続・つくる会顛末記 (六)の1

続・つくる会顛末記

 

(六)の1

 コンピュータ問題(つくる会会員管理システムの保守契約不備をめぐる問題)は、坂本多加雄氏のご死去の当時に端を発します。ご死去は平成14年(2002年)10月29日で、そのころ私は会の財政に疑問を持ちだしていて、11月26日の理事会に「会の財政への疑問」(B4四枚)を単独提出しました。私は普段は議事に参加しませんが、危機信号を発するのが名誉会長の仕事だと思ったからです。

 採択運動の年でもないのに、その年と同じように気前よく予算が組まれ、私の目から見て明らかに浪費ぎみなので、私は思い切って富樫信子公認会計士に事前に質問をぶつけて、自分の目で調べました。専門会計士の計算書は素人目に複雑でスッと頭に入りません。私は大づかみな数字が必要だったのです。

 会費を主体とする会の通常収入はいくらで、家賃・人件費・通信費・支部交付金・「史」発行費などの通常経費はいくらなのか。前年の採択運動に大体いくらかかったのか。臨時収入はどれくらいあったのか。そして前年度の繰越金を含めていまいくらあるのか、等です。

 私は大雑把な分り易い数字説明を求めました。その結果、通常収入は通常経費とほゞトントンで、従って会費収入は会を維持するだけで、運動費はそこから出てこないことが判明しました。つまり、会費収入だけではただなにもしないでじっと坐っていることしかできないのです。

 このことは会員数の減った今はもっと深刻なはずです。「つくる会」に残った理事諸氏はしっかり頭に入れておいて下さい。

 しかし種子島財務担当理事が、預金残高を見て、「まだ大丈夫だ。お金を貯めるのが会の目的ではない。運動に使わなければ意味がない」といって、採択の年でもないのに、通常収入の約半分もの運動費を予算に計上するので、みんな安心しきってお金を使っていました。しかし今言ったように運動費はもう新たな出所がないのです。私はこんな有様ではやがて行き詰まり、次の採択の年に運動費ゼロということになってしまいますよ、と警告し、会は財政破綻で潰れるかもしれない、と言い添えました。

 余談ですが、この年の年末に永田町星陵会館で「坂本多加雄先生を偲ぶ会」が行われ、関係者で会食し、終って二次会の坂本夫人もおられる席で、藤岡氏が何か思い詰めたような顔で、飛びかからんばかりの勢いで「西尾さんは破壊主義者だ!この会を潰そうとしている」と大声で言い出しました。勿論、酒に酔った放談の席です。そのときは八木さんが「破壊主義者はないでしょう。会を大切に思うから心配しておられるのであって、話は反対でしょう。」といなしてくれました。

 藤岡さんには「ジャイアンツは永遠です」の長嶋茂雄と同じく、「つくる会は永遠です」のテーゼに一寸でも抵触する言葉は禁句で、いつもおかしいくらい過剰反応します。子供っぽいとも言えますし、ほゝ笑ましいとも言えますね。

 閑話休題。会の財政資料を個人的に解説して下さった富樫監事が同じころ「先生、こんな事より、はるかに重大な財政問題が会には他にあるんですよ。」と教えてくれたのが、会員管理のコンピュータソフトの取り替えです。ろくな契約も結ばず、1700万円も請求され、おかしいと言って富樫氏がしきりに抗議と警告を重ねているという重大新事件です。

 財政を私が心配しているとき、いきなり1700万円という巨額に驚きました。この小っぽけな会の当時の預金残高の約三分の一でした。たった今、やがて財布の底がつくと心配しているのに、ほかでもない、まさにそのときこんな大きな額が流れ出してしまうというのですから、私が愕然とし、富樫女史から逐一事情を聴取したのはいうまでもありません。「先生、必ず理事会に持ち出して下さいね。」

 コンピュータは私の最も苦手の、手に負えない分野です。文学部出身者の多い、実務に乏しい当会の理事諸氏にとっても完全に未知の世界でした。つまり、彼らも私もみな無知です。宮崎事務局長も同様で、知らぬ世界のことゆえどうして良いか分らなかったという同情すべき一面があります。

 会は発足当初からK君という若いサラリーマンに委託し、ファイルメーカーのソフトを使用して、会員管理システムを作成してもらい、保守管理も委ね、毎月28万円を支払っていました。これが高いのか安いのかは私だけでなく、当時会にいた誰にも分りません。

 先述の藤岡氏のエピソードといい、K君の一件といい、お恥かしいことに会の関係者はことほどさように金のことには疎いのです。種子島氏はだから救世主でした。みなが彼に依頼し切ったのは当然ともいえます。

 問題はK君の素人芸はもうやめて、きちんとした会社に委託してシステム開発と保守を担当してもらおうと考えるようになって以来のことです。私には話してもどうせ分らないと思われていたらしく、事情は全然聞かされていませんでした。そして突然1700万円という数字を打ち明けられて、不安になったのです。

つづく

「続・つくる会顛末記 (六)の1」への10件のフィードバック

  1.  私の訂正・謝罪要求について、議論になっているようですが、どうも事実関係を正確に理解しないままに議論が進んでいるように思います。そこで、すこし詳しく説明をしておきたいと思います。

     今年1月16日の理事会では、執行部会(八木、藤岡、工藤、福田、遠藤)の5人の連名で、宮崎氏の弁明書に対する「反論」が提出されました。ところが、この文書は実際には藤岡氏が起草し、八木氏の反対を強引に押さえ込んで出させたものだったため、当日の八木会長の説明は「しどろもどろ」でした。

     そこで、私が八木氏に質そうとして、「あの、本当にこれ、会長とその他の方が合意して作ったのか、疑問があります。いくつか聞きたいのですが、あの・・・」と言いかけたところ、西尾先生が「失礼じゃないか、署名しているものに対して」と言って、八木氏に対する私の質問を遮ろうとされたのです。

     しかし、私は西尾先生の横槍を無視して、質問を続け、最後にこう付け加えたのです。「なんで名誉会長に失礼だと私がいわれなきゃいけないのかわかりませんよ。だって、ここに名誉会長はいないでしょ。名前が書かれていないのに、何で私が名誉会長に失礼だといわれまければいけないのですか?」
    すると、西尾先生は「一般論として失礼ですよ」と言われたのでした。

     要するに、話はこういうことです。私が「本当にこの文書に同意しているのか」と八木さんに質そうとしたら、西尾先生が「そういう言い方は、署名している八木さんに対して失礼だ」と言って私の発言を遮ろうとされたので、「文書に名前を連ねている副会長さんたちに言われるのなら、まだ話はら分かりますが、文書に名前を連ねていない西尾先生に何故失礼だと言われなければならないのか理由が分からない」と言っただけのことなのです。つまり、もし、この議論において、私の発言が失礼であったかどうかが問題となるにしても、その対象は西尾先生ではなくて、八木氏なのです。

     ちなみに、執行部会や理事会への名誉会長の出席云々という議論は、他の人々の間でありました。その部分はこうです。

    福地惇氏「執行部会というのはあくまでも会長と副会長なんです。執行部会議ですよ、それが執行部会議ですよ、そこに事務局長は陪席するんですよ。」
    伊藤哲夫氏「名誉会長はどうなりますか?」
    藤岡信勝氏「必要に応じて執行部会はいろんな人を入れるんですよ。」
    八木秀次氏「いや、必要に応じて理事を入れるんですよ。」

    伊藤哲夫氏「執行部会には名誉会長は入るんですか?」
    八木秀次「入りません。」
    西尾幹二氏「入りますよ。」
    八木秀次氏「規定上は入りません。」
    西尾幹二氏「私は入りたくないけど入れって怒られた。」
    宮崎正治氏「先生、名誉会長就任の時の話ですけど、先生は責任ある立場に立ちたくないということで理事ははっきりとお断りになられました。理事の一員ではない。ただ執行部会、理事会の要請とか、当時は先生の出たい時に出てよいという非常に特別扱い的な形になっています。執行部会についても先生については出たい時に出てもらう、あるいは執行部が要請して是非出てくださいという時には特別に要請すると。」
    西尾氏「だんだんと出てもらいたくなくなってきてるわけだ。」
    (爆笑)

     これが全てです。つまり、西尾氏は、他の複数の人々が論じたこと(しかも「和やかに」)をすべて、その議論には参加していない私の議論(しかも「紋切り型だった」と)にすり替えて、私を「全共闘的だ」と誹謗したわけです。
     もとろん、人間には記憶違いということはあるものです。しかし、他人の人格に関わるような非難の根拠にするのであれば、事前確認は不可欠です。まして、「そんなことは言っていない」と言われたら、「つくる会」に問い合わせて確認するのが当たり前でしょう。

     ところが、西尾先生は、そのいずれでもなく、相変わらず根拠のない誹謗中傷を続けておられます。これはもはや、単なる勘違いなどという問題ではなく、「全共闘的な神社右翼・宗教右翼」という自らが描いた虚構を守るための確信犯的な言動だと断定せざるを得ません。

     重ねて、訂正と謝罪を要求します。
     

  2. >皆様へ

    現在西尾先生はインターネット利用、電話利用のできない環境にいらっしゃいます。

    コメントを無視しているという風にお受け取りにならないよう、お願い申し上げます。

  3. 本人が見られないんでしょ?

    だったら、余計な説明する必要ないと思うんだけど・・・

    というか、別に見ることができたとしても、他人のペースに合わせる必要はない

    毎日ネットを見なきゃ気がすまない、反応もすぐにないと堪らない人もいりゃ、そうでない人もいる

    センセにしたって、このブログがメインのお仕事なわけじゃないでしょ?

    ま、新田先生を見習いなさいな

    彼は、実に効果的に、自分のペースと書きたいタイミング、順番でしか物事を書いてないよ

    で、新田センセ以外は、発言後は、ある意味音なしの構えだし

    どのタイミングでどう反応するのか、あるいはしないのかは、書く人の専権事項

    別に、細かい変なことに管理人さんが気にしてコメントしなくていい

    ドーンと構えててくださいな

  4. 署名した人は文書の内容に対して責任を負います。
    新田さんの発言は八木さんの責任能力をおとしめています。
    責任能力までを問うのは八木さんに対して失礼であり、
    新田さんが八木さんの説明を「しどろもどろ」と感じたことは
    新田さんの失礼を正当化する理由にはなりません。

  5. 新田さんにおうかがいしたいのですが、
    自分の発言が八木さんに対して「一般論として失礼」だと考えていらっしゃるのですか。
    発言当時は勢いということがあるでしょうから、
    別に失礼でないと感じていらしたかも知れませんが、
    冷静に振り返られて果たしてご自分の発言に反省の余地があるのか否か。
    再び同様の状況におかれたとき同じ言葉を発するつもりがおありか否か。

    西尾さんの叱責の弁に同意することがイロイロ不利である、
    という計算が、失礼ながら新田さんにおありかも知れませんので、
    別にお答えいただかなくても結構ですが、
    沈黙は同意と見なす向きもありましょうし、
    率直にお答えいただくことが新田さんの今後に有利かと存じます。

  6. 悩める西尾ファン,です。そろそろこのHNを変えようかと考えています。

    新田さんの書き込みからは新田さんが全共闘的かどうかは判断しかねます。しかし,八木さんも気の毒だなぁ,という気がしてきましたね。自分の父親くらい年の離れた怖いおじさんたちから絶えず怒鳴りつけられて戦々恐々。おじさんたちの言いなりになれば,今度は「四人組」から裏切りだと見なされるだろうし。

    もちろん,高木さんの言われているとおり,署名した以上は責任が伴うし,それに対して新田さんがどうのこうのというのは八木さんに対して失礼である,というのは論理的には正しいわけです。しかし終始一貫して論理的に行動できる人間などどこにもいないでしょう。

  7. 悩める西尾さんに申し上げたいのですが、
    自分が新田さんに問題があるように思いますのは、
    失礼をおかしたことよりもむしろ失礼を反省していない
    ように見受けられる点なのです。
    この点はご本人から反省の弁が述べられるかどうかにより、
    判定しようと考えております。
    新田さんには八木さんに対する失礼を反省したご様子が見受けられない。
    普通はもっと謙虚になるものだと思うのですが。
    「私の発言が失礼であったかどうかが問題となるにしても」などという、
    こういう言葉が出てくるようではとてもとても。
    つまり自分は新田さんご自身の未来のために、
    新田さんの過去の問題ではなく、
    現時点における反省の有無を問い申し上げているわけです。

  8. 西尾幹二先生>
    お読みになっているかどうか知りませんが、企業の人間をバカにするのはいけませんがかといって過剰に期待するのもいかんです。私はもうすぐ定年ですから、企業での経験は先生より長いですから、先生より一昔も若い私が偉そうにいうことをお許しください。

    よく言うじゃないですか、会社はお神輿だと。神輿の上に載ってワッショイワッショイ気勢を上げる人間もおれば、周りで塩を水をまいて気勢をあげたり、肩を真っ赤にして一所懸命神輿を担ぐ人間もおれば、担ぐふりをして神輿の天秤棒にブラさふがっているだけの人間もいますし、参加するふりをして酒や弁当を食うだけの人間もいるでしょう。そういう点では学者の先生の世界も企業も同じなんだなという印象を持ちました。

    上にいけばいくほど権限が付き固有技術のノウハウだけじゃ駄目で、大事なのは何かというと精神面を含めた健康の維持と、自分で目的設定が出来ることと、善悪の判断が出来ることが重視されます。おそらく学者先生でも科学者でもそうですが、百八つという煩悩を持つ人間なわけです。善悪の判断が出来ないと、判断を行う以前にブレーキを掛けるキーが壊れているのと同じですから、ついやってしまったとかつい後で考えてみると悪いこととはわかっていたという反省が出るだけで終わってしまいます。

    西尾先生は作る会の善悪判断の機構であったのじゃないかと。本当は名誉会長がそんなことをしないでいいのがベストですが、もしかすると作る会はてっくさんが書いていた体質的な欠陥を生じたのかもしれない、それを支えてたのじゃないかとも。

    Ozekiさん>
    まだ見ているかな。
    よかったら一度意見を聞かせてください。

    今回のような論争の主情報源は西尾プログ、新田プログ、藤岡プログ、それと「正論」や「諸君」や「SAPIO」なわけです。そしてそれぞれ読んでみると同じ事を書いているはずなのに違った事が書いてあるわけです。こりゃ「藪の中」だとあきらめる人もいるでしょうし、Ozekiさんのように新田先生は正しいと考えて果敢に論争をいどむ人もいるでしょう。

    このような同じ事実に対して何名もの、それも知識人が違った認識を示すケースは幾らでもあるわけです。誰かが意識的に嘘をいっている場合もありますが、私はそう考えたくありません。それぞれがそれぞれの認識で正しいと考えてやっているだと思いたい。例えば7月号の「正論」の八木先生の書かれたものは騒動の後付で言い訳を書いたような印象がしますが、現時点で八木先生はあのように考えているのでしょう。

    過去の経験から自然科学の経験から仮説や理論を事実で実証するという考え方は妥当であると多くの人は考えているでしょう。事実実証主義とでもいうのでしょうか。しかし現在の「今ここにある危機」とでもいう論争は事実が仮説や理論の裏づけにならないことを示しているように私には思えます。そこでOzekiさんにお聞きしたいのはこういう場合、どのように考えたら解決できるのでしょう。一つの考え方として裁判の比喩をOzekiさんはお使いですが、それがどうして妥当だと判断できるのでしょう。

  9. 機械計算課長さん

    私あてに質問が来ていましたので、そのことに分かる範囲で書き込みます。

    その前に私が理解できなかったことがあります。

    >しかし現在の「今ここにある危機」とでもいう論争は事実が仮説や理論の裏づけにならないことを示しているように私には思えます。

    “現在の「今ここにある危機」とでもいう論争”というのがいったい何を指すのか理解出来ません。

    ですから、”事実が仮説や理論の裏づけにならないことを示している”かどうかについて、私に判断出来ません。

    事実を仮説や理論の裏づけにするとは、私のネット上の言動が何らかの仮説を持ち出し事実でもって裏づけをしようとしていたのを指しているのでしょうか?それが何を意味しているのか私自身特定出来ません。

    >そこでOzekiさんにお聞きしたいのはこういう場合、どのように考えたら解決できるのでしょう。

    ですので、その前の部分が明瞭にならなかったので、この場合、何を解決したいのかが分からないので、どのように解決したらいいのかの答えは出ません。

    機械計算課長さんは、何を解決すべきだと思ったのですか?あるいは、どうなったら良いと考えるのですか?

    >一つの考え方として裁判の比喩をOzekiさんはお使いですが、それがどうして妥当だと判断できるのでしょう。

    魔女裁判と言うのが出てきたので、それに対するコメントとして投稿しただけです。もともと私自身は適切な比喩だとは思っていません。私は単に新田さんが事実に基づく訂正と謝罪を求めること、さらに西尾さんがそれをそのまま続ける以上、その根拠(証拠)を求めることは何ら不当ではないと言いたいだけですから。

  10. Ozekiさんご返事ありがとうございます。

    「今ここにある危機」という意味が理解できないという質問ですが、何か目的や問題意識を持って貴方も私も投稿をしているわけです。そしてOzekiさんはそれを事実で持って実証しようとしているのでしょ。それとも新田先生の書いていることは総て正しいとまでは言わなくても、すくなくとも西尾先生は名誉毀損になるようなことをしているのは自明の真理であるという前提で書いているわけじゃないでしょ。

    そういう前提で私は書いています。どういったらいいのだろう。「藪の中」という言葉を私は使っていますが、その状態を「いまここにある危機」と書いています。

    私の書いた危機という言葉は事実が実証にならないという認識を今回の一連の論争は示しているように思えるという意味で書いているのは前回も書きました。

    Ozekiさんはこの私が指摘した「藪の中」問題意識はないのかもしれません。その問題意識はなくて自分は正義であるという認識があって、だから「今ここにある危機」という言葉を嫌ったのかもしれません。または私が西尾先生に危機が迫っているという意識があって、「今ここにある危機」と書いたと受け取られたのか、またはOzekiさんの論理のほころびを指摘していることを危機と勘違いしたのか、私には想像しか出来ませんが。

高木 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です