先ほど、福田恆存氏と三島由紀夫氏の違いに西洋観があるのではないか、前者には国境の観念があるが、三島さんは国境の観念を突き抜けてしまうところがあると、逆にいえば、三島さんには他者としてのヨーロッパというのがあまりないのかもしれないということを申し上げたつもりでございます。
これは、日本が「特殊」で、ヨーロッパは「普遍」だとか、そういう話ではございませんから、誤解のないようにと再度申し上げておきます。
しかし、ヨーロッパを意識する前の日本はどうであったかという問題を、ものすごい大きな尺度で取り上げてみたいと思います。
ともうしますのは、今の時代はヨーロッパ対日本というよりも、中国というものが大きくクローズアップされてきました。「現代に生きていたら三島は何を考えるか、どう考えるか」というのが今回のシンポジウムのテーマですから、中国がこれだけクローズアップされた時代にあって、我々はどう考えるかというと、江戸時代をとり上げてみる必要がある。江戸時代の日本というものは結局中国を意識することでヨーロッパを意識した日本人と対比されるべきであろうと思うからであります。
実は、ヨーロッパを意識する前の日本で、国境を意識させたのは中国の存在であり、そうしたのは日本の儒者達だったということです。日本の儒者達は初めて日本に、日本的なものというものを自覚させたわけであります。中国を他者として認識した。中国は国境観念を日本人に結晶させた。ところが、ここからがものすごいパラドックスに満ちているのです。
その反対に、中国人にはそもそも国境の観念がないのではないか、ということです。つまり、中国の観念の中に、『詩経』のなかに「普天の下王土にあらざるはなし」と、大空の下、どこまで、どこまで行っても、王の土地であって、自分がどんどん膨張して行って天下と一体になってしまうという、そういう考えがあります。それが中国です。広大無辺な地域に住む中国人は、自分が世界の中心だというふうに見なしている、とよく言われますが、それはつまり、他者がいないということであります。中国人には他者がいないということです。
つまり、近代的な意味だけではなく、もともと中国人には国境の観念がないのではないかと思う。自分を限定して認識することがない国民ではないかということを一つの仮説として出してみたいわけです。
ところがさらに、ものすごい逆説的なことなんですが、江戸時代になって中国を学んだ儒者達が、儒学(朱子学)を日本が直輸入したと思った途端に、日本の国家観念が生まれた、ということなんです。
つまり、これは面白い逆説でございまして、林羅山、熊沢蕃山、あるいはまた中江藤樹、山鹿素行などは皆中国の観念を受け入れたかもしれないけれど、「中華の『華』はわが日本なり」と、「我が朝廷こそ中国の華だ」と言い出したのは初期儒学者たちです。
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