年末の銀座(一)

 久し振りに銀座でお酒を飲んだ。8丁目にあるヤナセのベンツのショールーム裏にあるビルの地下一階「ふく留」に行った。文藝春秋の役員の齋藤禎さんが待っていてくれた。小部屋に用意ができていて彼は私に坐るように真中の席を指して、「ここは小泉首相がいつか来て坐った席ですよ。」というので、大笑いになった。

 先客がひとり私を待っていてくれた。先客は作家の佐藤雅美氏である。明治維新を経済的視点でとらえた『大君の通貨』はユニークな金融小説で、「幕末〈円ドル〉戦争」という副題がついている。氏の作品の中で、私が読んでいるのは当時の英国大使オールコックを描いた、この一作だけであるが、よく勉強しなければ書けない堅実な手法の小説である。

 私が『諸君!』11月号に書いた「最後の警告!郵貯解体は財政破綻・ハイパーインフレへの道だ」を佐藤さんは読んで、まさにこの通りだと膝を打ち、齋藤さんとの間で話題になり、ぜひ会いたいと言ってこられたのでご紹介たまわることになった。佐藤さんは私がまだ本にしていない「江戸のダイナミズム」の荻生徂徠の扱い方にむしろより大きな関心をお持ちであることが会ってすぐに分った。

 『諸君!』連載が完結してすでに一年以上経過している「江戸のダイナミズム」についてはどうしているのかと各方面からお叱りをいただいている。首相の悪口を言っている暇があるなら、さっさと徂徠や宣長や契沖や富永仲基を論じたあの本に早く集中しろ、と痺れをきらしている向きから今にわかにお小言をちょうだいしている。目下注をつける作業に没頭中で、まだまだ古書の山との格闘はつづいている。

 佐藤さんは「お酒を飲む前にうかがいたいのですが」と私に向って第一言を投げてこられた。「徂徠の門弟たちをめぐる小説を今書いているのですが、徂徠の思想を西尾さんほど分り易く、読み解いて下さった人はいない。どうやって核心を見抜かれたのですか。」

 さあ困った。私は核心を見抜いていない。第一、テキストを十分に読み切れていない。徂徠のテキストを十分に読める人なんて今日本に何人もいまい。中国人の学者でよく読んでいる人を知っているが、中国文学や中国哲学の専門家ででもないとあの白文には今では簡単に近づけないだろう。

 「『論語徴』を丹念に読みたいのです。誰か先生について、解読してもらわないととても無理ですね。小川環樹の和文書き下しがあるけれど、あれをいくら読んでもよく分かりませんからね。」
 「私は西尾さんが全文読み抜いておられるのだと思っていました。」

 随分痛い処を突いてこられる。
 「徂徠に比べれば宣長の文章は平明で読み易いと思うかもしれないけれど、あれだって現代日本語に訳してはじめて納得がいくんですよ。小林秀雄の『本居宣長』には訳文がついていないですよね。読者の方は引用された原文を読んで分かるんでしょうかね。」

 と、私は鉾先をかわした。
 徂徠にも一部現代語訳があるが、必ずしも納得のいく文章ではない。『論語徴』にはそのような訳文もない。闇につつまれている。あれを読み抜かなければ徂徠は、――日本の儒学は分からない。
 「徂徠は孔子に嫉妬し、孔子を超えようとした反逆者です。日本の知性では類例をみません。そこが私には面白い。」
 「そういう話をもっと聴きたいですね。」と佐藤さん。
 「私は『国民の歴史』で7世紀の日本語のドラマ、中国語と日本語の格闘のドラマを予想しました。7世紀に訓読みという決定的方法が発明された。しかし訓読みは余りに便利すぎるので、永い歳月のうちに習慣化し、中国の古典の正しい読み方では必ずしもなくなった。そこに徂徠が出現した。中国書にもどり、すべてをもう一度白紙にもどした。その内部から宣長の国学が誕生しました。中国語との戦いの内部から日本語が誕生した7世紀のドラマが1000年たって再現された、そう感じているのです。言語ルネサンスのトータルな構造を描きたかったのですが、そもそも私には手にあまる仕事でした。」

「年末の銀座(一)」への4件のフィードバック

  1. 私も、『江戸のダイナミズム』の刊行を心待ちにしている
    一人です。 ニーチェに触れた件りもあり、ワクワクして待っています。 春先に出版の件をお聞きし、今年夏ぐらいには刊行されるとの心証を(勝手に)持っていたのです。確かその折も注を入れるのがたいへんだとおっしゃられていた記憶があります。とりあえず、注なして「諸君」連載文をそのまま纏めて一冊にして頂ければ嬉しいのですが、 西尾先生の御心と出版社次第でしょうか・・・。

  2. >西法太郎さん

    コメント欄を利用して言うのも何ですが、2月号WILLでお名前を見ましたよ。

  3. 「江戸のダイナミズム」の連載を終えたその夜、先生は酒を片手に旧日録にて「めでたく書き終えました。さあ、みんなで祝杯をやりましょう」と、まるで卒論をようやく終わらせた学生の姿でホッとされておられたのを思い出します。
    私はこの時先生の中にまだまだ若さが漲っているのを感じました。こう言い切っては罰が当たりますが、先生もやっぱり人の子なんだなぁと感じました。
    でもその後、表現しがたい恐ろしさと言いますか、何に例えれば良いのか解りませんが、初めて先生の呼吸の乱れを感じたのです。
    つまりは先生を自分の認知する距離感の中に収めることが難しかったのです。
    それを初めて感じたときに、生意気にもこのシリーズの完成本が容易ではないことを予測しました。先生が日本の歴史に真っ正面から臨んだ「国民の歴史」を執筆中は、私達の想像を遥かに越えた苦境の渦中であったのだろうと想像します。
    そして、「江戸のダイナミズム」はそれとパラレルに存在する「国民の学ぶべき歴史」と副題を付けるべき作品となるのではないかと、勝手に期待しておるわけであります。
    この作品への期待感は今年の寒空を一気に熱くする勢いがございます。
    私の大好きなサッカーW杯を担保に入れてでも早急の御完成を期待しております(^O^)/

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