致しており、民主主義つまり多数決で決まるのは、ある意味、どうでもいい問題です。国民の価値観が一致しない国では民主主義は成り立ちにくい。米国がまさにそうなりつつあります」(福井)。
     「米国の『フェデラリスト・ペーパーズ』(中略)では、『デモクラシー(democracy)とリパブリック(republic)が対比され、米国が目指すべきは後者であると書かれています。(中略)大統領も現在では国民が選びますが、(中略)全国得票数で負けた候補が当選するなど《二〇一六年のトランプ》、完全な直截投票になっていません。それは意図的にそうしているわけで、一般国民にリーダーをそのまま決めさせることは危険だと考えたのです』(福井)。
     「米憲法は民主主義の聖典のように言われますが、実は米憲法こそ、民主主義の危険性を指摘しているものと理解した方がいい。民主主義の構造的欠陥をコントロールするための憲法であることを再認識するべきです」(渡辺)。
     「(米国あるいはその中のネオコンは…引用者補足)大国としてのロシアという存在そのものが許せないのです。ロシアという国家を解体したいと考えている。だから、ロシアは悪でなければならない」(福井)。
     「CIAのトップは、みんなネオコンですからね。ネオコンの影響力を実感します。ネオコンはロシア分割案の地図を作成していますけど、彼らの目標はそこにある」(渡辺)。
     「米国が独立の政治主体としてロシアを除去しようとしていることが、今回のウクライナ戦争を通じて完全に露呈してしまった。だからロシアの親欧米派は幻滅したわけです。日米開戦前の日本の親米派と同じ心境ではないでしょうか。ちなみに、ミアシャイマーも真珠湾攻撃と今回のウクライナ侵攻を比較しています」(福井)。
     「フランスの人口統計学者、エマニュエル・トッドも同じことを指摘しています」(渡辺)。
     私はこのお二人を当代最高レベルの知性として信頼している。お二人とも論壇へのデビューには西尾氏の推挽があったかと思う。このような認識と西尾氏の論文は地下水で通じ合い、響き合う。

     西尾氏はこう述べる。「日本国民は今ここにきてアメリカの民主主義をもはやまったく認められない、と宣言すべきです。多数決の原理すら公正に運営できない国は民主国家とすらいえない。否、法治国家とすらいえないのかもしれません。西部劇時代の野蛮と非文明の地肌が再びさらけ出されました」。オバマ時代に行なわれことは、行政府の官僚、裁判所判事、警察幹部、政治家の六千~八千人を左翼全体主義に導き、司法省やFBIを支配したことである。「ロシアゲート事件」はその代表例であったが、白日の下にさらされるまえにトランプ政権は下野した。法の秩序は普遍中立ではなく、政権が変わらない限り正義の法の支配は作動しない。二〇〇〇年大統領選挙で起きたことはアメリカ建国の理念を揺さぶるほどの、一歩間違えば内戦を招きかねない大事であったことは世界が知っている。それを引き起こしたのは連邦最高裁判所の腐敗。堕落、背徳である。さらに、
     「アメリカはもはや完璧に憲法を逸脱した非民主主義国家に成り下がっています。以上に取り上げた事例は、アメリカ合衆国の権力構造に明白に異変が生じ、ホワイトハウスの大統領府を越えた何らかの新しい権力がすでに実在し、選挙を動かし、政府を取り替え、官僚の任命権を握り、軍の司令塔を左右している(軍だけは今もバイデンにではなく密かにトランプに忠誠心を尽くしているという説もありますが)という一連の力の交代劇が行なわれているという恐るべき事実を示しています。
     これはやはり『革命』でなくて何でありましょう。日本の政治学者諸氏にこの点をお尋ねします。革命でなかったら何と名付けたらいいでしょうか」。政治学者からの回答を期待したい。
     二年前の大統領選挙で何が行なわれいかにして政権を転覆したか、当方はもちろん十分な情報を持ち合わせていない。ある政治的意志によって企図された巨大な不正が行なわれ、大統領が換えられたとしたら、その驚くべき政権奪取劇は血塗られたギロチンがないだけで、不正な手続きによって王座からの追放を行ったという意味において革命と言うべきかも知れない。独立以来分断を抱え、奴隷制度をめぐり内戦まで行なったこの国を束ねてきたものは政府・議会、そして選挙という民主主義的諸制度への信頼であり、さらに民主主義の危険性に掣肘を加えた憲法の尊重であるとするなら、アメリカは自ら「神」を扼殺し革命を行なったと言うべきかもしれない。
     「あのときトランプは戒厳令を敷いて軍の正式の協力体制の下に、中国やベネズエラなど外国の選挙介入を調査し、票の再監査を行なうべきだったのではないでしょうか。それにはトランプ自身が“右翼ファシスト”として内外から非難される覚悟を要しました」。
     「戒厳令かそれとも連邦議会前(の大群衆集結…引用者註)か、この二者択一は運命の岐(わか)れ目だったのではないでしょうか」。
    戒厳令とはただならぬ話である。しかし、「アメリカの決定的な分裂」「アメリカンデモクラシーの崩壊」「アメリカ合衆国憲法の蹂躙」「大統領発言の封殺による言論の自由の破壊」の既成事実化から救う道は戒厳令発令という最終的な手段しかなかったと西尾氏は考えているのだ。乾坤一擲とはこのことだ。

     西尾氏は二〇二四年大統領選挙を望んで、デサンティスはまだ若く、ペンスは前回大統領選で最期の決定的場面でトランプを裏切りユダになったとして両者を排している。しかし、氏がトランプを待ち望む理由は他にある。論文の終わりで、思想家あるいは文学者としての真骨頂とも言うべき西尾氏の洞察が示される。
     「米中対立米露対立のような硬直した場面で大戦争を引き起こさないためには、固定観念に囚われないこのロマンティシズムがいよいよになると役に立つ光であり、希望であり得るのである」。
    西尾氏がトランプの「唯一の欠点」とする「自己英雄視のロマンティシズム」がいよいよ切羽詰まった場面では危機を打開する得難い資質として効用を発揮することがあり得るとするのである。また、
     「大切なのは、自分の立場や姿勢を固定せず、現実の変化に当意即妙に対応できる自分に関する自由の感覚への信頼です。今の世界の指導者の中でこの自由を保持している人物がトランプのほかにいるとは私には思えません」。
    自由の問題、自由の逆説を生涯のテーマとして追求して来た第一級の思想家が、超大国の宰相に対して発した「自由」の感覚の尊重として銘記すべき言葉であろう。

     論文中に西尾氏の感懐が記されている部分がある。
     「あっという間にトランプが失脚し、バイデンが正式に大統領の座を射止めた背景の動きには何があったのか。永遠の闇に終わるのか、今後少しづつ解明されて行くのか、今のわれわれにはことに外国人である私にはたしかに明確なことが何か言えるテーマではありません。しかしこの背景にはアメリカ社会の変貌があります。アメリカが今急速に中国やロシアのような全体主義国家に似て来ていることは深く、深く憂慮されます」。
     九月十八日付け産経新聞「オピニオン」欄に福井義高氏が「米国版『自虐史観』の猛威」という論文を書いている。米国史の原点は清教徒が移住し独立を果したことにはなく、最初のアフリカ人奴隷が到着した一六一九年だとする「一六一九年プロジェクト」なる運動を紹介し、プロジェクトに歴史の専門家が参加することで歴史研究としての正当性が付与され学校教育のカリキュラムに反映されつつある。これを批判し、「歴史研究者が今日の様々な政治的見解を正当化するために利用することは歴史を矮小化し、歴史学という専門分野の土台を掘り崩」す「現代至上主義」だとした米国歴史学会会長は槍玉に上がり、果ては本人が学会ホームページに謝罪文を掲載し「全面屈服」したというものである。「共産主義体制下おける政治権力による外部からの言論統制と違って、個々人の内部からの自主規制による、静かな言論統制が進んでいる」と福井氏は言うのだが、アメリカ歴史学界に『新しい歴史教科書』を作り、『国民の歴史』を胸中の温気を吐き出すように書き上げた西尾幹二はいないのかと言わなければならない。そして、いまさらながら、西尾氏が東欧に取材してものした『全体主義の呪い』という書物の慧眼というだけでは足りぬ、恐るべき洞察と先見性に驚くのである。今回の論文で吐露されたアメリカの全体主義化への深い、深い憂慮こそ、二十九年前に氏自身が予見したものである。その結語を繰り返したい。
     「これから同じ内容の(スターリン主義的な…引用者註)全体主義は決して再来すまい。しかも未来を解く鍵はわれわれが学んで来たあの過去の中にしかないのだ。恐らくこれからはもう独裁者への熱狂の声もなく、まったき行政のみから成り立つ後期全体主義が、国家単位よりもっと大きな単位で、ときには人類の名において。静かに、辷るように、それと気づかぬうちに、するすると始められてしまっているのであろう。
     われわれは夜と死に黙ってこのまま落ちて行ってもよいのだろうか。われわれは立ち止まり、もっと他国の経験を知り、過去に学び、未来に備えなくてはならないのではないか。
     私の旅はそのような目的のための、ささやかな第一歩の積りである」。

  2. >土屋六郎様

    早速の感想ありがとうございました。
    私もWiLL久しぶりに買って読みました。
    次の福井氏と渡辺氏の論考を引用してくださったので、よりわかりやすくなりました。

    混沌とした世界になっていることは、全世界の人間が感じていることですね。
    日本はどうあるべきなのでしょう。

  3. 日録管理人様

    いつもお世話になっております。
    とても最後の一文にお答する任に堪えません。福井・渡辺両氏の発言および西尾氏の論文、また近年の著作で言えば『国家の行方』、『日本の希望』、『歴史の真贋』などに答や示唆が蔵されていると思っております。とりわけ産経新聞「正論」欄百篇を収めて一本を成した『国家の行方』は特徴的で、つくづくすごい本だと感じます。どれだけ咀嚼し得たか知れたものではありませんが。

    なお、当方の投稿同じもの2本が並んで掲載されているようです。一つには「あなたのコメントは承認待ちです。」という一文が最初に書かれていますので、できましたら、こちらの文を削除いただければ幸いです。

  4. 「WiLL」を書店で求めるのには、かなり抵抗があつた。
    店主に、「”Will”ある?」と訊いた。「あるけど、また旦那のお嫌ひな”あれ”だよ」と言つて、私に表紙を見せた。見れば、右下に櫻井よしこのかなり大きな寫眞が載つてゐる。そして、トップ記事の題が「櫻井よしこ氏が岸田總理を叱咤・激勵!」。ハハーン、また例の手口か。「叱咤激勵」なら、たしか安倍總理に對してもやつて見せたのではなかつたか。叱咤激勵といふ名の阿諛・迎合・提燈持ちだ。彼女はその種の演技の名手で、その時々の流行兒たちに蹤きながら、一見、それを指導してゐるかのごとく振舞ふ。その上、逃げ足も速いーー私の最も嫌ひな人種だ。安倍さん亡き今も、賤業保守は盛んで、女史は業界のドル箱だ。

    書店とは、築地の廣尚堂書店。以前、ここに書いたが、森鴎外ゆかりの店ではないかと、私が妄想を抱いた本屋。以前、西尾先生がお書きになつたと聞いて、”Hanada”だか、「正論」だか、”WiLL”だかを買ひに行つた際、表紙について、店主に文句を言つた、「何だ、櫻井よしこが寫つてゐるぢやないか。このアマ、大嫌ひだ!」。店主こそ、いい面の皮だが、その時のことを覺えてゐると見える。いつの間にか、店主夫妻とは顏馴染みになつてゐた。2ヵ月に一度くらゐしか寄らず、上得意でもないのに、私が妙なことを口走るから、忘れられなくなつたのだらう。

    以前、別の折りだが、西尾先生から、「”Hanada”に書いたので、買つて讀め」と指示されたのに對して、「Hanada,WiLL,正論は大嫌ひです」とお答へし、「僕は藝者で、發表の場を自分で持つてゐるわけではないから、お座敷が掛かれば、務めざるを得ないのだ」といふ、辯解的なお言葉を引き出してしまひ、ちと言ひ過ぎたと後悔したことがある。

    1~2ヵ月前、この日録で、黒ユリさんに見せて頂いた動畫について、私はかう書いた。
    「『安倍氏が本当に祖国に貢献したとはとても思えない』ーー仰せの通りですね。いいものを見せていただきました」「これほどまとめて、安倍さんの賣國ぶりを目にしたのは初めてでした」「なほ、安倍應援團長として、女王の如く振舞ってきた櫻井よしこといふバイタのやうな女が、イザとなると、サッと逃げ出す場面も描かれ、我が意を得ました」。

    しかく、私は櫻井よしこの寫眞などを見たり、聲を聞くと、蟲唾が走る。しかしこの日録の管理人長谷川さんは保守業界の大スター櫻井女史を尊敬し、ありがたがつてゐるやうだ。つくる會20周年の式典で、長谷川さんは西尾先生のメッセージを代讀したが、その際、櫻井女史が前の方で聞いてゐることを意識し、これを光榮として、一段と聲を張り上げたーーと、參加者から聞いたし、私も動畫を視聽して、同感した。西尾先生が櫻井さんにいい感情を持つてゐないことは、長谷川さんも知らない筈はないのに、彼女は世にときめくもの、人氣のあるものには、必ず提燈を持つ。そして、矛盾する二つのものに捧げてもケロリとしてゐられるといふ便利な神經の持ち主である。親の心子知らず・・・

    でも、今囘は、先生もゲラのコピーを送つて下さらず、誰からも教へられず、長谷川さんの告知で知つた。ありがたう、長谷川さん。

    と、前書きが長くなつたが、どうせ私の本論なぞ、中身は大したことないので、以上の漫語だけでも、お讀み下さる人がゐれば、私は滿足。本論はむしろ蛇足かもしれないーー

    「トランプよ、今一度起ち上れ」(西尾幹二)を拜讀、スカッとした。齒切れがよくて、文章に勢ひがある。私自身が、トランプについては、最近思ひが少し搖れて、迷ふことがあつたが、さうか、先生がさう斷言されるのなら、蹤いてゆかうーーさう考へて、氣持が樂になりました。私の知識と頭腦では、理論的に全てを理解し、納得したとまでは言へないかもしれないが、大筋は腑に落ちたやうな氣がします。

    「その大言壮語や子供っぽい所作や芝居がかったパフォーマンスの政治的効果は、すでに早くも終りかけているとメディアははやし立てています」ーーお囃子に乘つたわけではないが、私は、それらの諸要素に、時に微笑しつつも、あまり喜ばないこともありました。

    けれども、「私はトランプの時代が終ったとはまったく思っていません」といふ明言と、それにつづく「トランプは保守の思想がしっかり身についている指導者です。素朴な家族主義、伝統と信仰への信頼、初め分からなかったのですが、いざというときにはっきり示された軍事力への傾斜、しかし彼は戦争嫌いで、一方軍は彼を最も信頼しているという逆説、小さな政府という理念とそれに見合った減税政策、オバマやバイデンには出来なかった徹底的な反中国政策、メキシコとの国境の壁の具体的なリアリズムに現われた確信と実行力、北朝鮮に単身乗り込んだ勇気ある人間力・・・」といふセンテンスには、やはり、さう評價すべきなのだと説得された。ボルトン囘顧録などにより、トランプの資質にはほんの少しながら懷疑的になつてゐましたが。

    西尾先生が「斷乎高市早苗氏を支持する」とおつしやつても、肝腎の高市さんが、自身もあれほど深く關はつた安倍賣國政治について、殆ど總括してゐない以上、俄かに同調することはできませんが、トランプについては・・・。

    「オバマは八年間の大統領の立場を利用し、六千~八千人の体制順応派を造り、行政府の高級官僚、裁判所の判事、警察の幹部、目立つ政治家を手なづけ、今の左翼全体主義に導き、アメリカ社会を牛耳りました。彼らが司法省を抑え、FBIを支配し、今やりたい放題に振舞っています」ーーアメリカ社會・支配構造の變質とはよく聞きますが、そんなことも行はれてきたのですね。

    「大統領選挙は目も当てられない不正まみれだと日本のユーチューブで言葉の限りを尽くして罵っていたケント・ギルバートさんが、ある日突然同じメディアで選挙に不正はありませんでした、バイデン当選を認めることこそがアメリカ民主主義ですと言い出したとき、私は腰を抜かさんばかりにびっくりしました」ーーこれは先生がウブに過ぎるのではないでせうか。私は同じ場面を視聽しましたが、少しも驚かず、苦笑しただけでした。

    彼の講演を聞いたことがあるが、オリジナルな内容は一つもなく、すべて、どこかで、誰かが言つたことの斷片を繋ぎ合はせただけです。それも、安倍シンパ程度の人々が喜びさうなことばかり。「日本といふ國・社會は、外國人でも、眞面目に行動する者にはチャンスを呉れる」と、彼は言つたことがあり、これも笑はざるを得ませんでした。そりや、さうでせう、日本人の嬉しがることしか言はないのだから。同時に、こんな安つぽいお追從に簡單に乘る同胞が情なくなりました。今度も、「運命への屈伏」とは知りませんでしたが、どこかで情勢が變つたので、ケントさん拔け目なく、それに合はせたなと可笑しくなりました。

    古森義久さんも掌を返したとは知りませんでした。この人は、嘗て私が最も尊敬した記者の一人で、サイゴン陷落(當時は毎日新聞)や、産經北京支局長になる前後の活躍(端倪すべからざる取材力と鋭い分析力など)には瞠目してゐました。4~5年前、古森さんと同年輩の石川壯太郎さん(産經で外信部長や論説委員を務めた)への年賀状に「古森記者の筆力、ずゐぶん衰へましたね」と書きました。これは實感です。そして、古森さんは生活の本據がアメリカにあり、婦人が米人のやうですから、「屈伏」とまで言へるかはともかく、抵抗力が落ちることは、大いにありさうです。自分が氣づかなかつたから言ふわけではありませんが、西尾先生の
    分析、當然ながら、鋭いですね。

    「トランプを苦しめたポイント」三つ。

    「連邦最高裁判所の徹底した無責任、逃げの姿勢」ーー斷片的には聞いてゐましたが、そこまできましたか。

    「日本国民は今ここにきてアメリカの民主主義をもはや全く認められないと宣言すべきです。多数決の原則すら公正にに運営できない国は民主国家とすらいえない。否、法治国家とすらいえないのかもしれません」ーーうーん、お言葉に頷きつつも、腹の底まで納つたとは言へません。具體的な事實を少々勉強させて下さい。

    「ペンスの裏切り」ーーこれは謎ですね。嘗て「反中國・反共産主義の名演説」に感服された西尾先生の力強い論考に共感・感動した私は、奮ひ立ち、その心持をここに記したりしました。大統領選擧の大團圓1月6日には、ペンスがどう出るか、固唾を呑んで見守りました。そして、州の認定を拒否しなかつた時、それは「身を護る」ためだつたかもしれないが、私は當時、ペンスが眞劍に、あらゆる事實を考慮・檢討した結果、拒否に値ひするほどの不正があつたとは言へないと、「公平に」判斷したのではと考へ、それなら、無念ではあるが、諦めるしかないといふ氣になりました。前の「名演説」により、彼の人格まで信じたくなつてゐたのです。ペンスの福音派らしい、生眞面目にして思ひつめたやうな表情が目に泛びました。

    「彼の認定拒否は神の与え給うた千年に一度の信徒としてなし得る信仰の力の見せ所だ」と中川牧師が言つたのですね。信徒ならざる私にも、それはよく理解できます。ペンスの「ユダの辨明」を先生も御存じない由。眞相はいづこに?ペンスの胸中如何に?

    「アメリカの権力構造が変動し、ホワイトハウスの上位に『超権力』が存在するらしいことは、かねてディープステートの名で言われ、日本では馬淵睦夫さんが早くから指摘して周知され、『establishment』という名もあります」「馬淵さんの先見の明の功績はたたえられるべきだと私は思います」ーーさうかもしれませんが、私にはよく理解できません。のみならず、先般、渡邊望さんとのやり取りで申したとほり、概して、馬淵説は面白いが、論證がなされてゐないことが多く、私は信用してゐません。西尾先生も「私には馬淵さんの言う政治権力の実態は今ひとつ明らかにならないのです」とおつしやいます。

    とすると、ここは渡邊望さんに御登場いただくべきではないでせうか。渡邊さん、如何でせう、馬淵説の意味する「超權力」の實態、もしくは、本當にそんなものがあるのか、あるいは、馬淵説の曖昧・不完全さ、欺瞞性など(があれば)を解説していただけないでせうか。

    と渡邊大先生にお願ひすれば、私がこれ以上、「それは知らなかつた」だの、「かう考へるべきか」だのと無意味なことを書き續けることは無駄です。

    最後に、西尾先生の次のお言葉に、學び、共感したことを申して、締めにします。
    「大切なのは、自分の立場や姿勢を固定せず、現実の変化に当意即妙に対応できる自分に関する自由の感覚への信頼です。今の世界の指導者の中でこの自由を保持している人物がトランプのほかにいるとは私には思えません」

  5. 人間ドックで叱られた帰り道にウイル一月号購入。近年は西尾先生のお名前がなければ正論もハナダも手にしなくなっている。この日もチャルメラ柄二誌が他を睥睨するように堆く平積みされていた。そんなに売れるものなのだろうか。このご時世にちょっと信じられない。
    これほど長く人の耳目を集め、いまなお魅了してやまない西尾先生の奥義を「トランプよ、今一度起ち上がれ!」の結語「大切なのは、自分の立場や姿勢を固定せず、現実の変化に当意即妙に対応できる自分に関する自由の感覚への信頼です」に教わる気がした。
    「トランプは保守の思想がしっかり身についている指導者」
    「小さな政府という理念とそれに見合った減税政策」
    私が「小さな政府」を聞いたのはサッチャリズム、新自由主義台頭の頃だった。サッチャーは渡部昇一氏とも縁のハイエク信奉者で知られるが、ハイエク自身は自分を保守思想の人間とは言ってなかったそうだし、小さな政府を標榜する新自由主義はもともとトロツキストを祖としていると生前西部邁氏から教わった(いまBSで放送中の英国ドラマ「刑事モース~オックスフォード事件簿~でもこの認識が示されている)。なぜ新自由主義が保守政治に警戒なく組み込まれたのか私はいまも理解できそうで出来ずにいる。サッチャーにせよサッチャリズムにせよ日本の保守言論界でほぼ無批判のまま今日に至っていることも不思議でならない。
    しかも日本の保守派といわれる一部、例えば九大大学院の施光恒氏のように大変優れていると思える人でさえ、マイケル・リンド『新しい階級闘争』の監訳をもって「トランプはグローバル派と戦うナショナル派」と従来の自説を補強してしまっている。トランプ支持者に不遇の白人階層が多いというだけでトランプを「ナショナル派」と見てしまうのは、施氏の夢想する庶民の崩壊、貧困とはまた別な庶民の手のつけられない疲弊、やりきれなさをご存じないというか、少しお育ちがよ過ぎるというか、あるいはそれ故か肩入れが過ぎる気がするし、分断というけれど、そもそもアメリカは最初からひとつにまとまった国だったのだろうかといういまさらめいた疑念もわく。施氏の師にあたる西部氏はアメリカを「歴史なき人工国家」と評していた。「(稲田)ともみよ、日本のサッチャーたれ」「トランプはナショナル派」こんなナイーヴさで外つ国の政治を「正確に分析」してみせることなど果たしてできるのかどうか。
    バイデンはむろん、トランプにも肩入れできないのは、米国大統領がナショナル派だろうがグローバル派だろうがいずれがなってもいまの日本にとっては脅威でしかないということもあるが、先生も触れておられた昨年1月の議事堂襲撃の件が個人的にちょっと面白くないからだ。ホワイトハウスの近くに集結した数千人の支持者を前にトランプが「勝ったのは自分たちで、しかも大勝利だった」「選挙は盗まれている。盗みをやめさせよう」と演説した気持ちはわかる。「議事堂に向かって行進しよう」と呼びかけた気持ちもわかる。だが「自分も一緒に行進する」と言っておきながらトランプ本人が行進しなかったというのはまったくいただけない。「トムとジェリー」のような幼児向けですら「騎士は勇敢であるべし」と説いているのに。
    例のイーロン・マスク氏がツイッター社を買収して以降、それまでリベラル派の利用が多かったツイッターで共和党トランプ支持者の利用急伸をみせていると、ジ・エコノミストが先月末に報じていた。「共和党議員たちは買収後の4日間で47万人のフォロワーを獲得した」「Qアノンと繋がりのある共和党ローレンス・ボーバードのアクセス数が5%伸びた」「マスク氏による買収後、無記名の民族差別的な投稿が1300%も増加した」ツイッター利用に関するこれらの変化がこのたびの中間選挙で影響があったのかどうか、先生の論考を読みながら興味をもった。
    馬淵睦夫氏に対する先生の評価は、本文270頁で先生がいみじくも語られた理由から、賛成いたしかねます。

  6. 遅ればせながら、西尾先生の「wiLL」での論考、拝読しました。ご病状が一時期お悪いと聞いていましたが、文章家としての西尾先生は少しも、「あ、やっぱり年齢が·····」「あ、やっぱりご病気が·····」というものが感じられない。これは驚きに値することだ、とまず言っておきたいと思います。

    私は戦前の作家では永井荷風を、戦後派作家では(政治的には左派でしたが)埴谷雄高を非常に好んでいました(好んでいます)これは、両者が、思想や観念の面とは別次元の「文章家」だからに他なりません。「〜節」というものに相応しいものをもっているのがこの二人の作家なのですが、この両名とも、ある時期から、老いと(病もたぶんにあわせて)「あ、やっぱり·····」と思わせるようなトーンダウン、もっと露骨に言わせれば「魂の抜け殻」みたいなものを感じさせる文章の残念な変化がはっきりとしてしまう。しかし、西尾幹二という文章家にこれはまったくない。「wiLL」の他のずっと若い面々とは比較にならない文章家が一人、未だに健在だ、と私ははっきり感じています。

    だからこそ、なのですが、その文章の明晰さの中にある思想観念の内実に、いくつかの違和感をおぼえたこともはっきり記したいとも思います。

    まず、さすがに西尾先生は慎重を欠いてはいらっしゃらないものの、馬渕さんに「先見の明」があるという評価についてです。DSなるユダヤ超権力集団の存在、これは基本的にまったくの幻想で、馬渕さんは欧米の反シオニズム陰謀論を、オカルティズムのレベルでなく、元外交官氏が大真面目に説いた、ということに「真新しさ」があるにすぎない、ということが言えるのではないかと思います。

    たとえば、「陰謀」というのは政治歴史上、どの時代にもある。ロシア革命でボリシェヴィキの最高幹部17名のうち4名がツァーリのスパイだったという話は有名ですが、にもかかわらずなぜロシア革命が成功したのか、といえば、「歴史の流れ」があったからで、陰謀が歴史を変えらるのはせいぜい2割が限度といったところでしょう。しかし反シオニズムや黄禍論にみられるように、陰謀論がプロパガンダになると話は違ってくる。「陰謀論という陰謀」が政治や文筆で妙な人気をもってきてしまう。こうした歴史原則に無警戒な馬渕さんのどの本も、単純な数学式のように答えが決まっているものばかりです。だからたとえば、馬渕さんの親ロシア主義=反シオニズムは、「北朝鮮とロシアの蜜月」という応用変数を説明できない。このあいだもインターネット動画で「北朝鮮のミサイル」問題を「何かのメッセージですね、わかりますね、皆さん」とお茶を濁した表現でいわれていましたが、いったい何の「メッセージ」なのか、はっきり答えほしいものです。だいたい、陰謀と世界支配の超権力を目指している(かもしれない)のはユダヤ人だけではない。ゲルマン陰謀論も漢民族陰謀論もキリスト教文化陰謀論もあるべきです。

    加えてさらに厳しい言い方になってしまいますが、馬渕さんは文化論の素養がほとんどない。あれば偉い、というものではないですが、しかしあれほど語られるユダヤ人が、いったいどういう文化論的性格を有しているのか、ほとんど関心がないようです。たとえばユダヤ人は、科学者や哲学者は多いが、音楽の分野になると少なくなり(マーラー、メンデルスゾーン、ブラームスくらい)画家になるとほとんどいなくなります。代わりに画商は大半がユダヤ系で、だから画家志望のヒトラーはユダヤ画商に痛い目にあったり、流行画風の操作という「陰謀」はユダヤ人はなかなか得意です。だが芸術全体を操作する陰謀には現実的には発展しない。なぜかというと、ユダヤ人は、宗教的な形で一見強固に存在する用にみえる集団主義がなかなか存在しないときが多いからです。ユダヤ人個々上も下も相当に個人主義的です。当たり前のことで、金融や商売で、宗教で一致団結しすぎていたら儲けにならない。この点、馬渕さんはどう考えているのでしょうか。ユダヤ陰謀論者お得意のフリーメイソンもイルミナティも別にユダヤ人でなくても入会可能です(もちろん日本人も)ちなみに、馬渕さんはロシア文化も文学もまったくといっていいほど無関心です。これも知っているから偉い、ではなく、知っていれば、プーチンやゼレンスキーの行動や思念への有効な分析になるために必要なのではないか、と私は思うのです。

    2020年のアメリカ大統領選挙に不正があったことは私も同意で、これは2000年のアメリカ大統領選挙の謎めいた結論以上の問題だったといってよいと思います。しかし、アメリカの裁判所機構に正義を期待することは、アメリカ司法の歴史からしてほとんどできない、というのが私の思うところです。最高裁判所が進化論教育を憲法違反と断じていることはその象徴的なあらわれですが(戦前日本で天照大御神の実在性を大審院が判断したことがあったでしょうか)下級審のレベルになれば、めちゃくちゃな判決(支離滅裂な立法をそのままあてはめるため)が多いのは司法の比較史に詳しい人物ならよく知られていることであり、だから日本でも刑事法や民事法の専門家はよほどのことがない限り、アメリカの司法や判決の研究などしません。法学の世界で笑いものになりかねないからです。ワシントンは「正直は最良の武器」といいましたが、初代大統領からしてこんな最大の虚偽をいうアメリカは、ある意味、建国時から変わっていないといってよいでしょう。近代しか存在しないアメリカは、多くの面においてもともと全体主義国家であり、古代や中世の鍛錬がないぶん、想像できないような幼稚な世界観に大人が支配されている国である。この点は私は先生のアメリカへの期待感めいたものに違和感をおぼえます。

    ペンスの裏切り、というくだりはなかなか興味深い事実指摘です。トランプのまわりでいろんな人間関係が裏切りや陰謀に動いているのはたしかと思います。Qアノンの「Q」の正体もトランプ側近ではないかという説があります。トランプ側近ではなければ入手できない情報や写真を流通させているからです。けれど、「Q」が、「トランプを貶めるための勢力の陰謀者だ」という陰謀論者の御託になると、もうその先は馬渕さんレベルになる。吉本隆明さんが、中核派と革マル派は両派が、相手を陰謀論者といいあってる、もうこれは政治的に両派が精神的に壊滅している証拠だ、といいましたが、ここでお話はボリシェヴィキの最高幹部の話につながるわけです。陰謀なんて、ある程度までなら、相対する立場からいくらでも説明できてしまう。そして全体が見えなくなる、というより見ようとしなくなる。陰謀を見すぎている人は、歴史の流れがわからなくなるのではないでしょうか。陰謀や謀略は「個別」に存在し、それがトランプを追い詰めようとしているのではないでしょうか。

    トランプが保守主義的人物という先生の指摘はよくわかります。私自身も彼を支持したい気持ちは強くあります。クリントン、オバマ、バイデンなどため息ばかりつかせる大統領より桁違いによいし、同じ共和党大統領でも中国とズブズブだったブッシュなどとも比べものにならない。しかしアメリカで「保守の人」というのは他国にはない不可解さ、困難さといったことがいろいろある。西尾先生にはもちろん釈迦に説法ですが、西尾論文の読者はこのことを見逃してはいけないと(お節介に)に思います。

    たとえば全米フラットアース協会、という組織があります。世界は平面だ、という、過激を通り越して、古代空想的な主張をしている団体です。地球の天体写真や世界地図は、すべてNASAの陰謀と公然といっている。驚くなかれ600万人が加盟しているこの団体は、大半が共和党系、右か左かといわれれば「右」、保守か革新かといわれれば「保守」に属する面々です。アメリカで保守陣営に属する、ということはこうした、はっきりいって原始人的な陰謀論者さの面々も束ねないといけないことになる。つまり支持を受けなくてはならない振る舞いや言動も必要となる。トランプのような世界普遍的な意味で保守主義的人物が指導者でありつづけるのがいかに困難か、ということがいえる。ここは日本の人々がよくおさえておく必要があることだと思います。

    短文の最後に、先生の、日本のメディアがアメリカの左翼全体主義的なメディアの垂れ流しにしか過ぎない、という指摘について。私は完全に同意です。同意すると同時に、日本に現在、一部に猛烈に流行している陰謀論(ワクチン陰謀論、ウクライナ陰謀論など)は、フラットアース協会など陰謀論の天国アメリカに由来なもののたれ流しを真に受けているものとしてメディアとほとんど同列だと思います。たとえば、UFO宇宙人の99%はなぜかアメリカにあらわれる。「宇宙人陰謀論」のなせる業です。例によってこれはアメリカの右派からながらく発信されてきている。ゆえに私はトランプはまずまず信頼に値するけれども、信頼に値すするが故に、アメリカというもともとあまりに異常なものを国の右派的なものに秘めている国では、孤立と後退を余儀なくされるのではないか、とあまり期待をせずに見守っている次第です。

    1. 渡邊 樣

      馬淵説にたいする御批判を興味深く拜讀、安心致しました。
      DC存在説、「まったくの幻想」で、「馬渕さんは欧米の反シオニズム陰謀論を」、「元外交官氏が大真面目に説いた、ということに『真新しさ』があるにすぎない」とは、冱え切つた評語。痛快にして、我が意を得ました。

      西尾先生が「馬淵さんの先見の明の功績はたたえられるべきだと私は思います」とされながらも、「私には馬淵さんの言う政治権力の実態は今ひとつ明らかにならないのです」とおつしやるのは、馬淵説の胡散臭さを嗅ぎ取られてのことではないでせうか。

      「歴史原則に無警戒な馬渕さんのどの本も、単純な数学式のように答えが決まっているものばかりです。だからたとえば、馬渕さんの親ロシア主義=反シオニズムは、『北朝鮮とロシアの蜜月』という応用変数を説明できない。このあいだもインターネット動画で『北朝鮮のミサイル』問題を『何かのメッセージですね、わかりますね、皆さん』とお茶を濁した表現でいわれていましたが、いったい何の『メッセージ』なのか、はっきり答えてほしいものです」
      ーーとは嚴しい!しかし、馬淵さんの本質をピタリと言ひ當ててをられる。馬淵さん、グーの音も出ないでせう。

      私は馬淵さんの文章は讀んだことがありませんが、youtubeでは時折接します。前に申したとほり、坦々塾ではかなり身近かにゐました。馬淵さんの話し方の特徴は、あまり押しつけがましくなく、ふはふはとソフトに、あるいは、チョロッとワンフレーズで持ちかけてくることでせう。だからこちらも、ついうかうかと乘つかつてしまふことが多いのです。

      坦々塾で「今後は、日本・ロシア・北朝鮮VS米・中・韓といふ組み合せに變へるべきだ」といふ馬淵説に、私が不用意に拍手してしまひ、あとで思ひ出したら、なんのことだか分らなくなつたのは、その典型例でせう。あれを高飛車に、強面で言はれたら、いくら私がとろくても、即座に、なんの冗談?と反撥を感じた筈です。 ”わかりますね、皆さん”とは、なんとも、うまいところを捉へられましたね。渡邊さんは、さういふ點でも天才的で、その場が彷彿とします。私はしばし、笑ひが止まりませんでした。それを、なんのことか、「はっきり答えほしい」と詰め寄られのでは、馬淵さんとしては立つ瀬がないでせう。

      馬淵説法は、詐欺師・ペテン師の手口そのものですね。坦々塾でも、O氏、 N氏などは馬淵さんのことがお好きのやうですが、それは反ユダヤ主義といふイデオロギーの一致ゆゑではなく、詐欺の誤魔化しが見拔けないせゐだらうと、私は見てゐます。

      「馬渕さんは文化論の素養がほとんどない」「ユダヤ人が、いったいどういう文化論的性格を有しているのか、ほとんど関心がない」「ユダヤ人個々上も下も相当に個人主義的です。当たり前のことで、金融や商売で、宗教で一致団結しすぎていたら儲けにならない。この点、馬渕さんはどう考えているのでしょうか」。「馬渕さんはロシア文化も文学もまったくといっていいほど無関心です」「プーチンやゼレンスキーの行動や思念への有効な分析になるために必要なのではないか」
      ーーいやはや、完膚なきまで・・・。反論の餘地は全くありません。1週間くらゐ前でせうか、youtubeで、馬淵さんの話を少しだけ聞きました。メインテーマが何だつたか、忘れましたが、安倍さんに於て最も強調すべきは「外交」であるとして、安倍外交なるものについてレクチャーされました。聞き流しただけですが、そこに馬淵さん獨自の見方は皆無でした。誰かが(または、誰もが)言つたことばかりでした。加瀬英明氏も水島總氏も言つたこと、つまり、「右派大衆や右派言論人」が「編み出しつづけた」、「安倍晋三という『作品』」の切り売りだけです。これは當り前のことですが、ふと氣づいてハッとしたのは、馬淵さんがプロの外交官、加瀬氏はプロの外交評論家!それが、どこかのジャンヌダルクさん竝み
      の安倍提燈とは!これでは、日本の外交は・・・と暗澹たる氣分になりかけて、今ごろ何を改めて・・・と自分でも呆れました。

      「アメリカの裁判所機構に正義を期待することは、アメリカ司法の歴史からしてほとんどできない」、「めちゃくちゃな判決(支離滅裂な立法をそのままあてはめるため)が多いのは司法の比較史に詳しい人物ならよく知られていることであり、だから日本でも刑事法や民事法の専門家はよほどのことがない限り、アメリカの司法や判決の研究などしません。法学の世界で笑いものになりかねないからです」
      ーーさうなのですか。法學なぞに全く縁のない私は知りませんでした。以後、さやう認識いたします。その點、「先生のアメリカへの期待感めいたもの」があるでせうか。私には、さうは感じられず、ザッと讀み返してみましたが、やはり、それらしいお言葉は見つかりませんでした。すみません、決して先生を贔屓してゐるわけではないのですが。

      「日本のメディアがアメリカの左翼全体主義的なメディアの垂れ流しにしか過ぎない」とは、先生と渡邊さんと、完全に同意見ですね。それとは關係ないかもしれませんが、私は20年位前まで、アメリカ人と、日本語と英語の教へつこをしました。約10年間、相手は3人入れ替はりましたが、アメリカ人は皆進歩的(progressive)だといふ印象があります。いづれも、英語の專門家たる姉の紹介で、イデオロギー的に偏つた人選とは思はれず、ただの偶然かもしれませんが。

      私が日本語の教材に使つたのは、常に、竹山道雄の「昭和の精神史」でしたが、相手が私のために用意したのは ”JAPAN’S EMERGENCE AS A MODERN STATE:Political and Economic Problems of the Meiji Period〈Norman,E.Herbert〉”を初め、あちらの方角のものばかり。ある時、私のcounterpartと、アメリカから遊びに來た、その友人と三人で旅行をしましたが、counterpart の、友人に對して曰く「彼(即ち池田)ほど、conservative な日本人を自分は知らない」。まあ、極右を持つて自任してゐましたから、別に不滿ではなかつたが、イデオロギーのことは分らないものだなと感じたことを記憶してゐます。

      つまらないことを竝べて、すみません。貴論をたつぷりと樂しみつつ、多くを學びました。感謝。またお教へを。

      (附記)荷風を耽讀したことでは人後に落ちないつもりですが、前後は忘れましたが、小泉信三が若い頃、やはり荷風に傾倒したことを語つた後、「殘念な事に終戰以來の荷風作品には心を惹かれるものがない。のみならず、其のあるものは私には厭はしい。戰爭中の苦惱は、この老作家の心身を消磨し盡したものであるか。索漠たる心持ちを以て私は『冷笑』『雨瀟々』
      『墨東綺譚』の頃を囘顧するのである」(讀書論)といふ一節に接した際は、自分の讀み方が十分でなかつたと、ガッカリしたことを覺えてゐます。つまり、晩年における變りやうをしかと捉へてゐなかつた。流石に、今では、「魂の抜け殻」みたいになつたことを知つてゐます。中には、梅毒の症状が出たのだといふ説までも・・・。

      しかし、さう辨へた上で、荷風が昭和27年に文化勳章を受けた際のインタヴィウを、肉聲で聽いた(youtubeで聽けます)時は、實にしつかりとしてゐて、嫌みもないのに、度度驚きました。色々と意外なことや思ひ違ひがあるものです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です