「『昭和の戦争』について」(四)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第二章 満洲事変への道

第一節 対華二十一箇条要求問題

 さて、欧州大戦の初期一九一五=大正四年一月十八日、日本政府(大隈重信内閣)は「対華二十一か条の要求」を民国政府(袁世凱)に提示した。戦後の歴史家らは日露戦勝以後、増上慢になった我国の政治・外交が強圧的要求を支那に突きつけて反日感情に火をつけ日支関係に取り返しのつかない汚点を残したと酷評する事件である。

 だが、歴史の事実は如何であったか。対華要求の目的は、第一に山東半島旧ドイツ権益の日本移管を問題、第二に日露講和条約でロシアから継承した旅順・大連の租借期限、南満洲鉄道経営権が八年後の一九二三(大正十二)年に期限切れなので、その延長交渉問題である、当然の外交対策だった。しかも、山東出兵は、英国の熱心な懇望、ドイツを追い出したらそこを日本に呉れようと言う甘言に応じたものであった。

 山東半島旧ドイツ権益継承問題における交渉過程で大きな問題が生じた。支那政府当局者は、主要項目を承諾した上で、支那民衆を納得させる為だから、是非とも「強い要求」や「最後通牒」を出してくれと我が方に要望した(外相加藤高明、駐支公使日置益)。英国の後押しも有った事だし、それまでドイツが問題なく山東半島を支配していたのだから、疑問も持たずに日本政府は、態々「強い要求」を付加し、五月七日「最後通牒」を発し、支那政府は九日「受諾」した。五月二五日、山東省に関する条約、南満洲および東部内蒙古に関する条約など二十一か条要求に基づく「日華条約並びに交換公文」が締結された。

 ところが、条約に調印しておきながら、そこは支那の領土だから返還せよと迫って来たのである。日本が「最後通牒」まで発して強要したと、民衆を煽り立てて反日機運を醸成し、また同時に欧米列国の同情を支那に向けさる工作にとりかかったのである。これを見抜けなかった政府・外務省の失態である。(注・東郷茂徳の回顧=『時代の一面』五頁。戦後の歴史を見る目のない歴史家たちは、わざわざ「日本の最後通牒に屈して」調印したとしている。例えば岩波日本史年表の表記)。日露戦後次第に対日姿勢を硬化させて来ていた米国は、「日華条約が支那の領土保全と門戸開放に違反すれば不承認の旨を日支両国に通知してきた。つまり、好機到来とばかりに日本非難、支那支援に出てきたのだった。

 こうして、支那政府は、日本は横暴だと民衆を煽って「反日侮日」「日貨排斥」運動を起し、欧米列強にも「反日宣伝工作」を展開、パリ講和会議でも支那代表は、旧ドイツ権益を大人しく返還せよと要求し大きな国際問題にした。そこにソ連のカラハン宣言(後述)が出たから堪らない。国際世論は支那に同情的で、日本は不当に過酷な要求を「日華条約」で支那に力で押し付けた印象を与えてしまう。支那は、有利な国際環境を作り出し、民衆の反日侮日感情を大いに煽った。そこで、我国は早めに譲歩して、山東権益を漸進的に還付する方針で臨んだのである。米国も日本の立場に一応の理解を示した。一九一七=大正六年十一月には、「支那に関する日米両国間交換公文(石井・ランシング協定)」が取り交わされた。領土的に近接する支那大陸においては日本が《特殊の利益》を有すると米国は認め、日米両国は支那の独立・門戸開放・機会均等を尊重すると約束したのである。

第二節 支那の「反日」攻勢と日本の忍耐

 「日華条約廃棄」「パリ講和条約調印拒否」の過激な叫び声は支那全土に拡大した。一九一九=大正八年五月四日、北京で発生した有名な五・四運動は、忽ち全国主要都市に波及し、『中華思想』から東夷と蔑んでいた新興日本への激しい嫉妬と憎悪、それに民族独立確立への願望は強烈であった。民族独立確立への熱望、それは我が方も良く理解する所であるが、我が国と支那の方法論には大きな懸隔があった。「以夷制夷」は支那民族の遺伝子(文明・文化)の中に強く深く埋め込まれている。我が国は国際関係においてもお人好しである、話せば分かる、「善隣友好」はわが遺伝子の中に組み込まれている。

 支那人の悲哀も憤慨も分らない訳ではないが、我が国は西洋列強の強欲な侵略の威圧に対抗する際、敵の論理の中に入っていって、敵の理解と支援を取り付ける自助努力を重ねて、この第一次世界大戦の時代までには有色人種の民族として始めて白人西洋列強と対等の付き合いが出来るまでに漕ぎ着けたのである。ペリー艦隊の襲来から凡そ七十年であった。他方、支那は一八四〇=天保十一年の阿片戦争以降、ここに至るまでの凡そ八十年間、唯我独尊的な『中華思想』を改めず、殆ど効果の上がる自助努力もせず、国内統一も達成できず、況や、共和制国家と称してはいても、近代的国民国家には程遠い状態に有りながら、先進列強に平等・対等の権利を与えよと要求しても、理不尽と言うものである。支那の行動は自分の頑固な無分別を棚に挙げて、真面な国々に対して対等平等の権利を認めよと言う、言わば駄々っ子の言い草にも等しいと言う可きであろう。

 国際政治は支那の我侭をそのまま許すほど甘くはない。果たせるかな、一九一九=大正八年六月調印のヴェルサイユ講和条約は、我邦の主張を認めた(第一五六条から第一五八条)。だが、支那人は横暴な自己主張を諦めないから、この問題は尾を引き、二年後に開催されるワシントン会議で再び重要な議題になる。一九二二=大正十一年十二月、結局、我国は、山東権益を略々全面支那に返還し、青島駐屯軍も完全撤退したのである。

第三節 ワシントン会議の歴史的意義

 一九二一=大正十年十一月から翌二二年二月まで開催されたワシントン会議は、簡単に言ってしまえば、東アジアで上昇気流に乗る小強国日本を抑えたいと焦る米国の為の国際会議だった。主要な条約は三つある。先ず、海軍軍縮条約(主力艦、米英日の五・五・三比率、十年間主力艦の建造停止)である。太平洋の対岸にある日本が海軍力を増強して米国の脅威にならないようにとの思惑がある。次に、太平洋問題に関する四カ国条約では太平洋の勢力範囲の現状維持であり軍縮条約を担保するもので、日英同盟は必要なくなったとの理屈で廃棄された。これも米国の思惑通りだった。第三は、支那に関する九カ国条約で、「支那の主権・独立・領土的ならびに行政的保全を尊重すること」「支那における門戸開放、機会均等の主義を一層有効に適用すること」が主旨であった。米国が日清戦争直後から主張し続けて来た『支那に関する門戸開放・機会均等の原則』を列国が承認したものとなり、米国の要望で五年前の石井=ランシング協定は存続理由が希薄になったとして廃棄された。要するに我が国は米国に理想主義的アジア政策に大幅に譲歩したのである。それは、後で見る全権大使幣原喜重郎のふやけた理想主義による譲歩であった。第一次大戦で米国が新しい覇権パワーになって来たという現実を、ワシントン会議は見せ付けた。

 要するに、米国は我侭な支那を哀れみ、理想主義的国際関係論を以て保護する姿勢を列国に有る程度認めさせることに成功したのである。米国は自分の御膝下の中南米、カリブ海諸島、ハワイ諸島、フィリピン諸島に対しては如何であったか、ここでは言うまい。いずれにせよ、米国にお節介的理想主義から出てきた九カ国条約で我が国は、山東半島における旧ドイツ権益を大部分放棄した。こうして、米国の主導で、我国は日英同盟を失い、支那問題に関しては、実に窮屈で頭の痛い問題を抱え込んだことになったのであった。(注)外交官石井菊次郎の評価。

つづく

「「『昭和の戦争』について」(四)」への7件のフィードバック

  1.     国家は個人にあらず男女にあらず、運命共同体である

    >第二節 支那の「反日」攻勢と日本の忍耐

     この表題によく表れていますが、福地先生の史観は一種の自虐史観だと思います。外国はいろいろ手練手管を弄して、猾く立ち回ってくるのに対し、日本は後手後手に回って、なにも用意がなく小手先で対処するのに精いっぱい、消極的自衛に徹していたんだという記述になっています。しかし、そんな国家はないと思いますし、あるべきではありません。むしろ当時の日本は、自分でしっかりとしたビジョンをもち、来るべき世界秩序について強固な確信をもって、それを逐一実行に移していたんであって、それを侵略というのなら、それでも構わないではありませんか。まったく何もビジョンを持たず、大陸をただ物見遊山にふらふらしていたような情けない国家像を描き出されるよりはずっとましであります。

     学校左翼の提出した侵略−自衛というテーゼにとらわれるあまり、それへの反論として自衛だと言い立てる結果、そこで描かれる国家像はかなり情けないものになっていると思います。ビジョンのない国家なんて最悪であります。そして、それは当時の実際の日本とは対極にある姿だと思います。当時出されたビジョン、プロパガンダのひとつとして石原莞爾の世界最終戦争論、王道−覇道という半分宗教がかった図式がありますが、それでもまだ自国の理念や国家戦略を明確にした上での史観なので、積極性があると思います。侵略−自衛というとらえ方では、攻勢−守勢であって、つねに攻勢に対して守勢をよしとする議論になりがちです。しかし国家は個人ではなく運命共同体なのですから、その本質上、将来に対してはつねに攻勢であり、あるべきであり、冷静な歴史とは、その国家の攻勢同士の戦略のよしあし、結果の分析に徹すればいいのだと思います。国家の問題に、騙したの騙されたの、はては強姦されたの和姦だのと男女の情愛のごとき論理を持ち込むのは危険であります。国家にはもちろん性別はありません。また、自衛といいたてんがために消極的な国家像を描くことは国民教育上もマイナスであり、学校左翼の作戦にまんまとはまっているという印象がぬぐえません。三国志とはいわずとももっと積極的な国家像、そしてそれが挫折していく過程をこそ日本の歴史分析としては望みたいところであります。

  2. 「支那の事情に無知な米国の失策」

     九カ国条約は、完全にアメリカの失策であったと思います。。。

     支那がどれだけ混乱した混沌とした、争乱に明け暮れた歴史を持った地域であるかを知らなかったことが元凶です。。。

     どうも、欧米人は、支那に対して何か幻想を持っているらしく、それで現実が見えなくなるようです。。。

     もともとは、どうやら幕末の頃に日本に来た欧米人が、日本人から孔子などの「古代の」支那の輝かしき歴史を聞かされたので、今でも立派な精神が宿っている地域であると勘違いしたのがそもそものきっかけだったのではないかという見方も出来るのではないでしょうか。。。

     日本か開国した頃、欧米の文明に対抗出来るものがないので、見栄を張る為に支那の自慢話をしきりにしていたという史料が残っているそうです。。。

     日本にも誇れる歴史や文化伝統があったのに、それに気がつかずに支那自慢をしたが為に、欧米人に誤った支那の認識を持たせてしまい、後々、支那問題で苦境に立たされることになる皮肉な話ですね。。。

     今でも、支那に幻想を持っている欧米人は多いらしいですから、支那自慢ばかりしていた幕末の日本人の責任は大きいですね。。。(苦笑)

    (日本の「親中派」というのは、幕末から(正確には江戸時代から)存在しているのであり、ある意味、日本の「伝統」であるともいえますか、皮肉ですけど。。。(-_-)) 

  3. 「日本は脆弱であったかどうか?」

     松田さんの指摘は、西尾先生の林房雄「大東亜戦争肯定論」批判に通じるものがあるように思えます。。。

     林房雄も、左翼の大東亜戦争否定論(侵略説)に対抗するあまり、過剰に意識してしまったのでしょうが、やたらと欧米の悪ばかりを書き立てる内容になってしまったのだそうです。。。
     産業革命を達成した近代化された欧米が植民地政策に走ったのが悪いのであり、近代化に立ち後れた日本はそれに右往左往していただけだったので、日本は悪くないという論法でしょう。。。

     しかし、西尾先生は、日本だって後発とはいえ近代化に成功したのであって、近代国家同士がアジア(支那)の覇権を争って衝突したのが大東亜戦争であったと批評していましたね。。。

     福地先生の歴史分析は、一本の芯が通っていて、読み応えのある内容であると思います。。。

     ただ、もっと改良する余地はあると思いますし、また、それは後に続く人間が担うべき仕事ではないかと思います。。。

    (「歴史観」は色々あって良いし、多くある方が「健全」であると思うので、人それぞれでかまわないのではないでしょうか。。。)

  4. >まほきゃすと様

    > 確かに、北の狼氏が、若干推測を重ねてソースロンダリン
    >グを行っていることも、事実です。
    > 但し、全ての「あちら側」の人間が、同じ推測をしている
    >訳ではありません。

     ちょっと誤解される表現だったかもしれませんが、私は、「そんな意見まで飛び出している」と書いたのであって、あの掲示板がそういう意見で統一されているというような発言はしておりません。。。
     もちろん、「院政のうま味を覚えた」と根拠のない批判(誹謗(?))を行った北の狼氏(面識あり)を意識して書いたモノです。。。(はっきりと個人名(HN)を特定して書けば良かったのか?)

     それと、長々と引用した新田ブログの「電話の録音」についても、ちょっと一言言っておきたい。。。

     あの新田氏と藤岡氏とのやり取りからは、西尾先生がつくる会の教科書を「改悪すること(分量を減らして、サヨク史観にすり寄る)」に反発してることは判っても、「会に未練があるかどうか」は判断出来ないでしょう?
     どこにその証拠があるのですか?

     西尾先生は、会から離れたくても、つくる会の教科書の内容が薄められてしまうことに危機感を感じて、それで批判したわけであって、やりたくてやったわけではないし、まして、つくる会に影響力を残したいなどと考えているなんてコトはあり得ないと思いますよ?

     私は、酒の席で、本人の口から、「僕はもうつくる会から離れたいのに、事務局の人間が無理矢理に引き留めて困っているんだ!」という強い嘆きの言葉を自分の耳でしっかりと聞いているんですからね。。。
     本当に、こんな会に関わっているのはイヤで仕方ないという態度がありありと現れた口調で激しく叫ぶように吐き出した言葉でした。。。(私の方が口調の激しさに少し驚いたくらいだった)

     西尾先生はですね、つくる会を辞めたいのに、藤岡さんと誰かが揉めたりとか、扶桑社の圧力で教科書が薄くなって、さらに内容がサヨク寄りになるなんて問題を起こすので、その度に対応に追われて関わらざるを得なくなっているのです。。。
     ひどく迷惑しているのですよ、つくる会に関わっていることでね。。。

     それを「院政」などと邪推するのは、お門違いもいいところでしょう。。。

    (ちなみに、扶桑社がページ数を減らす圧力をかけてきた時に、藤岡さんも反発していたはずですけどね、西尾先生に苦情を訴えたと聞いていますよ?)

  5. 幕末から大東亜戦争までの期間、それは風雲急を告げる事態が
    後から後から追いかけてくる凄まじい時代でした。永い眠りに
    ついていた日本に、高等戦略を求めても無理というものでしょう。
    性格こそ違え、90年代のグローバリズムに翻弄された日本は
    何の防備策もないまま、アメリカニズムの洗礼を受け、N経済
    新聞もお先棒を担いできた結果、日本的経営の骨格が失われま
    した。最近になって「モノづくりの日本」を取り戻す活動もさか
    んになってきましたが・・、ひたすら日本的なるものを破壊し
    つくした後での取組みが今行われようとしています。
    何とも知恵のない日本人と嘆くのは私だけではないと思います。
    それと比較すれば、明治の日本人は、近代国家建設という明確な
    目標をもって、国際政治の過酷さをなんとか潜り抜けてきたと
    言えるのではないでしょうか。
    当時の為政者のほうが、歴史上評価される深い「知恵」を蔵して
    いたと思います。
    まずは、欧米列強に翻弄され続けてきた日本の歴史的歩みを正
    しく認識し、次のステップは、「日本文明」の本質を、中西輝政
    先生の論を継ぐかたちで、壮大なスケールで、どなたかに書いて
    欲しいと思います。
    福地先生にはぜひ「国民シリーズ」の歴史本を書いていただき、
    幕末から大東亜戦争、ひいては現代にまで至る日本人の歴史的歩
    みの決定版を示していただきたいと期待します。
    ここにおいて、つくる会が本来の面目を取り戻す好機ではないかと
    考える次第です。

  6. >ジョーイ様

    >「会に未練があるかどうか」は判断出来ないでしょう?

    (執筆者不在の改訂は日常茶飯事という)教科書改訂についての藤岡先生の説明が正しければ、
    騒がれた西尾先生は「会への未練がある」と周囲に思われても、仕方ありません。
    本当に未練が無ければ、誰がどう改訂しようと、黙認するしか無いと思います。
    あくまで、藤岡先生の説明が正しければ、の話ですが。

    >西尾先生は、会から離れたくても、つくる会の教科書の内容が薄められてしまうことに危機感を感じて、

    そうした拘り自体が「会への未練」と取られても、仕方ありません。
    残った人々が何をどうしようと、そこに自ら少しでも干渉すれば、それは「院政」です。

    >「僕はもうつくる会から離れたいのに、事務局の人間が無理矢理に引き留めて困っているんだ!」
    >という強い嘆きの言葉を自分の耳でしっかりと聞いているんですからね。。。

    それは私は知りませんでした。その事務局の方の証言も必要かもしれません。
    ただ、個人的な推測としては、「会から離れたい」という本音を西尾先生が持たれていたとしても、
    不思議では無いように思えます。

  7. >まほきゃすと様

    >「会に未練があるかどうか」は判断出来ないでしょう?
    > (執筆者不在の改訂は日常茶飯事という)教科書改訂につ
    >いての藤岡先生の説明が正しければ、騒がれた西尾先生は
    >「会への未練がある」と周囲に思われても、仕方ありません。
    > 本当に未練が無ければ、誰がどう改訂しようと、黙認する
    >しか無いと思います。
    > あくまで、藤岡先生の説明が正しければ、の話ですが。

     これには全く納得出来ません。。。

     「未練がある」ということをどのように解釈しているのでしょうか?
     ここでは「院政」、つまり、会への「直接的な」影響力を行使できるということを意味していると理解します。。。
     
     それならば、あの電話の会話では、つくる会の教科書が改悪されることに反発しているとしても、それが会に直接影響力を残したいという「未練」があるかどうかの判断は出来ないでしょう?

     それに、当時は、まだ「名誉会長」であったのだから、会へ干渉すること自体に何も問題はないですよね?(それとも、名誉会長とは、講演会などに引っ張り出されて、(会員を集める為に)利用されるだけ利用されて、会の運営には一切口を出せないような「お飾り的存在」なのですか?

    >> (私のコメント)西尾先生は、会から離れたくても、つく
    >>る会の教科書の内容が薄められてしまうことに危機感を感じて、

    > そうした拘り自体が「会への未練」と取られても、仕方あ
    >りません。
    > 残った人々が何をどうしようと、そこに自ら少しでも干渉
    >すれば、それは「院政」です。

     これも全く論理的におかしい議論ですよ?

     この論法では、会がおかしな方向に向かっていることを「心配」するだけでもダメだ、いっさい関心を持つなということですか?
     そして、会がいくらおかしな方向に走っても、何も発言せずにただ傍観していろとでも言うのですか?

     しかも、名誉会長という立場にあるのに、その人間に対して、お前は何も発言してはいけない、少しでも会のことに口出ししたら、それは院政になるぞ?と言っているようものですよ?

     信じられないような論法だなぁ。。。

     そんなにね、西尾先生が邪魔だったら、名誉会長になんかにしないで、ただの理事にするか、会そのものからお引き取り願ったらよかったんじゃないですか?
     西尾先生の方から、名誉会長として残りたいなんて頼んだワケじゃないんですよ?

    >> (私のコメント)「僕はもうつくる会から離れたいのに、
    >>事務局の人間が無理矢理に引き留めて困っているんだ!」と
    >>いう強い嘆きの言葉を自分の耳でしっかりと聞いているんで
    >>すからね。。。

    > それは私は知りませんでした。その事務局の方の証言も必
    >要かもしれません。
    > ただ、個人的な推測としては、「会から離れたい」という
    >本音を西尾先生が持たれていたとしても、不思議では無いよ
    >うに思えます。

     酒の席での話ですからね、本当に率直に自分の本心を語ったのだと思いますよ。。。
     事務局の人間(宮崎氏か?)が、強引に講演とかに引っ張り出すので困っていると言っていました。。。

     しかしですね、会を完全に離れた今でも、会のことに口出しすると、それは「未練がある」さらには「院政だ」ということになるんですか?
     会に関係ない人間は一切の口出しをするなということですか?(会員を辞めた私が会の批判をすることも、「会に未練があって」さらに「影響力を与えたい」と思っているコトになるのですか?)

     外部の人間の批判的意見を受け付けない、そうやって、どんどんつくる会は閉鎖的になっていくのではないでしょうか?

    (そんな心がけでは、とても「国民運動」に発展させることなど不可能です)

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