ハンス・ホルバインとわたしの四十年(七)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

 契沖は仏僧でありながら、儒教をよく知り、他方また空海の影響も受け悉曇(しったん)――サンスクリットのこと――に通じていたことが、彼を音に敏感にしました。

 漢字の世界に梵語という表音文字がクロスしてきたことは、漢代の中国語をも揺さぶりますが、万葉仮名を解読し、歴史的仮名遣いを確立することに成功した契沖の場合にも、表音文字であるサンスクリットの漢字化の問題には無関心でいられたはずはありません。

 いずれにせよ彼は、古代日本に流入したものの何かにこだわって何かを拒否したことはないのです。宣長のように儒教や仏教に対し外来の思想として敵意を示すたぐいのことはありませんでした。

 文字を持たない素朴な古代日本人の生き方を彼はそのものとして認め、受け入れ、そこに自ずと道、古道、神の道の成り立つさまをみたのでした。しかもそれは歌の姿に現れるのであって、歌こそ彼には神の御業なのです。

 『萬葉代匠記総釈』の冒頭に次のようにあります。

 

「本朝ハ神國ナリ。故ニ史籍モ公事モ神ヲ先ニシ、人ヲ後ニセズト云事ナシ。上古ニハ、唯神道ノミニテ天下ヲ治メ給ヘリ。然レドモ、淳朴ナル上ニ文字ナカリケレバ、只口ヅカラ傳ヘタルマヽニテ、神道トテ、儒典佛書ナドノ如ク説オカレタル事ナシ」

 契沖が客観性を重んじ、科学的であろうとしたことと、「本朝ハ神國ナリ」と断じたこととは少しも矛盾しておりません。

つづく

お 知 ら せ

靖国神社参拝の後は内幸町ホールへ

8・15にこそ、西尾幹二先生の講演をお聞きください。

8・15国民集会
『保守なる人びとに

       問い質したきこと、これあり』

日 時 平成18年8月15日
     午後2時半~午後4時半(開場午後2時)
会 場 千代田区立内幸町ホール 先着188名

     千代田区内幸町1-5-1  03-3500-5578
  ・「第一ホテル東京」本館隣の東電別館区画広場の地下。
  ・JR新橋駅、東京メトロ銀座線・都営浅草線新橋駅の蒸気機関車側出口歩5分。
  ・都営三田線内幸町駅A5出口歩3分

  ・靖国神社からは、東西線九段下(進行方向後ろ乗車)→大手町で都営三田線乗り換え(進行方向後ろ乗車)→内幸町駅A5出口が便利です。約30分。

  ・平成17年5月1日に、人権擁護法案反対銀座デモの前に、集会を開いた会場です。

参加費 ¥1500- 
主 催 人権擁護法案を考える市民の会 代表 平田文昭
     jpn.hirata@nifty.com
http://blog.goo.ne.jp/jinken110/

次 第
□1430~1500
第一部 提言 人権全体主義との対決 
(平田文昭より問題提起)
・国際人権法、人種差別撤廃条約、女子差別撤廃条約、児童権利条約、障害者差別禁止条約(案)などに連動する国内法、条例や関連政策は、人権を名として国家・社会を全体主義化する道具となることで、我が国の独立と文明を蝕んでいます。加えてこれらにかかわる「反日諸団体」の「ACk+C+U人権包囲陣」は我が国のみならずアジア・太平洋諸国の自由と民主主義を脅かしています。
・アジア太平洋人権協議会設立について 

□1500~1600
第二部 西尾幹二先生講演 

「真昼の闇」の時代に目を開け

~安倍氏よ、
        小泉にならないで欲しい~

・我が国の「保守」のあり方を、西尾幹二先生が根底的に問います。

①インターネットと活字の言論
②新聞の無力の時代
③意見の小さな違いこそ決定的違い
④言論人は政権ブローカーではない
⑤政権は盲目的従米のままでいいのか
⑥言論誌は中韓の単なる悪口屋でいいのか
⑦親中になりやすい「右翼」の体質
⑧日本会議は正式の政党になれ
⑨自由と民主主義を再確認したい

□1600~1630 質疑 等

注意事項
◆録音、撮影、中継等は一切禁止です。

「ハンス・ホルバインとわたしの四十年(七)」への12件のフィードバック

  1. 靖国神社に参拝にも行きたい。
    西尾先生の講演も聞きたい。
    8月15日は「江戸のダイナミズム」西尾幹二の4時間一人語り
    のヴィデオを見て、勉強、勉強 します。

  2. 随筆の後追い

    ブログに掲げられたハンス・ホルバインのキリストの絵を前に、語るべき言葉を持たない、というより語るべき見識を持たない私は、しばしの間沈黙を守る他なかった。お陰でというか、これまで関わらなかったブログに彷徨いつつコメントし、歓迎されるわけではないと思いつつ舞い戻ってきた。

    語るべきものの溢れた西尾先生の頭脳と手のひらから放たれた古今の学識や智慧が、舞い散る花びらのように目の前をかすめ、掴まえようとしても空しく飛び去る。今に残る聖者、賢哲の言葉でさえ真実の姿を捉えられないと言葉や文献学の権威が告白する。

    しかしなお、文献学なくして、学芸、哲学、叡智も成り立たないと「歴史意識」の意義が説かれる。確かに、目前で展開される世界の出来事さえ、既にして薄明かりでしか見ることがかなわないような気もしてくる。混迷の世に真実を見るとはいかに難しいことか。

    しかしまた、人間の歴史とはなんと魅力的なものか。同時に、その時その時代の人、言葉、価値をより深く読み解き、活写するのは、凡人の容易になせる業ではないという気もしてくる。

  3. 話し変わって

    日本有数の人気ブロガーとして活躍されている、当代切っての才人「てっく」さんが一陣の風の如くに当ブログに登場し、忙しい忙しいと連呼しつつ、去っていかれた。特に反論した気もなかったのですが、よほど凡庸で、意に沿わぬコメントと判断されたか、一刀のもとに切って捨てられた。

    「てっく」さんのブログやコメントを評価する事、人後に落ちるものではありませんが、論争相手に呼吸の余地を与えて欲しいという以上の意図はありません。ここは他人のブログで、これ以上のコメントは失礼なので深入りしません。支援する麻生さんの靖国提言で苦しんでおられると思うので、どうか頑張って打開して欲しいと願っています。

    で、vagabond さん

    私はあなたの論旨はともかく、西尾先生を敬愛する大勢の方々を相手に奮闘されている姿を見て、根性は大したものだと思っています。ただ、「その女 ソルベ」さんや「東埼玉人」」さんも言っていたかと思いますが、西尾先生のエントリーに対し、「カネを考えない机上の空論?」「どうやらこの先生には経済観念というものがないらしい」という言い方をしながら反論をされた。

    あなたがそれなりの方で、それなりに評価される論旨展開をされるならともかく、常識を出ない論拠で、時代を透徹した目で見ている斯界の巨人の意味ある提言を、礼を欠いた形で咎めた。だからこそ、1対多数のやや感情的な論争が展開されているということでしょう。

    ただし、失礼ということであれば、私もあなたに負けず、つくる会問題では、西尾先生を傷つけるようなコメントをいっぱいしました。もちろんそれは相手側の非を咎めるための論旨展開の必要からだったのですが、そのことで非難されるのであれば、私もA級(?)戦犯です。

    vagabond さん、私は、あなたの孤軍奮闘は評価しますし、豊富な知識もお持ちですし、お話の趣旨は一般常識上支持される点も多いですから、決して全否定されるものではないと思いますよ。ただ、みんなが違和感を感じているのは、コメントからにじみ出る「いきがりと謙虚さ不足」、若い(?)が故の「マナーの欠如」そして、相互理解が必要な論争に拘わらず、やや一貫性に欠ける「論理構成」ではないでしょうか。

    例えあなたが決して他人に学識的に劣らないと思われておられる部分があったとしても、述べられておられるものから判断して、才覚はあるが、未だ本当の見識は十分でないとおもいつつ、どう言えば分かってくれるのかと、周囲の方が苦労されているのだと思います。

    これは決してあなたを貶めているのではありません。ぜひ研鑽を積まれ、論争相手を完膚なきまでに論破出来る日が来るよう頑張って下さい。

  4. 【支那事変が間違いである、という考えの中心は「支那事変の目的=(日本としての)大義」は何だったのか、についての答えがないことである。
    要するに(日本は)何をしたかったのか、当時はもちろん今に至るも納得できる答えはない。】( vagabond 氏の投稿=2006年08月09日 22:51 より)

     西尾幹二著『日本人は何に躓(つまづ)いていたのか』(青春出版社、2004年刊)より、少し長いが引用します。
     vagabond氏と、当日録の投稿者との間の歴史観の余りに大きな懸隔。多少ともまともな議論をするためには、その前提として先ず読んでいただく適当な文章ではないかと考えるからです。

    【以下引用】
     あの大戦はいくつにも種類が違った戦争の組み合わせであって、対米、対英、対仏、対ソの各戦争については、おそらく日本人の側に罪の意識を抱く人はいないでしょう。これは日本が戦った戦争はドイツのそれといかに違っていたかを示す証拠です。つまり、交戦相手国は、日本に対して加害者なのであって、この点については当事国に弁解の余地がないはずです。彼らは何ゆえにアジアまで、出張ってきたのか、そういわれれば一言もないはずですから。
     しかし、対中、対大陸ということになると、、日本人の中に、内心忸怩(じくじ)たる思いをするものが多く、また、振り返って、潔く撤兵すべきだった、そもそも大陸進出はなすべきではなかったと思う人は多いのです。日本はとにかく中国とは干戈(かんか)を交えないほうがよかったに違いないと思っている人が少なくありません。
     世界の大局から見て、自分の過去の行動を反省し、顧みることは決して悪いことではないでしょう。が、私のいいたいのはそこから先です。ならば、反省したからといって、現在の自分がほんの少しでも利口になったといえるかどうかは、まったく別問題なのです。
     過去の行為の間違いをただすことにおいて、――私は中国大陸に対する日本の行動が間違いであったと認めているわけではなく、そういうことは今保留して述べているのですが、仮にそれが間違いであったとしても、また多くの人が間違いだったといっていますから、その人たちに申し上げるのですが――間違いをただすことにおいて、今の我々はまことにもって自由です。何をいっても構わないわけです。つまり、自由すぎはしないでしょうか。
     間違いをただすこと、過去を批判すること、裁くことにおいて、あまりにも自由奔放でありすぎませんか。そのことがかえって間違いではないですか。そう考えることはないでしょうか。すなわち、過去の行為の間違いをただすことにおいて果てしなく自由であるにもかかわらず、それが現在の行為の間違いをただすことにほんの少しでも役に立つと考えることが果たしてできるでしょうか。(p136~p137)

     今の日本はそうではなくて、ODAなどの資金投与方法以外に、中国や北朝鮮を少しでも動かす手段を持ちません。このように行動の種類というのは、戦前とは決定的に質が異なるのですが、力の行使という点では同じであり、行動の見通しの不透明という点もまったく同じではないでしょうか。
     とりわけ、対中国援助の実情を見てみますと、日本は泥沼にはまりこんでいるという点では、大陸に戦線を拡大していた状況とよく似ています。……
     中国大陸に泥沼に入り込むように深入りして、抜け出ようにも出られない。どうにもならない悪夢のような状態だった一九三〇年代の現実が再びめぐりめぐってきていると私は密かに考え、憂慮しているのであります。
     種類は少し違うかも知れませんが、原理は同じではないでしょうか。すなわち、日本人はかつて自分は愚かだったと反省することこの半世紀において切実だった訳ですが、今自分がそれほど利口にもなっていないことに果たしてどれほどの人が気がついているでしょうか。
    ……
     今の我々に未来が見えないように、当時の日本人にもこの先どうなるのかという未来は見えないで、その見えない未来を必死に手探りしつつ生きていたのでありまして、愚かといえば、過去も愚かだし、今も愚かです。無力といえば、今も無力で、過去も無力です。それが歴史というものです。
     そして、一所懸命生きている日本人、けなげで、無我夢中で、あわれなほどに愚直に生きてきた、あるいは生きている日本人は、戦前も、戦時中も、そして今も、いずれも似たようなものではないでしょうか。

     我々は過ぎ去った歴史を、あるいは昔日の行為を、現在の感覚や判断で簡単に決めつけて反省してみても、あまり意味のないことにむしろ気がつくべきでしょう。
     それどころか、起こってしまった過去というものは運命です。時間は不可逆で、不自由です。そうであるのに、過去に対して現在の人間の批判は余りに自由です。……
    …戻らない過去に対して、我々は完璧に不自由なのです。運命に対して意志は無力なのです。
     つまり、人間の自由意志というものは過去に対しては存在しないのです。人間に自由は存在しません。そこから初めて宗教が生まれたりする。
     歴史というものを考えるとき、なぜ我々はそういう個人の運命や宿命に対する悲しみということを少しも考えないのでしょうか。
     民族が経てきた歴史も同じことではないでしょうか。
     歴史に学ぶというのは、歴史の失敗に関する教訓を現在の我々の生活に生かすというような、そんなわかりやすい、簡単な話ではないということを申し上げているつもりです。すぐそういうことをいう人がいますが、それは軽薄です。……
     大東亜戦争が失敗であったか、成功であったか、無意味であったか、意味があったかは、あと百年かからなければわからないでしょう。同時に、戦後の民主主義と、平和国家が真にこの民族の歴史、未来の運命にとってよいことであったか、輝かしいことであったか、あるいは後で尾を引く災いであったかということも、数十年たってみないとわからないのです。
     つまり、簡単にいえば、人は皆いずれも不確実と不透明の中を生きているということです、いつの時代にも。そして、その中で自分の行為というもののかけがえのない一回性。自分の生きていく行為の命。たった一回しか起こらないこと。それが右に行くか、左に行くかという選択に情熱を注いで人間は生きているのです。(p139~p143)

  5. from vagabond 「垂訓」の方法

    田舎のダンディさん、
    【あなたがそれなりの方で、それなりに評価される論旨展開をされるならともかく、
    常識を出ない論拠で、時代を透徹した目で見ている斯界の巨人の意味ある提言を、
    礼を欠いた形で咎めた。だからこそ、1対多数のやや感情的な論争が展開されている
    ということでしょう。】
    と言われますが、どんな巨人であろうとおかしなことはおかしいと言う・・・それが私の信条です。
    例えば、下記の東埼玉人さん引用の文章ですが、対英米仏ソ戦について
    「日本人に罪の意識は少ない」などと書いていますが、これが「巨人」の言葉ですか。
    巨人なら巨人らしく、私のような教養のない素人でもおかしいと思うようなことを書かないことです。

    東埼玉人さん、
     【大東亜戦争が失敗であったか、成功であったか、無意味であったか、意味があったかは、
    あと百年かからなければわからないでしょう。
    同時に、戦後の民主主義と、平和国家が真にこの民族の歴史、未来の運命にとってよいことであったか、
    輝かしいことであったか、あるいは後で尾を引く災いであったかということも、数十年たってみないと
    わからないのです。】
    という西尾さんの言葉を、もし私に向けるのなら、福地惇さんにも向けるべきでしょう。

    いや、西尾さん自身にも向けられるべきでしょう。
    彼はこう云っています。
    【対米、対英、対仏、対ソの各戦争については、おそらく日本人の側に
    罪の意識を抱く人はいないでしょう。これは日本が戦った戦争はドイツのそれと
    いかに違っていたかを示す証拠です。】

    そんな勝手な決め付けをしていいんでしょうか。
    回りくどい表現ながら、真珠湾攻撃に始まるいわゆる「太平洋戦争美化論」そのものではないですか。

    いささか感情的な表現をすれば、私に垂訓するなら反論の余地のないようにしてください。

  6.  帰りなんいざ日本へ 
     タイ王国チェンマイ県に居所のある小生は西尾先生の終戦記念日の講演を楽しみに帰国します。昨年の西尾先生の日本会議等の靖国神社での御発言を拝聴しました。この度の小泉何某が当日の参拝が行われたとしたら氏の思想上の問題はさて置いて中韓や国内媚中韓に対する一定のインパクトがあると思います。小生は参拝は早朝に済ませ早々に講演会場に駆けつけるつもりです。当日はどんな事になるやら楽しみです。先生のご健勝をお祈りしています。

  7. 再び、vagabondさんへ

    私の失礼な言い回しを含んだ、一種の煽りのようなコメントに対して、あなたは想像以上に冷静に反応されました。あなたがご自分の主張に並々ならぬ自信がおありだと、これまでのコメントの端々からも感じられます。

    前にも言いましたが、私はvagabondさんのお考えに尤もだと思うところも少なくありません。ただ、私自身は一つひとつの問題で議論する事に介入しません。個人的見解はありますが、大きなテーマで、かつ見解の分かれる歴史的な事象や考察に、いま直接関わると多くの時間、多くの勉強が必要となりますので、卑怯と言われてもいいくらい、客観的立場(?)に立たせてもらっております。

    そうしたスタンスからの発言ですが、vagabondさんの信条が「どんな巨人であろうとおかしなことはおかしいと言う」ことは、間違っているどころか、むしろ大切なことだと思います。しかし、「斯界の巨人」といったのは、私の勝手な言い方(ニュアンスは世間から認められる表現だと思います)ですが、権威ある方のブログにおいて、無名(と言わざるを得ない)のあなたが論争(一方的批判なら、よく見られますが)を挑まれるならば、それなりの接し方、言葉の使い方はあると思います。

    この場合、「おかしなことはおかしいと言う」ではなく、「おかしいと思ったことはおかしいと思うと言う」と言うお気持ちで、最初からのコメントを構成し直せば、また違った展開になっていたはずです。一々のコメント一字一句に反論し、噛み付くような雰囲気をちょっと変え、見識を示す論調に変えれば、周囲の方々は一目も二目も置くのでないでしょうか。

    もちろん、vagabondさんの個性そのものと言う面もありますので、私の話は意地悪な言い方になりますが、どうしても、自信ある論争に、絶対負けたくない、一歩も引きたくないと言う鼻っ柱の強さを感じるので、あえて言っています。

    再度言いますが、ここは西尾先生のブログですので、コメントの仕方をちょっと変え、論争の内容を高めていかれてはいかがですか。

    これを垂訓と感じますか、非難と感じますか、忠告と感じますか、皮肉と感じますか。どれも嫌だろうと思います。先輩(年だけの意味です)のひとりごとと思って下さい。

  8. >vagabondさん
    たぶん貴方は理解できているはずです。
    言うならば「物足りない」とおっしゃりたいのでは?理解できない・・・と、物足りない・・・は似ているようで全然違います。

    例えば日本が先の大戦で大陸に進攻した事実と、現代に於いて日本企業が中国大陸に軸足を置こうとする意識は同軸だ・・・と説いた西尾先生の言葉にはどんなご意見をお持ちなのでしょうか。
    一番大切なこの部分には異論がないまま、他の言説に納得がいかないという論法は、それこそ私には理解できないわけです。

    昔少欲というHNの方がいまして、色々と要求をしてくるんです。そしてそれは無理だと返事しても聞かず、今度はこういう方法があるからこうしようと言い出すんです。
    勿論それにも出来ないと返事をするんですが、何故やらないんだと切り替えしてくる。
    もうこうなると「糠に釘」状態です。
    この件は過去録の「ピントのずれた人々」にありますから、是非一読ください。貴方はこの少欲さんほど皮肉れてはいませんが、その入口に入りそうな気配を私は感じます。

  9. Vagabond氏の論証の基軸には失礼ながら私達の国や同胞、先人達に対する愛情が感じられない。
    それも生き方でしょう非難する気はありませんが・・・Vagabond=放浪者ですか。

  10. 田舎のダンディさん

    お言葉ですが「負けてたまるか」なんて詰まらんことは考えていません。
    納得のいく議論には素直に従います。

    はっきり云えば「西尾氏ともあろうお方が」と思う主張に噛み付いているだけです。

    私は西尾氏に期待するところがたくさんあります。
    なにしろ「新しい歴史教科書を作る会」をつくった中心人物であり、
    いわゆる「自虐史観」に対し「そうでない」史観を対置すという重要な役割を持っている人だと思っています。

    それにしては(私から見ても)お粗末だと思われる発言があり、それに噛み付いているわけです。
    ハンス・ホルバインについての評論などは私には興味がありませんが、
    世間で見解の分かれている事柄・テーマについて、西尾さんの発言の一部には首を傾げざるを得ません。

    「つくる会」は分裂しましたが、老舗「作る会」に対し西尾さん(や福地さん)が影響力を発揮し、
    教科書を作るとなるとその教科書には(出来てみなければわかりませんが)不安があります。

    私は歴史や財政については素人であり、発言に自信などありません。
    しかしその私でも分かることには強い言葉で対応します。

    \\\\\\\\\\\\\\\

    あきんど@携帯さん

    【例えば日本が先の大戦で大陸に進攻した事実と、現代に於いて日本企業が
    中国大陸に軸足を置こうとする意識は同軸だ・・・と説いた西尾先生の言葉には
    どんなご意見をお持ちなのでしょうか。】

    私のこれまでに書いてきたことと、このこととどういう関係があるのですか。

    また、「物足りない」と「理解できない」の違いですが、これも「何故?こういうハナシが出てくるの」・・・私にはわかりません。

    ところで、確認しますが、西尾さんは「大陸に進攻」したことを認めるわけですな。
    あなたも同様ですね。
    侵攻か侵略かは問いませんが。

  11. >vagabondさん

    私は貴方をかなり買い被りすぎたのかもしれません。
    >【例えば日本が先の大戦で大陸に進攻した事実と、現代に於いて日本企業が中国大陸に軸足を置こうとする意識は同軸だ・・・と説いた西尾先生の言葉にはどんなご意見をお持ちなのでしょうか。】私のこれまでに書いてきたことと、このこととどういう関係があるのですか。<

    というご指摘ですが・・・貴方は先の投稿でこう書かれていますよ

    >どんな巨人であろうとおかしなことはおかしいと言う・・・それが私の信条です。例えば、下記の東埼玉人さん引用の文章ですが、対英米仏ソ戦について「日本人に罪の意識は少ない」などと書いていますが、これが「巨人」の言葉ですか。巨人なら巨人らしく、私のような教養のない素人でもおかしいと思うようなことを書かないことです。<

    つまり「日本人に罪の意識が少ない」と指摘されていますから、大戦当時と現代人の大陸への軸足比重は同軸だという節は理解された上での御批判なのだろうと思ったわけです。

    でもそれは私の認識違いで、貴方はその事には全く意識がなかったようです。
    ご自身が理解不能である事実を他人の責任に被せる傲慢な人間、もしくは本当の馬鹿かのどちらかでしょう。残念だが貴方からは低俗な批判の匂いはするが、高貴な愛情は感じることができない。
    最後にこの言葉を貴方にプレゼントして結びたい。

    「ニーチェとの対話」より引用(166ページから)・・・・・・・・・

    [だが阿呆よ、別れに際して、おまえにこの教えを授けよう。人は愛することができない 場合には、そこを---通り過ぎるべきなのだ。ツァラトゥストラはこう語った。そして阿呆と大都市を通り過ぎた。]

    <引用終わり>

    くだらない論争に付き合い忙しく見せているつもりなのは、貴方には悪口を言う種に不自由しない生活環境が有り過ぎるからだ・・・ともニーチェは説いている。
    貴方がこの場所を去れば貴方は阿呆ではないと言えるのかもしれないが。
    さてその判断も降せないのかも。

  12. 主語の省略

    あきんど@携帯さん

    私は他人に「阿呆」呼ばわりされることはあっても、することは決してありません。
    私のように品格の「低い」人間には他人を「阿呆呼ばわり」する資格なんかないですから。
    品格の高い人は違いますね。

    反論を求めませんが、あきんど@携帯さんの
    【つまり「日本人に罪の意識が少ない」と指摘されていますから、
    大戦当時と現代人の大陸への軸足比重は同軸だという節は理解された上での御批判なのだろう
    と思ったわけです】
    という部分において、「日本人に罪の意識が少ない」と指摘したのは私ではなく、西尾氏です。
    対米・英・仏・ソ戦については「日本人に罪の意識が少ない」と西尾さんが指摘し、
    それはおかしいではないか、と私が指摘しました。

    日本語は主語を省略することが多いのですが、【でもそれは私の認識違いで、
    貴方はその事には全く意識がなかったようです。】
    という認識違いは「主語の読み違え」ではないでしょうか。

    \\\\\\\\\\\

    銀一さん

    先人達の行為の中で、「私が”黒”(間違い)と思う事柄を”
    白”だという(肯定する)意見」に対し批判しているだけです。
    白は白、黒は黒と先人に対し正確に
    (相応しく)評価することが「愛情」といえば愛情です。

    黒を白ということは決して愛情ではありません。

    こういう感情的な指摘に対し、感情的に反応することは「同類」であると
    自ら認めることになりますので、自制します。

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