年末の銀座(二)

 そんな話をしているうちに酒はすゝんだ。甕酒といって、竹の柄杓で甕の中から掬って少しづつ盃に移す。私もこの手の酒は寒中にいただいたことがあるが、冷却保存がむつかしい。店のマダムは勿論ずっと冷蔵庫に保管していると仰言る。家庭では冷蔵庫を狭くするといって、家内がいやがるので、私は地下室の書庫の奥に保管するんです、と語った。

 そうこうするうちに人の気配がした。路を間違えて探しあぐねたといって二番目のお客さんがやっと現れた。前早稲田大学総長の奥島孝康氏である。佐藤さんが年末に西尾と会う約束だと話した処、かねてこの方も西尾の年来の愛読者であるから同席したいと齋藤さんに申し入れがあって、私に異論のあろうはずもなく、賑やかな会合は歓迎で、座はいっぺんに江戸時代の思想を離れて、現代のよしなしごとに転じた。

 法律学者の奥島氏は丸顔の明朗豁達、なにごとも腹蔵なく語る気持のいい方である。私より四歳下で、今は早稲田を去られている。在任中は大きな抵抗を排しながら、教授陣から早大出身者を減らす方針を一貫して推進されたそうだ。早大の教授陣の純血比率の高さは自閉的無風状態と競争力の低下、研究成果の下降を招いて、いわゆる「学生一流、教授三流」と陰口を叩かれる土壌を生んできた。私は『日本の教育 ドイツの教育』(1982年)でもこの問題をとり上げている。

 奥島氏の果断な改革については私は予備知識を持たなかったが、よほどの意志がないと実行できない抵抗の壁の厚いテーマである。氏は早大の出身者の占有率はついに5割を切った、という話をされた。そして、東大出身者に入れ替わった。そうなると「早大は東大の植民地ではないのだ、という愛校精神がワッと湧いてきて、大変な苦労ではないですか」と私は言った。

 「東大出身の某私大医学部の教授から聞いたことがあります。余り大きな声ではいえないのでしょうが、自校出身者が5割を超えてから研究レベルが急降下したというのです。私のいた電気通信大学にも同じ問題がありました。偏差値支配の日本の教育体系そのものの歪みの反映なんですね。」

 私は奥島氏はことなかれ主義を徹底して嫌う意志力と行動力とのともに長けた方なのだと拝察した。官僚的タイプから最も遠い方であるに相違ない。にがい現実を認めて、甘い理想を否定するのは、氏が空想家ではなく、実行家だからだと思う。

 西原春夫という早大総長がいた。私が中教審委員であったとき、事実上私が書いた中間報告を彼が愚弄した。テーマは小学生の受験競争、「お受験」の抑制である。ここから変えないと偏差値体制は壊れない。初等教育の公正のために私学の我侭に枠を嵌めるべきだという中教審の思想に対する私学側の反発の、代表をなしたのが西原氏だった。私が週刊文春(1991年1月31日号)で批判を書いた。

 あの事件を覚えている人はもうほとんどいないだろう。論文の題は「西原前早大総長は教育界のフセインだ」だが、これは勿論編集部が勝手につけた題である。それにしても30枚ほどの枚数が許された。10ページはあったろう。齋藤さんは「誰が編集長だったかなァ。週刊はそういうテーマによく10ページも与えたなァ」と不思議がっていた。

 奥島氏は「あの事件はよく覚えていますよ。西原さんが反論を書く、っていうので私が必死で止めたんです。反論を書いたって勝てっこないですよ、と申し上げた。」軍配を私にあげ、内心で快哉を叫んでいたらしい。

 週刊誌上のこの論文は『立ちすくむ日本』
(1994、PHP)という私の単行本に収録されている。

 その一部に次のような文章がある。

 

西原氏よ。よく心して頂きたい。
 私大代表の名において中教審を批判する貴方のどの発言の端々にも、私大全体の問題と早大一校の問題との混同がある。早大は東大に負けていないと自他に言い聞かせる怨念の情、自尊と劣等感の複雑なコンプレックスが、貴方の発言から、日本の教育を国民的見地で考える責任ある視点を奪っている。

 早大総長の補佐役でありながら心秘かに私の論の正当さを見抜いていた奥島氏が、客観的にものを見ることのできる稀有な人物であることをこの一件はよく物語っている。

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