都内12月2日店頭発売、地方都市は3日発売
『狂気の首相で日本は大丈夫か』
は政局論ではない。この本は小泉論でもない。今夏の総選挙の研究書でもない。
総選挙は今日の日本人の紛れもない新しい、昨日とすでに変わった顔を示していた。あの狂熱の中に今の、そしてこれからの日本の運命が予示されている。
同じことは再び繰り返されるし、すでに繰り返されてもいる。なぜいち早く気がつかないのか。
小泉首相は来秋やめるからもうどうでもいい、と思う人は考えが足りない。やめないかもしれないし、やめたとしても後遺症は深い。やめてもやめなくても愚かだった日本人の体質は変わらずに残る。
郵政民営化のときはろくに深く考えないで小泉に賛成し、皇室典範改定問題が浮上して小泉はけしからんと、にわかに言い出す保守のおじさんたち、お兄さんたちの何という頼りなさ、浅墓さよ。郵政民営化も、皇室問題も、北朝鮮との国交回復も、憲法案文の歪曲も、自分の在任中だけ増税を逃げるいい加減さも、みんな根は一つである。
小泉氏が知識を持たないことは許されてよい。知識を持たないことに恐怖のないことが許されないのだ。自分は知らないということを知らないことに対し恥を知れ。財政の内情にも、皇室の歴史にも、世界の動向にも無知のまゝ強権を押し通そうとする臆面のなさが問題なのだ。
日本国の総理の選び方に欠陥のあることが判明した。一総理の問題ではない。今の自分と闘わず、明日の自分に課題を先送りする日本国民全体が今、自分の不始末の付けを払わされているのである。
昨日見つけて、ようやく手に入れました。半分くらい読み終わりましたが、なぜ世の中の人に、こんなに簡単な異常事態が理解できないのか?不思議に思っています。
また、いっしょに藤原肇著「小泉純一郎と日本の病理」を買いました。海外在住の左翼傾向の人だと思いますが、左翼から見ても異常なのだなと、意を新たにしました。
わたしが、小泉首相に疑問を持ったのは、就任直後、まだわたしがアメリカに留学中でした。2000年から2003年まで、アメリカにいた人間には、小泉首相のどこに人気があるのか、まったく理解できないのです。田中真紀子氏や高橋尚子選手も、わたしには異常な人気に見えます。
海外を経験していない人間が、日本のマスコミにどっぷり浸かっていると、自らの判断ができなくなってくるようです。わたしは、小泉信者には、日本のニュース報道番組を、数ヶ月断ち、スカパーでCNNやBBCを見ることを勧めています。
この年末年始を利用し、拝読させていただきました。全体的な印象は、以前先生が「日本の政治を語るなら経済にも同時に目を向けるべきだ。我々は今経済に関心を寄せなければならない」と熱く語っていらっしゃった事を思い出しました。ホリエモン騒動と朝日新聞によるNHKの番組問題の提起など、水面下で左翼の臭いがする点を指摘されたあの時期から、先生は日本の経済の歪みを感じ取り、この先日本は最後の・・・いや唯一のと言うべきか・・・砦である「経済」をも堕落させてしまう事に警鐘を鳴らされた。
ところが国民はそれとは全く逆の方向に軸足を置いてしまう。それが昨年夏の総選挙の実体だった。
その後は全てが後の祭となり、皇室問題で慌てるわけだが、依然と体質を変えられない現実が中国による靖国参拝批判への対応に現れていると見るべきだろう。
私はかなりその点で悲観しています。結局これらの問題を日本は独自で解決できない社会を構築してしまったのだろうと。
朝鮮半島や中国が自分たちの国の本当の歴史に立ち向かえないのと同軸で日本のそれは存在していると見るべきでしょう。
これを語りますと批判を呼びそうですが、楽観論よりはましだろうと思っています。何故なら楽観論者は結果的に問題の先送りをしている実体に気付けずにいます。更に厄介なのは自分たちは正しいと信じている点にあると思う。
今私たちに必要なのは、自分を疑う勇気だと思う。朝鮮や中国にそれを要求するのと同等の重さを自分達に課すべきではないか。
何か日本は社会問題の上滑りを繰り返してしまっている。いつまでたっても問題の深層部に突入できない。その原因が近隣諸国や米国からの外圧に起因するのは知られているところだが、もう一つ気付いていないのは、自分達に宿っている「戦後の体質への疑念」の欠如ではないだろうか。
その鎧を私達は脱ぐ勇気が本質的に失われつつある。これを打開する手立ては、近隣諸国への注視と同様の厳しさを自分達にも向けることから始めなければならないと思う。