「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(七)

 「遊就館から未熟な反米史観を廃せ」と産経コラム「正論」(8月24日)に書いた岡崎久彦氏の靖国干渉オピニオンに、蛇足のように、初版『新しい歴史教科書』(代表執筆者・西尾幹二)への攻撃のことばがあえて意図的に、次のように挿入されている。

 過去4年間使われた扶桑社の新しい教科書の初版は、日露戦争以来アメリカは一貫して東アジアにおける競争者・日本の破滅をたくらんでいたという思想が背後に流れている。そして文部省は、その検定に際して、中国、韓国に対する記述には、時として不必要なまでに神経質に書き直しを命じたが、反米の部分は不問に付した。

 私は初版の執筆には全く関与しなかったが、たまたま機会があって、現在使用されている第2版から、反米的な叙述は全部削除した。

 岡崎発言は今回が初めてではない。昨年のたしか春ごろの『中央公論』と『Voice』で、岡崎氏は同様に語り、自分の削除で第二版『新しい歴史教科書』(代表執筆者・藤岡信勝氏)は教科書として完璧の域に達した、というような自画自讃のことばを列ねていたのを覚えている。今手許にないので引用できないが、そこには事実に反する無礼なことばも言われていて、私は当然腹を立てた。

 しかし「名誉会長」には言論の自由がない。私が反論の文章を書くのではないかと「つくる会」の理事の面々は心配し、抑止した。これから採択戦が始まるという時期で、執筆者同士の内輪の争いを外にみせてはいけない、というのだ。遠藤浩一理事が丁寧な書簡を私に送ってきた。「先生、お怒りでしょうが、ここはしばらく辛抱して下さるようにお願いします」と書かれていた。

 そういうことも分らないで偉そうに好き勝手な自慢を吹聴して、人を傷つけて平気な岡崎氏は教科書採択がどういうことか分っていないのだが、しかしもともとデリカシーを欠く人物なのである。

 周知のとおり、採択戦は完敗に終った。「つくる会」には課題が押し寄せ、私は岡崎氏にわざわざ反論を書く状況ではもうなかった。それに『中央公論』にせよ『Voice』にせよ、抗議の文を書かせてもらうのなら直後でなければならない。私は機会を逸した。

 すると一年以上も経ってまたしつこく、新聞で17行の上記の文章があえて意図的に挿入されたのだ。

 「日露戦争以来」の「反米的叙述は全部削除した」という初版本と第二版本の比較の仔細を私はまだ十分に調べていない。扶桑社の編集者にかつて岡崎氏の修正メモをみせるように要求したが、見つからないといって断られた。

 そこで、日露戦争直後の両教科書の記述を例にあげ、三項目に分けて以下に比較対照する。

 初版本257-259ページ、第二版本188-189ページからである。

初版本:日米関係の推移

 日露戦争のとき、ロシアが満州を占領することをおそれたアメリカは日本に好意的であった。ところが、日本がロシアにかわって南満州に進出すると、アメリカは日本の強大化を意識するようになった。また、19世紀後半より、太平洋への進出を始めたアメリカにとって、対岸にあって、強力な海軍を備える日本は、その前に立ちはだかる存在でもあった。

 一方、アメリカ国内では、中国移民やアメリカの先住民への人種差別が続いていたが、日露戦争終結の翌年、アメリカのカリフォルニア州で日本人移民の子どもを公立小学校からしめ出すという法律が制定された。勤勉で優秀な日本人移民への反発や嫌悪が大きくなってきたのである。

 こうした中、アメリカは1907年、将来、日本と戦争になった場合の作戦計画(オレンジ計画)を立てた。また、日本も同年に策定した帝国国防方針の中で、アメリカ艦隊を日本近海で迎え撃つ防衛計画を立てた。このようにして日米間の緊張は高まっていった。

 国際連盟が提案された第一次大戦後のパリ講和会議で、日本は唯一の提案である人種差別撤廃案を会議にかけた。この案は日本人みずからが重視し、世界の有色人種からも注目を浴びていた。投票の結果、賛成が多数を占めたが、議長役のアメリカ代表ウィルソンが、重要案件は全会一致を要するとして、不採決を宣言した。このことも、多くの日本人の反発を生んだ。

 こののちも、アメリカでは日本人移民排斥の動きが続き、多くの日本人はこれを人種差別と受け取った。

 

第二版本:日米関係の推移
 
 日露戦争後、日本は東アジアにおけるおしもおされもしない大国となった。フィリピンを領有したアメリカの極東政策の競争相手は日本となった。

 他方、日米間では、、日露戦争直後から、人種差別問題がおこっていた。アメリカの西部諸州、特にカリフォルニアでは、勤勉で優秀な日本人移民が、白人労働者の仕事をうばうとして、日本人を排斥する運動がおこった。アメリカ政府の指導者は日本人移民の立場に理解を示したが、西部諸州の行動をおさえられなかった。

 第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本は国際連盟規約に人種差別撤廃を盛りこむ決議を提案した。その目的は移民の差別を撤廃することだったので、オーストラリアなど、有色人種の移民を制限していた国は強硬に反対した。米国は当初、日本に同情的だったが、西部諸州の反発をおそれて反対に加わり、決議は採択されなかった。* しかし、日本の提案は世界から多大の共感を得た。

 *日本の提案は世界の有色人種から注目をあび、投票の結果、11対5で賛成が多数をしめた。しかし、議長役のアメリカ代表ウィルソンが重要な議題は満場一致を要するとして否決を宣言した。

 ご覧の通り、第二版本では、二度にわたり、悪いのは「西部諸州」で、アメリカ政府ではないと述べ、「西部諸州」をおさえられなかったのはあたかもアメリカ政府ではないかのごとくである。なぜアメリカ政府を弁護するのか。

 日米関係を述べているくだりなのに、なぜオーストラリアを悪役として出してアメリカはそれほど悪くなかった、と言いたいのか。歴史記述なのだから、アメリカ政府のとった態度の結果だけを書けばよいのではないか。不自然なまでにアメリカの立場に立っている。

初版本:白船事件

 1908年3月、16隻の戦艦で構成されたアメリカの大西洋艦隊が、目的地のサンフランシスコ寄港をへて突如、世界一周を口実にして、太平洋を西に向かって進んできた。日本には7隻の戦艦しかない。パリの新聞は日米戦争必死と書き、日本の外債は暴落した。

 日本政府はあわてた。アメリカの砲艦外交風の威嚇の意図は明らかだった。船団は白いペンキで塗られていたので、半世紀前の黒船来航と区別し、白船来航とよばれる。日本政府は国を挙げて艦隊を歓迎する作戦に出た。新聞はアメリカを讃える歌をのせ、Welcome!と書いた英文の社告をのせた。横浜入港の日、日本人群衆は小旗を振って万歳を連呼し、アメリカ海軍将校たちは歓迎パーティーぜめに合った。彼らを乗せた列車が駅に着くと、1000名の小学生が「星条旗よ永遠なれ」を歌った。

 日本人のみせたこの応対は、心の底からアメリカをおそれていたことを物語っている。

第二版本:歴史の名場面  アメリカ艦隊の日本訪問

 1908(明治41年)3月、16隻の戦艦からなるアメリカの大西洋艦隊が、世界一周の途上、日本へ向かって進んできた。当時、日本が保有する戦艦は7隻だったから、これは大艦隊であった。セオドア・ルーズベルト大統領は、みずから建設した艦隊の威勢を世界に誇示しようとした。船団は白いペンキで塗られていたので、半世紀前の黒船来航と対比して、白船とよばれた。

 日本政府は、国をあげて艦隊を歓迎することとした。ルーズベルトはアメリカの印象をよくしようとして、「品行方正な水兵以外は船の外に出すな」と指示した。横浜入港の日、日本人群衆は小旗を振って万歳を連呼し、アメリカ海軍将校たちはパーティー攻めにあった。彼らを乗せた列車が駅に着くと、千人の小学生がアメリカ国歌「星条旗」を歌った。

 
 第二版本では「歴史の名場面」と銘打ったコラム扱いになっているが、この一文は無内容で、なぜ「歴史の名場面」とわざわざ呼んで特筆したのかこれでは分らない。載せる必要がない。

 アメリカ政府の公文書だけが歴史ではない。白船事件は太平洋における20世紀初頭の「海上権力論」が特記しているきわめて深い意味をもつ一エピソードであった。アメリカ艦隊が日本から離れて間もなく、日本海軍は小笠原沖で米艦隊の再来に備えて大演習を行なっている。

初版本:ワシントン会議

 1921年には、海軍軍縮問題を討議するためワシントン会議が開かれ、日本、イギリス、フランス、イタリア、中国、オランダ、ポルトガル、ベルギー、そしてアメリカの9カ国が集まった。この会議で、米英日の主力艦の保有率は、5・5・3と決められた。また、中国の領土保全、門戸開放が九か国条約として成文化された。青島の中国返還も決まり、同時に、20年間続いた日英同盟が廃棄された。

 主力艦の相互削減は、アメリカやイギリスのように、広大な支配地域をもたない日本にとっては、むしろ有利であったともいえる。しかし、日英同盟の廃棄はイギリスも望まず、アメリカの強い意思によるもので、日本の未来に暗い影を投げかけた。

第二版本:ワシントン会議と国際協調

 1921(大正10)年から翌年にかけて、海軍軍縮と中国問題を主要な議題とするワシントン会議がアメリカの提唱で開かれ、日本をふくむ9か国が集まった。会議の目的は、東アジアにおける各国の利害を調整し、この地域に安定した秩序をつくり出すことだった。

 この会議で、米英日の海軍主力艦の保有数は、5:5:3とすることが決められた。また、中国の領土保全、門戸開放が九か国条約として成文化された。同時に、20年間続いた日英同盟が、アメリカの強い意向によって解消された。

 主力艦の相互削減は、第一次大戦後の軍縮の流れにそうもので、本格的な軍備拡張競争では経済的に太刀打ちできない日本にとっては、むしろ有利な結論だったといえる。しかし、海軍の中にはこれに不満とする意見も生まれるようになった。政党政治が定着しつつあり、国際協調に努めた日本は、条約の取り決めをよく守った。*

*1922年、条約が成立すると、日本はただちに山東半島の権益を中国に返還し、軍事力よりも経済活動によって国力の発展をはかるように努めた。

 読者は以上の三例をよくご自分の目でたしかめ、削除や修正で内容がどう変わったかをとくと観察していたゞきたい。

 以上はほんの一例である。二つの教科書は他のあらゆるページを比べればすでに完全に内容を異とする別個の教科書である。初版本の精神を活かしてリライトするという話だったが、そんなことは到底いえない本になっている。

 「つくる会」の会員諸氏もページごとに丁寧に両者を比較しているわけではないであろう。リライトされ良い教科書になった、と何となく思いこまされているだけだろう。

 何のための教科書運動であるのか、今すでにしてもはや言えなくなっているのである。

つづく

「「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(七)」への13件のフィードバック

  1. これでは、日本が何故戦争に突入したかということの世界的、
    歴史的理由がさっぱり分からない。

    岡崎氏はアメリカのカウンターパートだから仕方ないとはいえ、
    つくる会は真面目に教科書をつくることをやめたと言っても
    過言ではない。

    今までの活動は結局「ごっこ」だったのだろうか。
    所謂左翼に対し、何も言えない。
    情けないことだ。

  2. 西尾先生、よくぞキッパリと主張して下さいました。
     日本人が「アメリカ」と発音する場合、何か甘えるような、夢を追う様な幻想に満ち溢れています。しかしそんな感情は日本からの一方的な横恋慕であって、先方には通じません。
     小生は欧州で開催される国際会議には良く出ますが、会議では米側の日本を見る眼に特別なものはありません。むしろ変わった奴らだ、という見方です。昔も今も変わっていません。日本人が米国を良く理解しようとする熱意は判ります。しかし米国文化の源流は欧州にあり、東洋ではありません。この辺をしっかりと自覚する必要があります。

  3. 以前このブログの運営に携わっていた福井氏を最近見かけませんがどうしたのでしょうか。

    管理人より
    技術的な管理は変わらずに複数名体制でやっていますが?
    コメントをする必要を認めませんでしたので、コメントには参加していません。
    また、技術的なこと以外に参加する時間的余裕もありません。

    ところで、あなたの投稿はフィルターに引っ掛かって迷惑コメントになっていました。

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    ※ちなみに、プロキシではIPアドレスは隠せません。
    一例

  4. 初版本の精神は、その「序章」の「歴史を学ぶとは」の冒頭の「歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである」と云う一文に凝縮されている。

     正しく初版本の記述からは、当時の吾が国政府や国民の思いが切々と伝わってくるが、リライトされた第二版本の記述からは、ニュートラル振る筆致が鼻に付き、時にはアメリカの立場を過度に忖度する一方、吾が国政府の苦悩や焦燥、国民の歯軋りや怯えなど緊迫した息づかいを伝える表現は、手際よく切除されているように感じられる。正しく、岡崎氏のリライトにより初版本の精神が封殺されてしまったことを実感する。

     確かに、岡崎氏は、外務省や防衛庁に勤務され、最後は特命全権大使まで勤め上げられた有能な外交官ではあるが、やはり本質は行政官僚なのであろう。行政官僚は、政治(政権)の命ずるところを承け、「政治的妥当性」を念頭に「行政文書」を理論構成する。それが行政官僚のバランス感覚なのであろう。
     
     その第二版本が、側聞するところによれば、扶桑社の意向により、更にリライトされると云う。その、更なるリライトの執筆陣は、岡崎氏・八木氏を中心に扶桑社において選定すると云う。かつ、扶桑社において「教科書」を担当するM氏は、盛んに主要な都府県・都市の教育行政担当者を訪ね、「扶桑社版」教科書の問題点の指摘や注文を聴き取り、そこに力点を置いてリライトを進める姿勢であり、段取りであると云う。

     そのような動きが事実であるなら、即ち、扶桑社側が、「つくる会が執筆した教科書を扶桑社が発行する」と云う従来からの関係を一方的に覆し、現に存在する「つくる会」を無視して、名実ともに「扶桑社版」教科書を作るつもりであるのなら、それは信義則に違背する理不尽な行為以外の何者でもなく、また、そのようにしてリライトされる内容も、初版本の精神からいよいよ遠ざかるものであることは、論を待たないところであろう。

     勿論、「つくる会」側(執行部・理事会)は、そのような理不尽が罷り通る事態にならないよう、一致結束して、「扶桑社」側と折衝しておられることであろう。しかしながら、フジ産経グループの意向を背景に、扶桑社側が傲慢な姿勢を崩さないのであれば、その時はこれと潔く袂を分かてばよいだけのことである。発行者(出版社)は、何も「扶桑社」一社のみに限られるわけではないのである。

     そして、その時こそ、「つくる会」創立当初の理念を明らかにし、初版本の精神に立ち返り、いや、初版本そのものを復活すればよいのである。
     採択運動に負けたのは、教科書の内容のためでないことは、会員の斉しく周知するところである。そのような自明の理に背を向けて、採択敗退を理由に、妥協に妥協を重ね、後退に後退を続けるリライトに走り、更に走ろうとすることは、戦略・戦術眼の拙劣さによるものでもあろうが、それ以上に、生々しい人間関係の葛藤や私利私欲に根付く曇りによるものであろうし、また、扶桑社のM氏の頑なで執拗な立ち回りも誰それに対して含むところがありそれが凝りに凝ってのことであるとの噂も聞こえてくるし、全く以て何とも女々しい、取るに足りない理由・事由によるものであると見受けられる。

     重ねて言う。幸か不幸か、吾が「つくる会」も、半死半生の、いや瀕死のカタルシスを経て蘇生したのであるから、もう一度、創立時の初心に立ち返り、「つくる会」の理念をそのままに表象した「初版本」を掲げて再出発をしてもよいのではないか。
     たかが地方の一会員、されど採択運動に不退転の決意を堅持する一会員として、かく堅く信ずるものである。

  5. 岡崎久彦先生は経歴は外務省で特に国防に詳しいという話を聞いたことがあります。またキッシンジャーの信奉者だとも聞いたことがあります。キッシンジャーといえばパワーポリティックス信奉者で有名で、おそらく岡崎先生もパワーポリティックス信奉者なんでしょうな。パワーポリティックス信者ならそれはそれでいいのですが、まあ自立した国防も持てない国家である日本が米国に楯突くのはおこがましいとでも考えているのかな。勝手な想像ですが。

    西尾先生が指摘してくれた部分を読むと

    ①米国の西部開拓が目処がついた時点で(確か最後の民間インディアンの虐殺を米国騎兵隊が機関砲と大砲で行ったのは明治10年ごろではないでしょうか)東洋すなわち中国や東南アジアへの計画的なパワーポリティックスを岡崎先生はないと考えていると明言してそのとおり修正していますな。

    ②確かに移民排撃は米国政府でなく西部諸州の存在にもあったでしょう。それで米国政府は免責されるとでも言うのでしょうかというのは西尾先生がすでにお書きです。
    岡崎先生は米国の自由の女神の入り口に書いてる言葉を読めばいいのです。入り口近くの銅板には、エミリー・ラザラスの詩「新大国」が刻まれており、

    <私に与えよ。自由に生きたいと請い願う、貴国の疲れた人々、貧しい人々の群れを>

    という詩が書いてありますから。米国は国家成立の理念より西部諸州の利益が大事だったわけだ。

    英国の教科書ではワシントンは反逆者、米国の教科書では独立の英雄なわけです。おかしな判断をする岡崎先生だべ。

  6. 西尾先生、ご無沙汰しており、申し訳ありませんでした。
    「つくる会」の改訂版の歴史教科書については、旧版で大東亜戦争の箇所を執筆した小林よしのり氏も、昨年10月発売の「わしズム」(VOI.16)において、ゴー宣EX「親米教科書の正体」として、岡崎久彦氏が大東亜戦争の箇所を親米的な内容に書き換えたことを徹底的に批判しています。
    私もそれを読んで、この改訂版の小林氏が批判された箇所については、確かに問題だなと感じていました。
    だが、親米的な内容への書き換えは、小林氏の執筆された箇所に限らず、西尾先生が執筆された箇所にも及んでいたとは、西尾先生が批判の声を挙げられるまで、気付きませんでした。
    岡崎氏は、「日本の安全と平和のためには日米同盟が必要だから、歴史教科書の記述もアメリカに阿らないといけない」とでも考えているのでしょうか?
    だが、それはいやしくも独立国家の人間が考えることではありません。
    植民地根性の持ち主が考える、卑しい発想です。
    そもそも、国が違えば、歴史観が異なるのは当然です。
    アメリカの最も信頼する同盟国・イギリスでさえ、西尾先生が指摘されていたように、アメリカ独立戦争やワシントンに対する評価は、アメリカと正反対なのですから。
    2002年から2005年まで、日本と韓国の学者が「歴史の共同研究」を行いましたが、結局、対立する論点について歩み寄りは見られませんでした。
    だが、私は筑波大学の古田博司教授など日本の学者たちはよく踏ん張ってくれたと思いますし、この共同研究をやった意味はあったと思います。
    韓国側も、自国の歴史観を日本の歴史教科書に反映させるなど無理だと、内心では気付いているのではないでしょうか。
    実際、ちょうど4年前に「つくる会」が、「日韓 歴史は共有できるか」というシンポジウムを行いましたが、ここでもやはり国が違うのだから歴史の共有は不可能だと言う結論に達しています。
    今後「つくる会」は、少なくとも旧版の歴史教科書のように、日本の立場から見た歴史を内容とする教科書を復活させなければ、会を続けていく意味がありません。
    そのためには、次回の検定・採択で使う歴史教科書の執筆者から岡崎氏を外す必要があります。
    なにしろ4月末に「つくる会」を退会して「日本教育再生機構」を設立した八木秀次氏は、雑誌「AERA」のインタビューで、「南京事件や慰安婦など論争的な問題にはこだわらない。朝日新聞にも批判されないような歴史教科書をつくる。」と答えており、改訂版の歴史教科書の内容では八木氏が作ろうと考えている歴史教科書の内容と同じレベルでしかないからです。

  7. 私は以前からこんな事を考えていました。
    『日本が核を所有するようになった場合、米国は広島・長崎での致命的失態を、日本自らがそれを許したと判断する・・・このような論理誘導があった場合、我々はそれに耐え得る体力を維持できるのだろうか』と。

    よく言われる所の核保有反対論を見ますと、米国がやった事を真似してしまえば、何のために日本は今まで核を拒絶してきたのか意味を為さない・・・と述べる方がいます。
    つまり、日本は世界で唯一の被爆国であり、そのメリットを簡単に捨てるべきでは無い・・・という理論です。
    しかし、これこそは真の意味で「負け」を認める考え方であり、日本は米国に翻るべきではない、一度失敗した事をまたも繰り返すべきなのか・・・と聞こえてしまうわけです。
    そうした歪んだ考えかたに対抗して、西部氏などは「いざとなったら日本はハワイに核爆弾を投下すればいいんだ。それは日本だけが許されているカードでもある」と言ってます。
    でも、これを言ってしまったら、単に核保有反対論に別の角度から乗じているだけであり、核保有の本質を歪めてしまうだけです。
    つまり、核保有国となる意味は「真の独立」という本質を為し、「親米」という安易な理論体系に溺れない事を目的としている事を忘れてはいけないわけです。英国でさえ核保有をしているとは言え、米国産のそれはスイッチを両国が同時に押さなければ飛ばないシステムのため、いくら英国が米国を理論上敵国と見なしていても、事実上米国の属国であることは否定できません。
    ですから、日本の防衛システムは事実上英国よりも遥かに米国の属国と見なされる事は間違いない判断であり、そうした世界から見た日本の立場が歪められる原因は、多くが「親米スタイル」から脱却出来ない所にあります。
    「真の独立国」とは何なのかをいまこそ問うべきなのです。
    その意味で私が最初に掲げた問題が今問われるべきであり、「親米思想」はこの問題のターニングポイントとなるでしょう。
    「親米思想」の中に「現実的な外交論」なるものが見え隠れするものがあります。さも尤もらしいショートスピーチで「親米」を楯に日米外交の在り方を述べる岡崎氏は、アングロサクソンこそは日本人が歴史上最も信頼できる人種であると述べ、人種差別を遠巻きに援護する立場をとります。確かにそれは全てが間違いではありませんが、では何時からアングロサクソンは日本人を信頼したと言うのでしょうか。
    こちら側が勝手に「夫婦」だと主張しても、相手が「そんなハンコは押した覚えが無い」と言い出したら、はたしてどう説明出来るのでしょうか。
    日英同盟が当時のアジア情勢上、どんなパワーバランスを齎したのかは誰もが認識している事ですが、現実はその同盟も数年間の運命にあったわけです。
    それが世界の現実であり、その現実に則した考えに立てば、日米安保の運命も永久の保証は有り得ません。それをいつどうやって覚悟しなければならないか・・・が歴史を学ぶ最大のテーマではないでしょうか。
    つまり「独立国」とは何なのか・・・これが本当の歴史の勉強ではないか、と私は思っております。

  8. 関連情報になると思うんですが、「国家の尊厳を傷つける行為を禁ずるトルコ刑法第301条」の海外ニュースが、BBCとロイターにでています。http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/5366446.stm

  9. かれこれ10年以上前のことと思うが旅先に江藤淳著『閉ざされた言語空間』を持参したことを思い出した。GHPの検閲の凄まじさに驚き呆れたことがあった。我が治安維持法下の検閲の実態は、例えば北一輝の『日本改造法案要綱』等は謂わば可愛いもので単なる伏字で「○○○○」で後でこれに字を充て始めればすぐこれがわかる寸法になっていた。しかもこれは当局したものであることがハッキリと判る。しかし、彼はその事実が解らないように著者自らに修正を要求し実行させたことである。これでは単なる修正に止まらず内容の変更を含むことになり著作そのものが一変する。しかも検閲があったことがわからない。だから、良心的であれば出版そのものを断念すだろう。そうでないならば、意に沿った形に直すだろう。更には、自己検閲をしてハナから沿うものを執筆する。これが検閲の成果である。既に出版されたものは焚書で応えた。全体主義国では地下出版という手で反抗していた事実があることは刑罰を恐れずに出版の自由思想の自由を求める人間がいることを現に示している。今回の歴史教科書の岡崎久彦氏の手による反米なる修正はどんな意味を持つのか、である。卑近な例で誠に恐縮であるが一番理解し易いと思うのでご容赦されたい。小学校の学級会でのことである。担任の先生が生徒に望ましいあることを実行して欲しいとする。学級委員であるOは先生の思いを知っている。そこで自発的にある提案をクラスの皆に求めて賛成を得る。先生は愛い生徒だと微笑む。しかし、学校秀才であるOは自分は先生に阿諛しているつもりはないのだ。だって私は、自分でもそう思っていたし、大体この先生の思いは校長先生の言いつけでやっていることなんだ。だから私は、この先生の先生つまり校長先生と同じなんだから阿諛ではない。と、こんなところであろう。占領時代の検閲を知っている岡崎久彦氏としては、自分が今日GHQの検閲の立場と検閲後の著者の立場の両方をしていることに気づく筈はない。公正ぶるな、との西尾先生のお言葉は余りにも抑えたものの謂いだと思う。

  10. ピンバック: Trend Review
  11. 西尾幹二先生
    お久しぶりです。「つくる会」のホームページから消えて久しくなりどうしておられるかなと思っていましたが、お元気でご活躍の様子安心しました。
    さて「新しい歴史教科書」の初版本に対して二版本がご指摘のように改変されていたということは、まことに迂闊なことですが気がつきませんでした。初版本はかなり持っていたのですが人に次から次と上げてしまい手元にありませんので、扶桑社にあるかどうかわかりませんが注文してみます。それにしてもひどい話だと思いました。

    大体、二版本をひとは皆「すばらしく生まれ変わった」などと賞賛しますが、小生は好きではありません。初版本はいかにも教科書らしいのです。手にとって開いたとき「ああ、歴史という学問の本だな」という気がします。二版本は、漫画も遠慮がちに入り、色刷りが大変美しく見栄えも断然よくなっています。他社ほどではありませんが、やはり絵本だなという気がします。何事も易しくなれば(幼稚になればということと同じと思います)進歩的と考える最近の風潮は我慢がなりません。

    岡崎久彦氏が、遊就館の展示にクレームをつけ撤去するように要求するというまことに傲慢不遜(アメリカには卑屈)な態度に出て大変腹が立ったのですが、それより先に神社が撤去を検討していたそうで、またそれに対し岡崎氏がお礼を述べるという、こうなると立腹を通り越してあきれるほかありません。このことで当支部会員とメールの議論をしました。
    毎日新聞の「遊就館の展示・米国に配慮し修正」の記事に対して小生の感想
    『この件と今朝の産経新聞の6面 ハロランの目「戦争責任問題」の小文と妙に符合します。いったい、ハロラン氏やアーミテージやシーファー駐日大使はあの日米戦争について、日本軍国主義の侵略をアメリカの民主主義の正義が打ち破ったという神話をいまだに信じているのでしょうか?日米戦争は日本とアメリカの利害が衝突したものにほかならなかったはずです。そして戦後アメリカは日本の大陸における行動は防共の意味もあったことを悟るわけです。また日本の戦前の無能な外務省が当時アメリカに渦巻く対日不信を払拭する努力を怠ったこともあの悲劇を招いた大きな要因です。
     日米は互いに相手を知らなすぎました。しかし戦後サンフランシスコ条約後お互いの恩讐を乗り越えて、お互いの利益のため同盟を組んでいます。
     そのことを岡崎久彦氏は一生懸命にアメリカに説明するのが本当と思います。然るに氏は遊就館に訂正を求めるという傲慢なそしてアメリカには卑屈な態度に出ました。
    無能な外務省出身だけのことはあります』

    これに対し会員氏は
    「熊坂さんは、大変に岡崎久彦氏を遊就館への訂正要求について批判していらっしゃいます。また、アメリカの知識人の日米間戦争における反日的批判について反発されていらっしゃいます。具体的に記さないと、私としてはなんとも言いようがありません。抽象論ではだめと存じます。
    例えば、一例を挙げると「日本に戦争をしむけて米国経済が潤った」との遊就館での記載については、訂正して当然と思っています。ようするに、一つ一つ論証すべきではありませんか。観念的抽象論ではだめです」

    これに対して小生はこう答えました。

    『あまり長々と書くのも、と思ってはっしょってしまったので言葉が足りなかったようです。私は何も抽象論を展開しているわけではありません。むしろ具体的な論議がされないことを問題にしているのです。

     遊就館の展示を担当した人たちにはそれぞれ考えがあってしたことだと思います。にもかかわらずアメリカから抗議があったからと言って何の反論もせず変更(修正)したのはあまりに無節操で無責任でありませんか。ほかの展示も怪しげなものだなどと中傷されかねません。

    アメリカの対日戦争には経済的な理由もあったというのは一面では真実です。神社はパネルを製作した時点に戻って真摯に反論すべきなのです。神社の展示を全面的に支持する人もあるでしょうが、反対にアメリカに賛同する人もあるでしょう。そういう人もアメリカ人も交えて喧喧諤諤と議論する。そうした過程を踏んで変更すべしと判断するならよいのです。

    私は日米戦争の原因の一つはお互いが議論しなかったからだと思っています。アメリカは日本が大陸で権益を独占するつもりだと思い込んでいました。日本の大陸での行動に防共の要素があったことは戦後知りました。また蒋介石夫人の宋美齢等の工作もあって、アメリカの一般人も日本が大陸で悪逆非道を働いているとこれまた思い込み始めていました。わが国はそれに対して何ら有効な反論も、手立てもしていません。私が、当時の外務省が怠惰で無能であったとする所以です(今も同様な事態が続いています。今も怠惰で無能です)。したがって軍人が暴走してあの戦争に突入したと言う軍国主義日本論は採りません。

     アメリカ人の中にはいまだに日本は謝罪すべきと思っている人がいるようです。ハロラン氏もその一人です。ハロラン論文に対する反論を産経新聞に投稿しましたが少しでも反米的なものはどうせ載らないでしょう。私はわが国は一切謝罪することはないと思っています。以前に、当時は侵略戦争と言う言葉がなかったと言いましたが、その真意は当時は今で言う侵略戦争は悪でなかったということです。アメリカも、イギリスも、フランス、オランダ、イタリア等の欧米諸国は侵略した植民地を持っていたではありませんか。そのうち一国でも謝罪した国があるでしょうか。侵略戦争をはっきり悪と断定したのはパリ不戦条約でなく第二次大戦後です。その事後法によってわが国は裁かれました。

     今回のような決着ですと日本国内の保守論壇にも深刻な亀裂を生む可能性もあります。これまで感動を呼び賞賛されてきた遊就館がなにやら色あせて見えてきました。靖国神社を訪れる人たちにも多かれ少なかれそういう感情が芽生えることを恐れます。

    そうしたことに対する想像力をまったく欠いて、神社の処置を子どものように無邪気に喜ぶ岡崎氏には滑稽を通りこして哀れみさえ覚えます』

    岡崎氏のような権威者に対し少々失礼かと思いますが実際そう思うのだから仕方がありません。

    当支部はこのまま「つくる会」残留するよう小生としては皆を説得するつもりです。確定は11月末の総会議決を経なければなりませんが、ここで離れてしまってはあの十年はなんだったのかということになります。小林正会長は元日教組幹部ということで敵を知り尽くしている点かえって戦えるかもしれません。

    ただ、次のことは要求しようと思っています。すなわち
    ① 二版本で岡崎氏によって改変された個所を初版本に戻すこと。
    ② 次の執筆者から岡崎氏をはずすこと。
    ますますのご活躍をお祈りします。

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