ゲーテの神に立ち返って――(1)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 田中卓氏は皇位継承問題にからんで、神宮祭祀の一般に知られざる伝統を持ち出して、男系でなくてもよいと説いた。私はめまいがした。氏は伊勢神宮の斎宮制の研究のほか、建国史のほうでは〈二大巨頭〉と仰がれる泰斗だそうである。

 私もこの人の古代史に関する本を何冊か持っている。『諸君!』(3月号)の「女帝天皇で問題ありません」という文章は二度読んだ。「私は誰よりも皇室を尊敬している。しかし天皇陛下も偉いが伊勢の神様のほうがずっと偉いので、その専門では最高峰の私の言うことを聞け!」と行間にはそう書いてあった。

 ややこしい人だ。この人は神や神の事蹟を調べるのが職掌である。半世紀も学問をしておられてどうしてこの過誤なのか。氏は神様を引っ張りだして皇室をいじったのである。

 また最近、生長の家の運動家といわれる人たちの信仰と政治的活動とが話題になった。その人たちの精鋭は政権中枢に近づいていろいろな改革や再生をめざしていると聞く。それはそれでいいではないかとも思う。

 信仰を捨てて政治的運動に参画しているのか、信仰のままに世界を動かそうとしているか、そんなことはわからない。慧可は自分の腕を切り落として達磨に入門を乞うた。信仰とはそれほど真剣なものだ、とは私に言えない。ただ、信仰に人が必要なのだろうか、政治が必要なのだろうか、と単純に思うだけだ。

 人の職業や信仰をとやかく言うことはない。私にはゲーテの神に対する考え方、態度のほうが、前述の日本人より身の丈にあっていて、そこへ帰りたくなる。ドイツ語が読めない私には、一知半解の勉強だが、ゲーテの神観はおおむね次のようにとらえられるのではないか。  

 ゲーテはキリストを神のひとつの表現として見るにとどめている。そこから越えなかった。キリストが唯一、神のすべてを体現した存在という意味ではなく、神が表現するためにキリストを必要としたという見方になると思われる。したがって神は同時にイスラム教の神であることもみとめた。神はキリスト教専用の神ではない。「専用されるものは神ではない」という立場を貫いた。

 ゲーテはまた、「自然」をほとんど「神」と同義語のように用いている。「自然のうちに神を、神のうちに自然を見る」(『年代記』1811年の項)という言い方をした。「神」がそのまま「自然」であり、「存在」がそのまま「神」と見るところから、そこからもゲーテは汎神論者と呼ばれる。六、七歳の頃に「自然の偉大な神」を愛慕したあまり、自分なりに工夫して部屋に祭壇をこしらえ祈ったことも知られている。

 神性は自然の「根本現象」の中に啓示されている、とゲーテは言う。この世界で起きる多様な現象は一つの神性の本質であり、啓示や象徴にほかならないというのである。『ファウスト』の「神秘の合唱団」は「すべて過ぎゆくもの(すなわち現象一般)は神の似姿にほかならぬ」と歌っている。

 キリストより前に生きていた偉大な人々、ペルシャにもインドにも中国にもギリシャにも生まれた偉人は、旧約聖書の中の数人の猶太人と同じように神の力が働いていたと、見るのがゲーテであった。それが彼の「原宗教」というものに基づく神の見方であった。

 岡潔さんががよく使う「造化」というのも、ゲーテの神に通じるところがある。そう勝手な解釈をしているが、それほど間違っていないという気がする。「造化」は地上の至るところに、色とりどりの花を咲かせるようにして或る人たちを降ろした、という譬喩を岡さんはよく用いた。

 エッカーマンにゲーテはこう告白している。

 「宗教上の事柄でも、科学や政治のことでも、私がいつわらないで、感じたままを口にする勇気を持っていたということが、いつも私をやっかいな目にあわせた」

 「私は神や自然を信じ、高貴なものが悪いものに打ち勝つことを信じていた。ところが、善男善女には、それが不満で、彼らは私に三が一であり、一が三であるといったことを信じなければいけないというのだった。しかし、そんなことは私のこころの真理に対する感情に反していた。そのうえ私は、そんなことでいくらかでも助かるだろうなどとはどうしても思えなかった」(秋山英夫訳)

 三が一であり、一が三であるというのは、キリスト教のいわゆる三位一体説のことである。創造主としての父なる神と、キリストとして世にあらわれた子なる神と、信仰体験として聖霊なる神とが、一つであるという教えで、これは広く日本人も学校でならったことだが、所詮は勝手にあつらえた教えにすぎないと、ゲーテは与しなかった。

 キリストに対しても恭順畏敬をささげることができるし、同様の意味で太陽を拝むこともできる、とゲーテはどこかで言っている。これは驚くべきことだ。なぜ、ゲーテが日本に生まれなかったのか、と不思議に思うことがある。

 ゲーテはまた、寡黙がちではあったが「デモーニッシュなるもの」に言及し、その存在を信じていた。古代ギリシャ人が考えていた人間にひそむ神的存在「ダイモーン」。神のようであって神ではないものである。人間に似ているが人間的なものでもない。悪魔に似ているが悪魔的なものでもない。天使に似ているが天使的なものでもない。

 ゲーテは「自然のうちに、ただ矛盾の姿であらわれ、どんな概念でも包括できないようなあるもの」があると告白しているのだが、「ファウスト」におけるメフィストフェレスは別のものらしい。メフィストフェレスは「もっとネガティブな存在」だと言い、ダイモーンは「徹底的にポジティブな実行力のうちにあらわれる」として、ダイモーンとメフィストフェレスとを区別している。

 デモーニッシュな人々の代表は、絵画ではラファエロ、音楽ではモーツァルト、あのナポレオンも断然、デモーニッシュな典型とゲーテはいう。「私にはそういう資質はないが」とゲーテは否定しているが、ゲーテ自身がデモーニッシュな人でないわけがないと思う。

 私がとくに面白いと思うのは、ワイマル公国のカール・アウグストを評した部分だ。「無限の実行力にみち、安閑としていられない性分だったから、自分の国も小さすぎるくらいだった」。こういう人はホラッ、私たちの意外なほど近くにもいるのではありませんか。

つづく

「ゲーテの神に立ち返って――(1)」への6件のフィードバック

  1.  良くぞ神について言及して下さいました。これが最も大切な問題でしょう。
     私が物心ついた時、私の町を通る街道を米軍の戦車隊が通過してゆきました。その行列は3日続きました。それ以来、日本では混乱が続き私はあらゆる言説に騙されてきました。
     戦後間もなくモスクワを旅行し(相当の抵抗があったが)、共産主義の凋落を周囲の人に伝えたましたが、袋叩きにあいました。
     騙されてきたのは日本ばかりではありません。スイスのバーゼルは三つの文明(ゲルマン、ローマ、ケルト)が今でも共存する町です。ですから人々は何がイカサマかを判別する術を心得ている様です。
     しかし絶対に騙せないものが一つあることをドイツの古い町フルダで学びました(此処はドイツにおけるキリスト教の伝道が初めて行われて町です)。それは小鳥の鳴き声です。本当にやさしい人間ならば動物に対してもスタンスが違ってきます。宗教とはそういうものでしょう。現在日本に数多い教団が何故政治的な事柄に関心を示すのか良く判りません。

  2. 『日本人的価値観』とはなんだろう?と抽象的に考えると、案外答えは掴みづらいものですが、具体的にかみ砕いていくと、その先に天皇制が結び付く心理が私たち日本人には具わっているんだと思います。
    理屈で説明できない世の中のしきたりや教えなど、それらを学び取るとき、または考え方が落ち着く先には必ず、天皇陛下の存在が重要となります。
    例えば男女の役割など、本来は全てが平等でなければ理屈が通らないわけですが、それを落ち着かせる具体性がその制度には存在し、男系維持という本質と重なり合うものがあるのだと思います。
    とかくこうした差別的な事柄は、言葉に表すだけで議論がつまずくわけですが、誤解してほしくないのは、その例はほんの一つの例であり、それが全てではない事をご理解いただきたいです。
    いつでしたか、こんな話しを読売新聞で読んだ記憶があります。
    『男女を生み分けるなら男を出来るだけ生んだ方が生態系のバランスは保たれる』と。
    それは花の雄蕊雌蕊を見れば明らかなんだとか。
    つまり戦争という大それた事象を持ち出さなくとも、生き物は普段から生き延びる為に男が争う仕組みが為されていて、もしもそれがひっくり返ると、生物の悲劇を呼ぶしかないのだそうです。
    最初これを読んだ時、あまりに当たり前すぎてかえって違和感があったくらいでしたが(つまり、当然の事を押し付けられた時の心理です)、いざ天皇家の危機が囁かれ始めたときには、まさしく重たいものに感じとれました。
    男は沢山生まれても自然と数が必要な分に納まるが、逆に女が増え過ぎると、その種の生物は絶滅する・・・確かに残酷すぎて嫌気が刺す話しですが、生物に課せられた掟なんでしょうね。
    科学的な論理を盾にしても人の心は震えませんが、具体的にそれが現実の社会に現れますと、不思議なくらい震えます。
    つい一ヶ月ほど前に私達はそれを証明したわけです。ですから、天皇家とは限りなく『具体的』に日本人の心の習わしを象徴する立場であると言えるのではないでしょうか。
    それを有する社会とそうでない社会の『差』は当然有り得るわけで、普段の生活に影響が及ばないはずがないわけです。
    ところが、話しはここで終わりにしてはいけません。『具体的』な事柄を示してくれる日本の天皇家ですが、その源は限りなく遠い彼方に存在しています。
    西尾先生の本にちょくちょく出てきますが、日本の神は起源を曖昧にしているところが何よりも象徴的なんだそうです。
    つまり神様がより高い場所に神様にお祈りするわけです。
    『天』に際限を作らない国・・・それが日本人の宗教の原点であるそうです。
    ゲーテが限られた宗教に縛られる事は避けた意識と、何か繋がる感じがいたします。

  3.   不思議な御仁である。伊藤悠可大人(ウシ)の御文章にコスモスと云うものを観せていただいているように、仄かに、しかし確かに感ずるものである。
     ニーチェもゲーテも、そしてソクラテスも、古代のコスモスを凝視し、それぞれに感応道交しておられたであろう。宣長大人も篤胤大人も記紀のコスモスを凝視し、同様に感応道交せられたことであろう。

     また、この御仁は、周易や左伝も講じておられる由、孔子についても造詣がお深いのであろう。孔子とは不思議な人物である。儒教の徒が創作した孔子像が隠したところにこそ、周以前に中原に栄えた宗教文化の跡を封じ込め、連山・帰蔵を封印し、天地万物の運行を周易の六十四卦に閉じ込めて表象させたであろう、この怪力の実体があるのではないか。密かに古代の消息に通じていた節がある斉の晏子が、怖気をふるって退けた孔子と云う半神?の実像があるのではないか。
     その辺りの消息についても、この御仁は何かを教えてくれるのであろうか。

     いずれにしても、ニーチェ研究の碩学に招かれて、この「日録」と云うコスモスに悠々と飛来せられ、ゲーテを語りつつ、自由自在に天を語り地を語られるこの不思議な御仁の御文章に熱く注目し、密かに敬意を表し上げるものである。

  4. 私も伊藤氏の語りは好きですね。
    語られている姿勢とおそらく氏の生き方には、かなりの点で共通する『自然体』のようなニュアンス感じ取れます。
    あまり偉そうに感想を述べますと、私が説いて砕く立場を装うようで気が引けますが、敢えてここは伊藤氏を見習い自然体を貫きます。
    本来哲学的な言葉遊びは楽しいものがあります。たぶん嫌いな人の方が珍しい筈です。
    しかし、本来人間が続けていく生活の道筋に、それ(哲学)がどれくらい待ち受けているかというと、おそらく期待するほど多くはないと思われます。
    と申しますのは、人間の生活は一つの言葉で割り切れるような爽やかなものではないわけですから、当然人間はドロドロと政治的に活動します。しかし、勿論同時に人間は清くありたいとも思います。
    つまりそうやって人間は色んな意味で神との接点を模索し探し出す苦労がそれぞれあるんだろうとも思いますが、その際哲学が近道を示してくれると勘違いする愚かな自分に出会う事がしはしばあるのも事実です。
    人間は清く有りたいですが、汚い自分がいる事にも気付かなければならないわけで、哲学にはその部分を覆い隠す完璧さが欠けているように感じます。
    いや、完璧等と表現する事自体が哲学的な誤りかもしれません。
    人間の生きる姿はそれほど可能性があるわけではないが、諦めから始まる生き方は誰もが嫌がるように、人間は死んでも生きたい願望がどこかに存在しているんでしょう。その心の奥底にある見えない真っ暗な部分は、誰にも指図されたくないメッセージとなって表に現れる事があります。

    人生を全うするなんて出来るわけがないが、何故かそれをたやすく言いたがる人間が多いのが現実です。
    哲学的麗句により生きる姿を磨こうとしても、腐った場所は必ず誰にもあり、哲学の洗剤で洗おうものなら、かえってその物体はぐちゃぐちゃになります。
    磨く場所を間違えないようにしてくれる『制御策』みたいなものが、その腐った細胞の中にこそあると信じた方が、人間は生きやすいのではないでしょうか。

    そんな事を伊藤氏の文から教わった気が致します。

  5. 伊藤悠可氏の文を拝読、格調もさることながら、内容は味わい深い。
    夜久先生は「面白いものを、面白くない平板なものに変えてしまう」と指摘されておられる。これは大事なポイントだ。「なにごとのおはしますかは知らねども」には、かつて古代人が有していたであろう深い悠久の生命感を感じさせる。夜久先生が求めたもの、それ自体は完結した美しい調べはあるがスケールが小さい。文化の精華としての美しさは感じるが、文明に通じるスケールが乏しい。なぜだろう。古代人のこころに迫ると云いつつ言葉自体に接近しすぎたのではないか・・言葉を超えた、その奥の奥にある深い古代人のサトルな意識に迫らなければ、真の古代人の声は聴こえない。八百万神を人に例えすぎるから窮屈になってしまう。神話の調べはそんなスケールではない。古代人が伝えたかったもの、それはかたちを超えたものであり、自然の見えない摂理とも言うべき働きを、神さまの御名によって象徴的に言い表したものではないだろうか。そうとらえたとき、神話の神々は、宇宙創生のスケールで我々に迫り来る。伊藤氏が云うように「面白くなる」のだ。
    教科書で「神話」をどのように紹介したらいいのか。物語の一部を紹介するのもよいが、それだけでは単に伝説としての神話に落ち着いてしまう。古代人が口承で伝えようとしてきた言葉の奥に、意識を超えた悠々として微かなメッセージ(自然のメッセージとでも言おうか)が潜んでいること。神話や浦島太郎のお伽話などには、日本文明の本質なるものが隠されている。そういう余韻を含ませる説明であって欲しい。
    「古代人のこころになろう」の姿勢は一文学作品を鑑賞するような響きがある。しかし神々の世界はあまりに奥深い。そのレベルでは到底、奥義に達することはできない。『大乗起信論』には「おもい全想に達せざるを迷いという」という言葉がある。一知半解な解釈では古代人の悠遠なこころは理解できない。岡潔氏は悟りの人であるから自然と「造化」なる言葉が出てきた。黒住宗忠翁の御歌に「あまてらす神の御徳は天地(あめつち)に満ちて欠けなき恵みなるかな」というのがある。宗忠翁のご精神にも、夜久氏の感性をはるかに超えたものがあることは云うまでもない。
    大ゲーテは並みの人間には分からない高級な魂の持ち主である。モーツアルトも然り。
    ゲーテの作品を読むドイツ人が少なくなった・・これもドイツ人の精神の衰えを象徴するようだ。
    話は変わるが、親鸞の本心を理解できる真宗信徒がどれだけいるのか。同様に道元の、日蓮・・の・・・キリストの本心に迫れる向学の徒がどれだけいるのだろう。寒々しい風景が目に浮かぶ。テレビによく登壇する尼僧(作家)なども、その一人である。囃し立てられて引っ張りだこだ。宗教の世界に限らず、どの世界も世俗の力がリードしている。
    「おもい全想にいたらない」人たちが、組織破壊の限界を弁えず、本能丸出し、「下克上」丸出しで行動した。遺した実績は「破壊」と反対陣営を喜ばしたことのみ。反省はなく、皮相な言葉で、マスコミではけっこうモテモテ。彼らの狼藉ぶりを見て見ぬ振りをして支持する者。みな「おもい全想にいたらない」軽い人間たちが芝居を演じている(狂演)。

    伊藤氏の文章に誘われ愚考しながら、世俗的なことにも思い至ったとき、伊藤氏の「失恋」の話が久々に新鮮な響きとして伝わってきた。モーツアルトの調べとともに・・・・

  6. 旅がらす様

    失礼しました。
    最初に、ドイツでの小鳥のさえずりを
    思い起こしてくださった旅がらす様。
    ありがとうございます。

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