ハンス・ホルバインとわたしの四十年(八)

『江戸のダイナミズム』第16章西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』より

 西洋でも中国でも古代文明の崩壊と消滅は日本史では測ることの出来ないほど巨大なスケールで起こり、同じ歴史が連続したとは思えないほどでした。ギリシア・ローマの伝統は地中海が約千年間イスラムの支配下に入った後では、アラビア人の歴史に属するのであって、今日西ヨーロッパと呼ばれる地域の歴史とみなすのはその後の「学習」の歴史以上のものではありません。

 中国史においていわゆる漢唐時代で古代は終わり、それ以後の中国史の連続性には疑問があります。モンゴルの征服による元朝の成立は漢民族の歴史に断絶をもたらしています。

 これに比べると日本史に古代の成立と没落のドラマが本当にあったのかと思われるほどに、変化の規模は小さいのです。

 源平の戦乱があり、承久の変を境いに古代王権に変化が生じますが、民族の同一性の度合いの高さと、神仏信仰を中心とした宗教の融和性の特質が、ある種の歴史の連続性を保証しています。

 西ヨーロッパと呼ばれる地域には、古代はなく――各国の歴史教科書の古代はエジプトからです――、各民族の歴史は中世から始まります。その時期が日本の古代史の後半と中世史にほぼ重なります。

 古代の文献の伝承の流れを跡づけてきた本書では、時間尺の短い日本の条件の有利さと、それにも拘わらず古代文書の原文は消えてなくなり、写本の確実性も保証されないという宿命において、問題の質が同じであることを見届けました。

つづく

お 知 ら せ

靖国神社参拝の後は内幸町ホールへ

8・15にこそ、西尾幹二先生の講演をお聞きください。

8・15国民集会
『保守なる人びとに

       問い質したきこと、これあり』

日 時 平成18年8月15日
     午後2時半~午後4時半(開場午後2時)
会 場 千代田区立内幸町ホール 先着188名

     千代田区内幸町1-5-1  03-3500-5578
  ・「第一ホテル東京」本館隣の東電別館区画広場の地下。
  ・JR新橋駅、東京メトロ銀座線・都営浅草線新橋駅の蒸気機関車側出口歩5分。
  ・都営三田線内幸町駅A5出口歩3分

  ・靖国神社からは、東西線九段下(進行方向後ろ乗車)→大手町で都営三田線乗り換え(進行方向後ろ乗車)→内幸町駅A5出口が便利です。約30分。

  ・平成17年5月1日に、人権擁護法案反対銀座デモの前に、集会を開いた会場です。

参加費 ¥1500- 
主 催 人権擁護法案を考える市民の会 代表 平田文昭
     jpn.hirata@nifty.com
http://blog.goo.ne.jp/jinken110/

次 第
□1430~1500
第一部 提言 人権全体主義との対決 
(平田文昭より問題提起)
・国際人権法、人種差別撤廃条約、女子差別撤廃条約、児童権利条約、障害者差別禁止条約(案)などに連動する国内法、条例や関連政策は、人権を名として国家・社会を全体主義化する道具となることで、我が国の独立と文明を蝕んでいます。加えてこれらにかかわる「反日諸団体」の「ACk+C+U人権包囲陣」は我が国のみならずアジア・太平洋諸国の自由と民主主義を脅かしています。
・アジア太平洋人権協議会設立について 

□1500~1600
第二部 西尾幹二先生講演 

「真昼の闇」の時代に目を開け

~安倍氏よ、
        小泉にならないで欲しい~

・我が国の「保守」のあり方を、西尾幹二先生が根底的に問います。

①インターネットと活字の言論
②新聞の無力の時代
③意見の小さな違いこそ決定的違い
④言論人は政権ブローカーではない
⑤政権は盲目的従米のままでいいのか
⑥言論誌は中韓の単なる悪口屋でいいのか
⑦親中になりやすい「右翼」の体質
⑧日本会議は正式の政党になれ
⑨自由と民主主義を再確認したい

□1600~1630 質疑 等

注意事項
◆録音、撮影、中継等は一切禁止です。

「ハンス・ホルバインとわたしの四十年(八)」への52件のフィードバック

  1. 「意見の小さい違いこそ決定的な違い」
    という言葉に違和感を感じるのですが、いきなり非難することは避け、
    その真意を確かめたいと思います。
    どなたか解説してくれませんか。

    「巨人」ではない私のような素人には「小異を捨て大同につく」ことが大事だ、と信じていますが・・・。
    少なくともこの言葉が「独り歩き」しないことを願わずにはいられません。

    「この講演を聴けば判る」と云われそうなので・・・
    遠方に住んでいてこの講演会には出席できません。

  2. あらためてvagabond さん

    8月14日 22:33の投稿に関して、多少の責任を感じるが故にコメントさせて下さい。vagabond さんの論旨について、問題も多いが評価すべきは点もあるのだと言う趣旨のコメントをしてきましたが、なぜ是々非々の言い方をするかと言うと、誰だって、ここが悪い、あそこが悪いと言われただけでは、はい、その通りですとはいい難い。どんなに粋がっている人でも、純然たる論争は別ですが、自らの問題部分を多少は恥じ(この場合は、失礼な言葉使い、尊大さのことですが)、次第に控えめにするのが、日本社会の暗黙のマナーと考えるからです。それも、目上の人間の言うことの方が受け入れ易いだろうという思い込みもあってのことでした。

    しかし、素直な気持ちがあっても素直に出来ないのが人間ですから、屈折した心理の現われかもしれませんが、このコメントは、出来たら自ら削除すべきでしょう。これまで、曲がりなりにも論争の形を取っていたものが台無しになりますよ。知性の半面がこんな小児病的心の持ち主だなんて。

    ことわざ集ならいざ知らず、どこに他人の講演の、章立ての文言に噛み付く知者がいるでしょう。論旨を際立たせる場合、逆説的に述べる場合等々、テクニックとして無限とも言える表現方法が許されるのが言葉でしょう。

    この場合、講演の本質に関わるであろう「意見の小さい違いこそ決定的な違い」と、一つの価値観として言われる「小異を捨て大同につく」がどうして直接的に対比されなければならないのか。これを言い掛かりというのです。

    本当に価値あると信じ、その価値に殉じるためなら、容易に地球の裏側にでも出向ける時代ですよ。巨人の言動に疑念を感じる才覚があるなら、自ら確かめることに何の躊躇がいりますか。

  3. 今日は8月15日 61年前の今日は非常に暑かったと聞いている。こういう日は理屈をこねる日じゃないのかもしれないが。機械の置き換えで最終日でもうそろそろ皆が来るだろうから意見だけ書いておこう。

    vagabondさんは以下のようにおっしゃる。
    (引用開始)
    「意見の小さい違いこそ決定的な違い」
    という言葉に違和感を感じるのですが、いきなり非難することは避け、
    その真意を確かめたいと思います。
    どなたか解説してくれませんか。

    「巨人」ではない私のような素人には「小異を捨て大同につく」ことが大事だ、と信じていますが・・・。
    少なくともこの言葉が「独り歩き」しないことを願わずにはいられません。
    (引用終わり)

    西尾先生がどういう意味で「意見の小さい違いこそ決定的な違い」と言われたか私は知らないが、この言葉に別に違和感は感じないがな。むしろ「小異を捨てて大同につく」という言葉を反論語として使ったvagabondさんの相変わらずぶりが興味を引く。

    「小異を捨てて大同につく」という言葉は日本民族ではわかりやすいけど普遍的な真理じゃない。日本のような人間の関係性や人格を重視する文化では社会の中で仲良くするには大事な指針だと思うけど。

    おそらくこの「小異を捨てて大同につく」という行動をして失敗した例を見れば多くは結局相手の人格との違いというこれも小異の部分で違和感が是正されないでいることがわかるはず。日本社会では相手の人格の差は小異として切捨てられないわけだ。

    長州薩摩の争いも本当かどうかは知らないが過去の血で血を洗う軋轢を捨てて日本が西洋の植民地になることに抵抗する組織、それは薩長連合と呼ばれたものを作り幕府と一緒に植民地化に抵抗する体制から(大同という意味ではこちらのほうが正しい)、倒幕運動へと動いていった。基礎の思想的にはどうかというと尊皇攘夷であって、尊王の旗印があったが当時おそらく神道で尊王の藩であった会津藩と大同してもおかしくはない。

    勿論そうじゃなくて大同につけない場合もあるだろうけど。

    もう一つの論点がここで出てくる。政治なんかでもそうだね。何が「小異」か、何が「大同」かもわからん状態で一致したってうまくいくわけがない。民主党の小沢党首の絶対は自民党からの政権交代だけど、彼にとって憲法の問題や国家主権の問題は「政権交代目的」という大同のためにはすべて小異なんだろうな。それじゃ国家運営をしてもらうわけにはいかないな。

    (小異と大同の一例)
    「日本は無条件降伏をした」という言葉にほぼ一冊の本を書いて論説し、「決して無条件降伏ではなかった」を論説した人がいるけど、時代がたつといつのまにか「日本が無条件降伏をした」という認識が広がった。負けたことは事実なのだから条件降伏か無条件降伏かは小異なんだよね。負けたという上位概念から見ると条件降伏と無条件降伏という分類は小異になるわけだから。でも実際には日本は条件付で降伏したのであって、そういう意味では東京裁判の違法性への反論になりうるし、米国のような書かれた法(ルール)を作らざるを得ないモザイク国家へ反論するには有効な手段なんだよね。

    (自然科学の一例)
    自然科学でもそうだね。理論があって理論に反する事実が一つでも発見されれば、他に何百という理論を裏付ける事実があってもその理論を疑うに足りる証拠とみなされる。これも論理と推論の構造を考えれば当たり前の話だけど。ここでは多数決原則は使われない。ましてや小異をすてて大同につくという考え方もない。
    わかりやすく嘘を書こうか。どこが嘘かわかるかな。まあ「小異を捨てて大同につく」という考え方が普遍的な真理ではないことを説明するのはこれでもいいでしょう。
    中学校か高校の数学の授業で教えてもらったでしょう。論理とは二種類あると。一つは演繹的推論でもう一つは帰納的推論だと。これは論理の無謬性を考えてみると演繹的推論が帰納的推論より正しいのです。帰納的推論は事実の積み重ねである仮説を作り上げるといわれている。しかし事実というものが存在したとして一件でも仮説とは違うものがあればその仮説は廃棄されます。廃棄されると書いたけど、実際には理論から仮説に格付けが落とされるわけだけど。「小異を捨てて大同につく」という考え方じゃないよね。百万件正しくても、1件おかしなことがあったら大同を廃棄するのだから。
    これも明らかに「小異を捨てて大同につく」とは異質なんだよね。どうして自然科学ではこういう考え方がなされるかというとそれも理由がある。「意見の小さい違いこそ決定的な違い」を自然科学的に見ると新しい事実はどうして発見されるかというと、それを発見した人間が従来存在する理論とは違った仮説で見ているからだといわれている。これを自然科学史では「事実は単独に存在するのでなく新規仮説の発見によって見えてくる」といっている。

    そしてその仮説は発見した人間そのもの意識化できていない場合が多い。しかしその無意識にある新仮説を言語化して体系化できれば場合によっては自然科学の基礎理論を全面的に変化させうる可能性がまれにあるからなんだよね。私は日本で原理的な新発明や新発見が少ない幾つかの理由のひとつに「意見の小さい違いこそ決定的な違い」という意識が弱い、逆にいうと文化的に創られた「小異を捨てて大同につく」という考え方が妨害していると考えているけど。

  4. 私もその言葉に疑問を感じた一人です。公演にはいけなかったので、聴講した方、先生がどういう意見をおっしゃっていたか教えてください。この言葉だけみると、あの小林氏のような、少しでも意見が違えば切り捨てるという狭量を感じてしまいます。わたしもvagabonndさんの意見に同意です。大同団結とまでいわなくても、保守派同士が反目しあうのは残念なことですから、潔癖に断罪するようなことはしないでほしいです。

  5. 西尾先生は、理系でいうところの基礎科学、理学の人であろう。
    物事の本質を鋭く見抜かれる。
    よって、工学的つじつま合わせを忌避される。

    当然、先生の主張は戦略論であり、戦術論ではない。
    戦略は、命を掛けて守るべき基本であり、決して変えてはならない。
    戦術は状況に合わせて操作可能である。

    このような視点で先生の言論を捉えれば、決して難しくは無い。
    むしろ、すこぶる当たり前のことを仰っている。

  6. 田舎のダンディさんも松井さんも、どうしてそうカッとなるのやら……言いがかりなどvagavondさんはしていませんよ。
    そうなってはまずいから、どなたか真意を教えてといっているのですから。

    有名掲示板郡ではお二人のような人をさして、西尾信者なる名称がでております。なんとも言いえて妙です。なるほど先生を尊敬する気持ちはわかりますが、ちょっと先生に反対する意見があると、ムキになって噛み付き、必死になって反論を書き立てるのですから、そのさまはカルト信者そのものです。
    お二人とも、ムキになっているところから、その余裕のなさが伝わります。失礼ながら、図星だったから必死になっているのでしょう。自然科学の例までとりあげる仰々しさには思わず失笑を禁じえません。

    感情的な脊髄反射はよくありません。
    もっと知的な話をしようじゃありませんか、みなさん。

  7. つーか、レジュメ見ただけでここまでコメント欄が賑わうのが笑える

    永吉さん、あなたもね
    単なる見出しを変にシリアスに受け取って疑問を持ちなさんなって
    そんなんじゃ、夕刊紙とか「正論」見たら血管切れますよ(笑)

  8. 「永吉」さん、ご心配なく

    「永吉」さんにご心配頂いておりますが、vagabond さんは、自ら論理的でないことをよく分かっていながら、意図的に、いま問題の疑問を投げつけておられるのです。一種のからかいをしているのです。ちょうど、子供が駄々をこねているように。だから、年長者が子供を叱るような意味合いで、これは、ここの部分は、「駄目だよ」とたしなめているのです。

    ある時期、ある場所の状況だけでは、人や物事の本質はなかなか理解できないように、一瞬のコメントでは測れないものがあることをご理解下さい。もし、ご納得いただけないのであれば、お手数ですが、遡って、これまでのプロセスをなぞってから再度コメントして下さい。決して、自らが正しいとだけ言っているのではないことが、お分かりいただけるのではないでしょうか。

    vagabond さんは、論争自体が好きなので、いかなる事でも一歩も引かず、西尾先生のブログにおいて、ちょうどゼミの学生が教授に対して思慮の足りない先生だと不躾に言う感じだったので、それはないでしょうと皆が感じたという事です。また、論争の中身についても、思慮の欠ける点がある、論旨に欠陥があると考えた方々が反論されているという状況だと思います。

    よく読めば、感情的な対応を非難されているコメントの中にも、自らの価値観による他人のコメントへの、ややエキセントリックな批判が含まれていることもお気づきでしょう。反論自体を一切拒んでいない西尾先生のブログ管理人さんの、冷静で、公正な対応にも敬意を払いたいものです。ただ、掲載の認可が下りるまでの時間が掛かりすぎることもあって、コメント間のやり取りのタイミングがずれて戸惑うことも多いのは事実です。

  9. 永吉さん
    ①私は西尾マンセーじゃないですよ。私は山本七平ファンであって西尾幹二とは異質です。ただおそらくこういう意味で西尾先生が書いているのだろうなと理解する努力はしていますが。実際にお会いして何度か先生とぶつかったこともありますし。

    ②こういう言い方は失礼でしょうけど、自分が正しいと思い込んだモデルを 絶対視してすべてを見るのです。まあ私も含めて誰でも自分が見たいように見て、それを正しいと考えますから仕方がないですが。

    ③数学そのものもそうですね。数学も同じで公理から形式論理を使って定理が演繹的に推論されますが、公理の証明は同一体で作られた定理系から証明できないことが数学的に証明されています。ということを普遍的に考えれば科学の道具である数学でさえ何かを絶対的に正しいとして出発点を置いて見ざるを得ないのといえるわけです。だらか私は自分が見たいように見ること自体を否定しません。ただ多くの場合その出発点の普遍性に疑いを抱いていますけど。同一体系内では出発点の証明が出来ないのならどうやって出発点の正しさを保障しようとするのかは幾つか考え方がありますが書きません。

    ④社会科学の場合は重要なのは目的にしたがって考えることなんだろうと思いますが社会運動の場合はしばしば運動そのものが目的化しますから誰か批判をする人間が必要なんでしょう。ただ西尾先生の場合は考え方が保守主義者というより近代化主義者的ですから日本の常識とは合わない場合がありますけど。

    ⑤さらに日本の場合は争うこと自体が悪いという考え方が背景にあって、さらに小異かそうでないか関係なく全体の空気にしたがって判断がなされるのがやっかいですが。

    ⑥「小異を捨てて大同につく」という言葉もありますが、「和して同ぜず」という言葉もあって、日本人が受け入れた文化には必ず原理主義にならないような歯止めがあったのですが・・・・。

    前回の投稿はこの⑤部分を強調して書いた文章です。理解できましたか。
    争うこと自体が悪いならそれは絶対平和主義者にならざるを得ません。栄吉さんは絶対平和主義者なんですか?文章から考えるとそうじゃなさそうだけど。

  10. >田舎のダンディさん
    コメントの投稿から、掲載までの時間がかかることが多く、申し訳なく思っています。

    これは、判断に迷っているというよりも、パソコンのそばに居られない時間がかなりあるということを意味しています。
    最近では海外からの迷惑コメント以外、掲載不可となるコメントはみあたりません。・・・・・基本的にあきらかな嫌がらせ、アラシ行為以外のコメントは削除の対象とはしておりませんので。

    >永吉さん
    有るサイトに来て、そこでそのサイトの主を擁護するような発言をする人に対し「信者」というレッテルを貼る行為は、大変失礼なことだと思います。2チャンネルの用語用法がどうあれ、以後ここではそういった言い回しはお断りいたします。

  11. 長谷川さん、
    昨夜次の書き込みをしたつもりですが、掲載されていません。
    私の勘違いでしょうか?

    *************************

    田舎のダンディさん、

    あなたは早とちりですね。
    よく読んでください。
    「意見の小さい違いこそ決定的な違い」とはどういう意味ですか、と聞いて(解説を求めて)いるのです。

    真意を理解してから意見を述べるつもりなのです。

    それにしても
    【どこに他人の講演の、章立ての文言に噛み付く知者がいるでしょう】
    誰が噛み付いているのですか?
    質問さえいけない、それこそ小児病的ではないですか。

    松井さん、

    何を言っているのですか。
    ハナシをそらさないで下さい。
    【西尾先生がどういう意味で「意見の小さい違いこそ決定的な違い」と言われたか私は知らないが・・】
    そこが知りたいのであって、納得すればそれで終わりです。

  12. vagabondさん>
    結局vagabondさんと小吉さんは違った目的で話をしているわけですね。面白いですね。似たような意見の二人に見えますが、明らかに違うのだ。まあ意見をいうことを話をそらせると受け取るのも両者とも似てますけど。私が勘違いしているなら一言貴方からの返事でなく私は西尾幹二の返事が欲しいだけだと書けば済むことのようだけど。

    小吉さん>
    小吉さんは作る会の騒動を想定して西尾先生が小異を捨てて大同につかなかったのは異論があるという意味で疑問を発しているのでしょ。
    小異を捨てて大同につく(細かな食い違いはあっても、大筋で一致しているところをとって協力するという意味)を設問にして考えると作る会の騒動では「細かな食い違いはあっても、大筋で一致している」ことが証明されたのでしょうか。もしも証明されたのでなく自明なことだとお考えの場合でも、細かな食い違いはどこにあって、大筋では一致しているのはどこかを箇条書きでお書きになってくれませんか。そのように書かれれば小吉さんの主義や主張の骨格を理解できるかもしれません。

  13. 8月15日の西尾先生の講演を拝聴することができました。
     次期総理の最有力候補である安倍代議士への提言がテーマであり、会場にはオピニオン誌の編集者らしい方々の姿も見えましたので、近々、その誌上であらためて精読できればと期待しております。

     「意見の小さな違いこそ決定的違い」は、「現下の吾が国は対米従属の軛の中で閉塞的な状況にあり、それを克服し、主体性を取り戻し「自由」を確保するために、自分(西尾先生)は、「反米保守」でもなく「親米保守」でもなく「反・親米保守」とでも云うべき立場をとる」と言及された、そのような文脈のタイトルであったように記憶します。

     もっとも、講演会の後、会場の内幸町ホールに隣接する新橋駅前の横町で焼酎などを痛飲し、その後遺症で未だに頭に靄がかかっておりますので、的外れなことを申し上げているかも知れません。その場合は、何分御容赦願います。

  14. vagabond さん、まっとうな論争へ向かいましょう

    エントリーの中に、以下の通りの内容で、8月15日に西尾幹二先生の講演会が開かれると案内されていました。

    ①インターネットと活字の言論
    ②新聞の無力の時代
    ③意見の小さな違いこそ決定的違い (以下略)
    注意事項 ◆録音、撮影、中継等は一切禁止です。

    それを読まれたvagabond さんは、8月14日の時点で、
    >「意見の小さな違いこそ決定的な違い」に違和感を感じるが、いきなり非難する事は避け、その真意を確かめたいので、どなたか解説して欲しい・・・この言葉が「独り歩き」しないことを願わずにはいられない。

    と言う趣旨のコメントを投稿されました。一瞬、何も問題がないと思われた方もおありでしょう。しかし、vagabond さんがこのブログ上で展開されている論争の姿勢は、このブログ開設者である西尾先生に対し、論旨の正否は措くとして、常識的な方なら眉をひそめざるを得ない礼を欠いたものだと多くの方が感じていたという前提があります。

    講演者が、聴衆の理解のためにあらかじめ提供している情報に対し、講演が行なわれる前に、上記のようなコメントを書き込み、不遜な挑戦的態度を示した未熟な人間に対し、年長者がそれは失礼な態度でしょうと咎めるのは、むしろ責務でしょう。まあ、おせっかいという表現もありますが。

    批判も反論も、それ自体は咎められることではないでしょう。でも、vagabond さんは、西尾先生によってここでのコメントの機会を与えられながら、多大な精力を注ぎ込んで準備し、これまで蓄積された自らの見識を、世に問わんとされている西尾先生の講演には行けないので、誰か解説してくれ、ことと次第では非難すると明言されているのです。講演全体を聴き、理解しなければ誤解を生ずる問題でもあります。先生はいつかは、ブログや書籍でその内容はオープンにされるでしょう。しかし、現時点では聴衆以外にその内容を伝えようとはしていないのです。

    そうした事を考えたら、だれが、vagabond さんの言う、西尾先生の言葉の真意を解説せよとの言い草をまっとうなものと取るでしょうか。本来一番文句を言いたいのが西尾先生でしょうが、鼻っ柱の強い若者と一笑に付そうとしているか、付き合っている暇がないと考えておられるかは分かりませんが、まあ、そこを慮って、vagabond さん大概にしたらというところです。

    もしかしたら、純然たる論争の部分は、皆なの思惑と違ってvagabond さんを評価しているかも知れませんから、節度ある論争をすべきでしょう。

  15. vagabond様
     
     13日の午後、当地を襲った落雷のため、停電とオンライン遮断、モデムとパソコン本体もやられ、先ほどまでインターネットの接続が不可能だったので、大活躍のあなたに対する投稿としては、少しタイミングがずれてしまいました。

     あなたとの議論は終わりにしようと思いながら、最後に、「西尾史観」の根底に横たわる考え方の一端なりとも示して、あなたの考え方を聞くのが礼儀かと思い、先の文章を引用しました。あなたに「反論」したり、「垂訓」する意図など毛頭なかったのですが。
     西尾先生に『歴史を裁く愚かさ』という本があります。(PHP研究所,1997年刊)その本をあなたにぶつけようかと思ったのですが、――普通の理性の持ち主ならば、この題名を聞いただけで、ピンと来るはずですから、――残念ながら、この本の内容は「つくる会」立ち上げの当時の、主として「左翼」の「自虐史観」批判をテーマとしており、あなたとの「議論」のためには適当ではない、ということで、「支那事変」について触れられている件(くだん)の文章を探し出した次第です。
     あなたが、この文章に賛成されるとは期待しませんでしたが、批判する相手の「考え方」を、『少しは理解してみようかな』、と考えるかも知れないという、微かな希望もなかったわけではありません。

    ≪【大東亜戦争が失敗であったか、成功であったか、無意味であったか、意味があったかは、あと百年かからなければわからないでしょう。
    同時に、戦後の民主主義と、平和国家が真にこの民族の歴史、未来の運命にとってよいことであったか、輝かしいことであったか、あるいは後で尾を引く災いであったかということも、数十年たってみないとわからないのです。】という西尾さんの言葉を、もし私に向けるのなら、福地惇さんにも向けるべきでしょう。≫

     この言葉には、「開いた口が塞がらない」思いでした。キョトンとして一瞬何をいっているのか理解できなかった。少し考えて思わず笑ってしまった。
     福地先生は、西尾先生のこの文章を、よく理解されることと思いますよ。
     

    ≪【対米、対英、対仏、対ソの各戦争については、おそらく日本人の側に罪の意識を抱く人はいないでしょう。これは日本が戦った戦争はドイツのそれといかに違っていたかを示す証拠です。】
    そんな勝手な決め付けをしていいんでしょうか。
    回りくどい表現ながら、真珠湾攻撃に始まるいわゆる「太平洋戦争美化論」そのものではないですか。≫

     この発言については、言葉もありません。

     多分、あなたは○×式テストの寵児なのでしょう。長い文章を読んで、じっくりものを考える、などということには、所詮馴染めないのでしょう。
     当日録には、そのようなあなたに懇切につきあってくださる先輩同僚がいらっしゃいます。。皆さんが親切にしてくださる間に、せいぜい勉強してください。
    さようなら。

  16. 要するに「意見の小さな違いこそ決定的違い」ということについて、
    どなたも西尾さんの真意を説明できないわけです。
    とすれば、とりあえず文字通り解釈して私の意見を述べます。

    保守のあり方を、西尾先生が徹底的に問う、というテーマの中で「意見の小さな違いこそ決定的違い」
    というテーゼ(?)が出ているわけですから、芸術や文学の分野でのハナシではありません。
    例えば、芸術では「一見」小さな違いであっても「実は」決定的に違う、という例はいくらでもあります。

    保守のあり方について「意見の小さな違いこそ決定的違い」とはどういうことでしょうか。
    とりわけ「運動論」から考えます。
    AさんとBさんとで意見の違いがあった、とします。
    日米安保条約のもとで、Aさんは「基地を縮小すべきだ」
    と言い、Bさんは「現状を維持すべきだ」と言ったとします。

    Aさんが、この意見の違いは「小さいが決定的だ」と考えたら、Bさんとの衝突は必至です。
    AさんはBさんのことを「親米ポチ」と呼んで軽蔑しかねません。
    実際、小林よしのりは「ゴー宣」で西尾さんのことをそう呼んだことがあります。(A=小林、B=西尾ではありません)
    こうなれば運動は成り立ちません。

    実は、30年ほど前、左翼とりわけ「新左翼」と呼ばれる連中がこういう姿勢でした。
    第三者にはどこがどう違うのかわからないような意見の違いを、
    さも重大であるかのように取り上げ、果ては殺し合いまでしたのです。

    「小さいが決定的だ」というならはじめから「小さい」のではなく「大きい」のです。
    意見の違いが本当に「小さい」のか、それとも、「大きい」のか、これは議論の対象なのです。
    みんなが「小さい」と認めれば問題はありません。
    「大きい」という意見が強ければ、意見の相違について徹底的に議論しなければなりません。
    私の心配することは、議論を省略して、
    勝手に「大きい、決定的だ」と決めつけることです。

    主観的に「小さいが決定的だ」と勝手に決め付け、同意しない相手を罵倒する、
    こういう態度こそ保守の「あってはならない」態度です。

    「つくる会」の内紛もこういう勝手な決め付けが根底にあったのではないかと、想像しています。

    【もっと知的な話をしようじゃありませんか、みなさん。】
    との永吉さんのご意見、その通りです。

  17. 何でもいいから言いがかりのネタを探す
          ↓
    見つけた♪・・・
    本人が語ってもいないただの講演の案内のレジュメに説明を求める
          ↓
    釣れた人にだけ語りかけ
          ↓
    鋭い本質的な突っ込みはスルー
          ↓
    元々本人以外に説明できるわけもないことに対して

    要するに「意見の小さな違いこそ決定的違い」ということについて、
    どなたも西尾さんの真意を説明できないわけです。

    と勝手に決め付け
    当たり前やろが、んなもんは(笑)
          ↓
    どんどん展開していく、どっかで見つけた受け売りのアレンジ
          ↓
    ホントに言いたかったのはこれかも

    「つくる会」の内紛もこういう勝手な決め付けが根底にあったのではないかと、想像しています。

    要するに、ただの「アンチ」
          ↓
    模範解答がなけりゃ答えられないくせに、
    自分で知識を求める姿勢はないくせに、
    利口ぶり、大人ぶる
    【もっと知的な話をしようじゃありませんか、みなさん。】   ←今ココ
          ↓
    無限ループが始まる

    ご苦労様です、皆様m(__)m

    2ちゃんねるに於ける至言。
    「荒らしの相手をするのも荒らし」
    from大石センセ

  18. 長谷川さん、

    あなたは永吉さんに対し、
    【有るサイトに来て、そこでそのサイトの主を擁護するような発言をする人に対し
    「信者」というレッテルを貼る行為は、大変失礼なことだと思います】
    と言っています。

    一方、あきんど@携帯さんは、2006年08月13日 07:07 の書き込みで私に対し
    「阿呆」というニーチェの言葉を投げかけて(送って)います。

    また、田舎のダンディさんは、2006年08月15日 03:13 の書込みで
    「小児病」という言葉を使っています。

    このサイトに批判的な人には「阿呆」とか「小児病」とかいう
    侮辱語は失礼ではなく、サイト支持者には「信者」さえ許されない、
    ということなのでしょうか。

    抗議するのでも、回答を求めるのでもありません。
    ただ、長谷川さん、良心のやましさを感じませんか?

  19. >vagabondさん
    先に、投稿を不掲載したのではないかとのコメントがありました。いくら捜しても、件のコメントはありませんでした。
    ということで、多くコメントをお書きになっていたころですので投稿したと、勘違いされたのではないでしょうか?

    現在vagabondさんはいろいろな方と論争をなさっておられますね。その際に、互いにちょっとした「失礼」を含めながらなさっておられるので、ひとつひとつの言葉は流しています。

    それに対して、永吉さんは久し振りの投稿であるにも係わらず、突然の「信者」発言だったので、注意しました。

    今現在、良心のやましさは特に感じていません。
    ですが、私が完璧なレフリーであるとも思っていません。

  20. いろいろ勉強になりますね。
    てっくさんの(大石先生の言)「あらしの相手をするのもあらし」
    は、全くそうなのだと気がついた次第。

    西尾先生のロッテルダムのエラスムス、「痴愚神礼賛」人間を生殖へと追い立てていく、人間を戦争へと駆り立てていく痴愚神にとても関心をもったのですが、いつのまにかどこかへ行ってしまってました。

    痴愚神を礼賛なんて、どんなことが書いてあるのだろうと。
    人間の本能、感覚と言うよりも官能などについて書いてあるのだろうかとか想像していました。「痴愚神礼賛」礼賛・・・あふれる生命礼賛?人間礼賛?とても興味があります。江戸のダイナミズムの中にはないのでしょうね。

  21. 西尾さんの言葉「意見の小さな違いこそ決定的違い」に違和感を感じると書いた途端に、
    多数の反論、しかもシャカリキな激しい意見が寄せられ、
    意外に私の指摘が「図星」だったのではないか、と多少安心しています。

    相手の痛いところを突いていなければ、無視すれば済むことなのです。

    まさしく「意見の小さな違いこそ決定的違い」(という態度)は最近の狭量な保守の「病気」であり、
    独善であり、きちんと議論するという基本的な立場を忘れたものです。
    「小さな違い」を「決定的な」まで急いで引き上げるのではなく、
    プールしてきちんと考えることが今一番求められるのです。
    そのプールでは、相反する多くの考えが真剣に討論され、より「良い」結論に
    aufheben されなければなりません。

    前にも書いた小林よしのりの「ゴー宣」を読むと、彼の漫画家(芸術家?)としての感性が
    モロに激しい非難の言葉や絵となって表れ、小さな違いを決定的な違いに
    「昇華」させてしまいます。

    そしてこれに賛同する読者(特に若者)の、これまた、
    感覚的・情緒的な意見が紙面にあふれています。

    西尾さんがこの言葉をどのように「処理」しておられるか分かりませんが、
    少なくとも「大御所」と認められているのなら、そういう狭量さを排し、
    まとめ指導するという度量の大きさを期待したいものです。

  22. まずは私事ですが
    8月11~16日まで夏休みをとり新潟に帰省しました。青森(下北半島の付け根)から新潟県のK市にある自宅まで約900kmあります。(東北新幹線、上越新幹線を大宮で乗り継いで)
    15日は5年ほど前から復活した同級会に出席予定でしたが、15日の講演会に心が惹かれ上京しました。188名先着順との注記があり、傍聴できないのではないかと心配しましたが、旧盆のせいでしょうか、都内も人は少なく、傍聴者もそれほど多くはなかったようです。

    「意見の小さな違いこそ決定的違い」は、最近起きた事件、北によるミサイル発射事件、郵政民営化問題、米国の日本企業への資本参加(のっとり)、つまりこれらの軍事、経済問題が最重要にあるにも拘わらず、政治も外交もこれに対して迷走しているだけとのお話のあとに続きます。

    ① 軍事的には
    憲法9条と日米安保は軍事(防衛)に車の両輪である(このことは皆、承知しているが)そして、このことは戦前の体制で、生きていたもの、決して戦後の話ではない。
    ② 経済的には(野口悠紀雄氏も指摘しているが)
    日本的社会主義の制度、たとえば会社における年功序列制度、会社は株主のものではなく、経営側と社員の相互努力により成長したこと(社員のもの)、系列会社を大事にしてきたこと等を西尾先生は日本的文化として評価します。(野口氏はこれを脱却しなければならないと負の評価を下しているが) 
    さて、①では「憲法9条と日米安保は軍事(防衛)に車の両輪である」は皆認識しているが、最近の米軍再編問題でも例えばA代議士は米軍のグアム移転を歓迎した発言をするが、本当にわが国の安全保障上、このことがよい事かどうかの認識は欠落しているとしか考えられない。(ここで西尾先生ご自身も「私にも理解(現実的かつ有効な方策のこと)できない」と断わっておられましたが)

    MDもようやく何年後かの決定をみたが、これとて十分とは言えない。それじゃあ具体的な国防(軍事)のマイルストーンを政治家が描き、そのとおり実行できるか?(ここは私の私見)
    (中略)

    我々は矛盾の中で生きている。国家を直視できない。これを意識すると米国依存を認めることになる。一方で、具体的なテーマになれば賛否の分かれる議論となり、米軍再編問題に帰結する。

    冷戦時代、日本は眠り続けていた、そのつけが今やってきているのである。

    ここまでが具体的「意見の小さな違いこそ決定的違い」の紹介でした。ですよね?
    そしてこの纏めのお言葉として布袋和尚様の
    >、「現下の吾が国は対米従属の軛の中で閉塞的な状況にあり、それを克服し、主体性を取り戻し「自由」を確保するために、自分(西尾先生)は、「反米保守」でもなく「親米保守」でもなく「反・親米保守」とでも云うべき立場をとる」と言及された、そのような文脈のタイトルであったように記憶します。
    以上です。


    わたくしめも、夜の新橋の闇に消え、日本酒、焼酎、ビールと痛飲しました。
    旨かった~

  23. 私も西尾幹二先生の講演会に出席しました。ひと仕事を終えて慌しい中で会場に駆けつけましたが、出席してよかったと思っております。

    西尾先生はたしか「日本は変わった、奇妙な国になった」とおっしゃいました。この思いは私とて感じます。「日本人に覇気がない」とも言われました。マスコミから小泉批判が消えた、というのも気味悪さを覚えます。先生はそういう現象をソフトファシズムと呼んでいますが、日本人は何か「見えない力」を恐れてモノが言えない。言葉を封じられているのですね。なんとも情けない状況です。国民全体が「何をやってもダメ」・・という、とりわけ政治、経済分野において、脱力感を抱いていることは確かのようです。

    結局は「愛国心の欠如」に帰すると思います。あのバブル崩壊に至る過程においても、経済エリートと自認していた人たちでさえ、危険水域に達した時点で、いのちを張って国民に警鐘を発した人がはたして何人いたでしょう。これも愛国心問題に帰着します。真に国家を背負う気概があれば、独自の調査研究を続け、機を見て勇気ある発言、行動をすべきでしょう。つまり我が国には真の「経済エリート」が居なかったということになります。

    「軍事」と「経済」でいまや完全にアメリカの支配下にあるという現実は、ただ悲嘆にくれるだけでなく、なんとか多くの国民が思いを共有し、為政者に伝え注意を喚起するとともに、我われも周囲にその実態をしっかりと伝えるべきです。私もその一端を担います。
    みなさんはすでに実践されておられるでしょうが、今後とも期待しております。
    この講演録がいつどの雑誌にいつ掲載されるのか、楽しみですね。

    ところでVagabondさんが相変わらず気になる言葉遣いを繰り返しております。
    「西尾さんが、この言葉をどのように処理されておられるのかわかりませんが、少なくとも大御所と認められているのなら、そういう狭量さを排し、まとめ指導されるという度量の大きさを期待したいものです」
    だいたい「西尾さん」でもないでしょうに。なぜ「西尾先生」と呼べないのですか。
    「大御所」という言葉をわざと引用することにもVagabondさんの礼儀の無さが表れていますね。どなたかが「大御所」という言葉を使ったとしても、それはその方の気持の表れでしょうから受け流せばいいでしょう。それをあえて引用するところに、あなたの心根が表れていますよ。いつ、今までの西尾先生や発言者に対する失礼な物言いに対し、詫びるのですか。それを注目しているのですが、ありませんね。いつになるのでしょう。

    機械計算課長さんの説明はなかなか説得力があります。「小異を捨てて大同につく」は、現象的には、それ自体が陥穽を含んでいるような気がいたします。しかし深い意味においてはその通りなのでしょうが、それは、言い換えれば釈迦、キリストという覚者のレベルにおいては真実ではないかと思うわけです。聖徳太子の「和の精神」においても同じではないでしょうか。日本人に原理的な発見や発明が少ないのも「小異を捨てて大同につく」考えが妨害しているのでは?との説明・・頷けますね。今後この説明を活用させていただきます。
    永吉さんの、「カルト信者」などという言葉をこのブログで安易に使うところは、私にはどうもVagabondさんと同根のお人であることを感じますが、いかがでしょう。場所を弁えて言葉を選んでいただきたいですね。

    布袋和尚さんのコメント、分かる気がいたします。西尾先生の言われる「姿勢」の違いは、小さいようで、実は大きいのです。それこそ決定的な違いというものでしょう。中国視察旅行問題や教科書の書き換え問題なども、この視点がなければ正しく理解できないのでしょう。分かる人には直感で分かる。この決定的な違いの分からない人には、永遠に分からない。人間、素直になれば布袋和尚さんの言われる「小さな違い」と「決定的な違い」
    が分かると思います。お会いしたことがありませんが、一度新橋辺りでいかがでしょう。

    我われはよく「生の情報」などという表現を安易に使います。よく考えてみれば、この世に「生の情報」などというものはありません。松岡正剛流に言えば「すべての情報は“編集”されている」のです。強いて「生の情報」は?と問えば、空海の「悟り」の世界にこそある、と言えるのかもしれません。
    Vagabondさんが「保守の狭量」などという単純理解でいる間は、西尾先生の真意は分からないでしょう。西尾先生なりに、編集世界においてギリギリのレベル(私なんぞに及ばない)で、自己を(人間的に)表現なさっているのでしょう。失礼ながら、Vagabondさんの言葉は無機的に感じられます。だから話が噛み合わないのです。名は体をあらわすとも言われます。ハンドルネームが禍しているのではないでしょうか。

    「意見の小さい違いこそ決定的な違い」とは、Vagabondさんを悩ませる難しい表現かもしれませんが、機械算課長さんが、別に違和感を感じないがな、と言われているように(私も同じですが)、素直に受け止めてはいかがでしょう。

    最後にテックさんへ
    テックさんのお陰で、財政問題について少々利口になった気がいたします(周囲が認めるとは限りませんが・・)。本を出されてはいかがでしょう。<深謝>

  24. 繰り返しになりますが、
    「意見の小さい違いこそ決定的な違い」
    という言葉の意味です。

    「すべての」と「ある」
    の違いをハッキリさせなければなりません。
    「『すべての』意見の小さい違い」
    なのか
    「『ある』意見の小さい違い」
    なのか、です。

    西尾さんは、多分、後者の意味で使われたのだろうと推察しますが、
    これならば当たり前のことで、表現としては
    「意見の小さい違いが決定的な違いになることもある」
    あるいは
    「小さな意見の相違も無視してはならない」
    と言うべきでしょう。
    こういうことならば、私も問題にはしません。

    しかし、「意見の小さい違いこそ決定的な違い」を修飾なしに読めば
    「どんな小さな意見の違いでも決定的である」と読めます。
    文学的・芸術的表現ならばともかく、保守のあり方についての講演の題目(の一部)に、
    こういう誤解(違和感)を招きやすい表現は相応しいとは思えません。

    もう一つの問題は、「『この』意見の小さい違いは、決して小さくなく決定的だ」と勝手に決め付けることです。
    こういうことを「独善」というわけです。
    丁寧に説明すれば済むことです。
    さらに悪いことは「独善」が勝手に歩き出して、「アイツは馬鹿だ、チョンだ」と罵倒し、
    侮辱することです。
    こういうことが往々にしてあります。

    こういうつまらないことで、保守の側はエネルギーの無駄使いを
    しないように心がけましょう。

  25. 皇都衛士さん、

    あまりこういう議論(?)はしたくないので、11:31の書込みをしたのですが、批判を受けていますので極力簡潔に・・・。

    1.西尾「さん」ではなく西尾「先生」というべきだ。
    ⇒「さん」で問題ありません。これも敬称です。
    このブログには西尾さんを非常に深く敬愛する人々が多いようです。
    しかし、(管理人が認める限り)誰でも参加できます。
    私がそういう人々にあわせる義務はありません。

    2.【西尾先生の真意は分からないでしょう。】
    ⇒「意見の小さい違いこそ決定的な違い」に込められた
    西尾さんの真意を聞いたのですが、誰も答えてくれません。
    あなたの説明でも分かりません。

    3.【「意見の小さい違いこそ決定的な違い」はVagabondさんを
    悩ませる難しい表現かもしれませんが・・】
    私は悩んでおりません。おかしいのではないか、
    と言っているだけです。

    文学ではないのです。
    正確で、誰にでも理解できる表現を期待するだけです。
    「保守のあり方」にそのような複雑な表現を持ち込まないで欲しいものです。

  26. 信じられませんvagabondさん、同一人物ですか?

    vagabondさんが、自分のHPを見ろと言うので、初めて拝見させていただきましたが、本当に同一人物でしょうか。信じられません。論旨に関しては賛否があるでしょうから踏み込みませんが、ここでの書き込みの雰囲気が信じられないほど、見識もあり、知性豊かで、穏やかな人柄のようにも見受けられます。

    また、年齢についても、鼻っ柱の強い主張という雰囲気から、私も全く勘違いしておりましたが、立派な熟年ではありませんか。ならば何故、別人格のごとき子供っぽい論争をなさるのでしょう。例えば「意見の小さい違いこそ決定的な違い」での書き込みのように、自己陶酔型で、独りよがりの解説コメントをなさるのでしょう。

    中には、真っ正直に講演の内容を教えてくれた方もおられます。少なくとも、感謝の言葉から始めるべきでしょう。西尾先生の支持者とかに関係なく、あなたへの反論だとしても、少なくとも誠意を込めて書き込んでいるはずです。その一言半句だけを捉えての、切り捨てるようなコメントと、あなたのHP上での論旨展開の素晴しさとの乖離が信じられません。

    若くて未熟な者というニュアンスの表現は、私自身の誤解として誤らなければなりませんが、なぜ、西尾先生のブログ上で、西尾先生の主張に礼を失したような反論をなさるのか、なぜ、殆んどの投稿者と敵対状態に到っているのか、その訳を、ぜひvagabondさんご自身の言葉で、HP上のように穏やかに教えて下さい。

  27. 「小異を捨てて大同につく」が大事だをお書きになったのはvagabondさんですから、その前提での質問目的から質問の目的そのものが変化する場合、幾ら話を続けても意味はないですから少なくともこの話はvagabondさんへの回答ではありません。どうぞ無視してください。また誰か教えてくれというので意見をいったら西尾先生からの返事を待っているので話を捻じ曲げないでくれとまで言われて返事をするほど温厚じゃありませんから。

    「小異を捨てて大同につく」という言葉も儒教の理解は知りませんが日本では人間の関係性に於ける和を思想や理念より重要視していると考えると理解しやすいです。そういえばある中国人日本学者が日本では儒教を人間の関係性を尊ぶために使ったと書いていましたな。本当かどうか判断しませんが。しかし日本で理解されている人間の関係性やあるべき人間像が日本と違う場合やその人間の関係性が大きな影響を及ぼさない社会やシステムの場合ははたと困るはずです。

    「小異を捨てて大同につく」でもちょっと考えたら真理ではない場合がありえます。前に書いたこと以外でいうとよく日本人が「裸になれば皆同じだ」といいますな。生物学的にはこの態度はそんなおかしくはないでしょう。差があっても「小異を捨てて大同につく」程度の差でしょう。しかしこれを言ったおかげで実際に色々な世界で「お前は人種差別論者か」と非難されたらどうするつもりでしょう。だって現実には生物学的差異でなく社会的な差異が存在し、それを一律に見ることは逆の意味での人種差別だからです。

    社会科学や人文科学の一部門に人間の話が入りますが、かといって社会科学や人文科学の全てが人間の話ではないわけです。佐久間象山が「東洋道徳、西洋芸術」と書いたそうですが、道徳でも倫理でも霊魂を律するわけでもなく、他文明を律するわけでなくその文化に存在する人間集団を律するものでしょう。これも如何にも日本人らしいなと思っています。

    今回のホルバインの西尾先生の論説内容でも大論争があったのではないでしょうか。やっかいですよね。時代を経るに従ってギリシャ語やラテン語やヘブライ語まで考えていったのでしょう。
    基督教の教義の論争の中に針の山の上に何名天使が存在しうるかという論争があったそうですが、関心がなくて何が真実かを追究する性向と争うことに忌諱があるかぎりこういう論争は起きません。自己のアイデンティティーなんかも日本では気にする必要はあんまりなかったでしょう。

    ところが西洋の教会であった一見無駄に見える論争経験から論理が発達し、ゴッドが不合理な世界を作るわけがないからその合理性を追求するのは中世教会では忌諱されたわけじゃない。ましてや人間の関係性の中で和を最重要視したわけでもない。ある一点だけでも理屈に合わない場合は一点が誤認識か、または理屈そのものが違っていると考えた多くの後代に科学者と呼ばれた人が背景に宗教的熱心さを持っていたことは否定出来ないことです。

    むしろ現代で記録が残っている優秀な科学者と呼ばれた人は鉄腕アトムに出てくる御茶ノ水博士のような温和なタイプでなく競争と名誉欲に狂った人間が多く存在していることを忘れてはいけません。日本人の場合は学があると人徳も優れていると思い込む癖があってむしろ角のある人のほうが社会科学や人文科学でも面白い論説を書きますが、日本では角のある人間は排除されがちです。

    創造性で関心や興味は必要条件ですが、これも人間の置かれた環境などによって異なるでしょう。そうして考えてみれば関心が日本人の場合工学方面以外では秩序維持と人間の関係性を重視した和の方向へ進み、欧州では絶対神の恩寵から合理性への関心に向き、宗教的原理主義の方向は理神論(神は自然の中に普遍的に存在するという考え方)という方向から自然の原理は何かという科学へ向かったわけではないでしょうか。

    私自身はこういうのんびりした牧歌的な社会が好きですけど。

  28. 田舎のダンディさん、

    「小児病」という言葉も一応忘れましょう。

    私がこのブログで何故「激しい」議論を展開するかといえば、「新しい歴史教科書をつくる会」に関して、西尾さんに対する「期待」がありました。

    どなたかが書いていたと思うのですが、西尾さんは fanaticism に対するきちんとした
    批判精神を持っておられると期待していたわけです。

    しかし福地惇さんの『昭和の戦争』を読んで期待はずれだったと感じました。
    一般のコメント(投稿)でこういう長文が出てきてもかまいませんが、
    少なくとも特別枠で「場(投稿の場)」を提供されたことに不快感を感じました。
    つまり、西尾さんは福地さんの歴史観に賛成、もしくは、
    反対ではないと受け取れるわけです。

    「新しい歴史教科書をつくる会」にこういう(私から見れば)
    非常に偏った歴史観を持ち込まれては困るというのが根本で、
    その気持ちを背にここへの書込みをしています。

    このブログのほかにも『新現役』というサイトがあり、ここでもかなり激しいやり取りをしています。
    「大東亜戦争肯定論(やむをえなかった論)」や「東京裁判史観」
    などという言葉には鋭敏に激しく反応します。

  29. あらためて、vagabondさん

    ブログをお読みの皆さんには、西尾先生の提起したテーマとは無関係な話を進めて申し訳ありませんが、ちょっとだけご辛抱下さい。

    vagabondさん、お返事をいただきましたので、一応、謎解きが出来たような気もします。それでも若干の疑問が残りますので、お尋ねしたいと思います。いつまでも拘ると思われるかも知れませんが、気に入らないから「ハイさようなら」とか、「捨て台詞」といったスタイルを極力嫌う、私個人の感性によるものですのでご了解下さい。

    『新現役』というサイトでの意見交換はあられるようですが、vagabondさんご自身のブログでは、ご意見は受け付けても、多分、ダイレクトな公開コメントの受付はなさっておられないようにお見受けしました。その意見受付も「ふさわしくないのは・・汚い言葉、きつい言葉、誹謗・中傷、差別語など」と断りを入れておられます。

    また、

    >「大東亜戦争肯定論(やむをえなかった論)」や「東京裁判史観」などという言葉には鋭敏に激しく反応します。

    との個人的な信条?心情?も分かりました。

    ということでvagabondさん、これまでずーっと感じていましたが、西尾先生のブログであれば、自らの掟「ふさわしくないのは・・汚い言葉、きつい言葉、誹謗・中傷、差別語など」を自ら破ってもいいのですか。(尤も、私の「小児病的」は差別語なのでしょう)

    西尾先生が、ご自分のブログで、他人である福地先生の『昭和の戦争』を掲載したのが悪い事なのですか。

    ブログで掲載させた西尾先生は、福地先生の歴史観に「賛成、もしくは、反対ではない」とする論理は、他人に反論の余地のない反論を求めるvagabondさんの論理自体に反しておりませんか。他人である以上、どんな事でも一部賛成、一部反対は普通でしょう。それとも歴史観はAかBしか存在しないのですか。

    事実、ブログ上では、オープンな形で福地先生の論文に対する賛否の意見が書き込まれておりましたが、賛成のコメントも許しがたい事ですか。

    「非常に偏った歴史観を持ち込まれては困る」と、ご自分の価値観に反することを許した西尾先生は許されない存在なのですか。自分の価値観と違っても、黙って掲載を認めておられる西尾ブログには敬意を表されないのですか。

    まあ、あえて言えばこういうことですが、再度言いますが、子供っぽい対応は大概になさったらということです。国を思うvagabondさんご自身の信条通り、礼をもって接し、論争相手を納得させてください。

    もちろん、ブログ誘導の意図があったなら、まんまと嵌ったわけですが。

  30. 田舎のダンディさん

    福地さんの論文(エッセイ)と同趣旨の意見の持ち主はごまんといます。

    では(彼を選んで)何故噛み付いたか、それは彼が「つくる会」の副会長だからです。

    大東亜戦争肯定(やむをえない)論で教科書を作ってもらっては困るからです。

    —-

    日本は、近い将来憲法第九条を改正して海外でも軍隊を展開できるようになるでしょう
    (それを期待しています)。

    そのとき、例えば「反戦・平和主義」の連中は海外派兵を非難するでしょう。
    そのとき「この派兵は、戦前のそれとは性格が異なる」と説明しなければなりません。
    もし戦前の中国派兵(侵略)と、そのときの派兵(平和維持活動)が「同じ性格」だと
    ”攻撃”されたら、困るでしょう。

  31. vagabond さん

    >大東亜戦争肯定(やむをえない)論で教科書を作ってもらっては困るからです。

    確認ですが、「当時の人々は、次のように考え肯定していた」と書くことまでは否定されていない?

  32. TA生さんの質問ですが、質問の趣旨(目的)が分かりません。

    当時の人々は肯定していた、と教科書に書いてどうするのですか。

    「だから大東亜戦争は正しかった」
    というのならばおかしい。
    しかし、
    「人々の間違った考えで戦争に突入した。だから正しい認識が必要だ」
    というのなら結構だと思います。

  33. Vagabondo様        神戸人より

     以前あなた様にコメントした際、即御質問を戴き、それに応えませんでした。多忙に加え、その件は他の方(松井様、東埼玉人様)とのやり取りに関することで、その方々との応答も続いていた為、必要無しと考えたからです。無視した訳ではありませんことをここに一言し、お詫びします。

     その後も話題を変えて延々やり取りがあり、全てを精読し理解している訳ではありませんが(特に経済問題は疎いので)、ここでまた少し批判的コメントを述べさせて戴きます。

     Vagabondo様は、御自分の中で、御自分の一連の言動を支える欲求や衝動の理由を、充分に把握し理解していらっしゃらない、或いはその努力、それも自己批判的な、をなさっていない、と感じます。

     例えば、要は「福地さんの説は不快だ」というに過ぎないことを、「これをつくる会に持ち込まれては困る」、つまりつくる会としての公益に反する、という理由付けをしてこのブログでの御自分の書き込みの存在意義を強調しているのです。これは欺瞞です。

    「つくる会」のある要人(ここでは副会長)が、例えどのような思想であろうとも、会員としては、「出来上がったつくる会の教科書がどのような記述か」が、問題なだけです。個人の思想をいちいちあげつらっていては、多人数の運動など出来ません。せめて「一会員としては、そのような史観を教科書には持ち込まないで欲しいと思う」と言うに止めるべきでしょう。このブログでここまでこだわっておられるからには、当然、当の「つくる会」の事務所にその旨を意見されておられることでしょう。しかるに「困る」などという言い方は、この場合そぐいません。さも御自分がつくる会の全てを担っているようで、倣岸尊大です。民主的平等な団体なのですから。
     これらはあまりに自明のことで、そんな分別や現実的判断もお出来にならない、ということに呆れます。
     あえてvagabondo様の土俵に乗るなら、では「つくる会」の何方の執筆なら納得されるというのでしょうか。以前猪木正道氏の著書を評価するように挙げておられましたが、その路線の方が何方かおられますか。
     また、猪木氏や林健太郎氏のような旧い保守派が、その思想の根底に問題あり、として次の世代の保守派、即ち渡部昇一、小室直樹、小堀桂一郎、中村粲といった人々から批判されているのをご存知でしょうか。どちらに組すべし、と、ここで言いたいのではありません。

     しかし、vagabondo様のここでの言動の本当の動機は、これ(「つくる会」として困るから云々)ではないのです。

     引き続き、vagabondo様はその「不快」を「善悪」「正誤」「賢愚」にすりかえて述べてこられます。
     想像するにこの「不快」の真の理由は、「敗者が、仲間内だけで、自分達は正しいと自己満足をしているのを傍から見る」折の「不快さ」「醜さ」でしょう。しかし更にその奥には、「この思想が、御自分の来し方を根底から疑問視していることの恐れ」がある。よって、無視する、ということが出来ないのです。しきりに挑発的な言辞を撒き散らして、相手側を自分と同じように不安や不快に陥れよう、とされるのです。
     小さな違い云々の件で、<私の指摘が図星だったのではないか・・・相手の痛いところを突いていなければ、無視すれば済むことなのです。>とお書きですが、わざわざ反応してくれた方々にも失礼な言い方ですが、そのままvagabondo様にお返ししたいものです。

    「つくる会として困るから」などというお為ごかしな誤魔化しは、どうかお止めいただきたい。それを外すと、どのような存在理由や意義が残るのか。

     そこで、そのような御自分というものにメスを入れ、自己探求されて腹蔵なく論じられるなら、意義深い記述になると思うのです。それを、単純で自らが傷つかない外面的な「正誤」「倫理(欲の出しすぎ云々などといった)」の問題にすりかえて、それもお説は大いに反論の余地のある偏ったものですが、解決しようとしておられる。そこが実に陳腐で面白くないのです。

     また「リニア」の件も、「小さな違い云々」の件もそうですが、大変に「察しの悪さ」を感じます。

     人間は、世の中の、個々の、全てのことに通じることなど出来ません。しかし自らが生きるあるひとつの側面が、世界の真理を示すのであり、そこから別の事柄について(個々や細部は判らずとも)、その大抵を「察する」ことが出来る。

     Vagabondo様は、個々には細かいことを述べられるけれども、全然「察する」、ということがない。そういった姿勢からなら、およそ世の中の文章の大抵のもの(全てといっても良い)に「矛盾」や「間違い」をあげつらうことが容易に出来ます。文章や文字なんて、その意味で全く完璧なものではありません。
     ではvagabondo様が、世の中の大量の文章にいちいちそのように反応されず、このブログでの幾つかのものに御執心なのは何故か。先から述べているように、御自分の気分、感情、感覚に合うか合わないか、で行動され、そしてこのブログが大変不快で脅威だからです。ここのブログの方々は、お優しいから、懇切にお相手をされますし。

     私は、vagabondo様の「生きておられる側面」が、深みが無く、薄っぺらで、豊かさに欠き、矛盾に満ちておらず、その結果、傷ついた経験が少なく、傷つくことを異常に恐れている、大変矮小なものと想像します。時折の「理解出来ない」という御反応は、深層心理に於ける自己防衛と見えます。思春期前の利発な少女のようです。

     今後も多岐の話題に渡り、疑問や批判を繰り出されるのでしょうが、その疑問を根源から解決する方法をもし私が指南するならば、ネットやブログなどではない、人生の個人的でリアルで切実な側面を、5年10年掛けて、恐れることなくカルティヴェイトされるのが良い、と言うでしょう。突飛なようですが、例えば「恋愛」が良いです。

     縷々述べましたが、やはりvagabondo様には御理解戴けないだろうなぁ、と思ってしまいます。大変な御無礼、御容赦を。

  34. 神戸人様

     vagabond氏に対する懇切なる批判投稿有難うございます。
     ところで、貴方の文中理解できない箇所がありますので、質問させてください。

    ≪想像するにこの「不快」の真の理由は、「敗者①が、仲間内だけで、自分達は正しいと自己満足をしているのを傍から見る②」折の「不快さ」「醜さ」でしょう。しかし更にその奥には、「この思想③が、御自分の来し方を根底から疑問視していることの恐れ」がある。よって、無視する、ということが出来ないのです。≫(下線及びマル数字は引用者=東埼玉人)

     ①の「敗者」とは、誰を指すのでしょうか。②の「傍らから見」ているのはvagabond氏でしょうが、そうすると、この「敗者」とは「当日録の仲間内」のように読めますが、納得できません。「当日録」が敗者の集まり、自分たちだけの正しさを主張する自己満足者の集団とは「酷い評価」でしょう。神戸人様が、そのように評価されているとは信じられません。
     一方、③の「この思想」というのは、「当日録」で論じられている「思想」だとすると、①と③は同一当事者のこととなります。にもかかわらず、内容的には、①と③とでは正反対のように見受けられる。

     上の、私の読み方が間違っているのでしょうか。

  35. 神戸人さん

    かって(7月5日00:23 ) 【お説への懇切な他者からの疑義には、「理解不能」と反応されること。
    一歩のあゆみよりも無い。】
    との指摘がありました。

    そこで、同日【お説への懇切な他者からの疑義】として松井さんの文章が理解できないので、
    解説して欲しい(要するに○○ということ)、とお願いしたのですが、
    お答えいただいておりません。

    また、8月1日のてっくさんの
    【(政府累積債務について)具体的な計数を上げるなら、
    対GDP比161%というのは過大評価で、対GDP比62%になります。】
    という部分も、分かるように説明してくれませんか。

    【深層心理に於ける自己防衛】・・つまり、暴かれることを心の深~いところで恐れているからだ、
    などという「解説」がつきましたが、分からないことは分からない・・というだけです。

    正直言って、今回のあなたのコメントを含め、理解できない(能力不足?)ことが多すぎます。
    (東埼玉人さんさえ〝疑問”を呈しているほどです。)

    比較的単純なことを難しく考えすぎるのです。
    【私は、vagabondo様の「生きておられる側面」が、深みが無く、薄っぺらで、豊かさに欠き、矛盾に満ちておらず、その結果、傷ついた経験が少なく、傷つくことを異常に恐れている、大変矮小なものと想像します。時折の「理解出来ない」という御反応は、深層心理に於ける自己防衛と見えます。思春期前の利発な少女のようです。】
    こんなのをたしか rational fool といったように覚えていますが。

    こういう”議論”・・・議論といえるだろうか?・・は不毛だろうと思います。
    逃げるつもりはありませんが、ほどほどにしておきましょう。

  36. 総反論 「昭和の戦争」に関して

    はじめに私が投稿したのは2006年6月15日だった。

    1.そこへ書いた「つくる会の副会長としての発言を慎むべきだ」について、強い反発を受けた。

    その後も説明したが「副会長が、大東亜戦争肯定論を展開すれば、反対側からいらぬ非難を受ける」
    という私の意見に対する反論はなかった。

    2.(満州の利権で)欲を出しすぎた、という件について。
    外交交渉で自国の利益だけを主張すれば衝突する、という単純な原理を述べただけなのに、
    わけのわからない「反論」を受けた。とりわけ、松井さんの「欲の抑制は日本独自の倫理」
    などという珍妙な理論には驚くしかない。

    3.(7月1日)の東埼玉人さんの「対米戦争は避けられなかった。利権の共有は不可能だった」
    は日本の「戦争何故起きたか」に対するまじめな意見とは言い難い。
    とりわけ「東京裁判史観」なる(私から見れば)ふざけた表現は歴史を直視していない表れだ。

    4.(7月3日の)松井さん「保守」に関する議論では、全く理解困難だった。

    いくつか挙げたが要約すれば、私から見てどうでもよいような、ピンとはずれの観点からの批判が多く
    「 so what 、何故こういう見解を持ち出すのか」という根本が理解できなかった。

    私に対し「他人の意見を聞かない」、「独善」、「無謬性の確信」(7月2日てっくさん)などの非難を受けたが、
    いずれも私の納得できる意見ではなかった。
    もちろんその中に、松井さんのように何を言っているのか(私の能力では)
    理解困難な文章もある。

    また私の「人格」まで踏み込んだ「高い立場」からの指摘があったが、
    ここはそういう立派な人の集まりなのだな、と感心するばかりだ。
    間違っても私はそういう分不相応な発言はしない。

    「リニア新幹線」についても近々まとめたい。

  37. 東埼玉人 様
     まさか、そんな意味ではありません。一般に<「敗者が、仲間内だけで、自分達は正しいと自己満足をしているのを傍から見る」折の「不快さ」「醜さ」>というものがあり、恐らくvagabondo様は、福地論やそれに賛同する人々のことをそのように感じておられるのであろう、というつもりです。私がそう評価している、というのではありません。
    ③の「この思想」の指すものは御指摘の通りです。どちらもVagabondo様の視点からのつもりで述べたのですが、混乱させてすみません。当否は兎も角、意味は御理解戴けましたか。

    Vagabondo様
    <正直言って、今回のあなたのコメントを含め、理解できない(能力不足?)ことが多すぎます。>
     申し訳ありません。また、他の方の言説をvagabondo様に御説明出来るほどの、能力も時間もありません。
    <「副会長が、大東亜戦争肯定論を展開すれば、反対側からいらぬ非難を受ける」という私の意見>
     ああこれも「つくる会として困る」と同様の、お為ごかしの欺瞞ですね。よくあるパターンです。
     また、他者にやたらに疑問を投げかける前に、自己探求、自己懐疑をもっとお持ちになったら如何でしょう。
    <逃げるつもりはありませんが、ほどほどにしておきましょう。>
     私から振っておいてこう言うのもおかしいですが、同感です。

  38. エントリには直接関係ないかもしれませんが、2年ほど前、あまりに香ばしいキャラクターを見て、思わずブログをはじめてしまいました・・・

    拙ブログの最初のエントリー
    http://tech.heteml.jp/2004/11/post.html

    機械計算課長さんあたりには、笑っていただけるのではないかと
     

  39. 別にvagabondさんの返事を期待しているわけじゃないから。

    てっくさんの書かれた内容は見事です。私が用意したものよりマトモですな。

    皆さんは中学校や高校や大学、または社会人になってからは上司から「おいお前の質問はまるで交番にいって私はどこへ行ったらいいのでしょうと聞くようなものだぞ」と言われたことがありませんかね。中学や高校のときはもっと物柔らかな答えでしたが、それでも「せめて何がわからないか整理して質問しろ」ぐらいは言われたでしょ。これが社会人になるともっときつくなって「このプロジェクトに於ける私の役割は何でしょう」と聞いたら「役割に気付くだけまだましだが、お前は奴隷か。言われたとおりやれという指示は中卒や高卒の社員にいう言葉だぞ」といわれるようになりました。

    私は今回の一連の投稿でどういう考え方を使っているかというと一般的な書き方をすると
    ①目的は何かを考える
    ②全体と部分を考える
    ③関係性を考える
    ④盲点はないかを考える
    ⑤自分が前提にしているモデル・構造は何かを考える。
    ⑥補助線を引いてみる。
    ⑦日本社会の常識で世界を考えない。
    ⑧敵と己を知る事を考える。
    ⑨問題は常に個別の問題を含む。

    などですが、相手が何がわからないでは話のもってきようがありません。
    この①から⑨の項目は複雑系のシステムでは適用できないでしょうけど、vagabondさんに複雑系のシステムの考え方を援用してもますますわからなくなるばかりでしょうから使っていません。

    実際には前にも私は書きましたがvagabondさんは私の問題意識のちょうど良い教材だったという認識がありました。具体的に述べると「どうして日本人は見事なくらいに東京裁判史観にはまってしまったのか」という疑問です。私は米国の洗脳も否定しませんし、敗戦での痛手も否定しません。しかしそれでもまるでオーム真理教に信服した信者のように心の底から戦前を否定できる理由がある筈です。

    これに対して私は「米国は国益のためには平気で巨大な詐欺を行う国家である」というモデルを立てています。高等な詐欺師は最後までだまされた人間に騙されたことを気付かせないそうです。そういう意味では素直なvagabondさんは詐欺師に騙されやすい人だという印象があります。

    すると国家的米国詐欺師のやりかたは簡単です。

    ①日本文化を徹底的に研究し、私信の解読で世論を把握し(敵を知る努力)

    ②目的は日本の弱体化である。

    ③そのために自分たちは正義の味方であるように日本人に思わせる。詐欺師もそうですね。貴方の味方ですといって擦り寄ってきます。

    ④日本文化の背景には社会的通念として特殊な人間観があります。その代表的な人間観は現行憲法の前文に書かれた文章なんでしょ。これも詐欺師としては見事なものだと思います。(日本人が日本の文化の常識に従う行動を取る)

    ⑤梃子と力点があれば日本弱体化は容易です。支点と力点さえあれば理論的に人間一人の力で地球を動かすことも可能でしょう。
    日本の場合は日本文化の中にある否定的文化、例えば私欲の抑制文化を力点にして「お前たちは騙されたのだ(逃げ道を作っておく。しかしそれは地獄へまっさかさまの逃げ道である)。それは彼らが欲をかきすぎたからだ(日本文化の常識だからこれを疑いません)」と論説すれば文化的な忌諱がありますからそれをもともと受け容れる余地は日本文化の中にあります。

    あとは自動的に東京裁判史観を正しいと自家発電するわけです。

    ここでは欲の抑制文化と書きましたがこれは別に欲だけでなくてもかまいません。日本人が規制を行ってきた文化の中に存在すればどれでもよかったのでしょう。その一つは武士道という規範から考えると昭和期の日本人は武士道精神から歪んでいるという考え方です。これは司馬遼太郎史観といわれています。仮にそうであっても世界は残念ながら武士道では動いていません。だからといって私は普遍主義者じゃないから武士道や商人道を否定しませんけど。

    こういうものは幾らでもあります。欲一つ見たって知識欲、私利私欲、公欲、生存欲、名誉欲、などおそらく百八つあるという煩悩に近い数があるでしょう。
    これを防ぐには単純に『欲の抑制』だけでは問題は解決しません。米国そのものが大量消費文化でかつ簒奪文化でかつ国益のためには欲の抑制をむしろしない文化だからです。『欲の抑制』はそれだけでは何一つ基準がありませんから最終的には日本は鎖国時代に戻らざるを得ないでしょうし、米国の目的もそうだったのでしょう。おそらくこの答えの一つは己を知り、敵を知ることなでしょう。これを同意するかどうは別にして理解している人もいますから私はあんまり反省する気もありませんし、他の知識人が書いたもので私のモデルに近いものはきっとあるでしょう。

  40. 神戸人様

     早速ご回答、有難うございます。
     ご指摘の通りとは考えておりましたが、私の思い違いがあってはと、念のためお尋ねした次第です。何しろ、僅かの言葉尻を把らえて文句を付けてくる相手ですから。
     案の定、vagabond氏は、このたびの私の質問事自体を神戸人様にケチを付ける材料にしています。本来なら、今回の「富田メモ」が「発見」されたことに対して中国側が最小限の発言(日本人自身が考えるべき問題だ)にとどめ、極力沈黙している彼らなりの「賢さ」に学ぶなら、自分が不利な結果になることを察知して黙っているべきところでしょうに。
     

  41. postedd by 東埼玉人

     vagabond氏には「さよなら」をしたばかりだが、最近、あまりにも「素朴」な立場の違いが明白になってきたので、少しは基礎的な問題を論じてみたいと思うようになった。今までの議論は、あまりにも「高度」すぎたのである。
     その前に、私が、vagabond氏の立場が、「つくる会」参加者の大部分が(少なくとも、この「日録」を読まれるような方なら)自分自身の立場を規定している考え方と、あまりにも隔たりが大きい、と感じた経過を述べる。

     私は、vagabond氏に、「戦争による国民の被害に対する同情心が感じられない」といわれたこともあったので、確かに私自身、家族や親類に(空襲で焼け出されたものはいたものの、奇跡的にも)一人の戦死者・焼死者も出さずにすんだという幸運に恵まれてはいたが、戦争の被害を受けなかったわけではなく、(結婚したら妻の父は戦死で、残された家族の辛酸は我が家とは比べものにならないものだった。)戦後における「被害者・加害者」の問題や、戦争評価の諸傾向の分類などをやや図式的に論じてみようか、と考えた。
     ところが、てっく氏から、「どうせまともな論争にはならないよ。」とコメントが入り、一呼吸おいて、vagabond氏自身が戦争評価の諸傾向の分類をしていると紹介しているホームページを参照したのである。
     そこでお目にかかったのが、次に掲げる<表>である。

    ≪vagabond氏による戦争を中心とした歴史評価の分類≫
     (凡例:vagabond氏の区分により引用者=東埼玉人作る)
       A:明治維新~1930年  
       B:満州・支那事変・大東亜戦争
       C:アメリカによる占領時代
       D:現在親米
      肯定的=○、否定的・批判的=×、判断できない=△
     <表>
         A  B  C  D
     1  ×  ×  △  ×
     2  ○  ×  ○  ○
     3  ○  ○  ×  △
     (分類:vagabond氏による。)
       1 いわゆる「自虐史観」
       2 保守の本流。
       3 いわゆる「右翼・保守」。

     分類のあまりの単純さに先ず驚いたが、vagabond氏自身が属しているという「保守本流」が、アメリカ占領時代(この場合、「アメリカの占領政策」という方が適切だと思われるが、)を肯定的に評価していることには驚倒した。「占領」についての評価が正反対では、100年前からの戦争の評価が食い違っても当然ではないか。
     そんな相手と一身上の体験に近いことまで含めて論じるには値しない、こう考えたのである。
     そこで、アメリカべったり・対米追随の人との議論の仕方は考え直さなければならない、といったのである。vagabond氏の方は、これを「議論をしても仕方がないと言った」と受け取ったようである。(例によって、文意のねじ曲げではあるが、今から思うと、まあ、そう受け取られても止むを得ないか。)
     
     確か、このような考え方を「保守本流」と名乗るのはおこがましいのではないか、とvagabond氏にはいったように思うが(あるいは記憶違いか)、しかし、最近の加藤紘一氏の発言などを聞いていると、vagabond氏の考えをもって「保守本流」と考えるのも、あながち見当はずれではないのではないか、と思えてくる。

     「つくる会」の運動の中では、アメリカの占領政策を批判し否定することが当然のようになっており、特に東京裁判に対してそうであるが、文部省検定の歴史教科書にそのような考え方の記述がされる筈はなく、従って、占領や東京裁判を肯定的に評価する人が「新しい歴史教科書」を支持することも当然あるわけである。「新しい歴史教科書」に期待するからといって、「つくる会」のシンポジウムに参加する義務がある訳でもなく、従って、明治維新から1930年当時の歴史に対する否定的評価を改める程度のことが、歴史観の根本的な見直しと繋がるような大問題として認識されないとしても、考えてみれば、それ自体不思議なことではない。
     そのような「保守」を名乗る人たちが呑気に構えている事態に対する「保守の危機」「国民の油断」「全体主義の跫音(あしおと)」といった西尾先生の警鐘が、「つくる会」の教科書を支持するというvagabond氏に届いていなかったとしても、それを一概に責めることも出来ないだろう。……というわけで、いくつかの基礎的問題を論ずることに意義もあろう、と考えるに至ったのである。

     かく言ったとて、私は、vagabond氏なる人物が、まともな議論を期待しているのではなく、もっぱら当日録を攪乱し、正常な議論の発展を妨害する意図をもって投稿している、という確信に近い疑惑を拭ったのでは決してない。vagabond氏にしてみれば、随分失敬な物言いだと怒るかも知れない。しかし、むしろ私はvagabond氏が真に怒ることを期待するものである。
     私の疑惑が根も葉もないものであるなら、それを証明するのは簡単である。今までのような、人の論点の片言節句(へんげんせっく)にかみついたり、論点をそらしたり、都合の悪い指摘は無視したり、感情的言辞を大量に吐いたり、等のことをやめ、落ち着いて、互いの立場を認め、マナーを心得、非礼はわびる、といった態度に切り換えてくれるなら、私も認識を改め謝罪しよう。……こんな、奇跡のようなことを想像するのも、精神衛生上は悪くないだろう。

     さて、vagabond氏には、占領期は、日本弱体化一辺倒の前期と、反共の砦としての日本再強化への方針転換をした後期とに分かれますよ。左翼は前期を肯定的に、後期を否定的に評価していますよ(上記表の、1=左翼のC=占領期が△ななっていることにもそれは示される。)といって、あなたもせいぜい前期・後期と分けて評価したらどうですか、といったところ、「日本弱体化一辺倒」という言い方自体イデオロギー的偏向であるといわれた。ム…、確かに言葉の意味通りに「弱体化一辺倒」ならば、食料支援なんかしてくれなかったでしょう。餓死者が出るのを放っておけば、もっと弱体化したでしょうからナ。

     このたびは、そんなことより、占領初期に行われた、ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム(一種の洗脳政策)、言論統制・検閲などのことは、ご存じなのか、また、それらについてどう考えているのか。東京裁判だの、憲法の評価だのの前に、それをお聞きしたい。(知らないとすれば、――そんなことは信じがたいことだが、知って頂くことが先決である。)

    【ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム】 「真相はかうだ」というラジオ放送や「太平洋戦争史」の新聞連載等をつうじて、日本軍の残虐性をはじめ、この戦争が如何に間違ったものであったかを繰り返し宣伝し、日本人の心に戦争に対する贖罪意識を植え付けようとする政策。
     戦時中の「大本営発表」という言葉が「勝利の誇大報道」の代名詞のようになっていた事態があったから、国民の間に「騙されていた」、と考える土壌もあったろう。占領軍の「洗脳」は成功した。
     いや、そのような評価は「右翼・保守」のものだ。軍国主義を(日本人の手でくい止められなかった以上)勝利した連合軍が粉砕するための正当な政策だった、といわれるかも知れない。しかし、そのような(洗脳)政策が行われたことは疑いようがない事実なのだから、戦後の戦争観にバイアスがかかっていないどうかを(個人的にも)反省してみることは必要であろう。
     
    【言論統制・検閲】 今日、占領下の検閲は明白になっている。占領中は、検閲が行われていることを報道することも厳禁されていたから、国民は全く知らないことだった。
     占領軍の「民主化」「軍国主義の解体」が、本当にその目的通りのものならば、こんな検閲や言論統制など不要だったはずである。(大東亜戦争の呼称禁止、代わりの太平洋戦争の呼称強制も含まれる。)

     以上のような占領軍の政策は、「新しい歴史教科書」にも記述されてはいない。だから、「知らなくてよい」ことではない。国民の多くに知らせるべきことであり、本来は教科書にも書かれてしかるるべきことであろう。
     
     占領軍の上記の政策に対して、残念ながら日本人の中にも積極的にそれに追従するものも現れた。きのうまで軍国主義を称揚していたものが、突然民主主義に宗旨替えをしたケースは至る所で見られた。このような現象は、入江隆則氏によば、何処の敗戦国にも見られる現象である。そして、(今日を含む)敗戦後の精神のあり方が、その民族の価値・尊厳さを決めるという。

     初期のGHQは左派が強く、日本の左翼を応援したから、急激に左傾化していった。それにソ連・中国からの帰還兵の中に、かの国での洗脳を受けた人たちの影響が加わったのである。戦後の民主化と平和主義は、そのような状況の中で進められたのである。

     占領下の評価自体、決して単純ではないが、脳天気に「民主化」一辺倒の評価は反省されるべきである。(「つくる会」の主張の柱の一つがここにあるのだから、今更こんなことを書いている自分が変な感じであるが。)

     随分長くなったので、一旦筆を置く。

    追記
    先の<表>の単純さに驚いた、と書いたが、情報を伏せて論評したように邪推されても困るので、vagabond氏の各派に対する評価をそのまま紹介する。

    1 はいわゆる「自虐史観」の典型である。
    アメリカ占領時代に△を入れたのは、アメリカ占領時代については批判するが、アメリカ占領軍の残した「功績」は高く評価する。例えば、憲法、教育基本法などは不磨の大典としているがアメリカには批判・攻撃的である。
     日清・日露戦争も「帝国主義」戦争として非難するが、ではどうすればよかったのかについては、明確な答えはない。
     要するに、明治維新以降の日本の歴史をすべて否定的に捉える。

    2 は保守の本流の考えである。
     満州・支那事変・大東亜戦争を日本近代史における「特殊」な時代、失敗の時代と捉える。
     個人にも、国にも山や谷があり、直線的な歩みをするわけではない。
     誰だって、あるいは、国だって過ちを犯す。
     この時代は、日本の近代で誤りの時代だった。
     それ以外はすべて肯定的である。

    3 はいわゆる「右翼・保守」の一部にある考え方で、満州・支那事変・大東亜戦争は正しかったとする。
     自虐史観を裏返しにしたように、明治維新以降すべてが正しいという。
     これには無理がある。
     あの膨大な犠牲を強いた「大東亜戦争」に正義があったとはとうていいえない。

  42. 東埼玉人さんは、『真相はこうだ』というラジオ放送で、【日本軍の残虐性をはじめ、
    この戦争が如何に間違ったものであったかを繰り返し宣伝し、日本人の心に戦争に対する贖罪意識
    を植え付けようと・・】した、という。

    彼はこうも言っている。
    【戦時中の「大本営発表」という言葉が「勝利の誇大報道」の代名詞のように
    なっていた事態があったから、国民の間に「騙されていた」、と考える土壌もあったろう。占領軍の「洗脳」は成功した。】

    当時の日本は連日空からの攻撃に晒され、空襲警報のたびにいつやられるかも知れないという恐怖の中で生きていた。
    一方政府(大本営だけではない)は「絶対に勝つ」といってはばからなかった。
    国民はうすうす「怪しい」と感じていたに違いないが、口に出すことは下手すれば監獄行きだった。
    そして敗戦。
    国民はほっとすると同時に、「やはり騙されたのか」と強く感じたに違いない。
    早い話、死の恐怖にびえなくてすんだのだから。

    こういう中で、騙していた日本政府より『真相はこうだ』のほうが正しい、
    真実に近いと感じたとしても当然である。
    福地さんの『昭和の戦争』に示された戦争観では、当時の人々を納得させることは不可能だったろう。

    これを「洗脳」だというなら、日本政府の騙しの方がずっと罪が深い。
    戦争は間違っていたと(感じる)か、贖罪意識を持つことの方がずっと正常である。

    さらに東埼玉人さんは
    【そのような(洗脳)政策が行われたことは疑いようがない事実なのだから、
    戦後の戦争観にバイアスがかかっていないかどうかを(個人的にも)反省してみることは必要であろう。】
    と言っているが、これは当然のことだ。
    これはあくまでも「見直し」なのであって「全面否定」ではありえないのだ。

    検閲についてはほとんど知識はない。
    軍国主義礼賛(復活)を防ぐものであったなら当然である(根拠はポツダム宣言)が、
    一方反共的要素もあったのではないかと想像する。(この点自信はない)

    こういう意見を聞くにつけ、どうしても理解できないのは「戦後の戦争観」に問題があるとして、
    ではそれ以前の戦争観が正しかったと云えるのだろうか。
    戦後の戦争観を否定するのだったら、それに対抗する歴史観を示さなければならない。
    福地さんの歴史観はその一つなのだろうか。(そうだと困るから批判したのだ)

    関連して話は少し変わるが、『東京裁判史観』という変な言葉がある。
    東京裁判を否定する立場から、この判決に盛られた考え方(日本悪論など)
    を恨みを込めて非難する言葉である。
    東京裁判の根拠は「捕虜を虐待したものを含む一切の戦争犯罪人は厳重に処罰すべし。」
    という『ポツダム宣言』第10条である。
    A級戦犯となった戦争指導者が「平和の罪」に問われたが、もしこれが不当だというなら、
    当時の日本政府は抗議したのだろうか。
    「これはポ宣言に反する」といって徹底的に抵抗したのだろうか。
    「国体の護持」だけに拘っていた政府(政権ではない)がそういう抵抗をするとは考えにくい。
    もし抵抗したとしても、第6条に示された軍国主義者の除去に当たると(連合軍は)答えただろう。

    『東京裁判史観』を使うなら『ポツダム宣言史観』とか
    『戦争はこうだ史観』のほうが相応しいと思う。
    ただ、『ポツダム宣言史観』だとこれを認めなければならない(これを受諾して
    戦争が終わったのだから)。
    『戦争はこうだ史観』だとどうなるかな・・・?

  43. 現代版「真相はかうだ」

    占領時代の「真相はこうだ」という番組について「これにやられた」という意見がある。
    これに対抗してかどうか分からないが、またそれが復活したようだ。
    「ポツダム宣言とは、実はこうなんだ。お前達知らんだろう」
    と物知り顔に語る人がいるが、こういう現代版「真相はこうだ」はたいてい眉唾物、
    あるいは噴飯モノだ。
    少なくとも伝統的な歴史解釈を変更するような、(「ユダの福音書」のような)
    強力な資料や解釈は出ていない。

    伝統的な解釈とは次のようななる。
    1944(S19)年後半ごろから日本はほぼ戦闘能力を失っていた。
    通常の戦争終結は、休戦を呼びかけ、休戦会談、
    協定を経て講和条約で終わる。
    しかし、日本の場合は違った。

    どれだけやられても日本は休戦を呼びかけなかった(噴飯ものだが、ソ連に斡旋を依頼していた)。
    見るに見かねて、米・中・英が「ポツダム宣言」という形で降伏を呼びかけた。(7月26日)
    しかしそれを日本は黙殺。
    2発の原爆、ソ連の参戦が止めを刺した。

    御前会議が開かれたが、内閣では降伏(ポ宣言受諾)を決められず、天皇の裁可を仰ぎ、
    ようやく受諾を決定した。

    ポツダム宣言は「これこれの条件の下で降伏せよ」という形式的には条件付降伏だったが、
    日本から条件を出すことは出来なかった、という意味で「実質的に無条件降伏」だった。

    こういう解釈(言葉は違うかもしれないが)を変えるような「アッと驚く」資料や解釈は出ていない。
    今後出るかもしれないが、その時はその時で考えればよい。

  44. vagabond氏のコメントについて述べる。

    ≪検閲についてはほとんど知識はない。軍国主義礼賛(復活)を防ぐものであったなら当然である(根拠はポツダム宣言)が、一方反共的要素もあったのではないかと想像する。(この点自信はない)≫

    あっさり 「検閲についてはほとんど知識はない。」では困るのである。後ほど、検閲によって発禁・削除となる項目を列挙する。そのような大検閲と言論統制の中で、戦後日本人の歴史観・戦争観が形成されたのであり、その「バイアス」の大きさは深刻なものである。だが、必要なのは「見直し」であって「全否定ではない」などと当たり前のことを言って逃げてはいけない。
     検閲・言論統制の根拠にポツダム宣言を引用されるとは、まさに<虚を衝かれた>感じだが、てっく氏の提供されるワクチン接種を先ずどうぞ。

    ≪こういう意見を聞くにつけ、どうしても理解できないのは「戦後の戦争観」に問題があるとして、ではそれ以前の戦争観が正しかったと云えるのだろうか。戦後の戦争観を否定するのだったら、それに対抗する歴史観を示さなければならない。福地さんの歴史観はその一つなのだろうか。(そうだと困るから批判したのだ)≫

     これは奇天烈なコメントである。今、「以前の戦争観」の「正しさ」について問題にしているのではない。
     検閲・言論統制、それに伴う「洗脳」を通じて、(すなわち、十分な情報が提供されず、片寄った、または歪められた情報に基づいて)「戦後史観」が形成されたことを問題にしているのだ。「以前の戦争観」を批判し、否定するのは結構だ。問題は、その批判・否定の根拠となる考え方のゆがみを反省し、修正しなければ、正当な批判・否定になり得ない、ということである。
     vagabond氏の福地淳氏の「戦争観」に対する異常なまでの反発は、vagabond氏の「ものさし」に相当の狂いがあることを、第三者には強く推定させるのである。(だから、vagabond氏の福地批判に対する反論が湧き起こったのだ。)

    以下、江藤淳氏の調査による発行禁止(supress)削除(delete)対象とされた項目である。
    1)SCAP=連合国最高司令官(司令部)にたいする批判。 2)極東軍事裁判批判。 3)SCAPが憲法を起草したことに対する批判。 4)検閲制度への言及。 5)合衆国に対する批判。 6)ロシアに対する批判。 7)英国に対する批判。 8)朝鮮人に対する批判。 9)中国に対する批判。 10)他の連合国に対する批判。 11)連合国一般に対する批判。 12)満州における日本人の取扱いについての批判。13) 合国の戦前の政策に対する批判。 14)第三次世界大戦への言及。 15)ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及。 16)戦争の擁護の宣伝。 17)神国日本の宣伝。 18)軍国主義の宣伝。 19)ナショナリズムの宣伝。 20)大東亜共栄圏の宣伝。 21)その他の宣伝。 22)戦争犯罪人の正当化及び擁護。 23)占領兵士と日本女性との交渉。 24)闇市の状況。 25)占領軍軍隊に対する批判。 26)飢餓の誇張。 27)暴力と不穏の行動の煽動。 28)虚偽の報道。 29)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及。 30)解禁されていない報道の公表。 

     これらの発禁・削除を民主的傾向の復活・軍国主義排除・戦争犯罪人の処断にとって当然のこと、と認識するなら、それは、民主主義における言論の自由の意義を全く理解していないことと言う他ない。
     言論統制といえば、七〇〇〇冊(種)を越える書籍の処分(焚書坑儒)について、西尾先生が日録で取り上げたばかりである。vagabond氏は興味を持たれないのであろうが、それも困ったことである。

     vagabond氏の東京裁判に対する認識についても、唖然とさせられるが、日を改めて論ずる。

  45. きっと私よりしっかりした論説を他の方が書くと思うけど。
    vagabondさんに読んでもらっても役に立たないだろうから他の方に読んでもらうために書いている。

    彼(女性かもしれないけどとりあえず彼にしておこう)は自分で書いていて矛盾に気付かないのかな。失礼ながら私は彼の論説を読んでいるときっと日本は彼のような裏づけのない精神性を持っていたのだから負けなんだなと思うよ。精神の怖さは他の裏づけがないと無限大に評価が拡大するか縮小するかなのね。だって想像で考えることだから根拠なく確信がもているのだろうな。

    今回の論説は面白かったけど、おそらく敗戦後に初めから日本人は気づいていなかった。彼のモデルでは疑いがあったところへ米軍の目をさます教育があって日本人は目を覚ましたという話でしょ。だから米国は正義だと判断したんでしょ。

    細かいことをいうとこういう精神的衝動が継続されるにはそれを動かす再生産装置がないと駄目なのね。進駐軍が帰ったあとで進駐軍がいなくても過去の日本人は悪かったのだ、すべて自覚のある自分以外の日本人が悪かったのだと継続して思わせる自虐でなく自分以外の他人が悪いという精神衝動を他に転嫁するいわば「他虐」の再生産装置がないとね。もともと日本人はこういうものを簡単に忘れてしまうのだからこういう再生産装置の説明が必要なのね。

    矛盾に気付かないかというとちょっと考えればわかること。

    一番の矛盾は米国が本当に日本の民主化のために報道の自由を規制し、私信を検閲し、マスメディアを使って教育した目的を正義の確立のためにやったという証拠がないこと。しかしこういうものは必ず目的がある。それが本当に日本の民主化であったかどうかは当時の米国側の資料を調べればわかるだろうとおもうよ。その立証責任は彼にある。私は親切じゃないから彼に教えるつもりはまったくない。

    ①彼の論立てによると米国がどうして日本を強化する行動を取ったとでもいうのでしょ。どうして米国はそんな親切なの。
    ②米軍占領下だから軍事政権でかつ報道の自由がなく私信の検閲が実行されているところでどうして民主主義政権が出来ると思えるの。
    ③米国のやった「これが真実だ」はすべてが嘘じゃない。真実と虚偽を重ねているから本当らしく見えるのね。これも詐欺師の有力な方法だけどね。

  46. 本日(8月23日 12:41 )の書込み、最後の方に
    『戦争はこうだ史観』とありますが
    『真相はこうだ史観』の誤りです。

    訂正します。

  47. コメント欄上部にある太字強調のタグですが、かえって見づらいとの声が複数寄せられたので、試験的に使えなくしました。
    基本設定が変わったので、以前のコメントも含め太字が解除されます。
    暫定措置として、これでしばらく様子を見ます。

    尚、文字のドラッグ(文字の部分選択)ができないとのことですが、IE系のブラウザでそのバグが出ています。
    Mozilla系のFirefoxでは文字の部分選択ができます。
    元のテンプレート作成時におけるcssの吐き出し時よりこのバグが発生しており、現在のところ解決方法がわかりません。
    ただし、印刷時には別cssを選択するように設定しておりますので、特に部分選択ができないことによる支障はないと思います。

  48. なんか、ワクチン打たれて暴れてる人がいますが(笑)
    実はね、このワクチンはそういう暴れ方も想定に入れた上のものだったりして・・・

    「ポツダム宣言とは、実はこうなんだ。お前達知らんだろう」

    と物知り顔に語る人がいるが、こういう現代版「真相はこうだ」はたいてい眉唾物、あるいは噴飯モノだ。

    少なくとも伝統的な歴史解釈を変更するような、(「ユダの福音書」のような)強力な資料や解釈は出ていない。

    (中略)

    どれだけやられても日本は休戦を呼びかけなかった(噴飯ものだが、ソ連に斡旋を依頼していた)。

    見るに見かねて、米・中・英が「ポツダム宣言」という形で降伏を呼びかけた。(7月26日)

    しかしそれを日本は黙殺。

    2発の原爆、ソ連の参戦が止めを刺した。

    プロパガンダにやらちれまったままなのね・・・
    昔の人なら許せるけど、あっしと同じ現代を生きてるのにね
    最近になって、いろんな新しい文書が公開されているのにカビの生えた岡義武@岩波あたりが金科玉条か?
    これいうと、能力がないとか英語ができないとか、そう言い訳するんだろうか・・・

    残念ながら(笑)・・・秘匿されてた資料はいろいろと公開されちまってるんですよね

    First, there is a rapidly expanding gap between what the expert scholarly community now knows and what the public has been taught.
    だってさ・・・

    The author of that statement is not a revisionist;
    歴史修正主義者でもないってか・・・

    Nor is he alone in that opinion.
    彼だけの意見でもない

    Similarly, a top-secret April 1946 War Department study, Use of Atomic Bomb on Japan, declassified during the 1970’s but brought to broad public attention only in 1989, found that “the Japanese leaders had decided to surrender and were merely looking for sufficient pretext to convince the die-hard Army Group that Japan had lost the war and must capitulate to the Allies.”
    This official document judged that Russia’s early-August entry into the war “would almost certainly have furnished this pretext, and would have been sufficient to convince all responsible leaders that surrender was unavoidable.”
    意地悪さんは訳さないでリンクだけを貼る
    Historians Reassess
    しかも、ちょっと古いやつを見せてたりする

    ここから探して、迷いながらたどり着いてみるのもまた一興かと
    Digital Library for Nuclear Issues

    ま、トルーマンとその右腕のバーンズって奴が、ポツダム宣言を公表するにあたって、
    「日本が降伏しないように」入念に文章をいじって、
    陸軍長官スティムソンの原案から「天皇の地位保全の条項」(12条)を削ってしまったという事実
    さらに、日本側には、その宣言が「正式の外交文書だと思わせない」ようにつくり、
    「最終通告だという認識を持たせない」ように細心の注意を払い、
    日本側が間違いなく黙殺するように仕組んだってこと

    これが、スティムソンの日記以外に、いろんな公文書の秘密保持期限が切れて公開されてきてるってわけです

    タダじゃ教えないよ、自分で探せ
    で、「その時はその時で考えればよい」らしいから、とっとと考えてくださいね♪

    ついでに、みなさんにムカつく手紙を見てもらおうかと・・・

    ラッセル上院議員のトルーマン大統領宛の電報
    http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb13.htm

    ちょっとブチ切れそうになるのは、この手紙に対するトルーマンの返事です
    http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/small/mb13a.htm
    これはサービス

    8月9日付けの貴殿の電報に深謝します。

    私ほど原爆の使用に心を悩ませている人間はおりません(嘘吐き)

    しかし私はまた、日本による警告なしのパールハーバー攻撃と
    戦争捕虜に対する殺人に対しても心を痛めているものであります。

    彼らの理解する唯一の言語は、彼らを爆撃することのように思われます。

    ケダモノと相対したときは、ケダモノとして扱う他はありません。

    大変遺憾には存じますが、しかし云うまでもなく、真実であります。

    これ、最初に読んだときにめまいがしそうになりました

  49. 8月24日朝、23日付ゲストエッセイ「『あの戦争に何故負けたのか』(文春新書)から考える(一)」を読んだ。
    vagabond氏も、このゲストエッセーはじっくり読み込んで欲しい。当面の議論の焦点になるエッセーだ。
    以後の議論は、最新のエントリーで続けたい。

  50. ポツダム宣言については、
    1.アッと驚く資料や考え方が現れ、
    2.それが公認(多くの人が認め、教科書にも表れる)されるようになる
    ・・以上の2点が実現したら、改めて意見を述べる。

    多分そういうことは現れないだろうし、たいていの「真相はこうだ」は大勢に影響を与えないだろう。
    アッと驚くようなものを是非見たいものだ。

    検閲については、足立誠之さんのエッセーでも取り上げられているので、そこに載せます。

vagabond にコメントする コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です