この絵にはデューラーやグリューネヴァルトの描いたイエス像にみられる憂悶の表情や精神の翳りもない。
むろん後年の画家たちが好んで崇高化した神秘主義的なイエス美化の片鱗さえない。ここにあるのは「物」である。三日後にこれが復活するなどとは到底おもえない。
後年ドストエフスキーはこの絵を見るためにわざわざバーゼルに立ち寄った。そしてこの絵の前に立ったとき、彼はあやうく持病の癇癪の発作を起こしそうになったと言われる。それほど凄まじい絵である。
彼は『白痴』の中でムイシュキン公爵にこう言わせている。
「あの絵を!いや、あの絵を見ているとなかには信仰をなくしてしまう人もいるかもしれない!」
信仰の生きていた時代こそ、信仰の危機も生きていた時代である。近代人はイエス・キリストを「物体」として描くことさえも出来ないのだ。ドストエフスキーの言いたかったことはそのことにほかなるまい。
言うまでもなく、「物体」という観念が勝手にひとり歩きしはじめ、物を蔽い、目を曇らすからである。
現代は生の不安を蔽い隠すあらゆる遁辞に満ち、外的現象に救いを求める人に満ちあふれているではないか、彼はそうも言いたかったのかもしれない。
それでいて、悲劇の規模は中世末期の混乱の時代の比ではない。悲劇の分量の大きさに比例して、それを糊塗する自己回避の言論の規模も大きくなるのが現代の特徴である。
ひとびとはあらずもがなの無用の言論に取り巻かれて、自分を瞞すために思想をあみ出し、不安から目をそらすために理論をこねあげる。こうしてことごとく悲劇の因果関係が説明され、自分の視野に閉じこめることで悲劇を遠斥けたと信じたがるが、そのこと自体が悲劇にもっとも近い地点に自分を立たせているのだということには気がつかない。
お久しぶりです。
非常に難しいテーマを論じておられますね。
近代人の悲劇。
現代思想の大家、柄谷行人氏は概ね同じような地点にたちましたが、彼は、古代信仰・自然・風景といった保守思想にはいきませんでしたね。逆に「近代日本文学の起源」を書き自然や風景の発見こそが近代人の証であると語りその後、徹底的な思想遊戯に走りました。しかし最近はもうあまり読まれていないようです。ポストモダン一派ももう終わりです。
現代社会にはびこるのは諦念だと思います。もはや近代社会の枠組みの中でしか我われはものを語るしかないのです。枠組みが決まっている以上、すべての言論は定石か定石を変形させた新しい定石であり、言語空間とは碁板や麻雀卓と同じなのです。最近、近代主義者丸山真男が復権してきているのもその流れでしょう。
さて、西尾先生はヨーロッパ関係の初期作品は非常に風景描写がうまいですね。これが近代人の証だという思想遊戯はおいといて、しかし、今を生きる我われは驚くほど風景描写ができませんね。
俺はこう思う、わたしはこう思う、といった類のものは描けるんですけどね。あの「木」がどんなこんなで美しいといったことが描けない。本当に「あの『木』は今まで見たことも無いようなとても美しい木でした。」くらいにしか描けない。それではどんな「木」なのかわかりません。
近代人が、風景描写こそが近代的であることに気がつき脱近代・反近代としての手段に使うことを放棄したのか、それとも単純に国語力・表現力が弱体化しているのか。私は後者だと思います。
「少し意見させて頂きますが」
> 「あの絵を!いや、あの絵を見ているとなかには信仰を
>なくしてしまう人もいるかもしれない」
それは信仰の弱い人です。
イエス・キリストが神の子である、奇跡を起こせる存在であることを信じることが出来ないのですね。
「生き返りそうな絵」を見て、復活を信じてもあまり意味がないでしょう。
あそこまで完全に「死体」になっているからこそ、「復活」の奇跡の偉大さも増すというものです。
イエスは、どこまでも悲劇的な存在でなければならないのです。
より悲惨であればあるほど、そこから復活することの意義が大きくなるのです。
「半死半生」の状態から復活しても、あまり感動はしないでしょう?
反対に、完全に死んでいる状態から復活した方が、感動もより大きくなるというものです。
神の偉大さを知る為には、より悲惨な境遇に追いつめられる必要があるのですね(追いつめられれば追いつめられるほど、その後に逆転して復活する意義が深くなるのです)。
(その時こそが、神の偉大さを実感出来る最大のチャンスになるでしょう)←小さな奇跡では、なかなか人間は神の存在を信じるコトが出来ないですからね
信仰心というものは大切なんですが、私はそれを簡単に探せるものだとは思いたくないし、また、それが現実だと思う。
そして結局最後まで本当は理解できないまま死んでいくんだと思う。
ところが時々解ったようなつもりになることがある。そのあと時間をおいて振り返ったとき、解ったつもりで振る舞った自分が恥ずかしくて仕方が無い経験は何度もある。
結局信仰というのは他人には伝えることなんて不可能に近い。
もしもそれが出来ると言い切る人間がいたら、たぶん数日後のその本人が一番嘲笑うに違いない。
最近日本サッカーの代表監督に就任したオシムさんの味のあるしゃべりが人気だ。彼はたぶんその辺の牧師や神父よりも人生を語らせたら上手いかもしれない。彼の語りが響くのはどうしてなんだろう。
懐疑心が旺盛だからなのか、それとも単純に経験が豊富だからなのか?
私なりに感じているのは、彼は常に最悪を考えているんだと思う。
意識していると言うべきかもしれない。
信仰にとって最悪は何か。自分を信じれない事と、自分を疑えない事の両方にあるんだと思う。
結局最後は解らないまま人間は死ぬしか無い。
しかし、死んで初めて伝えることができる事はある。だからこそそれを無駄には出来ないし、ましてや感ずるべきなのではないだろうか。
>その逆説に惹かれたのである。
かつてカメラが発明された時、絵画は行き詰りました。でもそこから印象派が生まれました。
風景画もある意味完成されていたと思っていたのに、印象派が出てきて、今までの風景画がどれだけ画面全体が暗かったかに新たに気づかされました。
信仰の篤い時代に、宗教画とはこんな風に描くものという因習にとらわれずに、「物」としてのイエス・キリストを描く事に成功した逆説は、理性を超えた芸術家の目という見事さでしょうか。惹かれます。
横たわるキリスト像が信仰の危機とは興味深い指摘でして、
自分は、むしろ信仰に対する試練である、と思いました。
何も知らない無垢な人々が、まず神々しい図像や言説に感化されて入信し信仰を深める、
ということがあるのでしょうけれども、
その先に、現実に身近な人々の死や病などの苦しみなどを体験して、
信仰がゆらぐ、試される、ということがあると思います。
それを乗り越えても次の試練が来る、の繰り返しが信仰と共にある生活だと思います。
だとすれば、実際に何かの不幸を実体験するまでもなく、
入信のきっかけとなった神々しい図像を一度否定してみる、
あのような横たわるキリスト像を描く、
ということも信仰を深めるための手段としてありうるのではないでしょうか。