憂国忌シンポジウム(三)

 お二人には、西洋観の違いがある。西洋に対する、ヨーロッパに対する見方の違いがある。だからといって福田さんが言っていることを「普遍」と「特殊」というと、誤解を招きます。正確じゃない。日本は「特殊」で、ヨーロッパは「普遍」だ、「普遍」が大事だと福田さんが言っているという、そういう図式は建てたくない。

 そうじゃなくて、外にあるものに対する自己限界みたいなものが、福田さんには非常につよい。それに対して、三島さんには国境の観念がないのです。これは、ある意味ではすごいことです。ある意味では、突き抜けちゃっているんです。

 だから根源的には他者も自分も一つだったかもしれない。天皇に突き抜けていくこの情熱そいうのは、ここで言っていることは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの反対の極のところに出て行ってしまう。そういう意味で天皇が尊いんだから、天皇が自由を縛られても仕方がない。その根源にあるのは、とにかく、お祭りだということです。天皇がなすべきことは、お祭り、お祭りと彼はいう。

 このお祭りというのは、祭祀ということで、今日朝日新聞で、岩井克己さんという編集員で、この方は立派な方ですが、皇室典範のことを問題に出していて、天皇のこの宮中のつまり、23日夜か24日未明にかけて闇に包まれた宮中参殿の紫宸殿で最も重い祭祀の一つのおこなわれるという、この祭祀のお話を新嘗祭、これはお祭りなんですね、この祭りをやる天皇というのが、三島さんの言っている天皇で、これは、普遍でもなければ、特殊でもない。それを突き抜けちゃって、何か外へ出て行こうとするんですね。

 それに対して、福田さんはやはり常識の人です。小林秀雄の言ったような意味での広い意味での常識の人ですから、国家というものを超えるものを意識している。国家のエゴイズムを押さえるとは何かを気にしている。国境観というものがある。その二つの対比を私は、ヨーロッパではなくし次には中国を意識した江戸時代の日本人はどうだったか。そして三島さんに比すべき人として、本居宣長にも国境意識がないということを取り上げてみたい。この話は続けたいと思います。

「憂国忌シンポジウム(三)」への2件のフィードバック

  1. ここまで読み連ねて思います事は、人間がなにかを思うという行為は何に寄って安定するのかと問われているように感じておりました。
    それを現代人なら具体的には家族とか町とかに役割を果たすのかな・・・そう考えるとこの話しは解りやすくなるのかな・・・と思い付いたわけですが、どうやらもっと深い場所に理念があるようですね。
    福田氏も三島氏も詳しく存じ上げているわけではありませんが、三島氏は「仮面の告白」という自分を現し描く演技者であり、福田氏はシェークスピアを翻訳しそれを演じさせる立場と見るのが相場でしょうが、それはあまりにも浅過ぎる観点で、国境概念の有無に至る話だとは、私ら凡人には思いも寄らぬことであります。本居と三島の共通するもの・・・想像するだけでワクワクしますね。

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