二つの講演会(二)

 レジュメの中の一、のみを前回示した。今回お示しする二、以下も聴衆に配った要旨である。これだけ見ても多分読者には何のことかよく分らないだろう。

 各個条に少しづつ説明を加えれば多少分り易くなるだろうが、そんなふうにして分り易くすることは本旨に反する。一番いいのは全文を掲げることだが、それができないので申し訳ないがレジュメだけを掲示する。「日録」は私の覚書きでもあり、メモでもあるからやむを得ない。

二、 宣長の「やまとだましひ」

 つひにゆく 道とはかねて 聞しかど きのふけふとは 思はざりしを

(『古今集』業平の朝臣)

三、 漢意(からごころ)と西洋崇拝

 もろこしのまなびする人、かの國になき事の、御國にあるをば、文盲(モンマウ)なる事と、おとしむるを、もろこしにもあることゝだにいへば、さてゆるすは、いかにぞや、もろこしには、すべて文盲なる事は、なき物とやこゝろえたるらむ、かの國の學びするともがらは、よろづにかしこげに、物いはいえども、かゝるおろかなる事も有けり

(『玉勝間』七の巻)

四、 古事記と不定の神

 いわゆる超越原理、なんらかの規範のある民族が多いが、日本人にはそれがない。

 ユダヤ人の律法、ギリシア人のロゴス、インド人の法(ダルマ)、中国人の礼(または道)

五、 自画像を描けない日本人

 日本人がこれから目指すべき歴史観は、日本から見た世界史でなければならない。シナから見た世界史であってもいけないし、西洋から見た世界史であってもいけない。日本から見た世界史の中に置かれた日本史――これでなければ今後はやっていけまい。

 日本人は一面では自分を主張しないで済む、何か鷹揚とした世界宇宙の中に生きているのではないか。

六、 宣長の覚悟

 道あるが故に道てふ言(こと)なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり

(『直毘霊』)

七、 江戸儒学(合理主義)のカミの扱い

 神代と人代との断絶の意識
 林羅山、鷲峰の『本朝通鑑』、水戸光圀の『大日本史』、新井白石の『古史通』にみる「神とはヒトなり」

八、 孔子以前の世界を見ていた徂徠はカミを志向する

 論語とは聖人の言にして門人の辞也。之を聖人の文と謂ふ者は惑(まどひ)なり

(『論語徴』題言)

 蓋し天なる者は得て測る可からざる者也

(『辮名』)

九、 儒学が日本人に与えた歴史意識、国家意識――徂徠から宣長へのドラマ

 
 時間の関係で松山では六、まで、拓大では全部のテーマに一応は触れることができた。

 例によってあちこち脱線して、三、では「もろこしにもあることゝだにいえば、さてゆるすは、いかにぞや」は、「欧米が評価することだといえばそうだそうだと承認する風潮ははたしていかがなものであろう」と翻訳することもできるだろう、と言った。漱石や鴎外の西欧体験、小林秀雄のゴッホやモーツァルトの話にもなった。

 仏教はインドの地で大乗や密教にいたるまで歴史的全展開を終えたのに文献のかけら、痕跡も残っていない。他方キリスト教はイスラエルではほとんど展開せず、ヨーロッパに渡ってから東ローマ帝国や西ローマ帝国でそれぞれ深化し発展した。まるきり関係が逆であるのは面白いという話にもなった。

 本居宣長は日本語の固有の表記法が最初からあるかのように考えているらしいが、今の研究では古代の日本人は漢詩作成で初めて文字で詩を書くことを知ったと考えられている。日本の歌謡はずっと口誦で来て、文字表現への欲求は和歌の内部からは誕生しなかった。

 日本人の文字利用への切っ掛けは歌謡や祈りや呪術からではなく、通商、政治、外交からであった、という話もした。

 みんなそれぞれ脱線した自由な話題の一つである。文字と古代日本人のテーマは神秘的で、多分関係があると推理しているだけだがと断って、私が伊勢神宮で体験した、祝詞の文字を決して外に出さない不可思議に、一種の文化ショックを経験した、という話も語った。

 日本のカミはカミであって神ではなくましてやGODではないとも言った。「神話」は中国語にも日本古来の語にもなく、mythosの明治新造訳語であり、「新聞」や「電話」や「百貨店」と同じように逆に中国に伝えられたのだという面白い話も言い添えた。

 拓大では2時間30分も許されたので、脱線もたっぷり可能で、話していて楽しかった。終って井尻さんから、2時間半も立ちっぱなしで熱弁をふるわれお疲れでしょう、としきりにねぎらわれたが、疲れたという感じはまったくなかった。

 茗荷谷のお魚のおいしい店で井尻さんや拓大のスタッフの皆さんと楽しい時間をすごした。喋った後のビールの一口は何ともこたえられない。

 翌日同席していた宮崎正弘さんからメールが入っていた。「拓殖大学講義は大変有意義でした。江戸のダイナミズム、いよいよ刊行が楽しみです。」

 『江戸のダイナミズム』は少しづつ完成に近づいている。本文テキスト1100枚、注180枚の予定。

(了)

「二つの講演会(二)」への13件のフィードバック

  1. 江戸を基点として日本を見、日本を基点として世界を見る。
    西尾先生らしい大構想の作品の完成を楽しみにしております。

  2. 【江戸のダイナミズム 古代と近代の架け橋】
     西尾幹二4時間独り語り 2000.9.16 杉並公会堂  

    このヴィデオ(上下巻)で初めて西尾幹二先生の「歩く、話す」お姿を拝見しました。古いカセットテープレコーダー器をテレビのスピーカーの前に置き録音。
    車の中が私の「杉並公会堂」となり繰り返し聞きました。うん、ここで「猿が人間を見て、人間には毛がないぞと笑うのを人間のほうで恥ずかしがって、俺にだって毛があるぞといって細かい毛をむりに探し出して見せて争うさまにも似ている。毛はないほうが上等なのだということを知ることもできぬ、阿保の所業というべきではないか」の話に会場から笑いが起こりと、私も楽しんで聞いていました。何度も聞くうちに歌を覚えるように言葉は覚えましたが、意味がわからないことが沢山ありました。

    今から思えば、中高生の頃、なんで本居宣長が教科書に載る人物かなどは気にもとめなかったし・・・矢印で国学と結んでいたのだろう。「楊貴妃」で、鼻の下を長くして語る蝶ネクタイの世界史の先生のことは今でも覚えている。ま、この程度の勉強しかしてこなかった私だから、分からないことだらけ。≪諸君≫の連載で先生の「江戸のダイナミズム」に又出会い夢中で読みました。が理解は今も難しい。しかし荻生徂徠と本居宣長が、何ゆえ教科書に載る人物か今はわかるようになりました。

    仏国の「自由・平等・博愛」この言葉を教科書で習った時の感想は、「仏国はこの3つがある素晴らしい国だ」だったように覚えています。住んでみて、この標語を上げないと手に入れることができないからだということが分かってきました。言挙げしないと手に入らない社会。世の中がギスギスしているゆえに多くの言葉が必要に、そして大切となっているのかも。今はこれに少しは慣れましたから言葉のやり取りを楽しめるようになりました。

    「国旗・国歌の君が代」が法律化されたとき、あぁ、日本という国柄がだんだん溶けてなくなっていくのかしら・・・といやーな思いになりました。

    西尾先生の≪本居宣長の「日本人の魂のおおらかさ」≫より抜粋。
    先生がレジュメだけと書いておられますが・・・予告編として。

    【 宣長の「やまとだましひ」は武道や軍事に関わる言葉として出ているのではありません。死を前にしていくらか慌てふためく業平の、飾りのない正直な心をありのままに評価した契沖に与えられている言葉なのです。儒教と仏教をともに嫌った宣長が「やまとだましひ」を拠りどころにしたことは良く知られていますが・・・人間の自然らしさ、真心、率直さ、ありのまま、常識、素朴さ、飾りのなさ、意図のなさ、作為のなさ、
    小利口ぶらないこと、無理をしないこと、つつましさ、心のこわばりからの解放――などなど、今まで述べてきたすべての言葉で言い表せるようななにかであり、それでも言い表せないような何かであります。それが彼のいう「やまとだましひ」です。私は勝手にそう考えることにしました。】

    【 全て何事でも、おおらかにして事足りるというのは、おおらかなままが一番良いということなのだ。ゆえにわが皇国の古代には、あゝいった小うるさい教えなんか何もなかったけれども、社会の下の下までが乱れるというようなこともなく、天下は平穏に治まって、一系の天子はいと長(とこ)しえに伝わり、皇位をお継ぎになってこられた。であれば、かの異国の名にならって言うなら、これこそがほかでもない、最上の優れたる大道というものであって、じつをいえば、道があるからこそ道という言葉がなく、道という言葉はないけれども、道はあったのだ。道をことごとしく大ぎょうに言い立てるのと、言い立てないのとの違いを考えよ。】

    【 日本人は一面では自分を主張しないですむ、何か鷹揚とした世界宇宙の中に生きているがゆえに、簡単に外から借りてきた西洋史や中国史でやり過ごしてきたのではないか。】

    【 外国から借りて自分を組み立ててもなお自信を失わないで済む背景というものが昔から日本人にはあったのではないか、「何か鷹揚とした世界宇宙の中に生きている」といったのはその意味ですが、それはいったい何か、というこの問いに生涯かけて立ち向かった思想家が、ほかでもない、本居宣長であったと私は密かに考えているのであります。】

    【 宣長の自己表現の激越さは、この矛盾、論理破綻そのものの自覚に由来するように思えます。そして現代の日本人がじつは世界人であろうとして直面しているさまざまな
    問題もここに関係していることをわれわれは直視しなくてはなりません。宣長の矛盾、論理破綻の自覚の共有は、われわれ現代日本人の課題でもあるのです。】

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    西尾先生のご本の中で「ニーチェはソクラテス以前の古代ギリシャに学べと、荻生徂徠は孔子以前を学べと、言っている。元の元を学ばなければ本物を掴めない」という文章に出会いました。
    西尾先生と出会って、知的欲求を満たし満足し、喜んでいる自分がある。理解するのに能力的時間的に精一杯な自分であるに・・・。
    西尾先生以前を求めよって? あぁ、こりゃとっても無理だぁ!

    『江戸のダイナミズム』のご本が早く世の中に出るのを楽しみにお待ちしております。

  3. 古きよき日本人・・・・とは、同時に古き悪しき日本人・・・の確認でもあるのだろうと思う。

    あまりに過去を誉め過ぎることは、対比する今の自分達の生き様を失望させる要素もあり、その意味では、やや世間では嫌われがちな「相対的見地」をもって、この論題を理解しなければならないのではないか。

    盲目的に過去を称賛する行為は、歴史の隙間を埋めることはできないと思う。

    古き悪しき日本・・・にも気付ける事がそこで重要なんだろうと思う。

    しかし、悪しき事に囚われすぎ、必要以上に固執するのも危険である。誠に過去に触れるという行為は容易ではない。

    ある意味、私たち現代人は新しきよき日本人・・・に盲目なのかもしれない。

    それを呼び起こし、覚醒させるには、歴史の連続性に目を向けるべきであり、更にはそれを具体的に示す方法として、(ニ)の項目が良い材料と考える。

    そして更にそれを現代に結び付ける論法として(三)の項目が、日本の歴史の「絶対」として示すことが可能となる。

    その事から、(一)から(三)はセットとして聞く価値があり、各章を十項目ぐらいに分けて論じれば、一冊の本が出来上がるのではないか。

    この本は「江戸のダイナミズム」の副産本、又は姉妹本として存在できると見る。またある意味改題本でもある。

    ファンとして夢がまた一つ増えたと言える。

    (夢が叶うよう、断定口調で書き込みました。お許しを)

  4. 西尾先生、昨日はメールをいただき、ありがとうございました。送信した文章の最後のほうがちゃんと送信されておらず、申し訳ありませんでした。江戸時代は藩校、寺子屋を拠点に、きちんとした教育が行われ、それが明治以降の近代国家の建設に大きく貢献したと思います。文化の面でも、産業の面でも大きな発展を遂げており、私はこの時代を高く評価します。一方で、日本が主に外交で失敗を繰り返す要因ともいえる日本人の短所。例えば、お人好しな面、それと関連しますが騙されやすい面、ナイーブな面などに関しては、この時代があまりにも平和で安定した時代であったことが、その形成に大きく影響していないでしょうか。西尾先生は、どうお考えになりますか?

  5. 海谷さん始めまして。
    >日本が主に外交で失敗を繰り返す要因ともいえる日本人の短所。例えば、お人好しな面、それと関連しますが騙されやすい面、ナイーブな面などに関しては、この時代があまりにも平和で安定した時代であったことが、その形成に大きく影響していないでしょうか。西尾先生は、どうお考えになりますか?

    私も興味深くどうお考えになるか楽しみにしています。以下の文章は私の勝手な推量です。長文ですが適当にはしょって読んでください。

    まず江戸時代は日本史の中では珍しい長い戦乱があった時代の次の時代です。長いといっても欧州の百年戦争や三十年戦争ほどは続いていませんが、共通の規範が崩れ、実力主義で親が子を殺し、子が親を殺し、主君の寵愛した女性を部下が盗み取ったり、宗教も新仏教といわれている仏教が発生し(浄土真宗を含むこれらの新仏教の成立の背景に戦国時代があったと私は空想しています)、いわば乱世・改革の時代であったわけです。こんなことは西洋文化では日常茶飯事であってその結果、西洋では宗教の否定や唯物論や自然科学思想や懐疑主義や目的志向や組織活動の西洋型原理原則が生まれていったのでしょう。

    武士も室町時代では主君への忠誠の絶対化はなく、君主が低脳なら、または自己の評価が低かったら主君を見限ることは是とされました。これが武士道の規範として仁や忠や「主君がバカであっても臣は臣たるべし」が美しいこと、正義であるもの、善であるもと重要視されたのはやはり江戸時代という戦国時代の否定や時代背景があったのでしょう。そういう意味では「アーロン収容所」を書いた西洋学者の会田雄次が日本の歴史で基準は戦国時代にしたらどうかという理屈もよくわかります。 理由の如何に関わらず争った人間は喧嘩両成敗という武家法の考え方も、落語の三方一両損という噺も正義という点から見ると理屈はつかないでしょう。WEBで見る今回の作る会の総会裁定も最終的にはことの善悪より和を重視した喧嘩両成敗法を適用したみたいに見えるのは私の誤解でしょうか。

    和を重視すれば争うこと自体が悪いことになり、おそらく和より義に重きを置く人間は空気の読めない人間として排除され、そうじゃない場合は無限大の自己主張の後退を余儀なくされます。しかし一方で簡単に個の自立と書けば簡単ですが、日本の特に経済面での成長の背景には否定的に見られている集団主義があるのも間違いではないわけです。すると集団主義を作用でなく機能させるにはそのメカニズムを考える必要がありそうだと私は考えています。

    さてこういう前提で「なんとなく日本人」小笠原泰 PHP新書を参考して考えています。この本は山本七平の「空気の研究」や各種の日本人論や比較文化論の衣鉢をつぐ本で、私は強く共感を得ました。

    集団主義のメカニズムを考えてみる 
    日本の組織では関係の構築が行われないと機能しません。日本では機械部品のように人間を取り替えることが出来ない理由の一つにこれがあります。また事務のコンピュータ化を現実を知らない人間が失敗する大きな要因は西洋型の組織論や機能分析や組織における人間の役割や関係性を限定して考える西洋型志向で考える点にあると考えています。

    <まず関係性について>
    関係性の構築は会社という組織との関係性や人間との関係性や製品や道具との関係性にまで至ります。これは日本人には普通のことであって自然に対する見方でも自己の一体化があります。道路に植えてある美しい花を子どもが抜き取ったら、母親が「公共のものを抜いてはいけません」ではなくて「○○ちゃん、ほらお花が痛いといっているよ。かわいそうだね。また植えてお花にごめんなさいといいなさい」という言葉を発するのは私の時代では当然のことでした。一方で日本人の自己の一体化を見事に利用しているのが韓国と中国でしょう。悪いことをしたという空気から、相手に対して無限大の負債を抱え、その負債は時代をへるとまるで借金のように金利が増えてますます日本人を苦しめるわけです。そういう意味では日本にとって中国や韓国は悪質サラ金業者です。

    強いシンパシーを感じて相手と自己の一体化を行って、またすでに裁判は終わり決着がつき、国際条約でも法的な処理は終わっているのに、相手に対する過剰な同情心を発揮している日本人は多いでしょう。これも自己の相手への一体化であると考えると理解しやすいのです。一方で商売ではむしろ自己とお客様との一体化は積極的に推奨されることです。相手のニードに一致した行動を取れるから競争に負けないでいられるという側面はあるからです。
    相手がいやがることはやるなというのも国際政治ではありえない基準ですが、それを政治家の指示に従って日本の外務省がやっている可能性は否定できません。そういう意味では外務省のメンバーはひねくれた性格の悪いやつも多くいたほうがいいのかもしれません。故吉田茂という首相はいかにも性格が悪そうな顔をしています。それをユーモアで隠しているのでしょうけどああいう人間も必要なんでしょう。

    製品への関係性の構築は自己と製品の一体化ですから、自分が「真善美」と考える基準にしたがって無期限の製品改良が行われます。それは「使いやすい配慮」「間違いを防ぐ配慮」「製品の正確さ」「製品の寿命」「愛にあふれた」「信用が置ける」「優美」など全体から機能で考えてゆく機能設計プロセスとは明確に異質なものです。これは日本人が世界のニードを把握して計画的にやったことではなく、むしろ関係性による自己一体化と個別最適化が為した技を使った結果、それが世界に受け入れられたのでしょう。

    製品への自己一体化が行われるとそれは「職人技」、または「おたく趣味」と呼ばれます。

    組織という無生物の場合もそうで自己と会社組織の一体化がなされることで初めて組織に対する忠誠が生じます。しばしば新入社員に近い地位の大卒社員が「私の会社」と思わず言ってしまうのも一種の自己と会社の一体化の表現なんでしょう。

    一体化する対象は国家ではなく組織ですから、組織を破壊しないために和を重視するのはある意味で平和な時代ではありうることです。これは競争の激しかった商人社会でもそうであって、当時の理想的な商人の相続方法として激賞されたのは、隠居する前に自分の子どもや女房へは勿論のこと、番頭さんや最後には丁稚に至るまで相続資金の提供を行った例です。使用人まで家族と同じ(配布率は少ないが)に相続を行っているわけです。
    もう一つ興味のある例は後継者を自分の子どもを絶対視しないで選択した商人です。この例は子どもがお客様を騙すようなことをやったのに気づいた旦那が子どものうちに人を騙すヤツは商人の風上に置けないと商家を相続させなかった例があります。これはすでに黄表紙という雑誌が世間に普及した時代には商人は客を騙してはいけない、それは人間としての信用を崩壊させることだという意味があるのでしょう。競争とは価格競争だけでなく資金繰りや品質やサービスや信用による競争もありうるわけで、そういう点で血縁より信用を重視したとも見えます。

    商売の信用とはどうやって付くのでしょう。それは毎日のわずかな努力の積み上げでしかありません。そして一度信用をなくすと組織は崩壊せざるを得ません。そしてそれを達成するには善悪の判断をもっている人間でないとルールでは完璧を期すことは出来ません。私欲に駆られて善悪の判断を間違えることはよくあることでそれでも完璧を期すことは出来ませんけど。信用の崩壊とは小さな穴であってもマスメディアが発達した現代でも、また江戸時代も瓦版や黄表紙などのメディアはありますから、組織防衛のために胡散臭いことは隠すという基準は存在しえたでしょう。でも現代に戻ってみると保守団体が胡散臭いことを隠すのなら、革新の胡散臭いことを隠した行為を否定できなくなります。だいたい機密保持がいい加減な日本の組織では情報というものは漏れるものです。それを「天網恢恢疎にして漏らさず」というのでしょう。

    関係性は人間どうしの場合も同じです。相手との自己一体化がなされないと真の関係性は日本ではもてません。真の関係性とは各個人で異なる真善美の基準で違いますが、少なくとも何でも話を出来る関係性は日本では相手に負担を与えるのでむしろ避けられます。これを相手に対する配慮と呼びます。外交では国益を第一に考えればむしろ相手に負担を与えるのがいいのでしょう。

    もう少し人間の関係性の構築について考えています。
    自己一体化が出来るのは幾つか条件があるようです。
    ①共通の規範があること。少なくとも相手や自分の規範がぶれないこと。
    ②善悪の価値判断基準が一致すること。
    ③最小限で目的が一致すること。
    ④組織を所与のものとしてみる

    ④は人間との関係で組織を所与のものとしてみる基準が必要かどうかの疑問がありますが、日常で考えてください。突然海のものとも山のものともつかない人間が来て、商談を始めてもそれを受け入れるでしょうか。名刺を貰って相手の組織の信用と相手の組織の位置づけを考えて相手を推し量ります。そういう意味では確かに所与のものとして考えないと関係性は成立しえません。

    ①と②は明らかに内心の問題です。江戸時代に内心が重視されたのも理由のない話ではありません。江戸の寺子屋教育でもそれは読み書きソロバンですが、読み書きの教材は善悪の判断基準を教えるものを教材にしています。作る会の騒動を人間の関係性の構築という①から③の側面で見てみるとちょっと違ったものが見えてくるかもしれません。

    実語教は学問のあらましを初学者に諭す勧学教訓、
    http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/siso/jitsugo.html
    童子教はこの世の道理や儒仏の教えを諭した処世訓
    http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/siso/doji.html

    戦国時代のように実力主義の世界ならスキルが重視されて、その人間の人格は関係ない基準になるでしょう。しかし世の中が平和で安定と秩序を求めるとそれは基準が変化します。同様に戦時国際法と平時の国際法が違うのは理由のないことではないのでしょう。

    <役割について>
    このような人間関係性の中で仕事をする人間は法では仕事をしません。むしろ関係性を重視した貸し借りの世界で仕事をすることはありうるわけです。そして組織における役割は限定していません。限定できるから簡単に取替えが出来るのですが、日本の場合はそういうわけにはいきません。むしろ比較的関係先と密接な重複を持って自由度を高めた役割、具体的にいうと「仕事は自分で考えるものだ」とか「お前は指示されたことがないと俺に文句をいうが、指示されたのなら死ねといわれれば死ぬのか」という表現に現れる曖昧な役割として定義されます。曖昧ですからデジタル論理であるコンピュータでは処理は出来ません。したがってその場では周りが帰宅しないと一緒に付き合うのは当然の話になります。

    こういう仕事を自己と一体化して、かつ正直でまじめで嘘をつくのがいやな人間が商品を開発したらそれは自己表現をそのままおこないます。そしてそれは部分最適化を行うことになります。日本の組織は部分最適化を積み上げてそれが最適であるとみなす習慣があります。いわゆるトップダウンではないのです。トップは天皇陛下のようにお飾りで存亡の危機のときだけ動くというパターンになりがちなのは理由がないわけじゃない。旧日本陸軍が敵国から将官は最低、下士官は最高と評価される理由は故なきことではありません。

    <余談>
    江戸時代になって時代の要請は秩序と安定と平和を求めました。したがって江戸時代の思想は秩序と安定と平和を求める性向があります。これは後で書く寺子屋の教育からも、また世界で始めて幼児教育の重要性を説いた貝原益軒の書物からも推測できます。

    江戸時代は人口のうち8%が武士、8%が町人、残りが殆ど農民といわれていますから 本来は農民の行動様式に「お人好しな面、それと関連しますが騙されやすい面、ナイーブな面など」があることとそれが継承されたメカニズムを理論だてればいいのでしょうけど。でも残念ながら一般に農民に関してはその集団主義や集団の中での平等主義や隣百姓とでもいう面は評論されていますが、「お人好しな面、それと関連しますが騙されやすい面、ナイーブな面など」に関しては、この私の知る限りでは浄土真宗の信徒教則本である「妙好人伝」という書物しか知りません。これは江戸末期に出てきたもので、あれほど激しい論説を説いた親鸞聖人がこんなことをいうはずがないという印象を受けるものです。真宗は江戸時代の人別帳を見ると大多数の農民の宗教で、結果的に大きな影響を与えたのじゃないかろうと想像しています。

    「妙好人伝」は何種類かあるのですが、その中に出てくる善人はある意味で自虐的です。現在の自虐というのは「過去の日本人が悪いことをした。その反省がない。私は反省しているから自分は悪くない」というだけで自分には何も責任がない、責任のない自分は何もする必要はないというパターンに近いように思います。ただ加藤紘一も古賀誠もその論説は違っていますが、A級戦犯は国内的に犯罪者であるしたがってそれは中国との友好の障害になるという認定では江戸時代の規範というより東京裁判史観に近い見方をしており、彼らが伝統を大事にする保守主義者であるかどうかは強い疑問があります。
    ここに出てくる宗教人は「足を踏まれたら、そこに足を置いた自分が悪かった」と考えるようなお人よしです。すべての原因を自己に転嫁することによって問題が解決したことにして、精神的な安定を得るというわけです。幾つか例をあげれば「隣の犬に吠えられたら、隣の家の間に塀を作らなかった私がいけない」「泥棒に出会ったら、それは前世で借金を返さなかったわけで、泥棒に出遭うことで阿弥陀様がその借金を返すきっかけを作ってくれた」「隣家からもらい火で火事にあったら、まず自分が生きていることを感謝し、さらに女房子どもが無事なことを感謝したらいい」というパターンです。一揆によって藩に抵抗した農民もありますから、こういう考え方が農民全部に普及していたかどうかわかりません。

    実語教は学問のあらましを初学者に諭す勧学教訓、
    http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/siso/jitsugo.html
    童子教はこの世の道理や儒仏の教えを諭した処世訓
    http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/siso/doji.html
    この二つは江戸時代の寺子屋の教材です。実語教は見ていただいたらわかるように学問の重要性を説いたものです。これらの言葉は現在でも我々の中に生きています。
    童子教も読んでみると実に興味深いのです。現在の小学校や中学校では善悪の判断もつかない子どもに「まず疑いなさい」と教える教師がいるそうですが、そんなことは教えていません。気づいた点でおもしろいのは
    ①仏教であれ神道であれ儒教であれ同様に敬っている態度を是としています。
    三宝には三礼を尽し  神明には再拝を致し
    人間には一礼を成し  師君には頂戴すべし
    墓を過ぐる時は則ち慎め  社を過ぐる時は則ち下(を)り
    堂塔の前に向かつて  不浄を行ふべからず
    聖教(しやうけう)の上に向かつて  無礼を致すべからず

    ②言葉の少ないのを品がいいと強調しています。私などは落第です。
    人の耳は壁に附く  密(ひそ)かにして讒言(ざんげん)すること勿(なか)れ
    人の眼(まなこ)は天に懸(かか)り  隠して犯し用ゆること勿れ
    車は三寸の轄(くさび)を以て  千里の路(みち)を遊行す
    人は三寸の舌を以つて  五尺の身を破損す
    口は是(これ)禍(わざはひ)の門(かど)  舌は是(これ)禍(わざわひ)の根なり
    口をして鼻の如くならしめば  身を終るまで敢へて事無し

    ③社会生活における礼の重要性
    などを説いています。

    貝原益軒の童子訓という本があります。
    これは繰り返しますが世界で始めて幼児教育の重要性を説いたもので、このはじめのほうを見るとこんな記述があります。

     凡そ、人となれるものは、皆天地の徳をうけ、心に仁・義・礼・智・信の五性を生まれつきたれば、其性のままに従へば、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫の道、行はる。是人の、万物にすぐれて貴き処なり。ここを以て、人は万物の霊、と云へるなるべし。霊とは、万物にすぐれて明らかなる、智あるを云へり。されども、食に飽き、衣を暖かに着、居所をやすくするのみにて、人倫の教えなければ、人の道を知らず、禽獣にちかくして、万物の霊と云へるしるしなし。古の聖人、これを憂ひ、師をたて、学び所をたてて、天下の人に、幼き時より、道を教え給ひしかば、人の道たちて、禽獣にちかき事をまぬがる。凡そ人の小なるわざも、皆師なく、教えなくしては、みづからはなしがたし。いはんや、人の大なる道は、古の、さばかり賢き人といへど、学ばずして、みづからは知りがたくて、皆、聖人を師として学べり。今の人、いかでか教えなくして、ひとり知るべきや。聖人は・人の至り、万世の師なり。されば、人は、聖人の教えなくては、人の道をしりがたし。ここを以、人となる者は、必聖人の道を、学ばずんばあるべからず。

    この冒頭の言葉は明治時代の教育勅語の説く内容との類似性を感じます。教育勅語の現代語訳と違う点は明治時代らしく「もし、万一、わが国になにか非常事態が起きたら、愛する祖国と家族のため喜んで勇気をふるって身を投げだし、そして、未来永遠につづく日本の国の生命を守る気概をもちましょう」という点ではないでしょうか。
    教育勅語は天皇が下されたものだから否定するという論説は趣味の話になりますが、すでに根底にある考え方は江戸時代に作られていて世間に普及していたわけです。「もし、万一、わが国になにか非常事態が起きたら、愛する祖国と家族のため喜んで勇気をふるって身を投げだし、そして、未来永遠につづく日本の国の生命を守る気概をもちましょう」という点も当時の危機意識や時代背景を考えれば当然のことだったでしょう。

    勿論この考え方は江戸時代のように鎖国で守られかつ世間の秩序維持を絶対化された世界で出来上がった思想と明らかにバッティングします。

    私は日本の場合は米国の核の傘に守られることは四辺を海に守られることと同じ環境を生み、したがってその環境で作られた思想は江戸時代型になるのは必然だろうと考えています。

    日本であった自虐的なものは戦勝国であった英国でもあったようで、それを是正したのがサッチャーであったのでしょう。日本の場合は敗戦という点と背景にGHQの論説を受け入れる素地があったという点で傷は深いと考えています。

  6. 意見を投稿した後で読売新聞を読んでいたら「7月16日日曜 4面13版『政治を読む 価値観外交の功罪』」というカラムがありました。どういう意図で読売新聞が書いたのかもわかりませんし、私は安部官房長官を支持するために以下の論説を書いているわけじゃありませんが、実に興味深い論説でした。

    福田元官房長官の文言のみを抜粋するとこんな内容でした。

    「(安部官房長官の普遍的価値観をこちらが求めても)それが出来ない国もある。出来るまで付き合わないか。自己主張をして、それでどうなるのか。相手の立場や言い分もおもんばかって、あまり事を構えず、信頼関係を強めることが国益にかなう。僕らはそういう考え方だ」

    日本社会だけを考えたら日常の問題でこのような判断がなされているのは今回の作る会の裁定を考えてみるとありうることです。したがってこの福田元官房長官の論説は日本社会に受け入れられる素地があります。

    しかしこれを現在の覇権国家で大量破壊兵器を輸出疑惑のある中国にやってうまく行く訳がありません。

    米国も含めて国益第一主義で動くのが政治家のミッションなら相手がいやがろうが、理解できなかろうが国益を通すのが政治家というものです。福田議員の論説は(自己主張を否定して、相手の立場や言い分もおもんばかって、あまり事を構えず、信頼関係を強めること)というパターンは日本の社会のように腹がわかっていて、善悪の基準が曖昧で、争うことに忌諱があり、最終的には貸し借りの世界で決着がつく世界だけで通用する論理です。

    「相手の状況をおもんばかって」は日本社会では美徳でしょう。その認識が正しいとしての話ですが。国家の主権擁護や国益維持を主眼に考えれば「相手の状況をおもんばかって自己主張をしない」というのは国際社会に生きる政治家としては悪徳です。「自己主張を否定して、相手の立場や言い分もおもんばかって、あまり事を構えず、信頼関係を強めること」という論理は日本社会のように基本的に信頼関係の関係性で結ばれていて、嘘をつくのに忌諱があって、約束を必ず守る、貸し借りが存在して、正直でまっとうな世界でしか通用しないものなのでしょう。これを覇権国家である中国や僻み意識から他者に責任を転嫁する韓国には通用しない論理だからです。

    私は政治家はやはり日本社会で生きているのだなとつくづく思います。日本社会は主客一致が所与のものとして成立する社会です。主観と客観の不一致が問題になる世界ではありません。したがって通常行われる判断は時代の空気にしたがって行われます。主客一致でないといけませんから大多数の意見を正しいとみなす空気による判断です。これはしばしばマスメディアが作った空気がありますが。

    そう考えないと全会一致原則なんて基準が通るわけがありません。

  7. 機械計算課長こと松井康雄 さんへ

    いつも真摯な姿勢で投稿されておられると、敬意を持って拝見いたしております。ただ、時々、長く、論旨拡散型の記述スタイルが見受けられると、ちょっと気になっておりましたので、失礼とは存じますが一言コメントさせてください。

    私も人様のことは言えない駄文書きですが、長短に関係なく、書き込みの趣旨に沿って一気に読める程度にされれば、読む方は助かると思います。(その前のと比較し)直近の投稿は、その意味で趣旨が一貫し、説得力があると感じます。ご自愛の上、ますますのご活躍を期待いたします。

  8. 松井計算課長さんに大同意いたします。

    福田さんの意見「相手の状況をおもんばかって」は日本国内では通る意見でしょうが、外交は海千山千のつわもの相手。
    日本人の良さを逆手の取って、押しまくられてきたのが、今日の状況ではないでしょうか。中韓朝米露ときりがない。

    一度日本に来たことのある多くの外国人が日本社会の素晴らしさ、(おおらかさ、嘘をつかない、謙譲の美徳 清潔、きちんと仕事する・・・)に驚いて帰る。先日も日本へ行ってきた仏人の医者の弁として「日本は教育が良いんだろう。あのような社会があるのは・・・」というのを聞いた。

    イタリアのレストランで日本人と分かる(日本人かと問うて来る)と、お勘定にビールの数が多く書いてあったり、頼まないものが書いてあったり・・・。私は半分日本人でない部分があるから(笑)お勘定をじっくり見ます。仏語と英語(両方たいしたことがない私)で、にっこり笑ってお勘定を指差せば、相手はもうわかっているので、喧嘩もせず目的達成。

    これは、「外国旅行だし、言葉もできないし、事を構えてもなんだし・・・まぁいいか」という日本人旅行者に出会い学習した相手が一枚上。

    パリのメトロの切符売り場でもお釣りがきちんと来ないんです。
    なんか騙されたような・・・で終わっていく日本人。もよく聞きました。

    中国人は食い下がります。英語と中国語でわめき(公共性の有無の問題か?彼らは声が大きい)お釣りがでてくるまで動きません。

    【西尾先生の江戸のダイナミズムより】

    ≪・・・中国の儒教を言われた通り、言葉の文字通りのままに学ぶのはバカだと熊澤蕃山は指摘しているのです。時・処・位に応じて、日本には日本の事情がある。・・・「中華の華はわが日本なり」という立場にたって明に対して書簡を送る時にも、あえて明の年号を用いず、また天皇が臣下、皇帝にもの申すみたいな書き方をした。そんな大君外交をやったために明が怒ってしまって、それから国交断絶になりますが、これもまたもっけの幸いとみなすぐらいに江戸時代には中国に対しては高姿勢であったのです。

    新井白石は追い討ちをかけて、信牌貿易をはじめる。・・・勘合符の逆の発想。中国にとっては屈辱です。しかし、中国は日本の物品欲しさに参入した。日本は、相手国表示に中国や清や明という文字を一切使わず、全部「唐」で統一した。それを押し通すというのも中国には屈辱で、江戸時代に入ってからはこのように「中国」という国を認めていないという外交姿勢を守り続けたわけです。≫

    ≪ オルテガの「大衆の反逆」の中で「ヨーロッパ世界」は深く考える優れた少数者の側に入り、「非ヨーロッパ世界」は米露以下、日本ももちろん入っているのでしょうが、付和雷同で無責任な大衆の側に・・・。

    ヨーロッパの貴族性、ヨーロッパ以外の世界の卑俗性、或いは労働大衆性という分類の仕方を見せ付けたあれほどの自信は、ヨーロッパが学芸だけではなくて、当時技術力、産業力、資金力において世界に冠絶する力を持っていた物質文明の力に裏付けされて出て来た発言だと思うのです。つまりヨーロッパの知性は、常に自分の富と力の源泉を正視するリアリズムに立脚してものを言っているということであります。

    だとしたらそのような西洋の思想に学んだ日本の今の人文社会系の知性は、日本が世界でナンバー2の経済力と実力を持った今日、ヨーロッパ人と同じようにリアリズムに立脚した、自分を世界の中に正しく位置づけて眺める精神の型をこそ、むしろ踏襲すべきではないか。

    オルテガの思想の真似をするのではなくて、オルテガを引っ繰り返した自分の思想を打ち出さなければいけない。それが江戸の初期儒学者が日本の今日の知識人に与えている大きなヒントであるというふうに思えてならないのです。≫

    クリントンが大統領になった時、時代は変ったといわれた。戦後の若い世代が大統領になったと。そのことの裏には、今までとは違うかもしれないぞ、があった。

    だとしたら、日本の総理大臣も、安倍晋三、麻生太郎、は今までの政治家とは違うぞ、世代は変ったと。且つ、祖父を偉大な政治家に持つ二人だと言うことを世界に宣伝しましょう。

    日本にも胆の据わった政治家がいるぞ!を今からでも遅くはない世界に向けて宣伝すべきである。(誰がなろうが、国益のために!)

    マスコミよ! どこにいるの? 国益のためにお書きなさい!

    私は9月の次期総裁選の前に、この「江戸のダイナミズム」が世の中に出、ベストセラーとなることを願っております。

    日本国が変ります。

    「やまとたましひ」を持ちながら「中華の華はわが日本なり」

  9. 田舎のダンディーさん>
    HNは長いので「課長さん」とか「松井さん」とか呼んでください。私の常駐しているサイトでは課長さんと呼んでもらっています。

    的確なご批判ありがとうございます。

    もともとアナログでザルでパターン認識型の頭脳構造を持っているようなので、それが厳密なデジタル的な話を書くこと自体に無理があるのかもしれません。コンピュータのプログラムではザルの部分はコンパイラーが支援してくれますが、日常の話ではコンパイラーはありませんから。

    今回書いた二本は順番から考えると逆であったらいいなと後になって思っています。

    後段の投稿は福田議員の思考パターンが日本社会の国民意識を反映したものだという批判を加えましたが、そのパターンはGHQの教育活動だけによらないで、もっと前の時代である江戸時代に福田元長官の考え方の種があったことを論考したものです。福田元官房長官の論説がGHQの宣伝活動によるものかどうかで考えると、それだけじゃないぞという内容になっています。

    いわばわかりやすい後段の詳細説明がわかりにくい前段になっているわけです。

    前段で書いていないことで私が重要だなと考えていることを簡単に述べると、「日本人は思想を取替えのきく箱と考えている。したがって箱はどんなものでもよく中身を変えないで箱だけ変化させる」という山本七平の論説した内容があります。これは時代の空気にや状況の変化にあわせて思想を換えるという説明にもなりうるものだと考えています。また主客一致の世界では思想より時代の大多数の意見・空気が正しい判断になりますから、おそらくこれからも同じ成功と失敗を繰り返すのでしょう。

    「思想を取替えのきく箱」と考えるという考え方は、思想家にとったらとんでもない考え方ですが、本質を残しながら和服から洋服に切り替えるようなもので、見かけ上はで変化への対応もしやすいわけです。しかしおそらく小泉改革の日本の米国型資本主義化というパターンは日本の江戸時代に作られた日本的資本主義の精神と食い違ってきますから、これから強い抵抗を受けるでしょう。同様に安部官房長官は小泉首相のような孤独なグループで対応するやり方はとっていませんが、「自由や民主主義」という普遍的価値観を表題にして米国と共同歩調を取るつもりでしょうが、日本人は思想に殉じるというパターンはあんまりありません。箱として適用するならいいですが・・・・。自衛隊は意識が高いと評価していますが、それらの人に抽象的な「自由と民主」を守るためにイラクで死んでくれとは私はいえません。まだ国益を守るためにならいえるでしょうし、「日本国民を守るために片道飛行を行って北朝鮮へ攻撃をかけることをお願いしたい」なら言えるかもしれません。まあ私はそういう立場にいませんから空論ですが。

    またさらに別の観点から見ると特攻隊で死んでいった若者も多くは三島由紀夫のように思想に殉じたのでなく、自分の実感として感じられる家族や歴史という自分たちが生きてきた現実社会を守るという側面が遺書などを見えると思えてなりません。

  10. 大人の教科書

    それまでは全く考えもしなかったのですが、ある「評論ブログ」を見て、急にコメントなるものを思い立ったのが去る5月13日のこと。そして、西尾先生のブログで「つくる会」の事を知り、傍観者だったのに、6月10日以来、関係三ブログに余計なコメントを書き込んで今日に到っております。

    ネットの論争と言えば2チャンネル的イメージしかなかったので、短期間でしたが、多くのものを学ばせてもらい、認識や考えの変わったところも沢山あります。長い人生で一番多くのことを知った数ヶ月とも言えます。もちろんネットで見る世の中は、実態の一断面だと思いますが、もはや無視できない世界である事も事実だと思います。

    新しい世界を開くと同時に、功罪併せ持つと思われるネットの機能が、子供たちにどういう影響を与えていくかは判断できませんが、有益な活用がなされる事を願わずにはいられません。そこから教科書について考えるのですが、これまで、偏向した教科書と偏向した教師によって、子供たちのまっさらな心に一種の刷り込みが行なわれると、大きな危惧を抱いておりました。

    しかし、小さい時からこうした情報過多の状況に投げ込まれる時代は、本にしろ、テレビにしろ、新聞にしろ、一つのメディア、一つの手段だけでは、人の心や考え方を規定は出来ないと考えるようになりました。同時に、手軽で便利で都合のいいネットの機能を使いこなす事と、強制してでも多くの本を読ませ、思索する習慣や判断する能力を養わせる事を並行して行なうべきだと思うようになりました。

    最早、教科書だけで子供の心を育み、規定することは出来ない、そして子供の心をいか様にでも操れる雑多なものが、子供の世界まで溢れている社会が、既に実現していると感じるのです。だから教育の世界を塀で囲んで、社会と隔絶したところで立派な教えを説くと言ったイメージよりも、子供とつながった情報の窓口や周辺の社会のありようを、少しでも健全にしていこうと考えることが大切だと思っております。

    やっと結論ですが、だから、西尾信奉者という立場ではありませんが、例えば、歴史や世界を俯瞰できる眼を持たれた西尾先生のような方が書かれている、日本人の心のありようや、ものの考え方をみんなで学び、進む方向を模索していく事は、大人の教科書を学ぶようなもので、想像以上に大切なことだ思い、そうした観点から物事を見ております。

  11. その女 ソルベ さんへ

    相変わらず、気風のいい書きっぷりですね。経験も勉強も、頭よりも心に、よく蓄積されておられると感心します。西尾先生の本は、論理も明快、リズムもありますが、内容が濃密なのでそう簡単には読み飛ばせません。でも、ソルベさんのコメントを読むと、先生の新しい本を、人生のテキストの一冊として早く書棚に飾りたくなってきます。あっ、飾っていただけでは駄目ですね。

    私は、色々なものに関心を持つ、移り気タイプなので、一途に一つのことを極め、掘り下げる様なことが、なかなか出来ません。ソルベさんの文を読むと、あれもいい、これもいい等と言っている自分の心根を見透かされたようで、ハッとさせられます。

  12.  田舎のダンディさん

    過分なお褒めのお言葉を頂き、嬉しい反面面映い気持ちでおります。

    私はMDと聞いて音楽を聞く器械に結びつけるような人間です。  こんな程度の私がこの日録に書いていいのかしらと思うことも度々あります。

    それこそ「分を弁えなさい」という声が聞こえてきそうで・・・。

    しかし、私には文章を書くという事は、「歌を歌うこと」、「ダンスをすること」、と同じように気持ちがスカッとする行為なのです。そして誰かが読んでくれていると思うとなおのことです。やめられず、今もこうして駄文を書いております。

    ダンディさんと同じように、この私にも西尾幹二先生の日録は「大人の教科書」です。

    百科事典や電子辞典を横にし、時々鍋を真っ黒にしながら・・・。

    わからない事や、あまり気乗りのしない事柄は飛ばしたりして。

    山本夏彦翁が、易しすぎるものばかり相手にしていてはそこ止まり、難しいものは飛ばしてもいい、その内分かるようになると。その通りだと最近思う様になりました。

    一度、目にした言葉は覚えていて、うん、分かった!と喜ぶ自分。しかし分かってない。二度三度出会ううちに本当に分かるようになります。

    アルツハイマーの接近を感じる私でさえこうなのですから、いわんや柔軟な脳味噌を持つ子供たちにとって「ゆとり教育」は失礼千万なことです。

    子供達は心身共に鍛えられることを、今か今かと待っています。

    大人は自分に置き換えて、あぁ、しんどいやろな~ とかまたは、体がついてかない自分をごまかす為に、まぁそこらへんで・・・とか、厳しくすると嫌われるかも、とか色んな弱い心模様で、「子供のダイナミズムを愛しんでやろう」と考えなくなってきています。

    「老後をどうする?どうするのぉ? 子供を生んで育てるにはこれだけお金がかかる!」を耳にたこができるくらい聞かされて育つ子供は、「そんなにしんどいのか?人生って楽しいことがないんやなぁ~きっと」と。勇気も度胸も育ちません。これで少子化の世界の誕生です。

    むかーしむかーしテレビで見た面白い話。

    床屋さんの子供3人が3人とも床屋になった話。

    「どうしてお宅のお子さんは3人とも床屋さんを選んだのですか?」

    「私たち夫婦は毎晩、こんなに儲かった儲かったと話していたからかもしれません」と。

    仏国では大人が威張っています。見事に威張っています。だから子供が普通に育っているように思います。携帯電話もコンピューターも皆が皆持っていません。なぜなら「誰がお金を出すんじゃ?」と大人は言います。

    日本国の社会は素晴らしいと思います。

    仏国の大人は他人の子供でも叱ります。言わば要するに社会を挙げて教育している。でもこの程度かと思ってしまいます。

    日本は脆弱な大人が今は何も子供に言わなくなった。でも社会は日本のほうがずっといいと思います。何故だろうと考えてみました。あっ、これだ!「やまとたましひ」を持つ日本人が培ってきた社会が【まだ】あると。これなら社会はまともな筈だと。

    でも、車にガソリンを入れなきゃ走らなくなる如く、この「やまとたましひ」も大人たちがもう一度見直して、自分の中に再生しなければ、「美しい大和の国」は消えてなくなってしまうでしょう。

    あぁ、もったいない。

    西尾先生や曽野綾子さんが言っておられるように、「子供達に強制的にでも、人の役に立つ仕事をさせる」。私は大賛成です。子供達はそれを待っている。むかし私たちは先生に連れられて臨海学校などで共同生活をしました。今でも覚えています。あの楽しかったことを。だから共同生活も体験させてやりたい。子供達は役に立つ仕事をして褒められたいのです。子供に丁度いい仕事なんて、社会から見たら仕事ではないかもしれないけれど、(そこはぐっと我慢して)君たちのおかげで、こんなに喜んでくれる人がいると、子供に栄光を与えることを大人はやるべきです。

    共同生活をやりながら社会の役に立つ仕事ができるようなことを考えてやりたい。県にそのような宿泊所をつくり、そこから職場(老人ホームとか)に出かけて行く。その宿泊所の管理運営をリタイヤしたおじいちゃんおばあちゃんがやる。

    私が文部大臣だったらまずこれをします。あっ、大臣は辞めさせられるから、総理大臣になったらします。次の総理大臣さん、やってください。お願いします。

    【やまとたましひ】西尾先生の意訳

    人間の自然らしさ 真心 ありのまま 常識 素朴さ 飾りのなさ意図のなさ 作為になさ 小利口ぶらないこと 無理をしないことつつましさ 心のこわばりからの解放 などなど。

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