八木、藤岡両氏が椛島有三氏を訪問したのは12月14日です。私が得たのは藤岡氏からの間接情報です。氏の記述によると、椛島氏は「どうか『つくる会』の分裂だけは絶対避けてほしい」とくりかえし言っていたそうで、また同時に、「宮崎氏は人的ネットワークの中心なので断ち切らないでほしい」といい、つまり何とか雇っておいてくれの一点張りで、穏やかな言葉の背後に、強い意志が感じられたそうです。「『つくる会』を自分たちの支部みたいに思っている」という感想を藤岡氏は漏らしていました。
じつは彼がそう思う根拠が訪問のわずか三日前、12月11日に起こっていました。これが椛島氏サイドからの圧力の結果なのか、伊藤氏のプッシュによるのかは分りませんが、八木氏が11日(日)夜、「処分はすべて凍結、宮崎氏を事務局長に戻し、来年3月までに鈴木氏に移行する。以上の線で収拾することで会長に一任してほしい」と各副会長への緊急通達を出し、執行部管理以来八木氏の命令で自宅待機させられていた宮崎氏を事務所に戻す突然の決定が打ち出されました。
これに平仄を合わせるかのごとく、12月11日(月)に例の四理事抗議文が出され、一読して衝撃を受けました。しかしこの抗議文と伊藤氏、椛島氏との関係性などは、その時点では、いやそれからしばらくの間もまったく分らず、どこでどうつながっているかは迂闊にも後でだんだん気がつくようになったのでした。
今思うと八木氏を突然動かしたのは、彼を若いときから育てて来た庇護役の伊藤哲夫氏ではなかったか。八木氏は繁く伊藤氏と電話を交していたからです。これは勿論、私の推理です。しかし他方、四人の抗議文は分りません。15日に宮崎氏は「俺の首を切れば全国の神社がつくる会支援から撤退する」と事務局員たちの前で豪語したと記録にあり、彼はとつぜん強気に転じているのです。
このときも私がすぐに椛島氏と会談しておけば、事態は少し違ったかもしれません。しかし私はニュージーランド旅行中で、帰国は13日、私だけでなく他の人も年末で忙しく、心の余裕がありませんでした。椛島氏の方からも働きかけはなく、さしたる重大事と思っていなかったのでしょう。
私はそれから一週間以内に、小堀桂一郎君に電話をして、事情説明をしています。彼は楽天的でした。「日本会議がつくる会を制約するなんてことはないよ。それは多分、若い頃の学生運動のよしみで、古い仲間を守ろうとしているだけだよ。」多分彼の言葉の言う通りでしょう。しかし古い仲間を守るということが道理を超えていて重大なのですから(公私混同になるので)、小堀君も引き入れて、椛島氏とあのとき三者会談を設定すべきでした。私は「名誉会長」としての義務を怠ったのですが、私もじつはさしたる重大事と思っていなかったからでした。
四理事抗議文は内田智、新田均、勝岡寛次、松浦光修の四氏連名で出されて、すでに知られた〈コンピュータ問題の再調査は「東京裁判」のごとき茶番だ〉云々といった例の告発状めいた文章のことですが、私はいきなりこれを会議の席で見て、今まで例のないなにかが始まったと直観しました。
会の中に会派が出来て、一つの要求が出されたのは初めてでした。西部公民グループは「つくる会」の外の勢力でした。『新しい公民教科書』は外の団体への委託でした。内部に一つの囲い込みの「意志」が成立すると、何でもかんでもその「意志」に振り回されてしまいます。これは厄介なことになったと正直このとき以来会の分裂を現実的なことと考えるようになりました。
「会中の会」が生まれると、会はそれを力で排除しない限り、方向舵を失い、「会中の会」に支配されるか、さもなければ元の会が潰れるかもしくは自爆してしまわない限り、「会中の会」を振り払うことができないものです。イデオロギー集団とはそういうものだと本能的に分っていました。
さて、今まで隣りにいた四人がにわかに異邦人に見えたときの感覚は、時間が経つうちにますますはっきりし、分裂にいたる事件の流れの果てに、最初の予感の正しかったことが裏づけられました。
12月の後半から1月にかけて、何が背景にあるのかを事情通に調べてもらいました。私には二人の50歳代の、昭和40年代の保守系学生運動を知る人にご教示いたゞきました。小堀君の先の「学生運動のよしみ」という言葉がヒントになったのです。一人は福田恆存の、もう一人は三島由紀夫の比較的近い所にいた人から聞いたのです。
そして旧「生長の家」系学生運動があの頃あって、転じて今、「日本青年協議会」や「日本政策研究センター」になっていること、四理事のうち三人と宮崎氏がその運動の参加者で、宮崎氏は三人の先輩格であることを知りました。昭和47-48年くらいのことで、彼らももう若い頃の運動を離れて久しく、元の古巣はなくなっているでしょう。
政治運動は離合集散をくりかえしますので、小会派の名前や辿った歴史を概略人に教えられましたが、あまりに入り組んでいて、書けば必ず間違える仕組みですので、関心を持たないようにしています。
「生長の家」という名も、谷口雅春という名も知っていましたが、私はあらゆる宗教の根は同じという万教帰一を説いた世界宗教というような妙な知識しかなく、政治運動もやっていたことは全然知りませんでした。60年安保騒動に反対する積極的役割を果したと後で聴きましたが、私の20代の思い出の中にこの名はありません。皇室尊崇を強く掲げた精神復古運動といわれているようです。
そういえば、「つくる会」四人の「言い出しっぺ」の一人の高橋史朗氏が旧「生長の家」系でしたから、「つくる会」は最初から四分の一は谷口雅春の魂を抱えていたわけです。それはそれでいっこう構いません。様々な経歴と年齢の人々が集って一つになったのですから、会の内部でお互いに限界を守り、他を犯さずに生きる限り、外で他のどんな組織に属していようが、また過去に属していたとしても、なんら咎め立てするべき性格の問題ではありません。
しかしながら、今度という今度は少し違うのではないか、と思いだしました。旧「生長の家」を母胎とする「日本青年協議会」、そしてそこを主軸とした神社本庁その他の数多くの宗教団体・政治団体を兼ねた「日本会議」という名の大きな、きわめて漠たる集合体があり、「つくる会」の地方組織の多くが人脈的にそこと重なっているように観察されます。入り混じってはっきり区別がつきません。それだけにかえって危いのです。
どんな組織も、どんな団体も「独立」が大切なのです。精神の独立が大切で、これをいい加減にすると、精神活動は自由を失い、結局は衰弱していきます。
協力関係にある限りは自由を失うことにはなりません。協力関係にあることと従属関係にあることとは微妙な一線で、はっきり区別がつかないケースが多く、あるとき甘い協力関係の中で、フト気がつくと自由を失っていることがままあります。人事権が失われていて他に介入されているケースはまさにそれに当るでしょう。しかも介入し侵犯する意識が大きい組織の側にないのが普通です。介入され侵犯された側だけが自由を失った痛みを感じるのです。
今度のケースがそれでした。1月16日、私に対し「あなたはなぜここにいる」の新田発言の出る理事会のはるか前すなわち12月初旬に、八木氏は旧「生長の家」系の理事たちと事務局長の側にすり寄っていて、会は事実上あのときすでに分裂していました。八木氏の行動のトータルは彼を育てた伊藤哲夫氏の背後からの強いプッシュがあってのことではなかったかと今私は推理しています。
以上の道筋からいって、会を割って出た八木一派はもし新しい教科書の会を設立するなら、その歴史思想は当然、皇国史観と天皇親政と明治憲法復活をめざすよりラディカルに右傾化した方向に道を見出す以外に理のないことになりましょう。保守系の二つの歴史教科書が生れることは採択の場を活性化させ、悪いことではありません。「つくる会」の教科書はより中道と見なされ、採択にかえって有利になるでしょう。
「自由と民主主義」を脅した小泉選挙の帰結として、「つくる会」の分裂が起こったことは特筆すべき点です。「つくる会」は戦前の体制を理想化し始めた近年の右傾化の価値観からやや距離を保つべきです。どこまでも「自由と民主主義」を小泉型の排他的ファナティシズムから守りつつ、従来の左翼路線をも克服する両睨み、両観念史観批判の方向に教育理念を見出していくべきでしょう。
分裂は政治史の文脈からみて必然であったというべきなのかもしれません。
昨年八月の小泉劇場の際、西尾先生は純粋な思いで保守の保全(正しい表現かどうか解りませんが)を為されました。単純に小泉劇場の馬鹿馬鹿しさに視点を注ぐ行為なのですが、何故かそれを利用しようとする仲間がいることに、私もまずは驚かされたのは事実です。今考えて見ますと、劇場迎合形はどうあれこれで政治が動くことに繋がるなら善しとしようというのが主体になっていたと認識します。
評論家諸氏も当時この事態をどう受け止めるべきか悩んでいたわけですが、それから数ヵ月もしないうちにこの事態は小泉の一人芝居であることを口にしだす諸氏が多く現れ、いったいあの興奮は何だったんだ・・・と語り出す始末でした。普段は先の大戦をやたらと誹謗したり戦術について詳しい知識を得ている方々が、いざこのように悪魔が忍び寄る際には安直に扉を開く決断はどこから生まれるのか不思議でなりませんでした。
その象徴が、小泉の終戦記念日靖国参拝拒否によって露呈しました。
本来なら小泉がそれを為して彼等との約束は果たせる構図であるはずです。
ところがそれが為されない上でもまだ小泉を許せる意識には本当に驚いてしまいましたし、裏切られたと語った方々でさえ、何故それを予測できずに劇場の切符を購入したのか理解に苦しみます。
いったい自称保守と言われる方々は小泉の何に期待しているんでしょう。
私はその思いを西尾先生にメールし、たまたまそれは「狂気の首相で日本は大丈夫か」で匿名で取り上げてくださいました。
私はこのご恩以来、名前は時には公表しても構わないと決断しました。
一般人であっても、発する言葉には責任を持たねばならないと思ったからです。私にとってはそれくらいこの件に関する思いは深かったと言えます。
それがなんとつくる会の内部でも重要な問題点であったことを知り、誠に驚きを隠せません。確かに安倍氏が次期総理になることは、現状から判断して正しい理想であります。しかし、だからといってそのための会であっては存在意義が違ってしまいます。どんなに辛い結果があろうと、会の思想を曲げてまで政治を迎合してはいけないわけです。(実を取る事に固執する恐さを知るべきだと言う理論で捉らえてください)
本来安倍氏の首相実現が会の目的ではないからです。あくまでもそれは二次的産物であるべきで、会の立場としては福田氏の就任にも対応できる忍耐が必要だし、その結果に会の運命を左右されるべきではない。安倍氏は確かに有能ですが、会は彼のサポーターではないのです。
ただ、心情的には理解できますよ。そこまでを否定はしません。大切なのは、仮にどんなに辛い結果になろうが、目的の脇道に安易に足を踏み入れるなと言うことです。また、そうした問題があるならせめて議題として浮上させる通念があるべきではないか。
どうしたって会はボランティアの域を越えられない現実があります。
何故なら宗教ではないからです。踏み込め無い域は必ず伴います。だからこそ確認作業が大事で、そこでの衝突を避けるべきではないと思います。
どんなにしんどい事であっても、逃げる事はできません。感情や思想の温度差は覚悟の上あるべきです。
このせちがない時代、馬鹿なくらいそれを繋げる団体があっても良いじゃないですか。激情な世界を現実に体験し、その踏み台を何かに活かせる活力だってありますよ。
新田氏がいみじくも西尾先生は二十代だ・・・と語りましたが、それくらいに純を見せる場で何が悪いのですか。冷静でありながらも自身の純な部分も大事な要素ですよ。
それに陰りを示した時点で会は分裂して当たり前なんでしょうね。
結果的にはこのような結果もある意味「純」の表れでしょう。あとはいかにどちらが結果を生めるかでしょうら。うまく言えませんが、西尾先生に対して色々文句を語る方は、ご自身の中で西尾先生を勝手に膨らましておられるのではないですか?
それと現実のギャップに戸惑いを感じ、勝手に傷ついていませんか?ある意味西尾先生には迷惑であり、そう思い描いたものがあるなら何故疑問も同様に表現できないのか。
私は偉そうに聞こえるかもしれませんが、諸先生がたからそうしたタフネスを感じれなくなりつつあります。孤独に耐えれない上京したての大学一年生のように映ります。
今回西尾先生が諸先生方に求めているのはその辺の在り方ではないですかね。
同時に私達一般人にもそれは試されているんだと思いますよ。
新田均です。
【1月16日、私に対し「あなたはなぜここにいる」の新田発言の出る理事会】
この記述の証拠をお示し下さい。「つくる会」には録音があるはずですから、簡単なことでしょう。
もしも、証拠が提示できないのならば、訂正と謝罪を要求します。
「とりあえず持ち上げてみたが」
あまり期待した内容ではなかった。。。
つくる会の運動を次につなげる為に、ちゃんと総括するような内容を期待していたのだが。。。
「私心」のためなのか「公を考えての行動」なのか、どちらなのか今ひとつはっきりしないです。。。(--ゞ
再び、泥仕合はやめて(顛末記5-3より続く)
M78さんは「水掛け論をするのが学者の本分」、「闇が明らかにならねば先に進まない」と言われます。
それに一理はあります。
私は西尾さんを学者として尊敬しています。
つくる会を立ち上げたこともすばらしいことでした。
学者として、学問的な議論で仮に水掛け論になってもやむをえないでしょう。
しかし「運動」に関して「水賭け論」を展開するのはふさわしくありません。西尾さんには似合いません。
学者としての「品性」を落とすことになりかねないことを危惧します。
西尾さんは議論している「相手」はよく見えています。しかし失礼ながら、当のご自分は見えていないように思えます。
私はどなたかが投稿された「西尾さんは保守ファナトァシズム fanaticism と戦った」という部分に大いに感銘を受けました。
これで十分です。
水掛け論で「闇が明らかになる」わけはありません。
はじめまして。
私はPazzoと申します。
“Pazzo”は私のニックネームです。イタリア語でクレージーの意味です。
私の母は日本人です。
いま私は日本で日本の歴史と法律を勉強します。
このブログは日本の歴史や考え方の参考になるので見ています。
今は歴史教科書を作る会のトラブルが話されています。
日本人の考え方をみる機会だと思います。
いままでだまって見ていましたが、新田先生の書き方が目についたので、今日はコメントを書きます。
新田先生は西尾先生に言います;無実の証拠を見せなさい。それができなければ謝りなさい。
私たちの世界では昔「魔女裁判」というのがありました。
そこでは審判官が疑われた人に言います;魔女でない証拠を見せなさい。それができなければおまえは魔女だから火あぶりにする。
そしてとても恐ろしいことがおきました。
新田先生のお言葉は魔女裁判の響きがあります。
私はそれをとても嫌います。
へたくそな日本語でごめんなさい。
Pazzoさん、あなたはすこし勘違いしてしまっているようです。
いま、魔女として裁判されているのは、新田という人です。西尾さんではないのです。
魔女である新田さんは、私が魔女だという証拠がありますか?といっているのです。証拠を出すのは簡単なはずだからです、録音があるので。
反対になってしまいましたね。
Pazzo氏へ
新田氏は、「無実の証拠」を要求してはいないでしょう。
「あいつが言ったと断言するが身に覚えがない、言った証拠を呈示しなさい」
といってるわけです。焦らずに読み返してみましょう。
もし西尾氏が新田氏に「言ってない証拠出せ」とか抜かしたら(笑)悪魔の証明ですが、まあ言わないでしょう。
分裂は回避できない。
つくる会の「外部」とは思っていなかった「西部一派」の行動は、反米に凝り固まった似非右翼、形を変えた左翼であると考え、小林よしのり氏による「10代、20代の洗脳」に反対してきたものです。そこで、西部一派と手を切った西尾先生の正しさに、感服していたものです。
今回も、相容れない神道右翼、新興宗教の支持者とは、袂を分かつしかない。運動を広げるためといって、容認していれば、現状の自民党が、公明党におんぶに抱っこの選挙をすることに慣れ、公明党=創価学会の影響力に屈しつつあるように、つくる会の独立性や、本分を見失うことになる。(わたしは、公明党と二党で連立するようになってから、自民党には一切選挙で入れていない)
また、問題は、構造改革至上主義=アメリカの多国籍企業の要求を丸呑みし、日本をアメリカ並みの格差社会、弱肉強食の冷酷な社会に作り変えようとする小泉、竹中派=革新派が、靖国参拝によって、神社右翼を取り込み、共闘していることである。終戦直前に生まれ、学生時代にGHQの大いなる影響による教育を受けた世代である小泉首相は、もはや日本的な保守とはいえない。どう見ても、改革派であり、革新派であり、古い習慣、体制を破壊する革命者である。上からの革命そのものである。それを計画するのが、左翼学生運動に明け暮れた団塊の世代の官僚たちである。いまや官公庁、大学のトップ、大企業のトップさえも、心情左翼、戦後左翼教育の申し子である。小泉構造改革原理主義者とも、手を切るべきである。
新田先生へ
西尾先生に「証拠」の提示を求められておられますが、少し筋違いではないのでしょうか。西尾先生がその場で録音機のスイッチを押されるのを目睹されたというならともかく、多分、先生の御発言が、西尾先生にはそのように聞こえたというだけで、「証拠」など持たれてはいないと思います。つくる会のしかるべき部署に保存されている筈ですから、そちらへ要求されるべきではないのでしようか。
なお、蛇足になりますが、先生が『諸君!』で男系皇位継承論の論陣を張られておられたのには大変感銘を受けました。ただ、論争相手に対し多少礼を失しておられる嫌いがないわけではなかったようにも記憶しております。今回の事態についても色々資料を掲げて我々にも責任の所在が何処にあるか分かり易く説明していただけるのは有難い限りなのですが、そのようなことがないことを願っております。
新田さんの文章に次のようにあります。
>先生は、一月十六日の理事会で「新田理事は『西尾名誉会長はいかなる資格があってこの場にいるのか。
>理事ではないではないか』と紋切り型の追及口調で言いました」と書いておられますが、
>このような事実は存在しません。執行部が出してきた文書について私が質していた時に、
>「あなたの発言は失礼だ」と言った西尾先生に対して、「文書に名前を連ねていない先生に失礼だと
>言われる理由が分かりません」と言っただけです。ここには明確な事実の歪曲があります。
http://nishiokanji.com/blog/2006/05/post_320.html#c3239
自分がこの文章を読んで思いましたのは、仮に新田さんがこの通りの発言をしていたのならば、
「あなたはなぜここにいる」と言ったのと同じではないか、
ということです。
一般的に、失礼なやりとりに触れた年長者がたしなめの言葉を発することは、
一種の義務ですらある、と自分は考えます。
ですから「失礼だ」と言った年長者に対してかのように告げたとすれば、
その年長者がこの場にいること自体がおかしい、という主張になると思います。
「あなたはなぜここにいる」と言われたと受け止めて欲しくないのであれば
そのように受け止められる可能性を十分に排除した言い方をすべきであり、
それが出来ないのであれば発言を控えるべきです。
新田さんが一言一句を比較して「あなたはなぜここにいる」と言った事実はない、
と主張されるのは、自分にはコジツケのように聞こえます。
もし新田さんがコジツケだと思われたくないのでしたら、
年長者が失礼をたしなめる習慣についてどういうように考えておられるのか、
一月十六日の雰囲気はそんな日本の美風といえるようなものではなかったとか、
あるいはそもそもそんな習慣は自分は認めないとか、
説明していただければ幸いです。
自分の発言が他人にどのような印象をもって受け止められるか、それをコントロールすることはできない。この基本的なことを、新田氏が未だに理解していないということでしょう。
言論人としてあまりに幼稚な「クレーム」ではないですか。
西尾さんは偽証の罪
もし、キルドンムさんがそれをいうなら、西尾さんが新田さんに魔女裁判をしていることになりますね。
新田さんに無実を証明しろと言っていることだから。
西尾さんは、新田さんの名誉を著しく傷つける発言をした。「あなたはなぜここにいる」の新田発言の出る理事会というのは、真実でなければ名誉毀損です。これを新田さんはすでに否定している。それの記事の訂正も求めている。
西尾さんは、それに応じないばかりか繰り返している。であれば、それを繰り返す根拠、証拠の提出を求めたということでしょう。しかも、幸い録音というものがあるわけだから、証拠の提出は無理な要求ではない。
ついでながら、高木さんの文も西尾さんがそう受け取っても理解できるという意味なら、私にも理解できないわけではありません。一般的な話としてはあり得るでしょう。しかし、こういう会議では年下とか年上とかよりも、どういうルールで会議が運営され、何を議題として、どんなやり取りがなされたかの文脈で判断しないと失礼だと受け取るのが納得性があったかどうか分かりませんね。それでも、これはどう受け取ったかの問題です。しかし、ここでの問題はそう発言したということになっているわけだから意味合いが違います。
『自分がこの文章を読んで思いましたのは、仮に新田さんがこの通りの発言をしていたのならば、「あなたはなぜここにいる」と言ったのと同じではないか、ということです。
一般的に、失礼なやりとりに触れた年長者がたしなめの言葉を発することは、一種の義務ですらある、と自分は考えます。ですから「失礼だ」と言った年長者に対してかのように告げたとすれば、その年長者がこの場にいること自体がおかしい、という主張になると思います。』
しかし、この西尾さんの文言は、新田さんに対して”なんて礼儀しらずな人間なんだ”というイメージを植えつけることが目的のために述べられて居るとしか見えないわけで、いつまでも放置することは誰であっても出来ないでしょう。これはどうしたって新田さんにとっては名誉毀損なわけですから。つまり西尾さんがやり取りの中で、受けた印象(事実とは違う)を事実と拡大し、新田さんを貶めるために材料として利用していると。
繰り返しますが、これは新田さん対して無実の証明をすべきだとキルドンムさんは言っているのと同じことになり、これなら誹謗、レッテル貼りはいくらでも思いつきでやっていいことになります。
また、もし故意に西尾さんがレッテル貼りをしているとなると、これは偽証の罪です。
Ozekiさんは「高木さんが悪魔の証明をしろと書いている」という命題の証明をしたいのでしょ。悪魔の証明とはご存知だと思うけど
(引用開始)
悪魔の証明(あくまのしょうめい)とは、モノ・行為の存在を巡って、「あること」に比較して「ないこと」を証明することが極めて困難であることを比喩する言葉である。鬼の証明ともいう。後記のようにローマ法に由来する用語であるが、もともとの意味からは変容している。
もっとも、物事の有無とは無関係に、単に証明が極めて困難であること又は不可能であることの比喩として用いる場合もある。
(引用終わり)
いわば高木さんはないことを証明しろと書いていると非難しているのでしょ。それは誤解だと思うぞ。
高木さんの証明したいことは具体的には新田先生が西尾先生に「なぜここにいる」と言った覚えはない。それはテープの記録にあるからだと偽証の罪で非難していることに対して新田先生のような言い方をある雰囲気で言われたら西尾先生が「なぜここにいる」と受け取っても仕方がないよと書いているだけの話でしょ。私もそう思う。新田先生のプログの初めのころを読んでいて幾つかの徳目を引用したうえでその中で先輩を敬う徳を私は基準のひとつにしているとお書きだったけど、すでに西尾先生が「なぜここにいる」と受け取るようなことをやっていながら先輩を敬うもないものだと私も思ったよ。
(余談)
私には出来ないけど西尾先生は50年来の友人のT氏に強い批判を行った。それに対する違和感が私にもあったけど、もしもこれを行わなかったら友人という私的な関係より作る会のトップという公的な関係を優先していなかったことにならないかしら。そして何より思想家の言論の自由、作る会の独立を大事だと基準を明確にして何回も書いているのだから、おかしいと判断したらそれを実行しないと西尾幹二は二重基準だと非難されてもおかしくはないわね。そういう意味では新田先生は始めから自分の手足を縛っているわけで、自縄自縛は仕方がないかもね。勿論新田先生が何より大事なのは「思想家の言論の自由」でもなく「作る会の独立」でもないと考えたら、その点を論破したらいいのだと思うけど。
新田氏が失礼なことを言ったので、西尾先生は失礼だといったのであろう。言葉の正確な言い回しよりも、西尾先生が失礼だといった新田氏の言動や、叱責を新田氏が無視したのはなぜかのほうが問題でしょう。
訂正投稿
高木さんと書きましたが、キルドンムさんの論調も悪魔の証明じゃないですね。投稿する前にキルドンムさんの名前を入れるのを忘れました。失礼しました。
Osaziさんが面白い事をおっしゃるので一言申し上げます。
一般論として、年長者が年少者の発言を封じるなどの目的のために
礼儀作法を口にして責めることはあるわけです。
そのような責めを受けた側がどのように対応するか、
無視するとか、黙るとか、第三者に発言させて議論の本筋に戻させるとか
いろいろなやり方があるわけですが、
単に「あんたから説教されたくない」とつっぱねるのは、
ほとんど反抗期の子供と同レベルなわけです。
仮に西尾さんが礼儀を責めた事実があったとして、
新田さんがご自身の文章で述べられた、ご自身の対応はどうですか。
自分は、あの文章は新田さんのなりすましが新田さんの名誉を傷つける目的なのかと
当初は思ったくらいなのですが。
>高木さんが悪魔の証明をしろと書いている」という命題の証明をしたいのでしょ。
違いますね。高木さんにそんなことを云っていませんね。高木さんに言っているのは、ついでながらと云った後の文面です。
新田さんが、証拠を出してくださいといっているのは、別に不当ではないといっているだけです。
もし、これを新田さんに無実を証明しろというなら、悪魔の証明でしょうと言っているだけです。
なにより、西尾さんは新田さんを礼儀知らずというイメージを植えつけようとして成功したわけだから、新田さんからしたら名誉毀損なのです。現に私もそれを信じましたから。
名誉毀損されても毀損された方に責任があるというのは如何なものか。
>高木さんと書きましたが、キルドンムさんの論調も悪魔の証明じゃないですね。投稿する前にキルドンムさんの名前を入れるのを忘れました。失礼しました。
>新田さんに無実を証明しろと言っていることだから。
新田さんに証明を求める点において、結果として悪魔の証明になる。
>言葉の正確な言い回しよりも、西尾先生が失礼だといった新田氏の言動や、叱責を新田氏が無視したのはなぜかのほうが問題でしょう。
もしそうなら、発言内容を歪曲して「礼儀しらずという人物の印象だけを世間に広める」といった粗雑なやり方でなく、前後の文脈から事実を客観的に記述してほしかったですね。何らかの意図があると判断されても仕方ありません。
西尾さんの新田さんの印象はいくらでも書いていいのですが、歪曲して名誉毀損をしてはいけないと思います。
>一般論として、年長者が年少者の発言を封じるなどの目的のために礼儀作法を口にして責めることはあるわけです。そのような責めを受けた側がどのように対応するか、無視するとか、黙るとか、第三者に発言させて議論の本筋に戻させるとかいろいろなやり方があるわけですが、単に「あんたから説教されたくない」とつっぱねるのは、ほとんど反抗期の子供と同レベルなわけです。
私が云っているのは、西尾さんが新田さんの言動に対してどういう受け取り方をしようとそれはあり得るといったまでです。上記の文面は私が投稿したものと何ら関連性を見つけることが出来ません。
Ozekiさん、一つ確認させて下さい。
新田さんの言い分を聞く前に新田さん礼儀知らず説を信じたのですか。
それはあまりにも新田さんを軽んじた態度ではありませんか。
それとも新田さんの言い分を聞いても、しばらくはそのまま礼儀知らず説を信じていたのですか。
その場合は何がキッカケで礼儀知らず説を信じるのをやめたのですか。
私は西尾さんがそういう根拠のない歪曲した話をする方とは思っていませんでした。何らかの意図を以てイメージを作り上げる手法というものに気づいたのは後になってからです。
私と同じように信じた人は多いと思います、違いますか?西尾さんはその効果を十分知った上で確信犯的にやっていることなのですよ。
高木さん、あなただってそのくらい分かっているのに、私が新田さんの言い分を聞く前にそれを信じた不実を云うわけですね。
新田さん、もし会う機会でもあれば謝りますよ。
高木さんへ
>それとも新田さんの言い分を聞いても、しばらくはそのまま礼儀知らず説を信じていたのですか。その場合は何がキッカケで礼儀知らず説を信じるのをやめたのですか。
新田ブログで初期からコメントしています。そちらを見てください。
今晩わ。
私は勉強と仕事がありますから、インタネトにアクセスできる時間は限られます。
たく先生とozeki先生からご意見がありました。
ありがとうございます。
私の思うことを書きます。
19世紀に日本はドイツから大切な法律の多くを取り入れました。
ドイツはそれより前にイタリアから取り入れました。
たくさんのドイツ人がボロニア大学でローマの法律を学びました。
ローマの法律では自分の権利を求める人がその権利の存在を証明することが必要です。
日本の法律もその決まりを引き継いでいます。
だから謝罪を求める人がいたら、その人が謝罪を求める理由があることを証明しなければなりません。
今回のケイスでは、仮定に録音があるならば、その録音を新田先生が示して西尾先生が謝罪すべき根拠を加えて証明しなければなりません。
録音のような証拠をとるための仕組みも日本の法律はそなえていると学びました。
そうだというのに、このような証明を逆の人に求める事が魔女裁判の響きをもつのです。
私が日本で感じるのは、トラブルに当事者の人が私の書いたような簡単な決まりとちがうことをしばしば言うことです。
そう言うからトラブルが簡単に解決しないのだと思います。
私の日本語は通じるでしょうか。
Ozekiさんは誤解されているようですが、自分は西尾さんは根拠のない発言はなさらないと信じています。
つまり西尾さんにとって礼儀知らずに見える事はあったのでしょうし、
西尾さんにとって「あなたはなぜここにいるのか」と言われた事はあったのだと信じています。
しかし客観的に、たとえば一言一句がその通りであったかはまた別の話ですし、
ましてや西尾さんがどうとらえたからといって、では新田さんはどういう人だと判断するのも
また別の話ではないでしょうか。
自分は新田さんの著作を読んでおり、学者としてマジメに仕事をしているとの印象を持っていました。
ただ新田さんが年長者とのコミュニケーションが得意でいらっしゃるかどうか、
西尾さんが若手のあしらいのお上手な方かあるいはそうでないか、いろいろあると思っています。
ですから一方の側の短い文章をいくつか読んだくらいでは、
「ああ、なんかつくる会の雰囲気はちょっとアレなのかな」ぐらいは思いますが、
とてもとても誰それの人柄はどうとか言えるもんじゃないですよ。
違いますか。
少ない材料で断定するとか行動するとか、そういうことは西尾さんだけで十分。
皆さん頭では分かってると思いますけど、凡人がマネしちゃダメですよ。
そこのところ注意しないと、また誰が何か言ったとき、それをまた簡単に信じてしまいますよ。
もう少し言い足します。
前に私が書いた決まりは訴訟の時に当てはまります。
そして、私は日本の人の大勢は訴訟を嫌うということも学びました。
訴訟でないところでトラブルを解決しようとすると、必ずしも法律の決まりの通りでなくてもよいことがあります。
これを「私的自治の原則」と言います。
では訴訟でないところでトラブルを解決しようとするとどうなるでしょう。
法律の決まりの通りでなくてもよいことになると、声の大きい人、力のある人、しつこい人が思うとおりにできる事になりやすいです。
それだと、なかなか正義が実現できません。
日本の学者先生でその事を本に書いた人もあります。
参考になるでしょうか。
高木さんへ
私が新田さんを信じたことで、私を愚かだと評するのはかまいませんが、ちょっと全体的に論点をずらしていませんかね。
それからついでに云っておきますが、私も新田さんの著書を全然読んでないわけではありません。「現人神」「国家神道」という幻想は読んでいます。力作だと思っています。ですから、西尾さんのブログでこの話を読んだ時は非常に嫌な気分になったことは事実です。
西尾さんは、単に新田さんから受けた印象ということで礼儀知らずを云っていたのではないですよ。そして、それを私が信じたということではないですよ。新田さんの発言とされるものもそこには提示されていて、話が構成されていたわけですから信じたことの合理性はあったと思います。もし、それを疑うのであれば西尾さんをはなから疑っていることになるのではないですか?
>西尾さんにとって「あなたはなぜここにいるのか」と言われた事はあったのだと信じています。
これをあなたは何故信じたのですか?新田さんは否定しているのに。それで私に少ない材料で信じるのはやめなさいと忠告するのですね。支離滅裂ですね。新田さんは、訂正も求めています。名誉毀損に関することですからね。ですので、これは聞き逃すわけには行かないということでしょう。
>少ない材料で断定するとか行動するとか、そういうことは西尾さんだけで十分。皆さん頭では分かってると思いますけど、凡人がマネしちゃダメですよ。
これは西尾さんへの皮肉ですか?
我々凡人には許されないが、西尾さんには少ない材料でも判断することが許される特別がものが付与されているとでも?
>だから謝罪を求める人がいたら、その人が謝罪を求める理由があることを証明しなければなりません。
今回のケイスでは、仮定に録音があるならば、その録音を新田先生が示して西尾先生が謝罪すべき根拠を加えて証明しなければなりません。
あなたの言っていることは、ある人が「Aさんは、泥棒です」と日本中に触れ回ったので、Aさんはそれはまったくのデマだからそういうことを書くのは止めて下さいといったら、Aさんの方で自分が泥棒でないことを証明しなればならないということですね。
泥棒と書いたのを謝罪させるためには、謝罪すべき根拠が必要だということなり、泥棒でないことを証明する必要があるということですか?ドイツの法律は難しいですね。じっと我慢しなければならないということですか。
新田氏の言い分は、あまりにも馬鹿馬鹿しいので、何もいうつもりではなかったが、「魔女裁判」云々の議論の繰り返しを見て思わず一言。
《先生は、一月十六日の理事会で「新田理事は『西尾名誉会長はいかなる資格があってこの場にいるのか。理事ではないではないか』と紋切り型の追及口調で言いました」と書いておられますが、このような事実は存在しません。執行部が出してきた文書について私が質していた時に、
「あなたの発言は失礼だ」と言った西尾先生に対して、「文書に名前を連ねていない先生に失礼だと言われる理由が分かりません」と言っただけです。ここには明確な事実の歪曲があります。》
これを読む限り、高木氏の言われるとおり、「あなたはなぜここにいる」といっているのと同じことである。
新田氏の言っていることが馬鹿馬鹿しいと思うのは、その言語感覚が全く狂っていると思うからである。録音もヘチマもない。
新田氏の主張している自分の発言自体が、十分に礼を失した言い方である。年長者であるとかないとかないとかではなく、最初から敵対的な言い方ではないか。今なお、その敵対的態度に変わりがないのならば、慇懃に訂正謝罪を求めることもないでしょう。
Ozeki先生、素早いお返事をありがとう御座います。
日本の法律もドイツともとは同じです。
でも0zeki先生は「泥棒」の例を言いました。
「泥棒」は犯罪です。
犯罪は刑事の訴訟で証明されるまでは「無罪」が推定されます。
今回新田先生は西尾先生から犯罪のことをいわれていますか。
犯罪を証明するのと、個人同士のトラブルで「言った」とか「言わない」を立証するのは適用される法律のカテゴリーが違います。
そこがOzeki先生の間違いです。
泥棒の例は良くなかったかもしれませんが、新田先生は「礼儀知らず」という犯罪ではないけれど道徳に反したとして名誉を毀損されています。この場合、法律論はともかく実際は大して差はありません。
身に憶えのない新田先生は、訂正と謝罪を当然要求するでしょう。
これは、裁判所の話ではないですよ。
とにかく、西尾先生は新田先生の名誉を毀損していることは明白ですね。名誉毀損するだけの正当な理由というのは、毀損されている相手が否定している証明する必要があると私は考えます。
しかし、裁判になればそこに録音があるのは初めからわかっているわけだからどちらにしても同じことです。
新田さんにしてみれば、それを西尾さんに自発的に認めてもらいたかったということでしょう。
確認するつもりが送信になってしまいました。下記訂正します。
>名誉毀損するだけの正当な理由というのは、毀損されている相手が否定している証明する必要があると私は考えます。
↓
名誉毀損するだけの正当な理由があるというのは、毀損されている相手が否定している以上、毀損している側が証明する必要があると私は考えます。
Pazzoさん、あなたは日本人です。
>だから謝罪を求める人がいたら、その人が謝罪を求める理由があることを証明しなければなりません。
これについては、明白な名誉毀損にたいしての謝罪です。
>今回のケイスでは、仮定に録音があるならば、その録音を新田先生が示して西尾先生が謝罪すべき根拠を加えて証明しなければなりません。
ここが違います。名誉毀損をしても許される理由は西尾さんが示さなければなりません。
>でも0zeki先生は「泥棒」の例を言いました。
>「泥棒」は犯罪です。
>犯罪は刑事の訴訟で証明されるまでは「無罪」が推定されます。
>今回新田先生は西尾先生から犯罪のことをいわれていますか。
>犯罪を証明するのと、個人同士のトラブルで「言った」とか「言わない」を立証するのは適用される法律のカテゴリーが違います。
これ泥棒のことを問題にしているのではないですよ。いま問題にしているのは名誉毀損に関することです。
この場合、泥棒というのは人の名誉を毀損するための一つのパーツにすぎません。泥棒が犯罪であろうと不道徳な言動についてであろうと、名誉を毀損するという点で同じです。
『泥棒の推定無罪』とかは関係ない話です。下記の公益目的の中での名誉毀損の事実の証明は、毀損した側がするのではないですか?
参考:
名誉毀損罪(めいよきそんざい)は刑法230条に規定される罪。公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した場合に成立する。事実の有無、真偽を問わない。ただし、公共の利害に関する事実に関係することを、専ら公益目的で摘示した結果、名誉を毀損するに至った場合には、その事実が真実であると証明できた場合は処罰されない(230条の2第1項)。
少し前の高木様と東埼玉人様の記述に賛同します。
重ねて引用しますが、新田様は
<執行部が出してきた文書について私が質していた時に、「あなたの発言は失礼だ」と言った西尾先生に対して、「文書に名前を連ねていない先生に失礼だと言われる理由が分かりません」と言っただけです。>
と述べておられる訳で、理解出来ないなら「何処が失礼なのか」と、その内容や理由をお聞きになれば良いのに、そうではなく、あなたに言われる筋合いは無い、という意味の返答をされたのでしょう。言葉を封じ排除する姿勢です。そういう意味以外に取り様が無いと思いますが。
西尾先生の書かれた文言の違いを捉えて、訂正、謝罪、とおっしゃるのは理解しかねます。言語感覚の違い、としか言いようがありません。
Ozeki様
<名誉毀損するだけの正当な理由があるというのは、毀損されている相手が否定している以上、毀損している側が証明する必要があると私は考えます。>
私に言わせれば、上記のように新田様御本人がその「正当な理由」を示しておられます。
それにしても新田様もこんな少々の悪者扱いに、こんなに喰らいついて来られるというのも随分と潔癖で器の小さい方なのだな、という感想を持ちます。大局として正しい事をされていれば、それは必ず評価されますよ。
0zeki先生おはようございます。
私はOzeki先生の真剣な態度は立派と思います。
だから私も真剣に答えます。
新田先生は、きちんと事実と理由を示して、西尾先生によって自分の名誉が毀損されていると主張しましたか。
新田先生はそうはしませんでした。
新田先生は西尾先生に、ただ発言の証拠を求めました。
そして西尾先生が証拠を示せなければ謝罪をしなさいと求めました。
(それで私は魔女裁判の響きがあると言いました。)
0zeki先生はそのことを正しく言っていません。
あったことを正しく言わないとトラブルは解決しません。
とても簡単なことです。
Ozeki先生今晩は。
2006年06月08日 00:47の発言に答えます。
Ozeki先生は法律の条文をかきましたからOzeki先生の立場がよく判ります。
でも、Ozeki先生には2つの間違いがあります。
新田先生は西尾先生に謝罪と訂正を求めています。
これは、個人同士のトラブルのカテゴリーに属します。
だから、刑法ではなく民法です。
日本の民法でなら709条です。
西尾先生の行いがその709条に当てはまるかどうかを証明するのは新田先生の側にあります。
でも、Ozeki先生は刑法を言いました。
これがOzeki先生の第1の間違いです。
次のことを考えます。
もしも新田先生が西尾先生を告訴したらどうなりますか。
刑事の事件になります。
そして刑法の適用になります。
その時も新田先生は告訴状を書きます。
告訴状に新田先生は、西尾先生からどんな事をされました、それはどんな罪が当てはまりますから罰してくださいと書かなければなりません。
民法の時と同じように、告訴する人が、起きたことと理由を書いて名誉毀損を受けたと申し立てなければなりません。
Ozeki先生は刑法第230条の2を書きました。
刑法第230条の2は、「公共の利害に関する場合の特例」を言っています。
「公共の利害に関する場合の特例」というのは、名誉毀損に当たるとされる場合でも罰しないときの決まりを書いています。
名誉毀損の証明がないときに特例を当てはめる必要はありません。
名誉毀損の証明がないときに特例を先に言ったことがOzeki先生の第2の間違いです。
あの・・・Pazzoさん
なんだか、すっごくどうでもいいような次元の話って言うか・・・なんでそんなことにこだわるの
今頃になって新田センセのコメントがあったってのも面白いけど、それにこだわるのも不思議
要するに、会議の模様を新田センセが自分で録音してたのか、つくる会の事務員さんから入手したのかは知らないけど、持ってるってことでしょ?
で、新田センセとしては、西尾センセが持ってるかどうかの確認をしたいのかな?
あるいは、持ってなかったとしても、今現在入手ができるかどうかが確かめたい?
いや、かなり穿った見方だけど・・・
新田センセの言動がかもし出す雰囲気と言うか、見受けられる性格を鑑みるに、そのくらいのことを感じてしまう
粘着と言うかなんというか・・・ウザイのよ、要するに
で、それに変な反応を示してるように見受けられるあなたの真意はなーに?
うまく日本語で言いたいことが言えないんだったら、ここにイタリア語でコメントしてみてください
あっしが日本語に直しますから
イタリア語なんだよね?
別に英語でもいいけど
てっく先生今晩は。
てっく先生は私にアドバイスと質問をしました。
ありがとう御座います。
そこで、私はてっく先生にお答えすると同時にいくつかの質問があります。
一度にたくさんのことを聞くのは礼儀に反するかもしれませんが、許してください。
「聞くは一時の恥」とも言いますから。
てっく先生は私の言うことを「どうでもいい次元」で「変な反応」と言いました。
てっく先生の質問に答える前に、最初の質問です。
てっく先生はこのブログの審判ですか?
てっく先生がこのブログの審判ならば、私はてっく先生を審判として尊敬します。
審判は、発言と発言を審判して進行する権利と義務をもちます;サッカーの試合でボクシングが行われないようにします。
その審判が行う重い義務を、私は尊敬します。
そうだとしたら、てっく先生はどんな風に進行しますか?
どんな風に進行するから、私の言うことは「どうでもいい次元」で「変な反応」だと審判しますか?
他の人の言うことはどう審判しますか?
逆のときのことも聞きます。
審判でないとしたらどうなりますか。
私は、てっく先生を私と同じ立場で尊敬します。
でも、てっく先生はきちんとした理由を言わずに、私の言うことは「どうでもいい次元」で「変な反応」と言いました。
これは日本では礼儀正しいですか?
私は、日本の武士が礼儀を大切にすると教わりました。
また、今の日本人は武士の心を忘れている人が多いとも教わりました。
てっく先生はどちらですか?
今度は私が答えます。
てっく先生は私に真意を聞きました。
真意は、「本当の心」という意味ですか。
それなら、私の真意は最初に書いたとおりです;新田先生のお言葉は魔女裁判の響きがあります。私はそれをとても嫌います。
そして質問です。
真意とは上で書いたようなものの他になにか「本当の心」がいるのですか?
また、てっく先生は、どの人にも真意を聞くのですか?
日本の多くの人はこのような場所でそういうことをしますか?
それは礼儀正しいことですか?
ちょっとコメントを書きます。
質問のとき、てっく先生は私に翻訳のことを提供しました。
これはてっく先生の親切なところですし、イタリア語を学んだてっく先生の努力を尊敬します。
ありがとう御座います。
でも私は2つの理由で翻訳の提供を辞退します。
私は日本語のブログに自由に書く権利があります。
それと同時に日本の人に判るように書く義務があります。
他の方に理解できない言語を用いるのはルール違反と思います。
また、私が誰かに翻訳を頼んだ時、彼か彼女が翻訳を間違っても私の義務は許されません。
だから私は私の義務をおこなって日本語を書きます。
これが第1の理由です。
私は専門のことを書くことがあります。
専門の事に詳しくない人が専門の事を翻訳すると、意味が通じなかったり意味が反対になることがしばしばあります。
私はその事を心配します。
また私の信頼する日本の知恵袋が私を助けます。
これが第2の理由です。
もう一つ別のことを書きます。
てっく先生や他の方は私の個人の情報に関心がありますか?
私のような立場の人は数が多くありません。
私の事を多く書くと、私がどこの誰か判りやすいです。
私は家族の安全のことを心配します。
だから、私の個人のことを多く質問されることを望みません。
すみません、最後の質問です。
Ozeki先生は、とても一生懸命新田先生を支持しました。
でも、新田先生はOzeki先生に感謝の言葉を言っていません。
これは礼儀正しいですか?
最後に言います。
私がこのブログで初めて書きましたがいくつかの返事が来ました。
私も返事をしました。
とても勉強になりました。
これからも勉強を望みます。
もう一度てっく先生やOzeki先生や他の方にお礼をします。
長谷川さん、先に送った分二つは意味不明なので出来れば削除していただけると助かります。
—
Pazzoさん
>私たちの世界では昔「魔女裁判」というのがありました。そこでは審判官が疑われた人に言います;魔女でない証拠を見せなさい。それができなければおまえは魔女だから火あぶりにする。そしてとても恐ろしいことがおPきました。新田先生のお言葉は魔女裁判の響きがあります。
魔女裁判というのはもともと比喩、たとえの話ですよね。刑法とか民法といっても魔女裁判と同様たとえの話ですよね。
Pazzoさんの、魔女裁判の比喩で、ちょっと分からないので質問します。
確認したいのですが、Pazzoさんの、”魔女でない証拠を見せなさい”とありますが、”魔女でない証拠”とは何を指すのでしょう?私の理解では、ここでは”魔女でない証拠”とは、”西尾先生が新田先生のことを歪曲して話していない証拠”のことを指しているのですよね。つまり、新田さが事実そのように発言した証拠のことですよね。
それと、魔女裁判の響きの”響き”とはどういう意味でしょう。その”響き”とは”疑いがある”ということですか?また、謝罪と訂正を求めることは、”火あぶりにする”ことですか?もし違っていたら、単に修正して間違いだった、勘違いだった、申し訳ないというような言葉を求めているだけですが、火あぶりにするは比喩としても大げさではないですか。
もちろん、新田先生は、西尾先生が新田先生のことを歪曲して話していたことをもって、”西尾先生を魔女だ”と認定して、文字通り”魔女でない証拠”を求めたわけではないですよね。
お聞きしたいのは、”西尾先生が新田先生のことを歪曲して話していない証拠”を求めることは、”魔女でない証拠”を求めることですか?もしそうなら、”魔女でない証拠”とは何ですか?それと”西尾先生が新田先生のことを歪曲して話していない証拠”はどうして(たとえとしても)同じになるのですか?私には同じには見えません。
新田さんは、西尾さんの言動でひどく侮辱されて社会的に不名誉な状態になったことは誰もが知っています。これが新田さんが訂正と謝罪を求めた理由です。西尾さんは拒否(無視)しました。被害があるのは新田さんです。でも、西尾さんが言っていることが事実だったら、新田さんは仕方ないと思うでしょう。
Pazzoさんは、新田さんが”西尾先生が謝罪すべき根拠を加えて証明しなければなりません。”といいますが、その前に西尾さんが新田さんを侮辱する根拠を示すことが先ではないですか?
『言った言わないの水掛け論だから、証拠なんてない。おれはそう聞いたんだ。それを証拠だせというのは魔女裁判だ』、というのでしょうか?では、西尾さんは何の根拠も無く、思い込みで、そうやって侮辱しているのでしょうか?もちろん根拠はあるはずですよね。自分(新田)に身に覚えが無い侮辱をずっと続けているは、何の根拠があってしているのですか、と聞くことは”魔女でない証拠”を求めることですか?
そうだとしたら、西尾先生は、新田先生を貶める話をするのに何の裏づけも必要ないのですか?
でも、今回のケースでは、西尾さんも新田さんもテープがあることは知っています。それを提出すれば、その時のやりとりははっきりしますね。だから、テープの話も新田さんはしました。そのテープで、話の内容をはっきりさせれば良いだけではないですか。西尾さんが話したことと違っていたら訂正して、謝罪すればいいのです。でも、そのとおりだったら、新田さんが謝るでしょう。
私は、新田さんは西尾さんに魔女でない証拠なんて求めてないと思うのですが、どうでしょう。
Pazzoさんは、西尾さんは新田さんを侮辱する根拠を示す必要がないと考えますか?
Pazzoさんは、西尾さんは訂正、謝罪の要求を無視することに贊成ですか?
Ozeki先生おはようございます。
またOzeki先生のお返事のあったことをうれしく思います。
Ozeki先生は夜も熱心なのですね。
その熱意を尊敬します。
さっそく私からのお返事をします。
最初にOzeki先生は尋ねました;魔女裁判というのはもともと比喩、たとえの話ですよね。刑法とか民法といっても魔女裁判と同様たとえの話ですよね。
私からの答えは。前半は「はい」、後半は「いいえ」です。
「魔女裁判」は昔の話で、私たちの世界の忌まわしい記憶です。
いまこれを適用することはできません。
だから、Ozeki先生の言うとおり、たとえの話でしか存在しません。
「刑法とか民法」は今の世界で通用する決まりです。
個人のトラブルや犯罪に実際に適用されます。
いまの西尾先生と新田先生の間には実際のトラブルが起きていますから、実際の決まりを当てはめるのはたとえ話でも何でもありません。
実務の話です。
ここは私がOzeki先生に質問します。
どうしてOzeki先生は実際の決まりの話をたとえ話と言ったのですか?
どうして実際に適用できない「忌まわしい記憶」と、実際に適用される「いまの決まり」を、同じ「たとえ話」と言ったのですか?
Ozeki先生はいまの決まりを軽視しますか?
この点は私は前にも書きました。
>法律の決まりの通りでなくてもよいことになると、声の大きい人、力のある人、しつこい人が思うとおりにできる事になりやすいです。
>それだと、なかなか正義が実現できません。
~
>Posted by: Pazzo at 2006年06月07日 21:33
次のいくつかのOzeki先生の質問にはまとめて答えます。
いまの法律はは忌まわしい魔女裁判とは全く正反対の原理で働いています。
でも、新田先生はその忌まわしい魔女裁判の原理で証拠と謝罪を求めました。
そこにどんな言い訳をしても自分中心の発言にしかなりません。
忌まわしい原理にのっとった発言をしたことを新田先生はかえりみるべきです。
そして、きちんと今のきまりにのっとって事実と謝罪すべき理由を新田先生の言葉できちんと示すべきです。
西尾先生が答えるかどうかを判断するのはその次のことになります。
それが私の答えの全てです。
今度は私からOzeki先生に質問があります。
私は、いくつかのことをOzeki先生に示しました。
この発言の一番最後に付録として書きます。
でもOzeki先生はその事をどこまで理解したかどうかを言いません。
人と人の対話は、相手の言うことがどこまで判って、どこが判らないというところを言わないと成り立ちません。
どこが判らないからそこを理解しようとするし、相手もそれを手伝うという事をしなければ成立しません。
言葉のキャッチボールのようなものです。
これは世界共通のことではありませんか?
でも、Ozeki先生はつぎつぎにつながりのないことを言います。
Ozeki先生は人と人の対話とかコミュニケーションをどのように理解していますか?
それとも、Ozeki先生は、新田先生を支持するためなら「なりふりをかまわない」のですか?
最後の質問です。
Ozeki先生は新田先生を一生懸命支持しましたが、これにたいして新田先生から感謝の言葉はありましたか?
(ここから下は付録です。)
>0zeki先生はそのことを正しく言っていません。
>あったことを正しく言わないとトラブルは解決しません。
>とても簡単なことです。
>Posted by: Pazzo at 2006年06月08日 06:59
>日本の民法でなら709条です。
>西尾先生の行いがその709条に当てはまるかどうかを証明するのは新田先生の側にあります。
>でも、Ozeki先生は刑法を言いました。
>これがOzeki先生の第1の間違いです。
~
>名誉毀損の証明がないときに特例を当てはめる必要はありません。
>名誉毀損の証明がないときに特例を先に言ったことがOzeki先生の第2の間違いです。
>Posted by: Pazzo at 2006年06月08日 21:07
Pazzoさん
あなたの言っていることは理解しました。
しかし、同意はしません。私は新田先生というより事実を重視しています。
Pazzoさんの早い日本語の上達ぶりには感心しました。これ以上の話を出てこないと判断できますので、この件に関してはこの投稿が最後といたします。後はこれを見た人が判断するでしょう。
がんばってください。
Ozeki先生ありがとうございました。
私はOzeki先生と話してとても勉強することができました。
また、いままで勉強したことを使うことができました。
Ozeki先生が私の書いたことを理解したと言いました。
これは私にとっては嬉しいことです。
Ozeki先生は私の書いたことには同意をしないということを言いました。
これは私にとっては残念なことです。
あと、私に理解できない事が2つあります。
Ozeki先生は言いました;私は新田先生というより事実を重視しています。
Ozeki先生の言葉とこれまで言ったことには矛盾があります。
事実を重視するならば、Ozeki先生は証拠の提示を西尾先生に求めたりせずに自分で調べる事が大事だったと思います。
そうしないで西尾先生に証拠を求めた新田先生を支持するためのことをたくさん言いました。
そのときOzeki先生は、証明されていない「名誉毀損」という「決め付けた事実」に固執していました。
決め付けも、魔女裁判の特色の一つです。
これが私に理解できないことの第1です。
Ozeki先生は言いました;これ以上の話を出てこないと判断できますので、この件に関してはこの投稿が最後といたします。
「これ以上の話を出ない」の意味がよく判りません。
それと、「これ以上の話を出ない」となぜ終わりになるのかが判りません。
これが私に理解できないことの第2です。
判りませんが、このような終わり方は、日本の人のコミュニケーションとしては普通ですか?
そうだとしたら、私も終わりにします。
あと、Ozeki先生は、私の日本語の上達ぶりを褒めました。
Ozeki先生にもう一度お礼をします。
「これ以上の話を出てこないと判断できます」
とは、OZEKI先生の日本語も上達しましたね。
ところでOZEKI先生は、
「先生と呼ぶのはやめてください」とおっしゃらないところをみると、やっぱり「先生」なのですか?
ここで互いに「批判」しあっているように見えて、
「先生」「先生」と互いに呼び合うのは、
『職員室の偽善』のように響いてならないのです。
《いまや「先生」達が「ロビーイスト」として振舞う「つくる会の偽善」》
OZEKI先生! それとも OZEKIさん!
あなた(『様』を点けるべきやいなや)はどちらが座りがよろしいのですか?
>迷宮ぱぞるさま
内容が、ちょっとからかい気味のものですね。
先生と呼ばれることを許容しようとすまいと、どちらでもよいではありませんか。
PazzoさんとOzekiさんのやりとりを読んで感じたことを書きます。
まずはPazzoさんの主張についてです。Pazzoさんの主張は明確です。以下に、自分なりにその主張を理解した内容をまとめてみました。
Pazzoさんの主張
人の間のトラブルを解決するためには、いまわしき魔女裁判の原理ではなく、その正反対の原理、すなわち現在の法律の原理で行動することが必要だ。
魔女裁判の原理とは、魔女である証拠をみずから示すことなく、魔女でない証拠(無実の証拠)を疑われている人に求め、それが示せなければ魔女と判断するというものである。
現在の法律の原理とは、自分の権利を求める人は、その権利の存在をその人が証明しなければならないというものである。たとえば、謝罪を求める人がいたら、謝罪を求める根拠があることを、相手に求めるのではなく、みずから証明しなければならない。
新田先生は、西尾先生に記述の証拠を示すことを求め、そのときの録音があるはずだからそれは簡単なことだろうと主張し、証拠が提示できないのならば訂正と謝罪をするよう要求した。
これは西尾先生に「無実の証拠」を求めていることであり、新田先生は魔女裁判の原理で行動しているように思われる。魔女裁判の響きがあるというゆえんである。
新田先生は、不当に自分の名誉が毀損されているというのなら、きちんとその事実と謝罪すべき理由を示すべきである。録音があるはずであるのなら、新田先生がその録音の中味を示して主張の根拠とすべきである。
本件は個人同士のトラブルのカテゴリーに属し、民法の709条(不法行為の要件と効果)に当てはまる。この場合、新田先生が相手の不法行為を証明しなければならない。
名誉毀損罪で訴えた場合、刑法230条(名誉毀損)に当てはまるが、この場合でも、民法と同じように告訴する者が起きたことと理由を書いて、名誉毀損を受けたと申し立てなければならないのである。
(以上、Pazzoさんの主張終り)
これに対して、Ozekiさんは、Pazzoさんの主張を認められないとし、種々反論らしきことを述べましたが、いずれも有効な反論となっていない。最後は、「あなたの言っていることは理解した。しかし、同意はしない。私は新田先生というより事実を重視している」と述べて、議論の場から退場してしまった。
これに対するPazzoさんの主張、
「事実を重視するならば、証拠の提示を西尾先生に求めたりせずに自分で調べることが大事だった」「Ozeki先生は、証明されていない名誉毀損という決め付けた事実に固執していた。決め付けも、魔女裁判の特色の一つだ」は、傷ついてみずから退場した剣闘士に最後のとどめを刺した感があります。
また、Pazzoさんは議論の場において、終始、礼儀を守り、真剣で、まじめで、まさに日本人が見習うべき態度だったと思います。