「『昭和の戦争』について」
福地 惇
第二章 満洲事変への道 第八節 蒋介石の反共クーデタ(一九二七=昭和二年四月二一日)と「北伐内戦」 一九二五=大正十四年三月、孫文が病没した。国民党左右両派の対立は激化した。一九二六=昭和一年三月に蒋介石は広東国民政府部内の共産分子の粛清に着手、ここに第一次国共合作は終焉した。
蒋介石は、同年七月、国民革命軍を率いて支那統一を目指す「北伐」に立ち上がり、二七=昭和二年一月三―五日には漢口英国租界、六日には九江英国租界を実力奪還する漢口・九口事件を起した。さらに三月二十四日には北伐軍は南京を占領して列国領事館を襲撃や市内で虐殺・略奪・暴行を働き我が在留邦人も惨害を蒙った(第一次南京事件)。日本領事(森岡正平)の「無抵抗主義」が惨害を大きくした。英米日軍艦の報復砲撃。襲撃終息。荒木亀男大尉の自決。国内に幣原外交は軟弱過ぎると憤る声が高まった。
丁度この頃、ボロディンらは国民党右派を切り離そうと同年二月、国民党左派と共産党党員らに武漢政治を作らせた。「北伐」途上で危機感を強めた蒋介石は、上海で反共クーデタ(四・十二クーデタ)を敢行、武漢政府と絶縁、広東から共産党員及びシンパを撃退した。このクーデタの背後には米国の支援工作が潜み、蒋は米国から大量資金援助を得ている。当時の日本政府が、以上のように複雑怪奇な支那大陸の内乱にソ連や米国が絡まる政治状況を如何捉え、如何対処しようとしたか。問題はこれである。
第九節 幣原外交の空回り 正にこのように困難な時期に、幣原外交と言われる「親英米外交」「対支宥和外交」が、第一期=一九二四=大正十三年六月から一九二七=昭和二年四月まで、第二期=一九二九=昭和四年七月から一九三一=昭和六年四月まで都合六年間に亙り展開された事は、大正・昭和史の大失態であったと私は思うのである。
幣原喜重郎の外交理念を彼の演説で確認しよう。一九二二=大正十一年、ワシントン会議全権幣原が最終会議でした演説は、「日本は条理・公正・名誉に抵触せざる限り出来得る丈けの譲歩を支那に与えた。日本はそれを残念だとは思わない。日本はその提供した犠牲が国際的友好と善意の大義に照らして、無益になるまいと言う考えの下に喜んでいるのである」「日本は国際関係の将来に対し、全幅の信頼を抱いてワシントンに来た。日本はこの会議が善い結果をもたらしたと喜んでいる」と底抜けの楽観論を述べている。(幣原平和財団『幣原喜重郎』二五四頁)。
善意と条理に従い支那に譲歩すること、日本が犠牲を厭わないことで日支友好関係の構築が可能だと幣原が楽観しているのが良く判る。幣原は米国の思惑も、支那民族の異様な個性と我が国への嫉妬心も左右対立の混迷も、そして支那諸勢力の背後に在って共産革命に導こうと蠢く空恐ろしいソ連の謀略工作も視えていない様子だ。支那大陸の現実は、とても楽観できる状況ではなかったのである。大正デモクラシーの楽観的思想状況と幣原外交との関係、実に興味深い問題ですが、ここでは割愛する。
第十節 田中外交の挫折 一九二六年=大正十五年七月(大正天皇崩御による昭和改元は十二月二五日)、蒋介石の「北伐」が本格的に動き出した。支那南北の大内戦で、共産党の内戦煽動謀略も絡んでいる。我国としては、満洲権益の保全と在留邦人の安全確保に兵力を増強せざるを得ない。満洲は「生命線」だと認識する関東軍将校や満蒙に関心の深い政治家・活動家が、混乱が満洲に波及するのを恐れたのは当然だった。
若槻内閣に代わって登場した田中義一首相は、一九二七=昭和二年六月中旬から九月まで華北の在留邦人保護のために山東半島に派兵した。この第一次山東出兵は、蒋介石軍の北上を抑えたが、この機に乗じて北方軍閥は南下の気勢を上げたので、南北両軍が接近して山東情勢は更に緊迫化した。支那の共産勢力はこれを好機会と捉えて、南北内戦の激化を工作し、また同時に民衆に対して「排日・侮日」気運を煽り立て、その混乱は支那各地に広く波及したのである。
そこで、六月下旬、田中首相兼外相は、東方会議として知られる「満支鮮出先官憲連絡会議」を開催、支那対策を協議した。協議の主題は「蒋介石の《北伐》に如何に対処するか」、及び「満蒙における日本の特殊地位とその治安対策」であった。協議の結果は、七月七日に田中外相訓令=「対支政策綱領」として公表された。
内容は、①支那の内乱・政争に際し、その政情の安定と秩序回復は「支那国民自ら之に当ること最善の方法」、我邦としては「一党一派に偏せず、専ら民意を尊重し、苟も各派間の離合集散」には干渉しない、②「満蒙、殊に東三省方面に対しては、国防上並国民的生存の関係上、重大なる利害関係を有するを以て、………同地方の平和維持・経済発展に依り、内外人安住の地たらしむることは接壌の隣邦として特に責務を感ぜざるを得ず。然り而して、満蒙南北を通じて均しく門戸開放・機会均等等の主義に依り内外人の経済的活動を促すことは、同地方の平和的開発を速やかならしむる所以にして、我既得権益の擁護乃至懸案の解決に関しても、亦右の方針に則り之を処理すべし」、③「万一、動乱満蒙に波及し治安乱れて同地方に於ける我特殊の地位・権益に対する侵害起こる虞あるに於ては、其の何れの方面より来るを問わず之を防護し、且内外人安住発展の地として保持せらるる様、機を逸せず、適当の措置に出づるの覚悟」だとの決意を表明したのである。
かくして、我が方は山東半島派遣軍を撤収した。ところが、蒋介石は翌二八=昭和三年四月に再度の大規模な「北伐」を実施、山東方面の状況が再び険悪化した。そこで我が政府は第二次山東出兵を断行、遂に五月三日、日支両軍は済南で軍事衝突したのである(済南事件=さいなんじけん)。蒋介石政府は、日本の山東出兵と済南軍事衝突事件は国権侵害の侵略行為であると、国際連盟に提訴した(五月十日)。その一方で「北伐」を継続、北京に迫り、張作霖を急迫した。日本政府としては蒋介石の「北伐軍」が満洲に進軍することを真剣になって警戒せざるを得なくなった。
五月十八日 政府は、支那南北両政府に対し、戦乱が満洲に波及する場合は、治安維持のために適当且有効なる措置を執るとの通告を発し、張作霖に東三省(満洲)帰還を勧告した。これは南北両政府の態度を硬化させ双方ともが我が政府の勧告に激しく反発・抗議した。また、米国務長官は、日本は支那に内政干渉するなとの声明を発した。済南軍事衝突を境に、支那の排外運動は、主なる攻撃目標を英国から日本に一転した。(産経新聞180419号)
田中内閣の山東出兵は北支(華北)の治安の混乱を憂いて満洲(東三省)の特殊地位・権益の擁護と居留民保護のための出兵だった。だが、支那の複雑な内戦状況の中で、南北両軍の軍事行動は勢いを増す一方で、何とか華北に平穏をと願う我邦の行動は、却って南北双方の反日機運を高めることになり、実に不利な立場に追い込まれた。なお、田中内閣が山東出兵に踏み切った直後に、コミンテルンは日本共産党に天皇制打倒の「革命指令(二七年テーゼ)」を発していることの意味は大きい。
なお、「田中上奏文」なる偽文書の問題がある。この田中義一の対支外交は幣原対支外交に比べれば強硬だが、その内容はこのように穏当なものであった。ところが、「田中上奏文」なる偽文書がこの時機にどこからもなく登場した。コミンテルンが作成して世界にばら撒いたとの説が有力だ。その内容が、一例としては既に他界している山県有朋が出てくる点など事実関係から大きく乖離している点、また文書の形式、言葉遣いから、当時から既に偽文書であることは知る人ぞ知る常識であった。だが、欧米世界では夙に有名になり注目され、米国にメディアは大々的に扱った。日本が大正末年ころから世界征服を構想していた証拠として何と東京裁判の証拠資料とされたのである。東方会議の内容を直視すれば、全く為にする偽装文書であることは明白だ。だが、日本の左翼は戦後これを日本侵略戦争の証拠資料として扱い、また共産支那政府はつい最近までこれが日本の大陸侵略の証拠資料だと言い張っていた。ソ連=コミンテルンの日本帝国攪乱工作は内外からヒタヒタと進展していたことを重視すべきである。
つづく
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Posted by 松田
平和主義と軍国主義
ようやく歴史論文らしい著述に入ってきていると思います。
>大正デモクラシーの楽観的思想状況と幣原外交との関係、実に興味深い問題ですが、ここでは割愛する。
これはたしかにあると言われますよね。ある国が軍国主義化する前には必ず、平和運動が盛んで、弱腰外交が続く時期がある。これが事態をより紛糾させ、より悪化させた後で、どうしようもなくなって武力ですべてを解決しようという軍国主義、武断主義が出てくる。平和、平和と唱えていれば平和が実現すると錯覚している人達がいる限り、その反動としての軍国主義もなくならないのであります。
ちょっと早いですが、このあとに出てくるであろう満州事変については前から、どうなっているんだろうと思っていました。つまり、柳条湖事件とかが日本側の謀略だと言われていますが、それは謀略でもなんでもいい。しかし、関東軍の参謀、板垣征四郎と石原莞爾(のち2.26事件で鎮圧側に立った [1] [2])が、政権の命令を受けずして勝手に軍を動かしたということになっています。けれども、ことが成就したので軍規違反の処罰はされなかったという。しかれども、本当にこうした命令のないまま軍を動かした場合、ふつうの国の軍隊であれば、作戦が成功しようとしまいと厳しく処罰されることだろうと思います。日本の場合、天皇が統帥権をもっているのに、石原参謀が勝手に軍を動かしても、結果よしで処罰がされなかったというのはなんだか腑に落ちないのですが。本当に満州事変は石原らの独断先行だったのでしょうか。
「表面的な印象ですが」
ちょっと話がマニアックで、細部にこだわる内容になってきている気がする。。。
確かに、歴史分析には細かい検証が必要なのでしょうが(中退ですが、早稲田の大学院で日本歴史研究を専攻していた)、大ざっぱなアウトラインというか、満州事変全体を大まかに総括するような発言は出来ないものでしょうか?
「学者」としては当たり前かもしれませんが、一般人にとっては、ちょっと話が細かくなりすぎている印象があるかもしれません。。。
ここまで詳細に書かなくても、一般の人に分かり易いポイントだけ指摘する説明とかが欲しいと思います。。。
(専門家は、もう少し一般人にも理解しやすい記述を心がけるべきではないかと思うことがしばしばあります。。。)
●昭和初期に似てきた日本●
歴史にそれほど詳しいわけではないが、近代日本というのは、明治期をのぞいて大戦略というか、長期の広い視野にたったビジョンはなかったのではないだろうか。山県有朋がなくなるのがワシントン体制成立の頃かな、元勲がいなくなって、ビジョンのまとめ役がいなくなった。一人ひとりが一所懸命やればOK、てんでんばらばらといえば極端だろうが、外交にしろ軍事にしろ、満州事変に見るように、結果よければOK。そのつど長期ビジョンはつくられていく。
今の日本も何かそういう感じになっている。経済方面の専門家は経済だけしか頭になく、歴史家は歴史家で経済のことはぢぇんぢぇん頭にない。そういう頭が政治外交に物言いする。経済の仕組みとともに国の文化文明・国柄、歴史の流れとか、そういうトータルな思考というか、長期ビジョンがなくて国家が運営されていく。昭和初期、軍部が専横したように、今は財界が「経済学」ならぬ「経営学」でもって国家を壟断してはいないか。自社の儲けが第一で、国民を路頭に迷わせ、シナに出て行く。それを政府が応援しておる。個々の戦闘で勝ってドコまでも進撃した軍隊をおなじだな。
「正論」「諸君」「Will」産経とかみると、経済のこたまったく頭に無く、西のほうばかりみて吼えまくっている。彼らの感覚は、古代中国や日本の戦国乱世のような、要は、陣取り合戦の感覚なのである。経済という複雑に入り組んだ仕組みも頭に無い。歴史認識も大事であろうが、大変化をしつつある今現在をなぜ見ないのか、つまり経済のことだ、社会のアメリカ化のことだ、に、なぜ無関心なのか?
歴史認識とかでシナがごちゃごちゃ言うが、あれは政治ゲームなのだ、それなりに反撃はせにゃいかんだろうが、カンカンになってはいかんわけだ。
●経済を知らずして愛国をゆぅなかれ●
>飛び入り様
まさにおっしゃる通りですね。。。
「国家の品格」ばかり声高に叫ぶけど、国家の財布はどうするの?ってカンジですよ。。。
予算がなかったら、まともな国民教育も出来なくなって、3流国家に転落することが判らないのかな??
小泉首相が断行している構造改革が成功しなければ、日本は財政的に破綻して、それこそIMFの管理下に置かれるか、あるいは、禿鷹ファンドに食い物にされてしまいますよ?
日本の財政危機について憂慮する発言がほとんど聞かれないのはなぜなのか?
「先立つもの」が無ければ身動き出来ないという簡単な真理が理解出来ないのが不思議でならない。。。。
(武士は食わねど‥なんて、本当に食えなかったら高楊枝なんて言っている場合じゃなくなりますよ。。。)
小泉構造改革こそ諸悪の根源。
財政赤字を言い立てて緊縮をやる。これが、経済学が分からず経営学でやっとる、という意味なのだ。
しかし尊王する左翼ってももぴろぃね。小泉思想宣伝隊の人かにゃ?
「そうですかねぇ」
>飛び入り様
小泉改革は、まあ、完璧とはいわないけど、「諸悪の根元」で、何一つ良いことをしていないというのも、また、極端すぎると思いますが。。。(^^ゝ
それに、あれは「無駄な出費を無くす」ことが目的であり、「緊縮財政」とはまた性格が異なるのではないでしょうか?
ちなみに、別に、私は小泉シンパでもないし、その宣伝マンでもないんですけどね、ただ、評価すべき点は評価してもいいんじゃないかと思っています。。。(^^ゞ
(ところで、小泉改革を少しでも支持したら、サヨクにされてしまうんですか!?)←まあ、あえて「保守」であると強調する気もないけど。。。(^_^ゝ