「『昭和の戦争』について」(五)

「『昭和の戦争』について」

福地 惇

第二章 満洲事変への道

第四節 ロシア共産革命の東アジアへの波及――最大の脅威の出現

 一九一七=大正六年十一月、共産ロシア政権が成立した。その二年後の丁度欧州大戦が終結した一九一九=大正八年三月にモスクワに国際共産主義インターナショナル(第三インターナショナル、通称コミンテルン)が設置された。世界各地の共産主義者を集めた世界共産革命指令本部であるが、その本質はソ連政府(クレムリン)の別働隊である。

 この年七月、ソ連政府は「支那に対する宣言(カラハン宣言)」を発して、民族自決の原理に基づき、帝政ロシアが支那から掠奪した領土・利権、不平等条約等々を放棄・撤廃すると宣言した(カラハンはソ連に外務人民副委員長)。翌年に同様の趣旨の第二次宣言が発表され、支那の上下は歓喜に沸き立ち、一九二四=大正十三年五月の蘇支国交樹立に結びついた。ソ連は、帝政ロシア時代の特殊権益や義和団事変賠償金を放棄した。だが、北満洲の権益、中東(東清)鉄道権益は以前のままだった。孰れにせよ、共産ロシアの派手な対支融和外交は、正にこの時期、我国と支那の間には「日華条約問題」「山東権益継承問題」が紛糾していたから、支那を大いに元気付けて、日本帝国主義及び帝国主義列強への激しい反抗運動を活気付かせた。

 なお、米国政府が「排日移民法」を制定したのは、二十四年五月である。また、支那問題をめぐり日米が利害対立の様相を深める情勢は、共産ロシアに好都合だったことを確認しておこう。共産ロシア政権が成立した直後にレーニンが構想した、『敵と敵を戦わせる』『帝国主義列強同士を噛み合わせる戦略』=「社会主義の勝利に至るまでの基本原則は、資本主義国家間の矛盾対立を利用して、これら諸国を互いに噛み合わすことである」(注・一九二〇年十一月、モスクワ共産党細胞書記長会議)、及び『アジア迂回戦略』「最初にアジアの西洋帝国主義を破壊することによって、最終的にヨーロッパの資本主義を打倒する」、がその基本戦略である。(注・カワカミ三二頁)。カラハン宣言は、その第一弾だったと言える。

第五節 ソ連=コミンテルンの東アジア攻勢と米国の東アジア介入

 一九二一=大正一〇年七月に支那共産党、翌年七月に日本共産党が結成された。何れも「コミンテルン(支那・日本)支部」である。何故かといえば、ソ連政府=コミンテルンの究極目標は、全世界の共産主義革命を完成することだ(三田村一九頁)。マルクスの共産主義思想に国境はない。万国の労働者は団結せよであり、国家と言う存在は資本主義時代までのもので、世界共産革命が達成される暁には地球上から国家は消滅すると御託宣している。だから、共産主義者は、共産革命の祖国=ソ同盟の有り難い指導の下に自分の生まれ育った祖国を解体・撲滅する運動に嬉々として邁進するのである。一九二〇年代早々から、ソ連・コミンテルンの支那共産革命謀略で大陸の内戦は拡大し混迷を深めたのである。

 他方、米国は本格的に東アジア(支那大陸)への介入(進出)を強化し、今や支那大陸では、ある勢力は公然・隠然とソ連=コミンテルンに指導され、またある勢力は米国の支援を得て、勢力を増大しようとの動き出した。こうして、支那大陸は米ソの介入で益々「不気味な伏魔殿」の様相を色濃くして行った。一九二〇年代は、正に満洲事変への道の出発点である。共産ロシアや米国の介入による東アジア情勢の深刻化が、我が国の大陸政策を困難にさせて行った最も重大な原因だったのである。(注・戦後の歴史学界は、この重大な事実を隠してきた)

第六節 孫文の左傾化と第一次国共合作(一九二三年十一月から一九二五年三月)

 さて、袁世凱に敗北した孫文は、一九一四=大正三年七月、日本に亡命、東京で「中華革命党」を結成した。だが、運動は失敗続きだった。ところが、一九一九=大正八年七月にカラハン宣言が支那人の気持ちを捉えた頃から孫文は、急速に左傾化する。勿論、ソ連=コミンテルンの誘いに乗ったのだ。一九二三=大正十二年一月に孫文・ヨッフェ(ソ連外交代表)共同宣言が発せられた。宣言は「支那には現在ソビエト制度を成功させる条件は存在しない。支那当面の最大の課題は、統一を完成し、完全な国家の独立を完成することであり、ソ連はこれを支援する」と謳っていた。共産ロシアは、民衆に高い人気の孫文を利用して支那共産革命を促進する腹だったのである。ソ連は、同年一〇月に孫文の政治顧問としてボロディンを送り込んだ。同月、「中華革命党」を改組して「支那国民党」とした。コミンテルンの強い影響下に国民党が成立したことは注目しなければならない。

 孫文は広東に政府を組織、一九二四=大正十三年正月の第一回国民党全国大会で「連ソ・容共・扶助工農」を基本政策に掲げて、国共合作(第一次)して支那民族統一運動を推進すると宣言した。(レーニン没→スターリンが権力継承、カワカミ『シナ大陸の真相』三三頁)。孫文はコミンテルン=共産勢力に取り込まれた形である。支那共産党員は革命顧問ボロディンらの指揮に従い、巧みに国民党の要職に侵入して行く。この年六月広東郊外に黄埔軍官学校が開校、総裁孫文、校長蒋介石、政治部主任周恩来、顧問ロシア人(コミンテルン派遣員)ガレン(ブリュッヘル将軍)と言う陣容で出発した。この学校は、国民党、共産党両方に多数の高級軍人を輩出した。

 なお、ソ連=コミンテルンの指導で、一九二六=大正十五〔昭和元〕年十一月、支那南部で反英闘争の猛威が荒れ狂った。その最中にブハーリンはモスクワで《コミンテルンは、支那共産革命の創設に努力を集中すべきである。支那革命はヨーロッパ、取り分け英国の資本主義に決定的な打撃を与えるための必要条件として不可欠である》との声明を発した(注)カワカミ三三頁。また、「一九二四=大正十三年の蘇支国交樹立後、早速ソ連北京大使館付陸軍武官の事務所にソ連軍事センターが組織された。その任務は支那の様々な政治・軍事団体に資金と武器の配分を監督することであった」(カワカミ三五頁)。

第七節 ソ連の満蒙工作

 それより先、一九二一=大正十年には、ソ連軍は白系ロシア人追撃を名目に外蒙古を侵略して「蒙古人民革命政府」を樹立、大正十三年には「蒙古人民共和国」という純然たる衛星国とした。孫文はこれを容認していた。ソ連はさらに、共産党満州支部に武装暴動蜂起を指令して、一九二四=大正十三年四月には、「全満暴動委員会」を組織させ、共産パルチザン(極左暴力革命集団)活動を推進し、その拠点を満州一帯に広げ、満州に作られた共産軍遊撃区が彼らの活動拠点である。反日活動を展開するパルチザン部隊は数十名を単位として絶えず移動して放火、略奪、暴行事件を頻発していった。

 張作霖の北京政府は、共産分子の跳梁跋扈に脅威を感じ一九二七=昭和二年四月、北京ソ連大使館を一斉捜索して秘密文書を押収した。それには支那共産革命推進の様々な工作、就中孫文に樹立された広東国民党政府を後援する旨が記されていた。なお、ソ連は、北京政府(張作霖)を攪乱する目的で、惑星的軍閥馮玉祥にも武器弾薬や軍資金を供与し「騎兵隊学校」を設立させた。黄埔軍官学校も同様だが、カミによればこの学校も、「ただ単に軍事的な目的のために学生を訓練することではなく、革命的・共産主義的思想を彼らの心に植えつけることであった」(三七頁)のである。

つづく

「「『昭和の戦争』について」(五)」への5件のフィードバック

  1. Posted by 松田

    > なお、米国政府が「排日移民法」を制定したのは、二十四年五月である。また、支那問題をめぐり日米が利害対立の様相を深める情勢は、共産ロシアに好都合だったことを確認しておこう。

     このころの興味深い逸話としては、以下のようなものがあります。今日日系移民として一括されていますが、実際には米国に移民を行なっていた当時は、日本本土、朝鮮、台湾があわせて大日本帝国であり、その住民が日本国臣民でありました。当然、日系移民には朝鮮・台湾人もたくさん含まれていたわけです。
     当初、日系移民の子供は白人の学校には入学を許されず、黒人の学校にしか通えませんでした。しかし、多すぎる日系移民に悩んでいた米政府は、日本側と交渉して、朝鮮、台湾からの移民を減らすかわりに、日系人が白人の学校に入学することを認めたのです。(ハワイの日系サイト※にそう書いてありました。)
     今日、語学留学などでアメリカを訪れた人がよく、日系三世でもう日本語をまったく解しないと驚いていますが、上記の事情があるわけです。必ずしも日系=日本本土出身ではないので、もともと祖父の世代の母国語が日本語ではない日系の人も多いのです。だから、日系3世のサトーさん、スズキさんが簡単な日本語がわからなかったりするのも当たり前なのです。
     日系協会などのサイトを注意深くみると、「わが協会での日系人の定義は、日本本土を父祖の出身地とする者」などと意味深なことが書いてあります。
     ハワイの日系人サイトによると、本土出身者は彼の地の神社を共同体として集っていて、「日本語を解さない日系人」をそこにはあまり積極的に勧誘しなかった、これはよくなかったなどと反省しています。

    ※探したんだけど、見つからなかったのでリンクはなし

    >国際共産主義について

     これは年表的記述の中で扱うのが適当とは思いませんので、詳しいコメントはパスします。
     ただ、共産主義は経済学としてはそんなに出来のいいものとは思えませんが、なぜあれだけ大きな影響力、まるで世界宗教のような影響力を持つに至ったのかを考えなければなりません。
     バチカンがヒットラーのナチス・ドイツと手を結んだのは、これが共産主義への防波堤となってくれることを期待してです。バチカンはおそらく共産主義に自らの国際性、世界宗教性と同根の性質をかぎとっていたのでしょう。国際共産主義は、いわば無神論という名の世界宗教だったのです。

  2. 「満州事変は『侵略』か否か?」

     結論を先に言うと、私の見解としては、「自衛」が目的ではあったが、「侵略的要素」が全くなかったわけではない‥ということになりますか。。。

     「侵略(相手の国土に侵攻して奪うこと)」自体が目的ではなかったけど、結果として「侵略的な行為」にはなったということですね。。。

     満州事変について議論する時、サヨクは論外にしておいて、保守の間でも「侵略か否か?」で論争が交わされています。。。

     しかし、そこで気になることが、一方は「100%侵略」で、もう一方は「100%自衛である(よって正当である)」という論の立て方をしていることです。。。
     こんな論の立て方は可能なのでしょうか?

     初めから侵略が目的だったヒトラーのドイツとは性格が違うというのは全くその通りだと思うのですが、かといって「侵略的要素」が全くなかったとは言えないと思うのですね。。。

     西尾先生の表現方法を借用して、「60%は自衛で、40%は侵略」なんて言い方も出来たり、また、「動機は自衛であったが、結果としては侵略だった、でも目的はあくまでも自衛だ」なんて論も立てられるのではないですかね。。。

     要するに、もう少し柔軟な発想をしてもいいのでは?ということを主張したかったのですね。。。(どう解釈するかは十人十色ですからね)

    ただし、論壇で上手く世渡りしようと思っていたり、ただサヨクへの対抗意識だけを全面に出した議論は、あまり深い論考が出来ないと思うので、それには注意するべきでしょうね。。。

    (もちろん、私もちょっとした提案ぐらいのレベルなので、自分の考えをもっと深める必要があるでしょう。。。)

  3. 松田様へ

    >かならずしも日系=日本本土出身者ではない

     上記の件ですが、朝鮮・台湾出身者よりも、沖縄出身者をまず念頭においていたのではないのでしょうか。確か、ハワイでは本土出身者と沖縄県出身者とでは、元々(今でも?)協会が別組織になっていた筈です。

  4. キルドンムさん

     私は米国にいて日系移民の資料館にも何度も行きましたし、日系人の方にも知人が沢山いますが、沖縄出身の方へのそうした差別は聞いた事がありません。(ハワイにはあまり行っていませんので調べてみたいと思いますが) 

     一方、朝鮮・台湾出身の日系移民という視点は全く新鮮でした。彼らも同様に強制収用されたのか、二世部隊には参加したのか、など興味深い問題ですね。研究してみたいと思います。

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