昨4月2日夜、産経の渡辺記者から直接電話があった。昔から友好関係を結んで来た方だけに静かな口調で話し合うことができた。ただ今回に限り一方に偏した報道内容には3月1日付の「院政」云々の憶測記事以来、北海道支部の誤報抗議もあり、言わずもがなの田中上奏文解説もあり、最後の私への名誉毀損をはらむ一行で、意図的な読者誘導は明らかであった。私も黙っているわけにいかなくなった。
渡辺氏を無用に苦しめるつもりはないが、私は前記(二)に記述した通りで、考えを変えることはできない。この後は「貴方とつくる会会長との話し合いになるだけである」と私は答えた。そして、「理事会の確認と異なる誤情報を意図的に貴方に伝えた一人ないし複数の理事の名を貴方は結局は明かさなければならないだろう。さもなければ貴方は自分の立場を維持することができなくなるだろう」と申し上げた。
渡辺氏は情報源に対しては守秘義務がある、の一点張りだったが、これはおかしい。守秘義務とは、身に身体上の危険の及ぶ可能性のある人の秘密を守る、というのが本来の趣旨で、今回のようなケースには当て嵌まらないと私は今申し上げておきたい。
3月に入ってから「つくる会」の周囲には精神的になにか異様なものが漂っている。怪メール、脅迫状、偽情報を用いた新聞利用――などなど余りにも不健全である。「つくる会」がこれからいかに再出発しようとしても、こういうただならぬ空気を抱えた侭で自由で、暢びやかな活動が果してできるのであろうか。私はそれを心配している。
さて、別件であるが『諸君!』5月号の仮名記事の筆者・西岡治秀なるジャーナリストは、私の推定では扶桑社書籍編集部の教科書担当者の真部栄一氏ではないかと考えられる。一昨年の教科書リライト問題において日録にM氏として登場している前後の記述(ここをクリック)※をお読みいただきたい。
また文中のAさんは工藤美代子氏である。工藤氏の名誉のために言っておくが、感情的な意趣晴らしをはらむ間違いだらけの情報内容であった。私に関する見当外れについてはあえていま何も言わない。
全体をよく読むと元事務局長の言い分だけを取材した文章であり、「事務局長の資質」「八木会長の指導力」の問題があると指摘しながら、ほとんど掘り下げないで逃げている。この二点こそ今回の事件の核心であるのに、論点をすり替えて、理事たちの心情をあれこれ憶測するだけの無責任な内容になっている。
それでいて自分の勤務する会社に対し自分を守り、弁護し、個人的に恨みを抱く何人かの人に適当に意趣返しをして、また誰かに肩入れして、会を自分のつごうのいい方向に動かそうとしていて、全体としてまさに「愉快犯」のごとく振舞っているいい気な文章である。
「つくる会」に残った人の中にも少数だが理想を失っていない人がいる。彼らは「事務局長の資質」「八木会長の指導力」に疑問を突きつけてきた。彼らは世間に広くまだ名前を知られていない。彼らがいや気がさして会をやめれば、そのときこそすべての幕が閉じるであろう。
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※ 参考箇所抜粋(過去録・教科書リライトについてより)
①(平成15年7月15日 (二) 重要発言より)
教科書を担当している扶桑社の書籍編集部は、じつは私の一般書籍の出版を引き受け、私がひごろ世話になっている部局でもある。現に同じ時期に『日韓大討論』の製作が進行中で、5月30日付で同書が出版されている。書籍編集部の責任者M氏はPHP時代に『国民の油断』を出版した歴史教科書問題のベテランであり、「つくる会」運動に最初から関わってきた出版サイドの中心人物にほかならない。
彼が問題の所在が何処にあるかを知らぬはずはなく、彼に悪意や変心があるなどとはまったく考えられない。私は彼の人柄をよく知っている。彼は私の永年の盟友である。しかしリライト作業が始まってから以降、「つくる会」の教科書を他の七社の教科書とは異質なものとして際立たせ、主張するのではなく、できるだけ同質のものに近づけようとする平均化への働きかけが、強力に、休みなくわれわれに向けられた。
私はM氏自身さえ気がついていないなにか別の力が目にみえない形で作用していると考え始めていた。採択を成功させるため、という表向きの理由はよく分かっている。私はそこにもうひとつの別の力が介在している、と言っておきたいのである。分かり易くいえば、文部科学省と教科書協会の予測不能な圧力を、扶桑社自身がなんとなく予感し、意識し始めているということである。
しかし、だからといって、今の私の目の前に出されたテキストの第一素案の現物を「これで結構です」と黙って看過すことは私にはできなかった。
②(平成15年7月15日 (三) 重要発言より)
少しでも現場の教員の通念に合わせることで採択してもらいたいという欲求のために、会は本来の目的を見失っています。文部省はページ数の制限を求めていません。教科書協会が文部省との間で話し合ったと称して、ページ数の大よその目度を示しているだけです。ページ数の目度も独禁法では許されない「談合」なのです。すでに市販本を出すなど教科書協会の枠を破って行動してきた「つくる会」の教科書が、今さら教科書協会にすり寄り、その基準に合わせてみたところで、だから採択に有利になるという保証はありません。採択のために、できるだけ世の教科書の外形に自分を合わせたいという編集会議と扶桑社スタッフの気持ちも分らないではありませんが、それは前回の失敗が生み出した心の迷いです。自らの特色、自分のもっている良さを見失ったら、元も子もないのです。
そこで以下私は編集会議と扶桑社スタッフに次のことを要求します。
①五月二十三日付「つくる会FAX通信」が明示した「総ページ数を320ページの現行版より約100ページ減」の方針を改め、削減幅を約20ページ減の程度に修正する。
②本文テキストは表現の平易化、漢字の平仮名化、中学生に不要な知識の削除などを主な改筆作業の課題として、現行教科書の叙述の流れと表現とを可能なかぎり踏襲する。(ガラリと別のイメージを与えるものにしない。)
③現行版のコラムをもう少し整理短縮し(例えば現行二ページの人物コラムを一ページにしたり、コラム「日本語の起源と神話の発生」や「明治維新と教育立国」――これらは私が書いたものですが――などをとり除く等)主なページ削減はそういうところで実行する。
以上はすでに改筆作業の始まる前後に、編集会議のメンバーに、私が文筆で二度、理事会で一度、要請した内容とほぼ同じです。私の要請は三度無視され、その結果、教科書は今のような状態になっています。
③(平成15年7月15日 (三) 重要発言より)
もはや私の力を越えたところですべてが行われております。私は会の理事でもなく、編集委員でもなく、いかなる権限もありません。ただ現行版の代表執筆者として傍らで観察する役割を与えられていると信じ、ここに警告を発し、ご協力をお願いする次第です。
私は現行版の維持にこだわっているのではありません。そうではなく、現行版をいっぺんに解体して一から作り直そうとするということで果たしていいのか。現在リライトを進める編集会議と扶桑社のスタッフに誰もそこまでの権限は与えていないはずです。分量を三分の一も減らせば一から書き直すしかないのです。本のリズムはこわれてしまいます。分量を大幅に減らす方針を扶桑社サイドから出され、会が押し切られたことに最大の原因があるようです。
過去録を読んで、過去に教科書リライトに関してどういう軋轢があり、それが今回のすったもんだの背景をなしていたことも分かりました。
まず、リライトの経緯を読んだ感想を言いますと、教科書を薄くして他社に合わせ、すこしでも採択をめざすか、あるいは初版の精神をあくまで貫いて迎合せず、そのままで主張しつづける、これは戦略としてはどちらもありだと思います。私個人としては、それぞれの原案そのものを見ていないので何とも言えません。
結局、このリライト問題に関しては、教科書監修の主導権が誰にあるのかだと思います。初版に関しては、藤岡・西尾の二枚看板であったのが、第2版では西尾先生が編集会議に加わらなかった分、代わりに扶桑社の発言権が強くなった。しかし、その方向をよしとしない西尾先生の介入により、リ・リライトとなった。先生の介入方法については若干やりすぎという気もしないではありませんが、それが功を奏したことからも分かるように、この時点では、まだ西尾先生に主導権の一部があったということになります。そう他の編集委員も認識していたことになります。その後の経緯の詳細についてはわかりません。
ただし、この一件そのものは、今回の産経新聞記事による誹謗中傷事件とは分けて考えるべきだと思います。なぜなら、産経新聞は扶桑社の出版案内でも社内報でもなく、一般売りされている全国紙だからです。
今回の捏造誹謗事件の要点は、事実報道を旨とする新聞という公器において、一団体や一個人に対して事実とは反する報道を意図的、ないし過失によって行なってしまった。この生じてしまった報道被害に対して、産経新聞はどう対応をとるのかとらないのかということであります。その捏造記事の背景に自社関連会社の利害があったかどうかは、この際関係ないのであります。問われているのは、むしろ産経新聞の新聞としてのクオリティそのものであります。
ここで、また長野県知事の捏造記事事件を例にとるのは、多少いやらしいかもしれませんが、わかりやすいので挙げます。長野県庁ホームページで音声ファイル公開されている知事定例会見をときどきお聴きになっている方はご存じでしょうが、あの記者会見(表現道場)において、朝日新聞も信濃毎日新聞もつねに田中知事に対して敵対的であり、ネチネチとつまらない質問を際限なく繰り返しています。これは朝日も信濃毎日も地元長野県企業から広告をとっているので、地元企業やその代表である県議会と対立する田中知事に間違ってもいい顔はできないからであります。つまり、朝日新聞は本来は田中知事とは利害を異にする会社なのであります。ですから、捏造記事事件においても、田中知事の抗議を受けて記者を処罰するということはしたくはなかったはずですが、やはり公正中立で事実報道に徹する新聞という建て前から、解雇という異例とも思える厳しい処置に踏み切ったわけであります。この際、朝日新聞と田中知事の間にはさまっている利害は関係ありません。むしろ相反するからこそ、ポーズとしても厳しく出ざるをえなかったのです。
ですから、今回の産経新聞・西尾幹二問題に関しても、産経新聞がその子会社である扶桑社と利害を共にするからといって、新聞としてモラルに反する結果となってしまった記事やそれを書いた記者をそのままにしていいということにはなりません。朝日新聞事件からもわかるとおり、そこになんらかの利害の関与が疑われる場合にこそ厳粛に襟を正さなければならないのです。それがまっとうな会社というものです。ましてや、W記者は西尾ブログで抗議されるや、勝手に飛びだしてきて、2ちゃんねらーまがいのウソにウソを重ね、会社の顔に泥を塗った社員なのです。これをそのままにした日にはなんぞ、うちの新聞はどうせ三流紙でありんすから、記者もこんな程度でようござんす、え、うちの記事なんてしょせん扶桑社の出版案内程度のもんでござんす、と自分で言っていることになってしまいます。けれども、こうした事前了解がおそらくは産経新聞上層にはなかっただろうことは、W記者が名指されてもいない段階で、泡を食って飛びだしてき、直接交渉でもみ消しをはかったことからもわかります。よって、当該記者に対しては、なんらかの処罰が産経新聞自身による社内調査によって科される可能性が高いと思われます。そうでなくっちゃなりません。
西尾先生には、つくる会の内紛のような俗な世界を離れ、これからも『国民の歴史』のような世に残る作品を書いてほしいと願うばかりです
管理人様へ
先ほど送ったコメントは私の勘違いに基づくものでした。無視してください。すみません。