ゲーテの神に立ち返って――(2)

伊藤悠可
記者・編集者を経て編集制作プロダクトを営む。
易経や左伝の塾を開講

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 小林秀雄の作品に美しく哀しい詩魂が宿った「モーツァルト」がある。冒頭にゲーテが魔神的なものの力に畏怖する描写が置かれている。私は大学時代に失恋し、このまま死んでしまうかもしれないと思っていたとき、「モーツァルト」に出会った。

 まるでフォークソングの『神田川』だと思われるかもしれないが、人間には絵に描いたようなことが起こるのだ。中野坂上の駅から西方に歩き、青梅街道の角を南に折れると狭い路地へと抜ける。下宿するアパートの手前に、のれんを降ろしかけた深夜の時刻でも「おばさん、ごめん!」と言えば入れてもらえる銭湯があった。私はその斜向かいのパン屋の赤電話で好きだった人の最後の声を聞いた。

 後方から湯を流す音や桶がぶつかる音が響いていた。ズボンのポケットには昼間用意した十円玉が沢山残っていた。二月の夜風が冷たかった。私は野良犬のようにその辺を歩き回って部屋に帰った。その夜から幾日、何をしていたのか覚えていないが、文庫本の「モーツァルト」を偶々、本屋で見つけて帰ってむさぼり読んだ。だから「モーツァルト」は私にとって傷心の本である。抱いて寝た本である。ゲーテは「恋愛」というものにはとくにダイモーンが襲うと書いている。もう襲われたくない。

 少し脱線した。ドイツ人は寝ても醒めてもゲーテ、ゲーテであるかのように錯覚する日本人が多いが、そうではないそうである。ドイツ人はゲーテをあまり読まないと聞いている。名前は誰でも知っているが、日本人が鴎(區へん)外や露伴をあまり読まないのと同じであろうか。

 一九四九年にゲーテ二百年祭が行われたが、ゲーテを封建的な観念論者としてこきおろす学者のほうが多かったという。大きな存在は必ず非難され、こきおろされる。ゲーテ自身、こうも言い残している。「私の仕事は理解されないがゆえに、ポピュラーにはならない」。

 古典などを紐解き、「伝統と文化」の大切さを宣揚する団体が日本には少なくない。そうした団体の一つ、国民文化研究会は学生時代に私がもっとも感化を受けたところであり、そこに長く深い友人ももっている。古典を読みながら、世間のあらゆる団体よりも、日本の神々について知ろうとし、語り合おうとする真摯な組織であるが、肝心の神々の話となると戸惑うことがあった。

 例えば、この会ではこういうふうに教えてきた。

 ―――日本人、とくに戦後日本人の誤謬は、神といえば西洋人のゴッドを思い浮かべ混同してしまうことです。ゴッドと日本の神々は違う。われわれの神は、遠い建国の事業を成し遂げてきた祖先であり英雄たちなのです。私たちが思慕すればそのまま辿ることのできる人間なのです。

 果たして、日本人にゴッドを感得するセンスがあるだろうか。多くの日本人が神という言葉を聞いて、西洋の唯一絶対神を思念するだろうか。そこが問題である。むしろ、国民文化研究会の先生方が時代の中で身につけた先生方自身の錯誤や悔悟がそう結論付けるのではないだろうか。これは私の想像だが、「日本には神はない、西洋に神はある」という空気を時代の中で一度吸ってきた人たちが、反省的に考えたのではないだろうか。

 先生方にはゴッドに対する感受性も、「われわれの神」に対するイメージも共に堅くて狭い。戦後、誤謬を引きずっているのはむしろ、こうした日本派の人たちのほうだという気がしてくるのである。

 私はそうした違和感がどうして生じるのだろうと、ずっと思ってきた。

 日本武尊の東西遠征について「一人二人の英雄によってできる業績ではないので、ながい間に累積された国民全体の歴史的努力の結果によって成就されたものとみるのが至当でせう。それを『古事記』のやうな叙事詩では、日本武尊と名づけられる一人の英雄の仕事としてまとめ上げて記述しているのです」(夜久正雄著『古事記のいのち』)と言う。

 学生時代におめにかかった著者・夜久先生の温かい師恩を忘れないが、違う。これでは日本武尊は銅像である。

 何人いるかわからない日本武尊、一応、日本武尊と呼ばれる英雄たちの象徴たりしものが、熱田の杜に鎮まっているわけではないと、神道家のような批判をしようとは思わない。が、私は、先生の文と想像力がいけないと思う。面白いものを、面白くないものにしてしまう平板がいけない。

 上記引用文では、「『古事記』のやうな叙事詩では」と緩衝材が入っているが、これでは日本武尊は時を隔てて存在した五百人くらいの豪族の象徴になってしまう。「古代人が信じたそのままを信じたい」と若者に説くのであれば、日本武尊は御一方、一柱でいい。風の音の遠い昔、すみのえの大神は漁夫と和歌を詠みかわしている。それはそうとしておくこと。それこそ「古代人が信じたそのままを信じる」という態度である。「何事のおはしますかは知らねども」と神にぬかづいた僧形の歌人の畏敬のほうが、ずっと日本人である。

 八百万の神とは人間のこと、とは宣長も篤胤も伴信友も大国隆正も言ったことはない。八百万の神々には人も属するが、地火風水の自然諸神も、穀物の諸神も、さらに宇宙諸神と呼ぶべき神もある。夜久先生は「伝説」以前の「神話」の神は思惟神だ、とサラリと言われながら、「冷静に分析して、古代人の心を知ろうと古事記を読んだのではない。むしろ古代人の心になろうとして読んだのだ」と書かれている。

 心になろうとすれば、心を知らなければなれない。昔から日本人は「象徴みたいもの」を尊んで神社に行ったのではないと私は思う。先生方の主張では「建国の脈拍と呼吸」というものが具備していて初めて敬神につながるということになるが、何とかたくなで不自由な教えだろう。私の知り合いに氏神様の境内で挨拶をよくかわす近所の老女がいる。仮にもし、「あなたの拝んでいる神様は思惟神ですよ」と言ったなら、彼女はきっと心を曇らせるであろう。先生が依拠するところは無神論でも有神論でも唯心論でもかまわない。ただ、市井の人々にいきなり大事なことを語るのはいけない、と自戒しながら帰幽された先生を思うのだ。

 再びゲーテに戻る。ゲーテがエーカーマンに哲学と宗教について語っているところがある。同時代の言語学者・哲学者であるシューバルトの仕事を通じて「学者の態度」というものを改めて糺してみせた部分で、示唆に富んでいると思われる。

 「シューバルトは勿論、すぐれているし、たいへん立派なことがたくさんある」と讃えながら、「彼には哲学以外に一つの立場があること、すなわち常識の立場があるということ、また芸術と科学は、哲学とは無関係に、自然な人間の力を自由に発揮することによって、いつでも見事に栄えてきた、ということに帰着する」(同訳)とゲーテは言い、「私自身もつねに哲学に縛られないでやってきた。常識の立場は私の立場でもあった」と心情を語っている。

 シューバルトの立派なところは、常識の立場を通してきた点にあるとしながらも、ゲーテは、「ただ一つ、どうしてもほめられない点は、彼がある種の事柄をよく知っているくせに言わないこと、つまり彼のやり方がかならずしも正直ではないことだ」と批判する。

 やや引用が長いが、多くの知識人が陥りがちな立場の遺失、境界の逸脱、材料の誤用の問題をもついていると思われるから書いておきたい。

 「シューバルト(同時代の言語学者・哲学者)はヘーゲルと同じように、彼もキリスト教を、それとはなんの関係もない哲学の中へひっぱりこんでいる。キリスト教はそれ自体で強力な存在だ。堕落し苦悩する人類が折にふれてこれにすがって、くりかえし立ち直ってきたのだ。キリスト教にそういう力があると認められている以上、キリスト教はいっさいの哲学の上にあるものであり、哲学から支えてもらう必要はない」

 唯物弁証法にかすめとられたヘーゲルの方法に本質的な瑕疵があり、ゲーテはそのことも含めて批判しているのだろうか。それはともかく、キリスト教から自分の哲学に有利な材料を持ってくること、その逆も戒めている。

 「人間は不滅の生命を信ずべきであり、そうする権利がある。それは人間の本性にかなっており、われわれ人間は宗教の約束することを信頼してよいのだ。ところが、哲学者ともあろうものが霊魂不滅の証明を宗教的伝説あたりから取ってこようとするなら、これは非常に薄弱で、あまり意味がない。私の場合、永生の信念は活動の概念から来ている。というのは、もし私が死に至るまで休みなく活動し、現在の生存形式が私の精神にとってもはや持ちこたえられなくなった時には、自然は私に別の生存形式を指示する義務があるからだ」

 大ゲーテの言葉を下町の井戸端で解釈するようなマネはいけないが、私は十五年前に亡くした従姉を思い出す。幼くして父を亡くし、市井の苦労を一身に引き受けたような人だが、苦労をして、むしろ高昇に至ったという人だった。よく働いて打ちのめされたが汚れなかった。清らかで明るく気品があった。そんな彼女は中高生の息子二人を残して四十八で逝った。通夜に白布をとって会ったとき、私はあらゆる意味でこんなに働いた人が「無」に帰するはずがない、という気持ちになり天井を見た。「無」になるならレジの精算が合わない、自然の壮大な無駄だと思ったのである。

 最後のゲーテの言葉は信仰とは関係のない宣言である。自然(神)は私に次(の活動の場、つまり生)を用意しておく義務がある、というのだ。これほど強い宣言はない。いま、デカダンの嵐のなかではゲーテの言葉も化石であろうか。

        (終)

「ゲーテの神に立ち返って――(2)」への14件のフィードバック

  1. 伊藤悠可さま

    その銭湯、私が大学のときに行っていたところかもしれません。・・・・・・関係ないかな。

  2. >八百万の神とは人間のこと、とは宣長も……言っていない。

    宣長は『古事記伝』において神とは人のことである、と説いてますよ。先生が国民の歴史に引用された、宣長の神の定義のところのすぐ後のところに書いてありますよ。

  3. すみません、ゲストエッセイでした。西尾先生の文章ではないんですね。失礼しました。
    先生が恋愛の思い出を語るなんて!と勘違いしてよんでいました。(笑)

  4. 長谷川様

    関係なくはありません。
    同じ時代に近所にいたかもしれません。
    あの辺で銭湯はあそこしかありませんでした。
    今はどうなっているか知りません。
    あのおばさんももう、どうしておられるのか。
    すみません。自由文とは言え……。

    伊藤悠可

  5. 関係があるかどうか分かりませんが、上代においては人を神に祭ることはなく、承久・建武の後に人を神に祭る神社の出現を見たそうであります。(石田一良「日本文化史」)

    日本武尊の叙事的伝承は一人の英雄の事跡ではなく、民族の集合的表現の結果であるとの夜久氏のお説は、私見では、西洋由来です。ヴィーコがホメロスについてギリシャ民族の集合的表現といいだしたのが最初で、ドイツの文献学者アウグスト・ヴォルフがこの説を大きく発展させました。 

    しかし現代のホメロス研究では否定されています。

    日本の美や神や神話に関する観念の多くが西洋産です。この辺をに目をむけ、警告した伊藤さんの慧眼に感服します。

    あえていえば、わたしは宣長にも聖書の影響があったと推定し
    ています。もちろん明確な証拠はありませんが。

  6. 永吉様

    ありがとうございます。
    もう一度調べてみました。

    本居宣長は古事記伝三にこう書くのです。

    「天地の諸の神たちを始めて、其れを祀れる社に坐す御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其の餘何(ほか)にまれ尋常(よのつね)ならず、すぐれたる徳のありて可畏(かしこ)き物を迦微とは云ふなり、云々」

     そう書き留めておいて、「すぐれたる」とは尊い事、善い事、功しきこと等のすぐれたるばかりでなく、悪しきもの、怪しきものなども含んでいるという意味で、「抑々迦微は此の如く種々(くさぐさ)にて、貴きもあり、賤しきもあり、強きもあり、弱きもあり、善きもあり、悪しきもありて、心も行(おこなひ)も其さまざまに随ひてとりどりにしあれば」と、いちがいに言えないものであると説いています。

    そして、「いともいとも妙に霊く奇しくなむ坐せば、さらに人の小さき智以て其理など、ちへのひとへも測り知るべきわざに非ず、ただ其の尊きをたふとみ、可畏きを畏みてぞあるべき」というのです。

    「人はさらにも云はず」に着目して前後を読んだら、「さらに人の小さき智以て其理など」と強調している部分を吟味すれば、どうしても〈神は人のこと〉では終らないのです。人間の知恵ではおしはかれない、遠く及ばないと言っているところが宣長らしい表現です。

    古事記伝に限らず、宣長の『直毘霊』『大祓詞後釋』などいずれの書でも、同じ考えを見いだすことができると思います。

  7.  西尾幹二先生は、「国民の歴史」の冒頭において「紀元前五百年頃を中心にして、前後六百年ほどのあいだ、~ 人類の歴史のなかでは、東でも西でも、全人類に深くかかわる重要にして決定的に大きな一連の動きがあった。哲学の出現、科学の成立、高度宗教の誕生といったことがあいつぐ。この時代を、ドイツの哲学者カール・ヤスパースは「軸の時代」と呼んだ」と宣言され、「この時代には、驚くべき事件が集中的に起こった。シナでは孔子と老子が生まれ、~ インドではウパニシャッドが発生し、仏陀が生まれ、~ イランではゾロアスターが~ パレスチナでは、エリアからイザイアおよびエレミアをへて、第二イザイアに至る予言者が出現した、-ギリシャではホメロスや哲学者たち~ 更に悲劇詩人たちや、トウキュディデスおよびアルキメデスが現れた。~ どれもが相互に知り合うこともなく、ほぼ同時代的にこの数世紀間のうちに発生したのである」と云うヤスパースの言葉を引用し、「人間が人間としての自己の限界をはっきり意識したことに精神覚醒の焦点を絞っている。人間は世界の恐ろしさと自己の無力さを徹底して経験した。それゆえに、そこから根本的な問いが発せられたのである。人間は深淵を前にして初めて解脱と救済への祈りに駆り立てられたのだった。自分の無力と自分の限界とを認識すると同時に、人間には最高目標が定められる。おのれの存在の深い根底を見据えるとともに、超越に向かっての意識の制約性を経験するようになる。おのれの意識は、ここでいま一度、意識を意識し、思惟は再び思惟に向けられた。そういう自覚的体験が試みられたというのである」と辞立てるところから、この大著の執筆を始めておられる。(このあと、西尾先生の御論考は「第二の軸の時代」として、それからほぼ千年後のゲルマン民族や日本(大和民族)の新たな自覚的な精神運動へと展開して行くのであるが、ここでの拙文の論点は、ここに掲示させていただいた「第一の軸の時代」即ち、ヤスパースの云う「軸の時代」に置く。)
     
     私は、この「軸の時代」は、古代諸文明を築き上げた古代諸民族の「ミュトス」が、時代がくだるとともに次第に訛伝と化し、やがて形骸化して民族の世界観としての生命を失い、そのために人間(大方の民族)は自らの価値観を亡失する危機に直面し、あらためて世界(天地・森羅万象)の恐ろしさと自己の無力さを思い知らされ、必死の思いで新たな世界観を求め、解脱と救済への祈りに駆り立てられた時代であったと推察する。 而して、そのような人類の悲願が凝りに凝って天地を動かし、仏教が、儒教が、そしてキリスト教等々と云う「世界宗教」が発生してきたもの認識する。

     それから二千余年、それらの「世界宗教」即ち「擬似世界観」も漸くに色褪せて、キリスト教の如きは、ドグマをめぐる確執の挙句に新教・旧教に分裂し、更には劣化してマルキシズム、キャピタリズムなどとして大衆社会に蔓延する一方、その世界観としての「擬似」性そのものに疑念を持ち、その原点に立ち返り、根源に回帰しようとする天才が、やはり天地の意志によってか時節とともに生まれてきたのであり、それがゲーテでありニーチェであったと直観する。

     「ゲェテの古代的転回」と云う名著を遺されたドイツ文学者がいる。曾て明治大学で教鞭を執られ、また関西ゲーテ協会に拠り研究を進められた小野浩先生である。小野先生は「同書」の序文において「ゲェテの古代的転回が、キリスト教的伝統を主軸に展開された西欧精神史全体に、やがて終止符を用意する画期的な出来事であったらしいと予感する。その間の消息について簡潔に粗描しておきたい」として、次のように論述しておられる。
     「ドイツ近代精神史にあって「ギリシャ」の問題は、一寸、比類をみない鮮やかな様相に於て展開されてゆきますが、その源泉をヴィンケルマンに発したこの展開は、ゲェテに於てアポロ的に決定的な転回を遂げ、ヘルデルリーンとニーチェに於て、それぞれの内面に発するディオーニュゾス的ギリシャへの結縁を誘起し、ヴァルタア・フリードリヒ・オットオに到って、明晰にして揺ぎにない学的認識となって結実したと思われます。」

     そのような精神史の系譜に位置するゲーテと云う存在はニーチェと云うそれとともに正に絶類の高峰であり、そのゲーテによりつつも、実に平易な語り口でさり気なく「神」や「生命」や「自然(世界)」の本質や真実にアプローチする伊藤悠可大人(ウシ)のこのエッセーは正に瞠目に値する。あらためて深甚の敬意を表し上げるものである。

     而して、ニーチェと宣長大人を中心に「古代と近代の架け橋」を構想された西尾幹二先生の「江戸のダイナミズム」の御刊行とともに、伊藤悠可大人の次の御論考(願わくば、シナを語っていただきたいところであるが)の掲載が、早くも待たれるところである。

  8. 国民文化研究会!
    大変懐かしい若き日の想い出です。
    発行されたご本も、ほとんど読みました。

    >われわれの神は、遠い建国の事業を成し遂げてきた祖先であり英雄たちなのです。
    >私たちが思慕すればそのまま辿ることのできる人間なのです。

    今、記紀の原本とされるヲシテ文献の研究を致しておりますが、
    まさしく上記に引用されたことが真実と分かります。
    ご参考までに、摂ブログで「まごころ・ヤマトタケさまとヲトタチバナヒメ」をご紹介しておりますので、
    興味のあられる方に読んで頂ければ幸いです。

    その1
    http://julian.way-nifty.com/woshite/2006/09/post_f2d4.html
    その2
    http://julian.way-nifty.com/woshite/

  9. 西尾幹二先生

    もやがかかっていた景色が晴れ、
    丘の上からパノラマを見たように思いました。

    宣長でさえ聖書の影響を受けたかもしれない
    とのお話。興奮してきました。
    ありがとうございます。

    この欄をお借りして、あきんど@携帯さま、
    布袋和尚さま、皇都衞士さま、ありがとうございました。
    決して論理的でない感想文を丹念に読んでくださいました。
    もっと勉強していきます。

  10. 「日本武尊が架空の存在であり、多数の豪族の長年にわたる事跡を集合したものである」という仮説は、明晰に証明されているのでしょうか?

    はっきり言って、「現代の学会における主流学説」であるというに、とどまるのではないかと思います。

    日本武尊を実在人物と考えていたのは、古代人ばかりではありません。
    ごくごく最近までずっとそのように考えられてきたのではないでしょうか?

    その存在が架空視されるようになったのは、むしろごく最近のことであり、西洋近代文献学の影響下です。
    西尾先生の指摘のとおりと思います。

    ヤマトタケルの存在を「否定」するに足りる合理的証明がなされているかどうかという問題が、前提として問われなければなりません。

    「古事記」において、日本武尊の事跡が分裂しており、幾つかの説話の集合体であるとみなすべきであるとの説は、ほぼ証明されていると評価できます。
    この出発点からは、次の二つの仮説を導出できます。

    (1) 日本武尊は架空の存在であり、幾つかの豪族の業績の集合体であり、古事記において象徴的存在として構築された。
    (2) 古事記作者が、日本武尊の実際の事跡に、直接関係ない他のお話をくっつけた。

    (1)の証明には、次の3点の立証が必要です。

    (a) 更にその豪族の事跡の具体的な特定が必要です。

    (b) 全国各地、いたるところに存在する関連事跡、地名、延喜式内社の存在と、日本書紀の記載との合致も説明する必要があります。

    (c) より根本的な問題があります。 準拠国史という問題です。
    なぜ明確な正史である「日本書紀」ではなく、明らかに恣意性の強い物語にすぎない「古事記」をもとに分析を行うことが正当化されるのか、その分析に基づいて日本武尊の「現実的存在の可否」について結論を出すことが正当なのか、妥当な説明が与えられなければなりません。

    また、それらの証明がなされた後も、(2)の可能性は残りそうです。

    なお、ホメロスの件もそうですが、西洋近代史家は、聖書の記載もことごとく疑いました。
    しかし、現代では、その疑いの多くは、不合理な疑いであることが立証されています。

    要するに、現代人がただしいかどうかは、まだ結論を出すのは早いと考えます。

    つい余計な投稿をしてしまいました。

  11. >真名さま
    いらっしゃいませ♪

    >皆様へ
    真名さんは、とても素晴らしいブログを作っておられます。私は愛読者なのですが、古事記、日本書紀よりもっと整合性のあると解釈なさっているヲシテ文献の研究をされています。
    是非、一度訪れてみてください。

    神話を取り戻すことも、大切なことですね。

  12. 長谷川さん。 どうも失礼しました。

    ページの紹介ありがとうございました。

    伊藤先生のご投稿の中心から少し逸れた、場違いな投稿だったかもしれません。
    ご投稿それ自体を批判するものでは、まったくありません。
    むしろ素晴らしい論文であると受け取っております。
    日本の「神」には、西洋一神教の濃厚な影が落ちているのではないかと疑っています。

    今回はあくまでも、国史の取り扱い、そして「理性の傲慢の可能性」を問うコメントということで、みなさまにご了解いただけると助かります。

    日本武尊がもし実在されていたとしたら、現代人は大変な不敬を働いていることになります。
    従って、官選国史ではなく、物語であることが最初から明確な古事記をもととした実在否定については、慎重に考えるべきということです。

  13. 寄稿した者があまりコメントするものではありません。
    でも、真名先生ありがとうございました。
    それが言いたかったので。
    ああ、このような人がおられるのだと。

    伊藤悠可

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