日本政策研究センターの協力者でもあった衛藤晟一氏や城内実氏にも「刺客」が送られたあの選挙で、伊藤哲夫氏は私と同様に怒って「許せない、小泉は許せない」と当初しきりに言っていました。私は「自由と民主主義」が本当に危ない、と思いました。9月11日の投票を経て、私が応援に行った四人のうち古川禎久、松原仁の両氏が当選、衛藤氏、城内氏が落選しました。
当選した古川禎久氏――西郷隆盛のような立派な顔をした人物――について、伊藤さんが自民党に戻そうとしているのを聞いて、私は「平沼赳夫氏のように独立独行してほしい。さもないと今回、非自民の旗の下に古川氏に投票した有権者を裏切ることになるでしょう」と反対意見を述べ立てた覚えがあります。すると伊藤さんは「大政党に入っていないと何もできない。党人でないとお金も入らない」と現実論で反論しました。
ここいらから私と伊藤氏の考え方に微妙な差が開き始めるようになります。私は今でも私の言った方が現実論だと思っています。なぜなら古川氏は、あるいはこのとき当選した自民党無所属は、ご承知のようにひとりも党に復帰することができなかったからです。断固別の新党をつくるなどすべきだったのではないですか。
九段下会議は夏の選挙の間休んでいましたが、10月14日に再開、11月14日には世界のインテリジェンスの歴史、12月21日には人民日報の日本報道を実際に実物で読むという体験をしました。そしてこれが最後になりました。
その席上、伊藤哲夫氏と私たちの間で小さな論争がありました。氏はいつの間にか小泉支持派に変わっていたのです。というより、安倍政権の実現に賭けてきた氏は(私もずっと安倍支持者でしたし、いまも別に反対者ではありませんが)、小泉=安倍一体化が進行するプロセスの中で、考えを一つにまとめることが難しくならざるを得ません。
私は郵政民営化、竹中経済政策を支持する安倍氏では困りますが、防衛・憲法・教科書・靖国のラインでは安倍さんをよしとします。けれども現実の安倍氏は小泉首相と一体です。
伊藤氏が「いろいろ小泉さんのことを人は言うけれども、ともかく靖国に行ってくれたじゃないですか」と仰言ったことばに、私は少し失望しました。私と伊藤氏とはそれまで、靖国に行く小泉の「動機」が問題だとずっと言っていたのではないですか。
皇室問題が次第に緊迫していた当時、私は官房長官は首相に弓を引く場合もあるべし、との考えでしたが、伊藤氏は官房長官の難しい立場をしきりと弁解し擁護する姿勢をみせ、氏への私の失望は一段と深まりました。
私は政権と言論は別だ、政権に対し是々非々で行くのが思想家のあるべき姿だ、と言ったことがあります。するとそのとき伊藤氏は「私は思想家ではない」と軽くいなしました。
政治は現実に妥協します。それは仕方がない。言論はできるだけ具体的で、現実的であるべきですが、しかし、どうしても譲れない場合がある。むしろそういう場合のほうが多い。現実の政治に必ずしも添い兼ねる。
さて、「つくる会」の展開ですが、秋も深まる頃から局面が変わります。コンピュータ問題が登場したのは、オペレーターのMさんが器械の不具合を10月21日に藤岡氏に訴えて以来です。コンピュータ問題は後で区別して書きます。また、浜田実氏の事務局次長への採用の一件がこれに絡み、執行部が10月28日に事務局再建委員会を創り、事務局を執行部管理とし、コンピュータ問題の調査を決定しました。しかしその後、各事務員から個別に別の建物で事情聴取をしたやり方が、共産党の「査問」と同じだとパッと悪口を外へ広げる者がいて、誤解を招くということがありました。
私は傍で見ていて、八木、藤岡、遠藤、福田、工藤の諸氏にコンピュータのときだけ私が加わった執行部の努力は、限られた時間の中で、並大抵の労苦ではなかったと思います。けれども、世間は誤解したがるものです。
例えば伊藤哲夫氏は11月の九段下会議で会ったとき、「つくる会」執行部は検察まがいの訊問をしている、というようなことを言って、批判的になっていました。
10月一時的に事務局は執行部管理となりましたが、これは八木氏が中心になって取り決め、実行した措置です。八木氏はマッカーサーがコーンパイプをくわえて乗りこむようなこと、と、執行部を占領軍になぞらえるような浮かれた発言をしていました。私は11月初旬のコンピュータ問題調査委員会(八木、遠藤、藤岡、西尾、富樫)にだけは参加しましたが、事務局の運営の内容は間接的にしか聴いていません。
3年前のコンピュータの契約の不完全――これについて当時理を尽くして警告したのは富樫公認会計士と私だけでしたが――がこのときあらためて表に出て、宮崎事務局長の立場が悪くなったのは事実です。彼は外に能動的に働きかけることに弱くても、内に事務的に勤勉であることにおいて強い、というのが執行部のそのときまでの判断でしたが、「内に事務的に」も問題があったのではないか、と、遠藤、福田、工藤氏たちの副会長もあらためて疑問を抱くようになりました。けれども事務局長更迭は、今までの記述で明らかなように、コンピュータ問題の前に審議され、裁定されていたのでした。
ですが、やはり、どうしても世間はごちゃまぜにして理解する。世間だけでなく執行部の外にいる理事たちもよく理解していない、という状況が次第に事柄を紛糾させていきます。
そうした誤解や事実の歪曲があり悪い噂となって外へ広がった後のことですから、不運なのですが、伊藤哲夫氏と椛島有三氏と再び宮崎問題に関して私が接点を得たのは12月に入ってからでした。伊藤氏とは私が直接電話で、椛島氏とは間接情報です。
12月1日藤岡、福田両副会長が政策センターに伊藤氏を訪問し、2時間事務局長更迭の必要を詳しく説明したそうですが、氏は最初こわばった表情で、笑顔が見えたのは2時間経ってからだといいます。宮崎氏の期待外れをいうと、「事務局長はそういう程度でいいのではないですか。」となかなか分ってもらえず、「よく分りました」と最後に言ったのは外交辞令で、納得していない風であった、とは後日聞いた福田逸氏の弁です。
記録によると私はこの同じ日の夜、伊藤氏に電話をしています。
迂闊に軽いことばで話しだし、激しい反撃をくらいました。昼間の空気をあまり知らなかったせいです。今までの永い付き合いの、九段下会議の同志であるとの心安立ての思いで語った、その言葉の調子がなぜか逆鱗に触れたのかもしれません。
本当に思ってもいない予想外の反発でした。ご自身も後で、あんなに怒ったことはないと言っているのですからますます分りません。私が雇用解雇ではないのだ、というと「給与が問題ではないでしょう。名誉が問題なのでしょう」といわれ、たゞ吃驚し、約70分もつづく言葉の応酬に、傍の家族がハラハラ心配そうにしていました。
私たち「つくる会」の関係者が宮崎氏を見ている視線とは見ている位置が違うのだ、ということに早く気がつけばいいのですが、私もそのときは腹を立て、何と分らず屋だと思うだけで打っちゃっておきました。もしも小泉選挙がなく、自民党への姿勢において私と伊藤氏との間に考えの開きが大きくなく、度々電話をし合っていた夏までのような仲であったなら、恐らく最初からこんな衝突にはならなかったでしょう。双方に鬱積した感情の澱りがすでにありました。